「初日おめでとうございます」と言えた「マイスタージンガー」

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「初日おめでとうございます」と言えた「マイスタージンガー」
 新国立劇場では、オペラ公演初日の開演前に合唱団全員を集めて、僕が最後のダメ出しをする。その時に必ず最初に僕から呼びかける言葉は、
「みなさん、初日おめでとうございます!」
である。みんなも、
「おめでとうございまーす!」
と答える。
 シーズン開幕の「チェネレントラ」の時もそうだったが、この言葉がコロナ渦以来、本当に痛切に感じられる。言いながらウルッとくるほどだ。

 特にこの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演の初日開幕は、2年越しの悲願であった。まず、昨年4月中に合唱稽古開始となるはずだったのが、緊急事態宣言を受けてあっけなく中止になった。それは延期となって今年の8月の東京文化会館公演と11月の新国立劇場公演とに時期が分かれた。ところが8月の文化会館では、上演直前までいったのにコロナ感染者が複数出たため、突然中止になってしまった。
 そのトラウマがあまりに強かったのであろう。今回“三度目の正直”となる新国立劇場の公演に向かってだんだん仕上がってくるにつれて、関係者は逆にみんな疑心暗鬼になってきてしまって、誰かが、
「また中止になったらどうしよう・・・」
と言い出しては、
「やめろ、口に出したら現実化してしまうじゃないか!」
などというやり取りが随所で聞かれた。
 昨年は、文化会館と新国立劇場の両方の公演が同時期に行われる予定だったが、今年の公演が互いに離れていて良かったのかも知れない。夏は、東京オリンピックもあって、コロナ感染者は東京都だけでも何千人単位だった一方、今は連日わずか20人とかだからね。文化会館関係者には申し訳ないけれど、夏に同時期だったら全部つぶれていた可能性がある。

 さて、昨日の時点で二回目の公演を終えた「マイスタージンガー」のお客様からの反応はとても良い。第3幕だけでもたっぷり2時間かかる長大な楽劇であるが、イエンス=ダニエル・ヘルツォーク演出の舞台では、ギャグの動作も随所に織り込まれた動きのある運びとなっていて、特に徒弟達の活躍が随所で目立っている。

 演出補のハイコ・ヘンチェルは、とても頭が切れて、歌詞も音楽も全て頭に入っている。こういう優秀な演出助手がドイツではよくいるんだよね。主役が遅く舞台入りしたり、ソーシャル・ディスタンスに考慮して舞台上のポジションを、時には根本から変えなければならないという無理難題の中、いつも笑顔を絶やさずポジティブで、きびきびと演技を付けていきながら時には忍耐強く、よくぞここまで仕上げてくれました!
 何度も言うが、ハンス・ザックス役のトーマス・ヨハネス・マイヤーとベックメッサー役のアドリアン・エレートの二人は、まさに神ですな。

 このまま無事に千穐楽まで行って、楽屋に入る時に、会う人会う人に、
「おはようございます。千穐楽おめでとうございます」
と呼びかけることができるよう、頑張りたいと思います。

真生会館「音楽と祈り」11月
 真生会館「音楽と祈り」11月のテーマは、ちょっと長いのだけれど「死者の月の終わりに霊性を見つめて」というものだ。内容はふたつあって、第1章では「霊性の教育」と題して、カトリックの施設ではちょっと冒険かもしれないが、シュタイナー教育を紹介してみたい。
 第2章では、「レクィエムに見る天上界」と称して、今回はフォーレのレクィエムを取り上げてみたい。

