新国立劇場合唱団の歌うウクライナ国歌

   

三澤洋史 

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新国立劇場合唱団の歌うウクライナ国歌
 3月16日水曜日。新国立劇場「椿姫」公演終了後、合唱団員達は、ヘアメイクを落としてから、お客の帰った後のホワイエに集合。すでに劇場スタッフの人たちが、ソーシャルディスタンスを考慮した立ち位置にテープを貼ってくれているので、団員達はホワイエの一番奥から縦長に並ぶ。さらに、二階に設置されたカメラさんの指示に従って位置を移動する。
 マエストロのユルケヴィチ氏がやや遅れて到着。一同拍手。今日の「椿姫」公演も素晴らしい出来。抑制された指揮振りながら、必要な表現は全て彼の腕から発信されている。愛、苦悩、怒り、絶望など様々なドラマが見事に描き分けていた。僕はマエストロにあらためて「ブラヴォー!」と言った後、
「まずは、もう一度発音を確かめさせてください」
とお願いする。マエストロがウクライナ語の歌詞を読み上げ、団員が繰り返す。良かった!みんな忘れていない。マエストロも満足そう。
「では、音をつけてみましょう。カメラ・テストも同時進行するということです」
と僕が言って、一度通した。マエストロはニコニコしている。
「繰り返したい場所があったら、どうぞ練習してください」
と言ったら、
「いやいや、もう問題はないから、撮ってしまいましょう」
と答えるので、もう本番撮り。

 カメラが回ったらみんなの集中力が凄い。
撮り終わって、
「直す個所があったらもう一回練習して撮り直しましょう」
と僕が言ったら、
「いやいや、もうこれでいいですよ」
ところが、カメラさんが、
「安全のために、もう1テイク撮らせてください!」
と言うので、マエストロに告げると、またニコニコ笑って、
「いいですよ」
テイクツーの方がさらにテンションが高かったので、新国立劇場から配信されている映像はこちらの方だと思う。

 マエストロが僕のところに来て、
「言いたい事があるんだけど、通訳してくれる?」
と言う。マエストロのスピーチが始まった。
「みなさん。本当に心を込めてわたしの国の国歌を歌ってくれてありがとう!わたしは今、故郷から、また家族からも遠く離れていますけれど、こうして愛する祖国の歌を演奏していたら、わたしは今、まるで自分の家にいるような気持ちになっています・・・」
 イタリア語でこう語るマエストロの声はわずかに震え、目には涙がいっぱいたまっている。それが即座に訳している僕に伝染し、僕の目にも涙がうるむ。見ると、団員達の目も赤くなっている。みんなが心を込めて歌ってくれた国歌の演奏そのものも、このスピーチも、長い新国立劇場合唱団の歴史の中でも、決して忘れられないかけがえのないひとときであった。

 ウクライナは実際の戦闘の最中にある。ここで勝手に感動に浸っている場合か、という意見もあろう。しかし僕たちは、ウクライナ人の指揮者の元で、行ったこともないウクライナという国とそこに住むひとびとのことに想いを寄せて演奏した。
 その演奏行為は、まさに「祈り」そのものではないかと思った。これがもし無意味だったとしたら、この世にあるすべての祈りだって無意味なものとなってしまう。少なくとも、マエストロを中心として、僕たちはウクライナによって結ばれ、互いの一致感を共有することができた。
 新国立劇場からは、もうひとつの映像が発信された。バレエ部門のPeaceという映像である。これも実に感動的な演奏であり、舞踏というものを通して人が表現できるものとは何なのかを問いかけてくる。
 ひとりのダンサーのてのひらに乗せられた何かが、次々に受け渡し、受け継がれていく。それがPeaceへの想いなんだろうな、ということは容易に想像がつく。でも、そういう理屈を超えて、ひとりひとりの身体表現が我々に語りかけてくるものの強さを感じて、やはり胸を熱くする。ここにも祈りがある。
 こんな時、僕たちは何もできない無力さを感じるが、その無力さを感じながら、表現せずにはいられないところに、芸術の根源的な力がある。

音楽は世界を救えるか?「音楽と祈り」3月講座
 3月24日木曜日は、真生会館「音楽と祈り」3月講座だ。この3月講座で、僕の「音楽と祈り」講座がひとまず終了するので、僕は2月講座の最後に、
「なにかテーマでリクエストがあったら事務局を通して申し出てください」
と言っておいた。
 すると何件かのリクエストが届いていたが、その中からふたつのリクエストを採用する。ひとつは、「ラテン語のミサ曲の歌い方」を教えて欲しいというもので、もうひとつは、ちょっとテーマが大きいのだが、「音楽は世界を救えるのか」というもの。

