演題は「霊的世界観を現実世界に降ろす」 「音楽と祈り」講座はオンラインでも可

三澤洋史 

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「霊的世界観を現実世界に降ろす」
 真生会館の「音楽と祈り」講座は、3月までで一区切りする。つまり残すところ3講座ということで、僕とするとこれからのひとつひとつの講座をとても大切にしたいと思っている。
 
 そこで今月は、現在の自分の持っている霊的世界観を整理して語ってみたい。こうした言い方に、もしかしたら違和感を感じるカトリック信者がいるかも知れない。
「だって、霊的世界観なんて、偉そうに信徒が持つものじゃないんじゃない?教義は決まっているし、私たち一般信徒は、教会に行ってミサを受けて聖体をいただいて帰ってくればそれでいいじゃない」
という人は少なくないような気がする。でもまあ、僕の話をまず聞いてよ。

 たとえば
「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」マタイ5-39
「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ヨハネ15-13
というイエスの言葉を本当に理解するのって、もしかしたらとても難しいんじゃない?さらに、それを本当に行動に起こす勇気があなたにありますか?でもイエスはこれを本気で言っているんだよね。

 たとえば、マザー・テレサと我々はどこが違うのか?同じ人間なので基本においては違わないはずだ。我々は誰でもマザー・テレサのようになれる。しかしそのためには、ある世界観・・・ある覚醒に達していなければ、あのような情熱は生まれないし、あのような行動に具体的に向かうことはできないし、あのような人生を生き切ることは決してできない。
 我々凡人でも(実は凡人はこの世にひとりもいない)、キリストを信じているというならば、少しでも霊性を高めるべく、コツコツと日々精進する必要があると僕は考える。極端な話、教会に行かなくともいいから、個人個人が自分で神あるいは霊的存在と関わりを持とうとし、霊的価値観に従って生きようと努め、何らかの霊的体験をし(大きな体験である必要は全くない)、人生の意味や行動の原点を全て霊的観点から考えられるようになって欲しいのである。

あることを講座の中で語ってみようと思う。

 高校時代。僕は次のような体験を何度かした。たとえば、ゲームでいろいろクリアしていくと、突然終了して次のステージに移行するということが起こるだろう。それと似たような体験だ。
 ある朝起きると、環境的には何も変わっていないのに、たとえばベートーヴェンの音楽がメチャメチャ心に染み入ってきて、
「あ、ベートーヴェンが理解できた!」
と思ったり、ピアノで弾けないものが急に弾けるようになったりしたのだ。
 それは、自分が次のステージに移行した証拠で、以前繰り返し起こっていた問題は卒業して、新しいステージでは、もう一段高度な問題が自分に降りかかってきて、それを解決していくことになる。そういう体験が何度も起こってくるようになると、「世界は物質的で偶然の寄せ集め」という、一般の人が信じている唯物論に、疑問を感ずるようになるのは当然だろう。
 しかし、それを体験するための条件がひとつだけある。それは進歩している人間、あるいは進歩しようと努力している人間にしか起きないということだ。
言葉を変えると、
「自分はまだまだ駄目だなあ」
と思ったり、
「もっと良くなりたい!」
と思って、理想に到達していない悲哀を感じている人間にしか起きない現象である。

 さて、そんなわけで、僕はカトリックの枠からはみ出るかも知れないけれど、自分のこれまでの精神の覚醒の軌跡を包み隠さず語ってみようと思う。それらを引き起こした要因は多岐に渡っていて、たとえばdéjà vuデジャ・ヴと呼ばれる予知夢だったり、一昨年コロナ禍の中で毎日通ったカトリック立川教会での瞑想だったり、あるいはスキーを滑っていて、自分の許容範囲を超えたスピード値に達した時に覚えた「野性の目覚め」だったり、本当に様々だ。

 でも話はそこで終わらない。講座の後半では、そうして得た覚醒を、今度はどのようにこの物質社会で生かすのか、ということについて述べてみたい。これが恐らく最も「今の自分」が語りたいことだ。

