「マイスタージンガー」とドイツ国民(ネタバレあり)

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

杏樹、8歳の誕生日おめでとう!
 11月28日は、不思議なメダイで有名な聖カタリナ・ラブレの記念日であるが、孫の杏樹の誕生日でもある。ちなみに、聖カタリナ・ラブレは彼女の霊名である。ということで、昨日は彼女の8歳のお誕生日であった。

 彼女が保育園の時から乗っている自転車が小さくなったので、じーじの僕は8歳のお誕生日プレゼントを新しい自転車にしようと決めていた。彼女とも相談し、どのメーカーのどんなスタイルにしようかと、いろいろふたりで検索してみたり考えたりした結果、僕のマウンテンバイクと同じLouis Garneauルイガノの白に決めた。
 28日日曜日は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」上演日で、僕はお昼からいなくなって、残念ながら夕方の我が家の誕生パーティにも出られないため、前々日の26日金曜日午後、僕は杏樹を小学校まで迎えに行き、その足で、すでに届いていたお店に取りに行った。
 この白は上品だし、彼女にとっても似合うため、品物を受け取った杏樹は大喜び。家に帰って荷物を置くと、そのまま一緒にサイクリングに出た。走りながら僕は、ギヤーの切り替えとか、ブレーキのかけ方とか、いろんなことを教えた。
 坂道で登る時にギヤーを一番軽くし、降るときはむしろ重くする。それが面白くて何度も行ったり来たり。また、スポーツ車は、前輪ブレーキだけ急に強く掛けると、とっても危険で、後輪が浮き上がって下手をしたら完全に宙返りをしてしまうので、ブレーキを掛けるときは、必ず左側の後輪から掛けるか、両方を同時に掛けるかすることを教えた。
僕と並んで走ると、杏樹の自転車は、まるでじーじの縮小コピーのようでなんだか嬉しい。

写真 杏樹と三澤の自転車ルイガノのペア
Louis Garneauのペア


8歳になった杏樹よ。すくすくと育ってね。
じーじはいつもいつも見守っています。
差し当たって今晩は家に居るので、お布団で一緒に絵本を読もうね。

「おにころ」お疲れ会と新町歌劇団35周年記念
 11月27日土曜日は、午前中、東京バロック・スコラーズの練習後、一度家に帰り、それから高崎に向かった。「おにころ」お疲れ会と同時に、新町歌劇団創立35周年の記念パーティーがあるからだ。このような大勢での会食って、コロナがあったので本当に久し振りだ。
 立食ではなく、それぞれをアクリル板で仕切られているテーブル。ちょっとうっとおしいけれど安全。フルコースで、ビールを注ぎ合ったりもしない。

 1886年、ベルリンからの留学を終えて間もない僕は、故郷群馬県多野郡新町の公民館職員だった小学校のクラスメイト田口和幸君から声を掛けられて、公民館主催の「町民教養講座」として、モーツァルト作曲「魔笛」の公演を指揮した。それは、公演といっても、東京から4人のソリストを呼んだだけで、完全なオペラ上演とはほど遠いものであった。
 有名なソプラノの市川倫子さんをお呼びして夜の女王を歌っていただき、当時僕が指揮者として通っていた二期会研修所平野忠彦クラスから、講師だったバリトンの松本進さんを引っ張ってきてパパゲーノを歌ってもらい、助演だったテノールの田中誠さんにはタミーノ、そして優秀な生徒だったソプラノの国井美香さんには、パミーナとパパゲーナの両方を歌ってもらった。伴奏はピアノだけ。

 その準備をしながら、やっぱり「魔笛」といったら合唱がないとな、と思い、田口君に頼んで急遽合唱団を公募した。そのにわか仕立ての合唱団は、差し当たって「新町公民館合唱団」と名付けられた。最初は普通の合唱団のつもりで練習を始めたが、なんとなく本番でただ立って歌うだけでは芸がないように思われた。そこで僕は皆さんに向かって突然演技指導を始めた。
 おそらく合唱団員たちはびっくりしたに違いない。だって普通の市民合唱団的な感覚で参加したのに、暗譜させられて、いきなり動いたり踊ったりさせられたのだから。本番では、合唱団は結構活躍して楽しくできたんだよ。ところが、「魔笛」後、かなりの人が即辞めた。「あらら」と思ったけど、楽天的な僕は特に落胆はしなかったなあ。
 それよりも、残ってくれた人たちを大切にしようと思った。だって彼らはこうしたことに、「なんだか面白いな」と感じてくれた人たちだからね。結論から言うと、その人たちこそが、本当の意味で現在までつながっている人たちである。
 僕も、東京での仕事がやっと始まりかけた時期だったので、そちらの方に集中してしまったら、まさに盆と正月にしか故郷に帰らなくなってしまうに違いないので、こうして故郷の街にひとつ合唱団を持っておくのは親のためにもいいなと思って、よく練習に通って、その晩は田舎の家に泊まった。

