一刻も早く無益な戦いを止めてほしい!

三澤洋史 

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一刻も早く無益な戦いを止めてほしい!
 どうして僕は今、こんな世界に生きているんだろう?新型コロナ・ウィルスの感染は、まだまだ止む気配がない。オミクロン株も、東京都だけで一日の新規感染者が2万人を超えたピーク時は過ぎたが、まだまだ数千人規模を保ったまま続いているし、また上がる兆しすら見える。
 そうこうしている内に、あろうことかウクライナで戦争が始まってしまった。こちらも長期戦に突入し、解決の糸口すら見つからない。世界のどこかで戦いが行われていて、今でもどこかで誰かが死んでいる、あるいは残された人々の慟哭が響き渡っている、と思うだけでいたたまれない気持ちになる。

 バシャールは、
「人はみんな、自分のスピリチュアルな状態に見合った世界に生きている。宇宙はひとつではなく、無数の並行宇宙があり、その中の地球がある」
と言うが、とすると、こんな世界を生きている僕は、自分の悟りが低いから、自分の生き方が悪いから、そうした宇宙を呼び寄せているのか?

 まあ、それはどっちでもいい。とにかく、ここでこの文章を書いている僕が生きているのが“この世界”というのが現実。それは変えられない。だから、僕は自分の出来る範囲でこの世界を愛そう。あわよくば、みんなが互いを想い、その長所や才能を生かし合い、手を携えてより高い世界を目指せるような状態に向かって行って欲しい。そしていつか辿り着いて欲しい、と本気で思っている。そのために、キリストや仏陀や、数々の預言者がこの世に来て道を説いたのではなかったのか?

 そして僕も、その中でいくばくかの使命を負っている、と思う。今の自分には、はっきり言って、もう現世的な欲望はない。どこかの地位につきたいとか、めちゃめちゃお金持ちになりたいとか、みんなを自分の前にかしずかせたいとかいうことに全く興味がない。
 それより、自分が動くことによって、誰かが何かに目覚めてくれるとか、誰かが真理に気付くとか、誰かが、これまで出来なかったことが出来るようになるとかの手助けをしたい。そうしたことができるような器になれるように精進したいし、その中で自分も成長したい。その気持ちが、どんどん強くなってきている。

 ああ、それなのに・・・何故、人類はかくも愚かで、かくもエゴイストで、他人の不幸や犠牲の上に自分だけの幸福を構築しようとするのか?それは結局、自分も含めて、何人をもしあわせにしない。因果応報、すべて自分に巡り巡って還ってくる。そんな簡単なことが、どうして分からないのか?

 ウクライナのブチャの街で起きた凄惨な殺戮に世界が震撼している。けれど、どうやらそれはロシア軍だけの仕業ではないようだ。ロシアが言い訳に使っている“ネオナチ”という言葉に引っ掛かるものを感じ、いろいろ調べてみた。ゼレンスキー大統領はユダヤ人なのにネオナチ?という素朴な疑問から・・・。
 するといろんなことが分かってきた。ウクライナの中にも、いろんな人がいるのだ。西側から入ってきた純粋白人は、確かに昔のナチズムに近い感情を持っているし、逆にロシア人の支配を抑圧と感じ、ウクライナ語を話しウクライナの風習を守ろうとする純血派もいるので、話はややこしい。
 その中でも、アゾフ大隊と言われるような、極右勢力が一定数いるのも周知の事実で、詳しいことは不明だが、ブチャで退却するロシア兵を逆に追い掛けて殺した、という報告もあれば、ウクライナ人の自作自演という話もある。僕は、それもあり得ると思う。その一方で、虐殺実行はロシアFSB直轄の「アルファ特殊部隊」という報告もあがっている。