 そのキーワードはphysics「物理」だ。意外に思われるだろうが、物理的法則を究めることによって、それを越えた霊的世界観に近づいていくということが可能なのだ。一流の物理学者で、同時にカトリックの助祭として東京カテドラル関口教会でミサのお手伝いをしていた三田一郎さんは、説教の中で何度も語っていた。
「世界は物理的法則で貫かれています。その法則は数式に落とし込むことができますが、その数式は完璧な美なのです。そして、法則や数式を作られたのは、他ならぬ神様なのです」
 物理学者らしい言い方だ。彼は、物理学をとことんやることで神の素晴らしさに気づいていった。普通は反対なんだけどね。昔は、コペルニクスやガリレオを例に出されて、宗教は物理の真理を否定するから、無神論者にならないと物理はできないという常識だったからね。でも、今は違うんだ。科学も量子力学などを通して宗教に近づいてきている。そのこともあるけれど、僕は僕で、また別の角度から「物理から霊性に近づいていく」方法について語ってみたい。

 たとえばスキーでターンをしていると、重力と遠心力とが自分の身体に掛かってくる。その物理的法則は完璧なので、僕たちはただその法則を知り、法則に従って身体を操ればスキーはうまくなる。それどころかとっても楽しい。何故楽しいのか?それはブランコやシーソーや滑り台などが楽しいのと一緒だ。
 重力や遠心力。慣性の法則。落下の恐さとそれ故の楽しさ。ちょっぴり恐いけれど楽しい・・・楽しいけれどちょっぴり恐い、という「コワ楽しさ」の中から、僕にとってはある種の覚醒に至る道が開けるのである。スキーの場合は、それにプラスして、「大自然に抱かれている」という魂の開放感も手伝っているからね。

 音楽には別に恐怖感はないから「コワ楽しい」わけではない、けれども音楽も楽しい。聴くのも楽しいけれど、演奏するのはもっと楽しい。この楽しさも物理的な運動から来ている。

ヴァイオリニストの弓にかける圧とその走らせ方。
ピアニストの体幹と腕の脱力及び打鍵の力の入れ方。
声楽家の横隔膜と声帯の連動の仕方。
指揮者の腕が描く放物線。
そう考えてくると、この「楽しい」ということの中には深い真実が隠されていると思いませんか?音も物理的現象だけど、物理的楽しさが僕たちを魂の歓びにまで連れて行ってくれる。
 さらに、大事なことがある。音楽に求められるのは、まず物理的なテクニックだけれど、そのテクニックを使って“なに”を表現するか?ということが音楽家には求められる。その“なに”という事に触れた時、我々の意識はphysicalにありながらphysicalを超えてphilosophy(哲学)やreligion(宗教)の領域に入る。
 僕は、講座の中で、その指揮の物理的運動そのものと、その運動を通してphysicalを超える瞬間の動きをみなさんの前で体現してみたい。いくつかの音楽と共に試みてみるつもりだ。

 人生でもそうである。我々は、肉体を持つことによって、様々な欲望や感情などに妨げられて、自分自身を意のままに扱うことが出来ない。まさにそれ故に、イエス・キリストが天上から降りて、わざわざこの扱いづらい肉体を持って生まれてきたのだ。そして、このphysicalな世の中で、どう生きるかを身をもって示してくれたが(時には自己犠牲という裏技を使って)、我々も彼に習って、この肉体を使って何を成すべきかを追求しなければならないのだ。
 最初の話に戻ると、何かを成すためには、それを成し得るための情熱を持たなければならない。その情熱を持ち続けるためには確信を持たなければならない。確信を持ち続けて人生を生き切るためには、確信を超えた確信、すなわち“覚醒”が不可欠なのである。

 テーマが大きすぎて、今回はみなさんに納得できるようにうまく話せるか自信がないけれど、自分自身の魂の整理のためにも、しっかり向き合って準備をすすめていきたい。こうしたことは、将来的にYoutubeで発表するかもしれないし、書籍の中で生かせたらいいな、などと思っている今日この頃である。

