FEBC(キリスト教ラジオ放送局日本)の放送

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

FEBC(キリスト教ラジオ放送局日本)の放送
 僕のインタビューの放送が今週末にあります。
放送日は、4月9日(土)。
ラジオは夜10:04からAM1566kHzで。
インターネットでは、4月9日(土)より、1ヶ月間聴けるとのこと。
お友達にも伝えてくださいね。
www.febcjp.com)

そんなに愚かな人類にも慈愛の目は
 ロシアとウクライナとの戦争に本当に心を痛めている。ロシア軍がキーウ(キエフ)周辺から撤退した後の荒廃した街の様子をテレビで観て、どうしてこんな無意味な戦いを21世紀になってまでもしなければならないほど人類は野蛮なのだろうと、怒りを通り越して悲しくて胸がつぶれそうだ。キーウ近郊では、新たに400人以上の遺体が見つかったという。またロシア兵力の中心は東部に移っていって、こちらでは依然厳しい状態が続いている。

 平時であれば、誰かひとり殺されただけでも殺人事件としてニュースに載る。旅客機が墜落でもして100人死にましたといえば大騒ぎになる。しかし戦時においては、まるで虫けらのようにどんどん殺されて、その数も把握できないし、葬儀も埋葬もできないまま遺体が放置される。怒り、絶望、悲惨さ、不信、家族の慟哭、生き別れの不安、飢えなどが巷に溢れているが、誰もそれを止められない。。

 戦争は、双方にどんな大義があろうと避けなければならないが、可哀想なのは、侵攻しているロシア兵自体が、今、自分が戦っているのが何のため?という戦争の大義を感じていないことだ。それなのに目の前の人を殺さないといけない。士気があがるはずもない。
 ウクライナ人の悲惨さに目を向けないわけでは勿論ないが、ロシア兵も人間だ、ということに今回はあえて触れておきたい。大義のない戦争は辛いし痛ましい。怒った部下が上官の足を戦車で轢き、結局死亡させたというニュースも入ってきた。
 ロシア側の指揮系統は統一感なく、補給経路もずさんで、キーウ近郊で一ヶ月も待機させられた末、餓えや凍傷に悩まされた兵士が数多くいたり、チョルノービリ(チェルノブイリ)原発の近くで待機させられた兵士は、被爆して体調を崩しているという。

「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
と言ったのは親鸞である。僕の解釈はこうだ。ある人が誰かを殺す。すると、殺された人だけではなく、殺した本人も、同じだけの損傷を魂に受ける。悪口も中傷も詐欺もみんな同じ。人に与えた行為は、良いものであれ悪いものであれ、自分の内面に同じだけ刻みつけられるのだ。
 だから、人を殺した者は、その心の傷を認めたくないので、何も感じないように自分の魂に蓋をする。堅く堅く蓋をする。そして誰にも心を許すことなく、誰にも心を開くことなく、感情を殺して孤独に生きるようになる。でも本当は、心の傷はけっして消えることはない。ある者は、自分が撃った時の相手の断末魔の目の記憶が消えない。そして心がどんどん蝕まれていく。

 こんな可哀想な人たちを阿弥陀如来は救おうとしているのだと親鸞は説いた。
「何?可哀想?加害者が?」
そう、僕は、そんな可哀想なロシア兵の加害者をもうこれ以上増やしたくない。殺すのが楽しくてしょうがないなんて人間はいないだろう。もしいたら、そんな人の魂こそ壊れているのだ。凍り付いているのだ。
 ベトナム戦争から帰還してから、心身に異常をきたした元兵士が後を絶たなかったというだろう。また太平洋戦争から帰って来て、南方で自分のしたことを妻にも言えずに、戦後ずっと胸の内にしまい込んでいた人が、ある時突然、
「誰か聞いてくれ!俺は戦死した仲間の肉を食った!」
と叫んで、涙ながらに語った、という話はいくらでもあるだろう。そうした心にも、阿弥陀如来の慈悲は届いていて、それを溶かしてあげようとしているのだ。

 一番届いて欲しいひと。それはウラジーミル・プーチンその人だ。
彼が行っているオウンゴールが全て彼自身の心身を蝕んでいることに、そろそろ気付いて欲しい。気付いた時に、彼は恐らく、自分がどれだけ取り返しのつかないことをしてきたのか愕然とするだろう。