お日様のやさしい光が 私を一日照らします
やさしい光は
私の心に 崇高な力となって
手 足に 流れて行きます

お日様の 光輝く中で
神様 私は
あなたが私の中に しっかりと授けて下さった 人間の力を
心から大切にし うやまいます

ですから 私は
一生懸命 取り組み 励み 学びます
神様からの 注ぎ続けられる 光と力への
私の愛と 感謝の気持ちが 
神様に向かって 流れて行きますように
 これは、孫の杏樹が通っている立川のシュタイナー学校で、毎朝授業の前にみんなでオイリュトミーのような手の動きをつけながら唱えられる詩である。書かれた資料が何もないため、暗記している杏樹にしゃべらせて書き取った。
 シュタイナー学校では、こういう詩を沢山暗記させる。この詩で「神様」という言葉が出てくるところが、すでに公立の学校と大きく違っているが、ミッションスクールの祈りの言葉ともどこか違う。
 最初の部分は、「お日様のやさしい光」に象徴される天からの恵みが、すでに我々に与えられていることを意識する言葉。真ん中の部分は、その恵みを心のなかでしっかり受けとめる言葉。最後の部分は、学びへの能動的な意志の表明と、再び神様に向かって感謝の気持ちを持てるようにとの祈り。

 ドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナーについて、カトリック教会では、あまり肯定的に捉えられていないことは知っている。しかしながら、シュタイナー自身はキリストの霊性を最大限に認めており、むしろ「キリスト者共同体」を創設したりして、既存の教会のマンネリ化を打破し、真のキリストの精神を伝えようとしている。問題は、シュタイナーの説くキリストの霊性についての説明が、カトリックの教義に合わないためだ。でも、そこにあえてこだわらなければ、教会もシュタイナーから学べることは少なくないはずだ。

 現在、杏樹はシュタイナー学校の2年生である。その授業の様子を彼女から聞いたり、学校から持ち帰った宿題を手伝ったりしながら、
「もし自分がこんな学校に行っていたらどんなに良かっただろうか」
と、いつも思う。それほどシュタイナー学校の授業は魅力に溢れている。

 文部科学省は教育方針について、いろいろ理想的なことを述べているであろうが、公立の学校の実際の教育現場においては、僕には、学校というものが、そもそも社会という既存秩序に適合した人材を作り出すためだけにあるような気がしてならない。
 一方、シュタイナーは、教育の目的をこう語る。
「教育とは、人間の身体と魂と霊が内的に自由で自律的になることを促進するもの」
そして、「教育は芸術である」と言い「教育は芸術的に行われなければならない」とも言う。

 これは孫の杏樹のエポック・ノート。エポック授業は毎日最初の時間にあり、100分ぶっ通しで行われる。そこでは、ひとつの学科が2週間ほど続く。算数なら算数だけ2週間やり、その後、国語に移ったら、その間は算数は一切やらない。
 それでは忘れてしまうだろうと思われるが、いいのである。忘れることも必要だとシュタイナーは言う。見ていると、それだけ集中してやると、本当に頭に入る・・・というより体の芯まで叩き込まれるようだ。そが2週間後に終わって、他の科目をやっている間に、静かに魂の奥底に沈潜していく。
 僕は、スコアを暗譜するときに、同じようなやり方をしているので、良く分かる。かなり前に、一度集中して覚える。それからわざと放っておいて、また戻ると、最初は少し忘れているが、同時に、不思議なことにむしろ自分の内部で音楽が進化しているのだ。

 国語の授業では、ひとつの文字を覚えるために、その文字を含む絵をきれいな色彩で描き、だんだん文字の方に行く。「あ」の字では女の子が手を上げている絵。その手の形はオイリュトミーという舞踏芸術で表現する「あ」の形だ。

写真 杏樹が書いた「あ」の字とあの形をした人形の絵
「あ」の学習

 算数では、たとえば3の段ではまず3 6 9 2 5 8 1 4 7 0という序列を覚える。つまり3 6 9の後は10の位に上がって12 15 18のはずだし、次はさらに21 24 27となるのだが、実はこの序列さえ覚えてしまうと、30よりも先の42 45 48 51 54 57 60といくらでも書ける。杏樹のクラスメートの男の子なんかは、1000くらいまで書いたというし、100くらいまでは覚えているというのだ。それからあらためて九九を覚える。