 最初のリクエストについては、ただ単にラテン語のミサ曲の歌い方を教えるだけでもいいのだけれど、この際だから、もう一度、カトリック教会のオリジナル言語であったラテン語そのものについて語ってみようと思う。

 かつて20世紀半ばまでは、ミサは全世界でラテン語で行われていた。ラテン語のCatholicusという言葉は「普遍的」という意味を持つので、全ての面において普遍的であろうとしたカトリック教会の礼拝がラテン語であったのは必然的であった。それが、第二バチカン公会議で、それぞれの国が自国語でミサを行うようになったのは、画期的な改革だったと言える。だからといって、それによって、ラテン語そのものがその使命を終えたように思うのは短絡であって、少なくとも欧米諸国においては、教会外においても、ラテン語は様々な形で彼らの日常生活に深く入り込んでいる。
 それどころか、何か新しいものが開発されると、彼らはそれらにラテン語の名前を付ける。たとえばaudeoはラテン語で「聴く」という動詞。videoは「見る」という動詞。comptareは「計算する」という動詞の不定形。これがコンピューターという言葉となる。ラテン語自体は、現在バチカンの内部をのぞいて、ほとんど日常生活の言葉としては使われなくなった、いわば死語となっている言語であるが、様々な形で現在においても、さらに将来的にも使われ続ける言語なのである。

 さて、講座では、そうしたラテン語受容史も含めて、特にミサの中で語られる言葉の本当の意味を掘り下げ、さらに実践的に、発音から始まってラテン語歌唱について語ってみたいと思って、目下のところ準備を進めている。

 次のリクエストは、なかなかひとことで語るのは難しい。リクエストのタイトルは「音楽は世界を救えるか」という壮大なテーマで、ヘタをすると、どこまでも内容が広がってしまう。
 実はこのリクエストは、僕の著書「ちょっと お話し しませんか」の編集者でもあるドン・ボスコ社のKさんからのものだ。この著書自体が、「音楽と祈り」講座でのお話しをまとめたものに自分のエッセイを加えたものだが、出版後も、講座で語った様々な内容がどんどんたまってきているので、この講座が一段落した後、「ちょっと お話し しませんか」の続編を作る話をKさんとしている。

 講座では、先ほど話したウクライナ国歌の収録の話を盛り込もうと思うが、それとは別に、どうしても触れたいと思うのは、著書の最初の方でも触れた「音楽と聖霊との関係」あるいは「音楽が、最も霊的な芸術」という話題だ。
 何故なら、「我々人間が、そもそも霊的な存在だ」という理解なしには、このテーマには近づけない。我々人間は、元来霊的存在であり、霊的世界に生きていたものであるが、あえてこの物資的世界に生まれ落ちた。そこで、とても言葉は悪いが、獣という性質も帯びているのだ。すなわち「お腹がすいたら人のものでも食べたい」という欲望を持ち、「人にあげたら自分の持ち分が少なくなる」という世界観に囲まれて生きている。

 しかし、音楽を聴くと、我々は獣の部分を忘れ、特に聖なる音楽に魂が触れると、本来の霊的世界を思い出すのだ。だから「音楽が世界を救えるか」というクエスチョンよりも、「音楽によって自らの霊性を思い出そう」という呼びかけの方に、受講者の意識を誘いたい。
 もしかすると、この「音楽は世界を救えるか」というのが、新しい本のタイトルになったりして。ま、それはともかく、そんなわけで「音楽と祈り」は、これで終わりというわけではなく、僕の信仰生活が続いていく限り、このテーマは僕から離れることはないのである。

ジークフリートに槍を折られたヴォータンの心境
 3月20日日曜日は、一日予定は入らす、珍しくZoom受講者の申し込みもないので、スキーに行きたいなと思っていたが、天気の予想が雨だったので躊躇していた。雪山に行くのだから、雪はもとより覚悟の上であるが、雨は嫌だよね。テンションが下がるし、第一どんなに防水スプレーをウエアーにかけても、雨水ってやつはどこからか忍び込んでくるからね。
 でも、数日前から予想が変わって来た。寒気がやってきて週末は荒れる天気になるけれど、その代わりお山は揃って雪の予報に変わった。そこで僕は、春休みになった孫の杏樹と次女の杏奈と3人でガーラ湯沢に行った。長女の志保は、いつもの通り仕事で無理だった。ピアニストとして30代後半の稼ぎ時だからね。