そんな魂の奥底にも、阿弥陀如来の慈悲は届いている。
だから僕もプーチンのために阿弥陀如来に祈っている。
あれ?キリストには祈らないの?
大丈夫、大丈夫。勿論、イエス様にも祈っている。
僕は、よく分からないんだけど、
なんでキリスト教信者は阿弥陀如来に祈っちゃいけないんだろうね。
極悪人(あるいは加害者)には阿弥陀如来の方が適しているように思うんだ。
天国には、阿弥陀如来もいて、キリストもいるけれど、
彼らはもっと上からの真理の光を浴びて、それに従い、語っている。
彼ら救世主達にもみんな個性があるけれど、
いちばん上ではみんな大宇宙の創造主につながっている。
それでいいじゃない。

エバハルト・フリードリヒと会いました
 3月14日月曜日。突然エバハルト・フリードリヒからメールが来た。
「日本に『ローエングリン』の合唱指揮者で行くから、会おうぜ。3月16日から4月3日までいるよ」
と書いてある。
 あ、そうか。東京春音楽祭の「ローエングリン」演奏会形式で、彼は東京オペラ・シンガーズの合唱指揮をするんだった。ただね、僕の方は、今、新国立劇場が結構忙しくて、「椿姫」公演や、その間を縫っての「ばらの騎士」の立ち稽古、オケ合わせ、舞台稽古と、立て続けにスケジュールが埋まっている。
 それでも取りあえず、
「よーし、会おう!とっても楽しみだよ!」
と、調子良く返事だけ返しておいた。

 しかしその後何度かメールでやり取りしてみると、彼は来日後、夜にずっと稽古が詰まっているというし、僕は夜は空いているが、朝から昼にかけてはいろいろ入っている。うーん・・・なかなか会えないじゃないの。
 一日だけ午前中に会えるかな、と思う日があった。けれども、そこには小山祥太郎君のZoom指揮レッスンが入っている。でも、そこを逃すと、いつ会えるか分からない。そこで僕は小山君に相談した。
「バイロイト音楽祭でもう20年以上合唱指揮者をしていて、ハンブルク歌劇場合唱指揮者でもあるエバハルト・フリードリヒが日本に来ていて、僕に会いたいと言っているんだ。でも、その日に小山君のレッスンが入っているんだよ。あのさ、一緒に会わせてあげるから、悪いんだけどレッスン1回キャンセルさせてくれない?」
自己中な先生。でも、素直な小山君は、
「え?本当に会わせてもらえるんですか?レッスンのことは心配しないで、是非行かせてください!」
そこで小山君を連れて3月23日水曜日の午前10時に、彼の泊まっているザ・プリンス・さくらタワー東京に会いに行った。

 エバハルトとはもう10年以上会っていない。1958年生まれで僕より3歳若いから、64歳くらいになっているはず。つまりお年寄りなので(笑)、あまり歩かせたりしたら悪いから、そのままホテルのロビーのカフェでお話ししようと思っていた。
 けれども彼はロビーで僕に会うやいなや、
「あのさあヒロ、スイカっていうカードが欲しいんだけど、一緒に駅に行ってくれない?」
と言う。
「主催者は、練習に行くために毎回タクシーを出してくれるというんだけど、上野の文化会館に行くのに、グルグル回って死ぬほどかかるんだよ。メーター見ると高いしさ。でも電車でなら、上野なんてあっという間じゃない。馬鹿らしくってさ。それに練習がない時に、あれがあれば何処でも行けるだろう」
「駅まで歩く?」
「勿論だよ。行こう行こう!」
おお!フットワークが軽いのは変わってないんだね。こういうフランクな奴で本当に助かるよ。
 早速3人で品川駅まで歩いて、自働の機械でスイカを買ってやった。とはいえ、僕もよく分かっていなかったので、若い小山君に手伝ってもらった。

