音楽現代に寄稿しました

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「マイスタージンガー」今度こそ!
 10月19日火曜日。いよいよ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の合唱音楽稽古が再開した。とはいえ、その日と20日水曜日のわずか2回の思い出し稽古のみで、28日から始まる立ち稽古に突入する。

 稽古開始前、続々と集まってくる合唱メンバーを見ながら、僕の胸には、なんともいえない甘酸っぱい感情が支配していた。暑い中、サンピアンかわさき(川崎市立労働会館)まで徒歩で20分かかって通った日々。トーマス・ヨハネス=マイヤーやアドリアン・エレートなどの素晴らしいワーグナー歌手達との集中した立ち稽古・・・そしてオケ付き通し稽古最終日を終えて、さあ次はゲネプロ・・・となった時に急遽知らされた中止の案内。それから、本番はいくらなんでもやるよね、と期待させつつ、次々と知らされたキャンセルの知らせ。
 僕だけかと思ったら、合唱団員達の何人もが言う。
「これまでの生涯の中で、最も残念だった事件でした」

 さて僕は、たった2回の音楽稽古で、かつて20回やった音楽稽古のクォリティを取り戻さなければならない。初日は超難曲の「喧嘩の合唱」から始めた。ゆっくりなテンポでしっかり発音させ、何度も何度もやって、最後にしだいにテンポを上げていった。他の曲も、リラックスして丁寧に稽古をした。
 2日目は徒弟達だけ最初に呼び寄せて45分間稽古した。それから全員合唱。だんだんみんな確実になっていって、稽古終わり頃にはみんな感覚を取り戻してきた。さあて、今回こそはきちんと本番まで持って行こうね。

 東京もあの頃は東京オリンピックの真っ最中。連日、何千人単位でのコロナ新規感染者が出ていたが、昨日(10月24日)などは、わずか19人となった。これって、どういう意味?ま、とにかく、「マイスタージンガー」のプロダクションが無事千穐楽まで突っ走ることができますように、僕は切に切にお祈り申し上げます!

真生会館「音楽と祈り」10月講座は、満を持してベートーヴェン
 本当は、こうした毎月の定期的な講座のテーマについては、何か決まったものについて何ヶ月かかかって探求するとか、あらかじめ次の月にはこういう話題について話すとか、計画的に取り組んだ方が良いのだろうと考えないでもない。
 でも僕は、このカトリック教会の施設である真生会館の毎月の講座においては、むしろそうした方法は取らないで、その時々の信仰生活において、最も自分の心情に訴えかけたものを取り上げることにしている。
 研究会ではないのだから、今、自分がこのかけがえのない人生において、紛れもなく心を捉えているもの、その価値を強く感ずるものを取り上げる方が、訴えかけるものが熱く、従って聞いている人たちの心に残るものを提供できるのではないかと思えるからだ。

 こうした講座の在り方を象徴するものに“即興演奏”がある。毎回、実際の講義に入る前に、僕は必ずピアノの即興演奏をする。その時集まった受講者達の“気”を読み、それに相応しい曲を弾く。
 いや、僕がそう意図して弾くのではない。とはいえ、「無意識に手が勝手に動く」というほど“自動手記的”ではない。両手が鍵盤の上に乗ると、自然に弾き始めの楽想が頭にポンと浮かび、弾き始めるやいなや、次の和声やメロディーが次々と浮かんでくる。そうしてひとしきり演奏し、弾き終わると、
「へえ・・・こんな曲になった」
と自分でも驚くような音楽が出来上がっている。
 即興なので、当然、完成度の高い緻密な音楽ではないので、最初の頃やらない月もあったが、受講者達が、
「何故、やらないのですか?あれを楽しみに来ているのに!」
と強くいうので、今は欠かさず続けている。

 宗教の“永遠性”というものはあるが、それだからこそ、それと対立するように見える“いま”というものを大切にすることは必要だ。今の自分の人生の在り方。今自分が立ち向かっている問題。今の自分のポジティブな傾向性、ネガティブな傾向性。今の嗜好。今の情熱。今の幸福度。今の希望・・・。

 とはいえ、講座の内容については、即興演奏のように行き当たりばったりではない。だいたい一週間前から準備し、直前はかなり集中的に話す内容を絞り込むので、当日の話にあまりブレはない。だいたい毎月、話すことが多すぎて、あまり脱線もする余裕もない。

 さて、今月のテーマであるが、満を持してベートーヴェンを取り上げる。ベートーヴェンについては、いつか取り組まなければならないと思っていた。そのために3ヶ月くらい費やしてもいいかなとも思っていた。しかし、たとえば交響曲を第1番から順番に取り上げる、というようなアプローチはどうも好まない。それで、今日までグズグズしていたが、気温も急に下がって秋の夜長に、急に思い立った。
「そうだ、いまこそベートーヴェン!」
と。
 まず、自分の人生の節目節目に出遭ったベートーヴェンの音楽を受講者に聴かせながら、それぞれの曲の内容と、それが自分にどのように関わったかについて語ってみようと思った。題して「ベートーヴェンと私の人生」。
 恐らくこれは、シリーズの第1弾となるであろう。何故なら、これだけだって、たった1回の講座では、とてもとても語りきれないからである。そこで、今回は、主としてピアノ・ソナタを取り上げてみた。とはいえ、今回は初回なので、冒頭では交響曲第2番、最後は弦楽四重奏第16番といった2曲でもって、僕の大好きな珠玉のピアノ・ソナタ達を包み込むように囲んでみた。