 僕の場合、ひとりで滑るのと複数で滑るのとでは意味合いが全く違う。両方ともスキーの楽しみ方で、どちらがベターというものではないが、ひとりで滑ると、どうしてもガシガシと行(ぎょう)のモードに入ってしまう。その一方で、みんなで滑るのは本当に楽しいね。スキーにはレジャー的要素があるんだ。
 日曜日のガーラ湯沢はめっちゃ混んでいた。ゲレンデは、ほぼ1日雪だったけれど、風も弱く気温も思ったほど寒くなかったので滑りやすかった。

 実は、その日、僕にとってひとつだけショックなことがあった。今日はコブ斜面は行かないで整地のみにしようと思っていたが、午後になって、このまま帰る前に、やっぱり一回くらいコブに入りたいと思ったので、
「ジージは一回だけコブ斜面に行ってくるけど、杏樹は杏奈と一緒に滑ってね」
と言ったら、杏樹が、
「いやだ。ジージと一緒にコブに行く」
と言って勝手について来た。僕はコブを見せながら、
「あのね杏樹、コブってほらこんなにデコボコになってるものだよ。危ないよ。恐いでしょ。ジージはこっちを滑るけど、杏樹はこの隣のまっすぐなところを滑りな」
と言ったが、
「いやだい。杏樹もコブを滑るんだ!」
と言って、こちらが止める間もなく先にコブに入っていった。
「うわっ、大変なことになった・・・そんなに簡単にいかないってば!」
まあ、次の瞬間ハジかれて空中に飛び出すだろう。それで懲りるさ。でもそれで済めばいい。ヘタするとそのままゴロゴロと下まで転がっていって怪我するかもしれない。
「ああ、見ちゃいられない。とにかく追い掛けなければ!」
と思って、同じコブに入って、すぐ後を滑っていったが・・・ちょっと待て・・・あれえ・・・・普通に滑っている!

 最初の窪みこそ、思っていたよりグーンと溝に落ち込んでスピードが出て驚いたようだったが、かといって腰が引ける感じでもなく、コブの出口では、ジェットコースターのように盛り上がったのが嬉しいようで、何も言わなくても切り替えして次のコブに入って行く。そのまま、あれよあれよという間にプルーク・ボーゲンのまま下まで滑り降りてしまった。
 僕は杏樹の5メートルくらい後から、そのまま付いて行ったが、決して初心者が滑れるようなコブではない。そこは、この「今日この頃」でも書いたけれど、3月3日の誕生日の日に僕が繰り返し練習した最大斜度33度のスーパースワンのコブ斜面だ。
 ただ、あの間に新雪が降ったり、いろんな人が滑ったりで、形は変わってあの時より浅く滑りやすくはなっているものの、つい2年前だったら、僕だって下まで滑り切れる保証のないものだった。それを、外向傾も何も教えないのに、あのチビはなんなく滑り降りたんだぜ。
 下で追いつくと、僕は聞いた。
「怖くなかったの?」
「怖くない。楽しい!」
それでもう一度リフトに乗って同じ斜面に入ったら、油断していたのか、今回は一度コブの出口でハジかれて飛び上がり転んだが、すぐに起き上がってまたグングン降りて下まで滑り降りた。

 その後ろ姿を見守りながら、僕は、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」第3幕で、ヴォータンがジークフリートにノートゥングで自分の槍を折られる瞬間を思い出した。ヴォータンは、
「行くがいい、もうわしにはお前を止められない」
と言う。年寄りはしだいに衰え、これからは若者の時代か。

 そういえば思い出したけど、僕は幼い長女の志保にいろいろピアノを弾くアドバイスを与えていたが、ある時、志保がもう自分よりもピアノを上手に弾いていることに気が付いた。不思議と悔しかったりはしないんだね。むしろ、なるほど、こうやって若者は先人を抜いていくのか、と思って、たくましい若者を応援する気持ちになったのを昨日のことのように思い出す。

 杏樹は、僕たちがマエストロ・キャンプをやっている間、全日本スキー連盟公認の白馬五竜スキースクールのキッズ&ジュニアレッスンに3日ほど放り込んだお陰で、かなりパラレルっぽくはなったが、まだストック・ワークも出来ないし、重心移動もよく分かっていないし、外向傾とか、これからきちんとコブを滑るとしたなら、学ばなければならないことは山ほどある。
 しかしね、そういうことではなく、そもそも、あのコブ斜面に躊躇なく入っていて、滑り降りたということが、もう出発点から僕は負けているねえ。まあ、負けていても別にいいねえ。そこまでジジ馬鹿なんだねえ。

 スキー・シーズンが終わる前に、できたらもう一回ゲレンデに行って、今度は杏樹とふたりでコブ特訓して、ヘトヘトになって帰ってこようかな。



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