 やがて発表の場といったら公民館3階ホールしかなかった新町に、新しく新町文化センターが作られると聞いて、僕はそのこけら落としにと、ミュージカル「おにころ」を作曲した。また、もはや公民館が根拠地ではなくなったので、名前を変えようということで、新町歌劇団と改名して今日に至っているわけである。

 35年は長い。「魔笛」の時は僕は弱冠31歳。「おにころ」初演時は36歳。最初は500名の客席の新町公民館で、各楽器1名ずつの小アンサンブルで上演していた「おにころ」も、フル編成の群馬交響楽団が伴奏してくれるようになって3回目の公演を行った。ただ大規模な公演ができるようになったから発展した、という風には僕は全然捉えていないのだ。
 オーケストラ・ピットなど何もなくて、すぐそばにお客様がいて、その中には同じ新町小学校に通ったクラスメートなんかもいて、指揮台に立って、
「よっ、元気!」
なんて言える距離感で、肌の触れ合い的感覚での「おにころ」上演も捨てがたい。

 この35年の間に、残念ながらこの世を去ってしまった合唱団員達も何人もいる。その人たちのことも、このパーティーの間に、ゆっくりとひとりひとり思い出していた。特に、初代の団長であった福田敦さんは、クリスチャンでもあり、僕の作品の持つ内的な意味を誰よりも深く理解してくれた人であった。彼が亡くなる直前に家を訪れた。「癌の花が咲く」というが、癌が顔の表面にまで吹き出ていた。

「先生。わたしはもうすぐ神様のもとへ行きます」
こんな時は普通、嘘でも、
「何を言っているんですか。早く良くなってまた一緒に歌いましょう」
とでも言うものだが、相手がクリスチャンだし、下手な気休めを言っても仕方がないと思ったので、こう言った。
「福田さんなら絶対にそのまま天国に行きますよ。僕もいつか行くから、必ず会いましょうね。苦しくはないですか?」
「昨日まで苦しかったのですが、今は不思議と苦しさがないんです。とっても安らかです」
顔も、神々しく安らかであった。その数日後。全く苦しむことなく福田さんは旅立った。

 「おにころ」のお疲れ会としては、初参加の人たちの挨拶で、みんな口を揃えて、
「未熟な自分で上演まで続くか本当に心配でした。きっと足手まといになっているので、やめた方がいいかなあと思っていたら、他の団員達が本当にやさしくて、休むと電話をくれて、温かく、ぼんやりしている自分を導いてくれたので、本番まで漕ぎ着くことが出来ました。こんな良い団はありません」
という趣旨のことを言ってくれた。
 僕は、自分が関わる全ての団体がこうであって欲しいと望みながら指導しているので、これらの言葉には本当に力づけられた。それもこれも、母体となっている新町歌劇団の存在なしでは成し得ないと思う。
 「おにころ」上演のためだけに集まった即席合唱団である「おにころ合唱団」は、上演が終わると毎回解散する。でも、今回は昨年の公演が中止となったので、丸々2年間行動を共にしたから、連帯感がいつになく強いのであろう。でも、それとは関係なく、みんな心の根っこがとても澄み切っている人たち。だから「おにころ」公演が感動的になったんだね。

「神様。これらの人たちを僕の元に集めて下さって、本当にありがとうございます!僕は、これらの人たちに囲まれてとってもしあわせな人生を歩んでいます」
という祈りを、高崎を出発した帰りの新幹線の中で心の中で唱えていた。  


「マイスタージンガー」とドイツ国民(ネタバレあり)
 あと1回、12月1日水曜日の千穐楽公演を残すのみとなった新国立劇場「ニュルンベルクのマイスタージンガー」では、基本的にはとても評判が良いものの、唯一、イェンス=ダニエル・ヘルツォークの演出に疑問を呈する人たちが少なからずいる。それは、すでにこの作品の中に内在している問題であって、台本を良く読み込んでいくと、現代人であれば誰でも、
「ん?そうかな?」
と思えるようなことだ。

 第1幕第3場で、ファイト・ポーグナーは、明日行われる歌合戦で優勝者に送られる賞品として、自分の全財産と、そしてひとり娘のエーファを差し出すと宣言する。親方達一同はその英断を讃えるが、ポーグナーは続けて言う。
「優勝はマイスター(親方)達が決めるが、娘の結婚については娘が決定する」
この意見に、もともとエーファに好意を抱いているベックメッサーが噛みつく。彼はコートナーに向かって、
「それって賢いやり方だと思います?」
と言い、コートナーも、
「娘さんが同意しなければ、(権威ある)親方達の決定が、娘さん次第でどうにでもなってしまう」
と警告する。
 するとポーグナーは、エーファの父親としての権限を行使しながら、親方達に向かってこう答える。
「では、あなた達が決めた人を娘は拒むことができるけれど、彼女はそれ以外の男とは結婚できないことにします。娘が夫にできるのはあなた達が選んだマイスターでなければならないのです」