写真 杏樹が書いた3の段の数表の絵
3の段001

写真 杏樹が書いた3の段の続きの数表の絵
3の段001

 エポック授業には、フォルメンという学科もある。何をやっているのかというと、たとえば、様々なシンメトリーの絵を書いたりしている。バランス感覚を養うためだという。

写真 杏樹が描いた蝶々の絵
シンメトリー001

 エポック授業の後には55分ずつの授業が3コマある。その内容がユニークである。オイリュトミー、英語、ドイツ語、手仕事、音楽、遊びの体育、水彩と粘土などだ。もちろん、高学年になるとどんどん変わってくるのだが、
「こんなんで大丈夫か?」
と思うでしょう。
 1年生の授業の様子を聞いていて、僕も最初はちょっと心配になった。出る宿題が、「家族みんなで輪になってお手玉をしてください」とか、編み物とかなのだ。そんなことより、早く漢字ひとつでも覚えたら、とも思うが、その内、あることに気が付いた。手先が器用になることが脳の発達を促すようで、頭の回転が速くなるのだ。それに、お手玉も編み物も、やっているレベルが凄い。大人もついていけないほどだ。

写真 杏樹が作った棒針編みのお人形
棒針編み

 テストもないし、通知表の代わりは先生が作った詩だ。それは、それぞれの生徒の性格を見事に表現した詩で、授業の合間に唱えさせられるので、杏樹は、自分のだけでなくクラスメートみんなの詩も覚えている。
 こんな風になにもかも変わっているが、一番良いのは、それぞれを心から楽しめるような教育が施されていることだ。よく優等生で何もかも良く出来るけれど、目に喜びがない子供っているじゃないか。つまらないことを我慢しながらやることが勉強だ、と思っている人が多いでしょう。でも、それだと勉強というのが所詮、受験とか良い会社に入るための“手段”になってしまって、そのものに喜びを持てない人間が生まれてしまうのだ。
 シュタイナーは、それこそが魂の危機だと捉え、むしろすべて人生で行うことを「霊的な喜び」を持ってすることのできる人間を育てることに教育の意味を見出しているのである。そしてその方法論は、そのまま大人にもあてはまるので、今回の講座で紹介してみたいのである。

 さて、第2部はフォーレのレクィエムを取り上げるが、その前に11月という月のカトリック教会的な意味をあらためて考えたい。

 毎年11月の講座では言っていることなのだが、11月1日は「諸聖人の日」で、2日は、ドイツではAllerseelen(万霊節)と呼ばれている「死者の日」だ。それだけでも死者の月と呼ばれるに相応しいが、さらにこの月は、カトリック教会の新しい1年の始まりである喜ばしい待降節の前の、懺悔と節制の月という性格があって、ミサの間に読まれる聖句も終末的なものが多い。
 特にドイツでは、待降節の11日前の水曜日はBuss und Bettag(懺悔と祈りの日)と呼ばれる日で、ルター派教会が支配的な北ドイツでは休日となっている。今年は11月17日であった。
 恐らくそれは、復活祭前の四旬節に入る灰の水曜日に習って、降誕祭の約40日前に設定されたものに違いない。それらを合わせると、1年の内でレクィエムがもっともふさわしい月といったら、それは11月に他ならないだろう。

 今回はまず、数あるレクィエムの中でのフォーレの特異性について語ってみたい。もうネタバレしてしまうけれど、フォーレはこの曲を書くにあたって、「死者のためのミサ曲」という厳粛さや悲痛さよりも、死というものに触れることによって、むしろそこを突き抜けた“天国的な至福の世界”に焦点を当てて描いているように僕には感じられる。
 講義中は、名盤といわれているいくつかのCDを聴き比べしたりしながら、様々なことを語ってみたい。

でも、フォーレのレクィエムって、聴けば聴くほど本当に清らかで美しい曲ですね。

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