取り上げる曲をネタバレしてしまうと、以下の通り。
交響曲第2番ニ長調Op.36
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  このウィーン・フィルの演奏を初めて聴いたとき、春の陽ざしがこぼれるような暖かくしあわせな音楽に我を忘れた。
どの演奏を聴いてもこれを凌駕できないと思ってしまうため、未だに自分で演奏する勇気のない曲。

以下、ピアノ曲は、すべてウィルヘルム・ケンプの演奏

ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」ハ短調Op.13より第2楽章
  青春の光と影。この曲に10代の自分は深く傾倒していった。
ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2より第1楽章
  1798-1799年(28歳)
  ベルリン藝術大学指揮科の副科ピアノ発表会で弾いた曲。
沢山詰めかけたドイツ人の聴衆からとても誉められた。
ピアノ・ソナタ第17番ニ短調「テンペスト」Op.31-2より第1楽章と第3楽章
  ベートーヴェンの独創性に初めて本当に出遭った曲。
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調「ワルトシュタイン」Op.53より第1楽章
  この朴訥ともいえる冒頭のハ長調の連打に、中期ベートーヴェンの、人生への「強き意志」を感じる。
「崇高美」「構成力」、全ての面に置いて最もベートーヴェンらしい曲。
エリーゼのために(バガテル第25番)イ短調
  1810年(39歳)
  この愛すべき小品をケンプは何気なく弾いているが、まさに絶品の演奏。
ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101より第1楽章
  1815-1816年(45歳)
  この曲を僕は、ベルリン芸術大学指揮科の入学試験で弾いた。シューマンのような自由さをもって、ソナタの第1楽章の常識を脱ぎ捨てた、後期ピアノ・ソナタの傑作。
ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラフィーア」Op.106より第3楽章
  1819年(48歳)
  晩年のしのびよる孤独、追憶、悲しみ。
そして感謝と信仰。
晩年のベートーヴェンの心情が切々と語られる。
弦楽四重奏曲第16番ヘ長調Op.135より第4楽章
  1826年(55歳)
  苦悩と、葛藤に満ちたベートーヴェンが、最後に辿り着いた境地。
解き放たれた魂の開放感と愉悦感。

音楽現代に寄稿しました
 月刊「音楽現代」11月号(芸術現代社)で「オペラの中の合唱」の特集を組むということで、原稿依頼が来た。そこで、「オペラにおける合唱の役割」などのような一般的な記事を書き始めた。

 それは最初こんな感じ。たとえばね、オペラ「カルメン」で、カルメンを登場させる前に、煙草工場で働く蓮っ葉な女性達と、彼女たちを追い掛けて群がる男たちを登場させるだろう。しかしその最中に男たちは口を揃えて言うのだ。
「まだ来ないのか、カルメンは!」
すると大きな笑い声を立てながらカルメンが登場する。男たちはカルメンに殺到する。もうこれだけで、何も説明しなくとも、カルメンという女性の生きている世界が生き生きと描写され、カルメンの性格描写は半ば自動的になされているのだ。

 また、終幕でボロボロになったドン・ホセが、カルメンに未練がましく、
「もう一度やり直そう」
と最後の絶望的な求愛をする。
 ここは闘牛場。中では、今はカルメンの恋人となっている花形闘牛士エスカミリオが牛と戦っている。カルメンはエスカミリオの元へ行こうとするが、それを阻止しようとするホセ。歓声が響き渡る。エスカミリオが牛を仕留めたのだ。
 強引にホセを押しのけて行こうとするカルメン。逆上したホセは、思わず短刀で彼女を刺し殺す。エスカミリオの勝利を讃える合唱が舞台裏から響き渡る中、カルメンはホセの腕の中でゆっくり息絶えていく。この裏コーラスの立体的な劇的効果を疑う者はいないだろう。

 ね、書き出し悪くないでしょ。でもね、書きながら思ったんだ。
「こんなこと、なにも自分が書かなくとも、誰かが同じような内容のものを書くだろう。だったら、絶対自分にしか書けない内容のものを書かないと意味ないよな」
 それで僕は、ベルカント唱法を追い求めながら、新国立劇場合唱団を率いてきた20年間の軌跡について語った。もしかしたらこんな内容、読者の内の一握りの人しか興味を持たないかも知れない。でもいいと思った。今僕が一番書きたいこと・・・いや、書かねばならないと思ったことを書くべきなんだ、と開き直ってしまった。一応、編集者の了解は取った上でだ。