 小山祥太郎君は、国立音楽大学声楽科を大学院まで出た後、ドイツ南西に位置するカールスルーエ音楽大学に何年もいて、そこの教授である白井光子さんとハルトムート・ヘル氏に声楽、特にドイツ歌曲の解釈などを習っていた。しかし、もうすぐ卒業というところで新型コロナ・ウィルスの蔓延でドイツがロックダウンになってしまい学校も閉鎖。それで単位が取れず、やむなく卒業を諦めて帰国したのである。
 彼は、声楽を習っていたけれど、もともと指揮者になりたいという願望を強く持っていた。その一方、僕の方は、コロナで仕事も全然なくなってしまった2020年夏、Youtube「三澤洋史のスーパー指揮法」を配信し、Zoom指揮レッスンの生徒を募り始めた。
 そこに一番最初に申し込んで来たのが小山君である。最初の頃、彼はカールスルーエからレッスンを受けていた。そういえば、ニューヨークからやウィーンから受けていた生徒もいた。
「Zoomって、なんて便利だろう!」
と驚いたことが懐かしい。
 さて、ドイツでの卒業を諦めた彼は、帰国してからも僕の元でレッスンを受け続け、「おにころ」の副指揮者も手伝ってもらったし、今度、二期会の「パルジファル」公演で、僕は合唱指揮者をするけれど、彼は副指揮者として働くことになった。

 なので、ドイツ語には困らない小山君ではあるが、彼はエバハルトの話しぶりが、あまりにフランクで驚いたようだ。その日は、品川駅のカフェで、3人で1時間くらい話をしたのだが、
「あんなに機関銃のようにしゃべりまくる人って、ドイツ人でも珍しいですよね。いやあ、先生達の会話にちっとも入っていけなかったです」
 エバハルトは小山君に向かって、
「声楽を勉強して、指揮を習っているっていったら、合唱指揮者になるのが一番自然だね」と言った。

 かつて僕も何度も指導していたことがある東京オペラ・シンガーズを、ハルサイ(東京春音楽祭)「ローエングリン」で、彼がどう料理するのか、とっても興味あったので、本当は練習に潜り込ませてもらいたかったのだけれど、コロナ禍で簡単には見学もさせてもらえないだろうし、こちらも「ばらの騎士」舞台稽古が佳境に入っているので、どうしても抜けられない。
 そうした中、長女の志保が自分でチケットを買って、「ローエングリン」初日公演を観に行き、とても良かったと言いながら家に帰って来た。
 その初日と2回目公演の間の2日間が完全オフだとエバハルトが言うし、僕も4月1日金曜日が空いていたので(本当はスキーに行こうとも思っていた)、やっと僕たちはあらためて会って、一緒にゆっくりと夕食を食べた。

 4月1日金曜日の夕方、またまたホテルに彼を迎えに行った。
「品川駅の反対側なんだ。10分くらい歩くけど、いい?」
「勿論!」
ホテルの入り口を出ると、桜が目に飛び込んできた。
「今回は良い季節に来たね」
「日本の桜がこんなにきれいだとは思わなかった!」
品川駅のコンコースを通り越し、港南口からすぐの、予約していた“楽蔵うたげ”に僕たちは入って行った。ここは、全席個室の居酒屋。
「ふたりだけの個室だよ」
「おお、いいね!静かで落ち着く」
「若い女の子と一緒だと、もっといいんだけどね」
「悪かったね。じいさんで」
「まあ、しょうがねえや、あはははは!」
エバハルトとはいつもこんな風だ。変わらないのが嬉しい。
「長女の志保が30日の『ローエングリン』に行って、合唱がとっても良かったって言ってたよ。ヤノフスキーのテンポが速すぎるとも言ってたけど・・・」
「おお!合唱を誉めてもらった。嬉しいね。ヤノフスキーは、音楽が停滞するのが嫌いなんだ。でも、良い指揮者だと俺は思うよ」
「東京オペラ・シンガーズは、マテリアルは良いけど、すぐ大きく歌いたがるだろう」
「そう。ピアノですよと言ったら、その時は従うけれど、次の日になるとメゾ・フォルテになってる。特に男声。しかも男声だけの8声コーラスがあったり、複雑で量も多い」
「知ってる。でも、仕上がりが良かったんだからいいじゃない」