 その意見に対して、ハンス・ザックスはこう切り出す。
「女性の心は民衆の声に近いだろう。いっそのこと審査に民衆の声を加えたらどうだろうか?」
しかしマイスター達は即座に反抗して、
「なんだって?民衆が・・・・。それではマイスター達の(作り上げた)歌唱芸術はどこへ行ってしまうのだ?」
と叫ぶ。
 しかしザックスはそれを諫めて、
「マイスター芸術の規則に通じている私があえて言いますが、規則が惰性となり力と生命を失っていないでしょうか?むしろあなた達がマイスターという雲の高みから民衆の元へ降りて行くべきではないでしょうか?」
と、硬直した規則と判断について厳しい意見を述べた後で、民衆に寄り添う意向でマイスター達を説得する。
 ポーグナーがザックスに、
「で、私の提案した賞に関しては・・・・」
と訊くと、ザックスは、
「あなたの娘さんが決定権を持つことでいいでしょう」
とあっけなく答え、一同煙に巻かれたような状態で賛同を余儀なくさせられる。

 ここで2つの問題が浮かび上がる。ひとつは、現代の我々の感覚からすると考えられない、「自分の子供の私物化」の問題。歌合戦で優勝する親方が、娘にとって本当に相応しい男性かどうか分からないのに、無理矢理結婚させていいのか?コートナーの「親方のプライド」からくる決定権への反論に答えたポーグナーは、もっとひどい意見を述べる。
「娘には拒否権はあるが、親方達が決めた優勝者以外の誰とも結婚はできない」

 また、民衆と共に歩もうとするザックスの姿勢は、一見とても良いように思うが、これも真実はどうだろうか?もしベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者をベルリン市民とかドイツ国民の投票で選ぶとしたらどうであろうか?本当にそれに相応しい人材が選ばれるのであろうか?
 市民とは、みんな見識があって、真摯な態度で吟味し、常に正しい判断をするものなのであろうか?むしろ一般の受けの良い無能な人が選ばれたりする可能性はないだろうか?民主主義は素晴らしいものだが、常に衆愚政と隣り合っていないだろうか?たとえば、どうして小池百合子さんが東京都知事で森田健作さんが千葉県知事なのであろうか?その決定に、本当の実力を見極める眼というよりも、別の、たとえば「有名だから」とかいったバイアスが働いてはいまいか?
 市民は本来、それぞれの立候補者の掲げる政策を吟味し、それに賛同する人に投票する。ならば、どうしてあんな派手な選挙運動が必要なのだろう?選挙はコマーシャルとは違うはずなのに、市民がじっくり選んでいないことを知っているからこそ、あんなにウグイス嬢は声を張り上げて名前を連呼しなければならないのではないだろうか?

 おっとっとっと・・・どんどん話が別の方向に走っていきそうになった。ワーグナーがドイツ国民を賛美したい気持ちは分かるが、買いかぶりすぎることは危険なことに発展する恐れがある。第3幕でのザックスの終幕の演説を聞いていると、
「これがヒットラーに利用され、当時の国民がまんまとそれに乗ってしまったのも分かるなあ」
と思ってしまう。

気を付けなさい!
悪い兆候が我々を脅かしています。
誤った外国の権威にかぶれた為政者達が民衆を理解できなくなり、
外国の靄やがらくたのような価値観をドイツの地に植え付けようとするならば、
ドイツの国民と国は地に堕ちるでしょう。
ドイツの親方制度の名誉が生き続けられないとすれば、
純粋で真実なものなど誰も知らなくなるこどでしょう。
 このようなテキストは、感動的なものかも知れないが、1964年という戦後ベルリン生まれのドイツ人であるヘルツォークには、そう素直に受け取れなかったことだけは確かだ。
「マイスターの称号なんて要らない!僕はマイスターなしで幸せになりたい!」
と叫ぶワルターを、ザックスが説得にかかる。彼は、
「マイスターを軽蔑しないで、むしろ彼らの芸術に敬意を払って欲しい」
と言い始めるが、そこにエーファが突然現れ、
「あんた達の横暴さにはもう耐えられないわ!あたし達ここを出て行って、自分たちでしあわせを築くからね!」
という感じで、ワルターを誘って飛び出して行ってしまう。

 父親の横暴な権利行使や、マイスター達の権威主義とプライド、ドイツ市民の優等意識とそれを買いかぶって安易に信じるザックス。それらにノーを突きつけるヘルツォークの気持ちはとっても良く分かる。全く同感!

 だけどねえ・・・・愛する二人が結ばれて、ドイツの芸術も高らかに讃えられて、幕が閉じられるようにワーグナーによって書かれたこの場面では、僕の愛する合唱団達が一生懸命歌っているんだぜ。
 
 なのに、肝心の二人がいないんだ。そうすると、歌っている合唱団員達は「ふたりに見棄てられた人たち」ということになってしまうのだ。響いている音楽がかけがえのないほど輝かしく崇高なだけに、合唱指揮者としては、舞台上のこの空虚感はちょっと嫌ですねえ・・・・。



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