 その結果・・・特集全体がバランスの良いものになったと僕は勝手に思っている。僕のすぐ後の岸純信氏は「オペラにおける合唱の魅力と醍醐味」という記事で、まさに僕とダブらなくてよかったと思う内容のものを書いてくれたし、愛知祝祭管弦楽団でもお世話になっている吉田真さんは、「ワーグナーは合唱をどう使ったか?」というタイトルで、実に興味深い記事が提示された。さらに保延裕史氏は「オペラの中の合唱を聴く」というタイトルで、具体的にそれぞれのオペラを挙げている。最後に野崎正俊氏が「聴いておきたいオペラの中の合唱CD&DVD」を寄稿した。
 素晴らしいコンビネーション・・・て、いうか、僕がこんな記事を書いちゃったので、編集の人たちが陰でとっても苦労していたりして・・・・。

まあ、興味のある人は読んで下さい。なんなら本屋で立ち読みでもいいからね。

写真 音楽現代11月号の表紙
音楽現代11月号

 

声の力を学ぶ連続講座~ベルカントの伝道者?
 先週は、真生会館の準備と合わせて、もう一つの準備を進めていた。それは、元NHKアナウンサーの山根基世さんが行っている「声の力を学ぶ連続講座」の11月の講師として招かれていて、そのレジメを10月中に提出しないといけないのだ。そのタイトルは「ベルカント唱法から始まる表現の多様性」。
 講座は11月11日なので、まだ先の話なのだが、レジメを出せるためには、少なくとも全体の話の構成をしっかり決めておかねばならない。そこでいろいろ調べていた。何をどういう順番で語ろうか、とか、具体的にどんな資料をパワーポイントなどで見せようか、とか、どんな歌手のどんな曲を聴かせようかとか、いろいろ・・・・。

 インターネットでいくつかのサイトを覗いたのだが、そこで驚くべき事が判明して愕然とした!世の中に、なんてベルカント唱法のことを分かってない人が多いことか!それどころか、まるで正反対のことを教えるために教室を開いている人すらいるのだ。
「ベルカントとは腹式呼吸のことです。息を吸うときにお腹が出て、息を吐く時にお腹がへこむ呼吸法です」
というのがあった。

 完全な間違いである。腹式呼吸という言葉を使っていることについては、半分までは合っている。息を吸うときに、横隔膜を下げて腹圧を強めて結果的にお腹が出るようにする呼吸法は正解。問題はその先である。息を吐く時にお腹をへこませてはいけないのである。そのまま腹圧を保つことなくしてベルカント唱法は成し得ない。

 ただ、そう勘違いすることにも一理はある。というのは、スポーツの世界では今でも同じような事をやっている。僕は昔、水泳の先生に、
「ストロークしながら内臓をみんな肋骨の下に押し込むように」
と教えられた。つまりこれは、横隔膜を逆に上げることによって腹圧を上げる方法である。ところが最近の水泳界では、新しいスタンフォード大学の方式によって、世界記録者が続出している。そして彼らが行っているやり方こそ、まさにベルカント唱法の方法なのである。

 自分で実験してみた。横隔膜が緩んでいる状態では、いずれにしてもクラシック音楽の声楽の音色は望めない。声帯依存の弱々しい声。無理に大声を出そうとすると、叫びや怒鳴り声になってしまう。これは論外。
 ただし大きく腹式呼吸して腹圧を高めたまま、意図的に横隔膜を上げてみた場合、その事によって逆の意味での腹圧が生まれる。つまりそれは肺を押すということだ。その場合、確かに輝かしい響きは生まれる。
 ところが大きな欠点がある。その響きは横隔膜を下げたまま腹圧を保つ場合に比べて著しく鋭くきつくなり、なにより柔らかいSotto Voceが全く望めないことだ。吐く時に横隔膜を上げなさいと教えているサイトの中には、
「ドイツ式発声は、歌うときに横隔膜を下げたままにしますが、わたしたちイタリア式発声は、歌うとき横隔膜を意図的に上げるのです」
などと言っている。
 ああ、だからイタリア・オペラを歌う人の中には、フォルテで突っ張ってしか歌えない人が多いのかな。確かにギラギラした響きで一見声量があるように見えるからね。まったく何を言ってるんだろね。ドイツ式もイタリア式もねえよ。理想的発声は世界にひとつしかないんだよ。

 ああ、こんだけ嘘がまかり通っていても、警察を呼んで取り締まってもらうこともできないんだ。何て世の中!

 ええと・・・何を話していたんだっけ・・・ベルカント唱法への関心と取り組みは、別に今始まったわけではないのに、音楽現代への寄稿といい、なんだか僕の周りが勝手にベルカント唱法ブームとなっている。
 でも、これも運命かも知れない。特に、山根さんのところの講座というと、全員がそうではないかも知れないけれど、アナウンサーとかそれを志望する人たち対象になるわけだろう。ベルカント唱法がそのような形で活用されるとしたら、とても有意義な機会を提供することになるだろう。
 別に僕はベルカント唱法の伝道者でもなんでもないのだが、なんだかそういう環境が好むと好まざるとにかかわらず与えられてきているので、なんだか使命感を感じるようになってきた。

 この際だから、正しいベルカント唱法を世の中に伝え、それを様々なことに活用できるように、いろいろ研究してみようかな。みなさん、この講座には予約して参加出来るようですよ。興味のある方はどうぞ!



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