 それから約2時間半ほど、僕たちはいろんなことを語り合った。まあ、ここで紹介できないヤバイ本音というのもいろいろあったけど、その中からほんの少しだけサワリを紹介しよう。
「あのさあヒロ、いろんな指揮者いるけど、なんといっても最低なのはゲルギエフだよな」
「同感!僕も一度共演した。新国立劇場合唱団がマリインスキー管弦楽団と共演して、ナタリー・デセイ主演で『ルチア』をやったんだ。しかも練習は当日のゲネプロのみ」
「あいつ、なるべく練習したくないんだ。練習するとバレるからね」
「10センチくらいの指揮棒で、あの動きだろう。前奏があるところは何とか入れるけど・・・・」
「いきなりオケと一緒だと、いつ入っていいか全然分かんないよな。俺の時もそうだったぜ。バラバラ・・・」
「そうそう・・・そういえばエバハルト、僕は2011年に3ヶ月だけミラノのスカラ座に研修に行ったんだ。合唱指揮者ブルーノ・カゾーニさんの元で合唱見学という名目で」
「知ってる、カゾーニ!優しいおじいちゃん!」
「その間にゲルギエフが『トゥーランドット』を振った。終幕近くで、O sole! Vita! Eternita!という大合唱があるじゃない。あそこをね、ゲネプロまで4つで指揮していたのに、初日で何を思ったかいきなり8つ振りで指揮したんだ。どうなったと思う?」
もうそれだけでエバハルトは笑いながら手の平で目を覆っている。
「Katastrophe(大惨事)・・・」
「その通り!合唱団の半分は、8つ振りのひと振りを4分音符だと思って、そこに音符を2つ入れて歌った。もう半分はすぐ気が付いてひと振りに8分音符をひとつずつ入れて歌った。バラバラどころか真っ二つになった。オケもふたつに分かれてそのまましばらく進行した」
「俺の時には、そこまでなったことはないが、似たようなことは何度もあったよ」
「でもねえ、反対にびっくりしたことがあった。スカラ・フィルハーモニー(スカラ座管弦楽団がコンサートをする時の名前)が同じ時期にゲルギエフの指揮でコンサートをやったんだ。演目は『悲愴』。これがね、名演だったのよ」
「あ、そう。彼の場合よくあるんだ。あんまり指揮が分からないんで、みんな半ばパニックになって、とっても緊張感のある演奏になる」
「そう!第三楽章のマーチなんかもう崩壊寸前。よく止まらなかったなあと思った。でもね、その後の第四楽章の緊張感たるや凄かった」
「だから彼は一流オケとしかやらない。一流オケの緊急事態における処理能力を知っているから」
「そうかも知れない。まあ、普通の意味で名演というのではないんだけど、一流オケに全力を出させるという意味では、名指揮者かあ?」
「でーもなあー。マリインスキー管弦楽団なんかでは、彼に逆らうとすぐクビになる。音楽的説得力とは違う意味で、彼は権力を持っているんだ。睨まれた次の日からトップ奏者が代わっているというのは珍しくない。プーチンと昔からの親友だという。ま、プーチンの仲間という理由で、ミュンヘン(フィルハーモニー管弦楽団)を解任されたんだ」
「ちょっともう、この話はやめよう。どこかでスパイが見張ってるかも分からない」
「ヒロ、あとね、やっぱり付き合いずらいのはバレンボイムだ。あいつ、すごく怒りっぽいんだ」
「へーえ?そういえば、バイロイトでも、いつも難しそうな顔をしていたなあ」
「何でもないことで怒る。だから、機嫌が悪いときは、みんなピリピリしている。ああいう雰囲気の中であんまりやりたくないよ。ベルリンから離れてハンブルクへ行ってホッとしたね」
「そういう人は、ヤだけど、指揮者には時々いるね。って、ゆーか、どっちかだね。オープンか閉じこもるか・・・」
「反対に、俺がとっても好きなのはサイモン・ラトル!」
「あ、僕も好きだよ。ベルリンフィルが来日した時に、一緒に第九をやった。めちゃめちゃ感じ良い(Sympathisch)よね」
「オケがずれた時にこう言うんだ。
『あの~、みなさん、私は自分では、少なくともゲルギエフよりは分かり易く振ってるつもりなんですが・・・今ズレたように思ったのは気のせいでしょうか?』
すると、みんなが笑って次にやった時にはピタッと合って、練習がとても和やかに進む。そして仕上がりもとってもいいのさ」
と、こんな話が果てしなく続いた。