この「音楽と祈り」はオンラインでも受講できます。詳しくは以下のURLからご確認ください。
https://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/courses
 


猛吹雪の川場スキー場
 1月28日は、「さまよえるオランダ人」が立ち稽古が終わって舞台稽古に入るための休日。僕はバリトンのアキケンこと秋本健さんの車で川場スキー場に行く。次女の杏奈も便乗。ところがメディアでは大寒波襲来なんて言っている。それでも、
「ま、行けばなんとかなるでしょう」
と僕らは楽天的に構えていた。

 関越道をずっと北上して渋川を過ぎたあたりまではむしろ快晴。青空の中、美しい榛名山が左側前方に迫ってきたなと思ったらいつしか真横に見え、しだいに後方に過ぎ去っていく。一方、赤城山はとても不思議な山で、あまりに裾野が長いため、すでに自分達がとっくに裾野を走っていることに気が付かないから、近くなればなるほど、どんどん山が小さくなり、なくなっていくように感じられる。
 その赤城山を越したらしいと思いつつ赤城高原サービスエリアに近づいてきたら、いきなり天気が急変して雪がちらついてきた。そしてタイヤ規制で止められて、再び走り出すと、進むに連れてどんどん雪の量が多くなってくる。
「ええ?さっきまでの青空が嘘みたい!」

 沼田インターを降りてひたすら走り、いよいよスキー場に向かう上り坂に入った。雪は容赦なくバンバン降りしきる。風もかなり強い。前方に1台の車が立ち往生しているのを追い越したら、さらにもう1台・・・もう1台と、前に進めない車が出てきた。
「あの人たち、スタットレス・タイヤだけど二駆なんです。もうこういう道では四駆でないと無理なんですね」
とアキケン。
「どうすんだろうね?」
「いや、もう帰るしかないでしょう」
ちょっとした優越感に浸りながら、車達を追い抜き、どんどん登るが、上に行けば行くほどあたりは猛吹雪となってきた。
「これ、滑れるのかね?」
「ま、とにかく行ってみよう」

 という状態で、結論から言うと、よくこれでリフトが止まらないなあ、と思う暴風とドカ雪の中、なんとか午前中は滑ったが、お昼にインド料理屋で3人でカレーを食べている内に、誰からともなく、
「これってさあ・・・午後ムリじゃね?」
という感じになって、午前中だけで引き上げて帰って来た。こんなこと初めてだ。

 零下10度くらいの気温にもの凄い突風。吹き付ける雪。しばしば竜巻のように雪が舞い上がり、視界が全く閉ざされる。いやあ、寒いのなんのって!体感温度はマイナス15度以下ではないか?
 吹雪が前からやって来て、雪がもの凄い勢いで顔に当たって通り過ぎていくため、自分が高速で走っているのかと勘違いをして下を見ると、なんと止まっている。ゴーグルの中で出た顔からの湯気が、即座に凍って、景色がまだらにゆがみ、舞った雪と相まって、視界が完全にゼロになることもしばしば。すると、三半規管が異常をきたし、まるで急激に車酔いしたようになって、めまいがし、吐き気すらもよおしてきた。こんなところでスキーなんてやってられるっかってんだ!帰ろ帰ろ!

 これほどじゃない時でも、吹雪の中滑っている時にはよく思う。これって、スキーを履いていて、リフトなんかがあるから、こんな極寒の山のてっぺんにいてられるけれど、そうじゃなかったら完全に遭難状態だよね。生きて帰れないよね。
 ひとりで雪に埋まりながらいたら、きっと雪女が来るよ。絶世の美女!雪で視界も閉ざされた中からボウーッと立ち現れるんだ。
「ほうら・・・ほうら・・・こっちへおいで・・・」

「まったく、いくらスキーが好きだといったって、なんでこんな想いしなくちゃいけねんだよう!もうスキーなんて大嫌い!」
とあんなに悪態をつきながら山を降りて来たくせに、雪女の白昼夢に浸りながら、もう冬山に憧れて、次に滑るのを楽しみにしている自分がいる。

懲りねー!



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