 そういえば、彼と話している間に気が付いた。ある時までは、いちいちエバハルトの言葉を頭の中で日本語に訳し、こちらが話す時には、日本語で考えてからドイツ語で文章を構築していた。でも彼の会話のスピードに合わせている内に、すぐに面倒くさくなったのでやめた。そしたらその瞬間、頭から日本語がスパーンと抜けた。
 それからは全てが軽くなり、会話がスムースに流れた。脳は、完全にドイツ語モードに切り替わって、僕はドイツ語で思考し、そのまま話し、反対に、聞き取ったドイツ語は脳に直接入る。ドイツ語の肌を持ち、ドイツ語で味覚を感じる感覚。
 時々エバハルトの言っている単語を知らなかったり、こっちが言いたい内容に相応しい言葉が見つからない時があるけれど・・・そんな時は、平気でエバハルトに聞く。
「ん?どういう意味?」
とか
「ええと・・・こんな時何て言えばいいんだろうな」
とか言うと、彼が別のドイツ語で説明してくれる。それを日本語に訳すことなく、丸ごと頭の中にしまい込む。

 あった、あった、こんな感覚。3年間に渡ったベルリン留学で、ベルリン芸術大学指揮科を卒業する頃や、バイロイトで毎夏、約2ヶ月半過ごした最後の頃って、頭の中は普通にこうだったよな。ミラノのスカラ座に行って3ヶ月の研修をしている間に、毎日語学学校に通っていた最後の頃も同じようだ(イタリア語ではあったけれど)。
 勿論、現在だって外国人と会話するのは、新国立劇場に行けばすでに日常の一部となっている。「さまよえるオランダ人」と「愛の妙薬」では指揮者のガエタノ・デスピノーザを相手にドイツ語とイタリア語で話し、「椿姫」ではアンドリー・ユルケヴィチとイタリア語で会話している。でもね、最近はなんか違っていたんだよな。
 そうだ。コロナのせいだ!そもそも外国に行かなくなったし、どうも心の中で、仕事のこと以外では余計な話はしない方がいい、みたいに思っているところがある。そのために、本当はもっと突っ込んでいろいろ話が出来たのに、あるいは、もっと仲良くなれたのに、最近の僕は人付き合いがドライになってしまっているようだ。そして、そんなことしている間に、外国語での会話も、一度日本語に直しながらになってしまっていたのかも知れない。
 駄目だ。駄目だ。そんなんじゃ駄目だ!もう一度、僕の中で「生きた言葉」を復活させなければ!もしかしたらね、コロナのせいで日本人に対してでさえ、自分の心にフィルターを作ってしまっているかも知れない。だとしたらこれはただごとではない。

 食事中、彼は、ずっと生ビールで通すつもりだったようだが、僕が途中から芋焼酎のソーダ割りに変えたら、
「なんだそりゃ?」
と聞くから、
「芋だ。あとは説明するのが面倒くさいから、飲んでみたら」
と言ってふたつ注文したら、とっても気に入って、一体何杯おかわりしたか分からない。「おいしいな。ほのかに甘い」
飲み放題メニューにしてて良かった。
 ハマチの刺身をとても気に入って、
「時々、スーパーで刺身を買ってきて部屋で食べたが、こんなにおいしくなかった」
「そりゃそうだ。居酒屋と一緒にするな」
 また“つくね”をとても気に入った。
「コリコリしているのは、骨を砕いて混ぜてあるからだよ」
「おいしいね。日本ならではだね」
と喜んでくれた。

 別れ際に彼は言った。
「もうすぐ俺は定年でハンブルグ劇場を辞める。そうしたらベルリンに戻るつもりだ。ベルリンには家が残してあって、下の娘が住んでいる。大きい家なので、コロナが終わったら絶対に遊びに来て俺の家に泊まってくれ。上の娘もベルリンにいるが、別の所に住んでいてね・・・聞いてくれ・・・6月になると、俺はおじいちゃんになる」
「おお!おめでとう!」
「あのね、実は双生児なんだって」
「うわあ、凄いね。一度にふたりのおじいちゃん!」

 ということで、コロナ禍が終わったら、僕は絶対にベルリンに遊びに行くぞう!それまで、頑張って働きます!



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