 僕の情報収集能力では、これ以上追求し、勝手に評価を下すことはできないが、はっきり言えることは、西側の大手メディアが(我が国のテレビや新聞も含めて)、反ロシア的な報道のみを一方的に流し続け、「プーチンは悪者だ」あるいは「ロシアのみが一方的に悪い」という意見のみが巷に広がり、それ以外の意見を一切受け付けない極端な状態となっていることは、ロシア国内の情報統制ほどではないにしても、危険を感じる。
 勿論、この戦争はロシアが始めたものだし、ロシア軍がウクライナ領土内に一方的に入って攻撃し、逆に、ウクライナ兵がロシア本土に入り込んで戦闘などはしていないので、これが侵略戦争であることは明白であり、その意味では、ロシアには全く弁解の余地はない。

 しかしながら、いざ戦争が始まってしまえば、双方きれいごとは言ってられない。あなたは、目の前で自分の妻が殺され、立ち去っていく敵の兵士の後ろ姿を見つめながら、もし手に拳銃を持っていたら、それを撃たないと断言できますか?ウクライナ兵だって、ただやられるだけではなくて、ロシア軍をこちらから殺しに行き、時には歓声をあげたでしょう。
 お行儀の良い戦争なんてあるわけないんだ。それが戦争というものであり、人間というものである。だから、戦争を始めてはいけないのだ。全てのモラルがガラガラと崩れ、平時では考えられない行動を人はするからである。

 ひとつだけ言うと、「民間人を殺した」ということでプーチンを「戦争犯罪人」だと大声でみんな叫んでいるが、逆に「良い時代」になったのだと思う僕を、みなさんけしからんと思うだろうか。
 だって、アメリカは日本の民間人を、東京空襲をはじめとして一体何人殺したのだろうか?広島と長崎の原爆は?あれこそ大虐殺ではなかったの?なのに、東京裁判で裁かれたのは、日本人だけだよね。まあ、これ以上は言うまい。

とにかく、一刻も早く、この戦争が終わって欲しい、と祈り続ける僕の今日この頃である。  


「ばらの騎士」におけるduの位置
 リヒャルト・シュトラウス作曲「ばらの騎士」の冒頭は、元帥夫人とオクタヴィアンとのベッドシーンから始まるが、普段あまり皆さんが気付かないことを今日は話してみよう。

Octavian:
Wie du warst! Wie du bist!
きみがどんなだったか! そして今どうであったか!
Das weiß niemand, das ahnt keine !
そんなきみをだれも知らないんだ、だれも思いつきもしない!
Marschlin:
Beklagt Er sich über das, Quinquin?
それが貴殿(あなた)の気に入らないってわけ、カンカン?
Möcht, Er, das viele das wüßten?
貴殿(あなた)はそれをみんなに知ってもらいたいってこと?
 ここでオクタヴィアンは元帥夫人に対してduを使っているが、元帥夫人はオクタヴィアンを、三人称のErで呼んでいる。erは通常「彼」であるが、あえて大文字のErを使う。しかし、他のところでは元帥夫人が思わずduを使ってしまうところもある。
Marschalin:
Du bist mein Bub, du bist mein Schatz!
かわいい子、あんたは私の宝よ!
Ich hab dich lieb!
大好きよ!
 オクタヴィアンにとって今の元帥夫人は自分だけのもの。だからduと言い続けるが、元帥夫人は、オクタヴィアンよりも十歳以上年上ということもあり、彼に対し貴族のしきたり通りErで呼ぶのだ。でもあまりにも「可愛い!」という気持ちが溢れてきて、ついduと呼んでしまう。こうしたニュアンスは、ドイツ語にかなり精通した者でないと分からない。
 オクタヴィアンは、duで呼んでもらったことがよほど嬉しかったとみえて、逆にこう嘆くのだ。
「何故昼なんだ?昼間なんていらない!何のためにあるんだ!
昼間にはきみはみんなのものになってしまう!
だから暗いままがいいのに!」
このセリフは、明らかにワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の第2幕の愛の二重唱を意識したものであるが、僕が強調したいことは、この文脈で語られると、“昼間”というものが、ヴェルデンベルク侯爵夫人と、未成年といえどもロフラーノ伯爵という二人の社会的地位を指していて、それが互いを遠ざけてしまうことへの不満となる。
 つまり昼間とは、大文字のErとSieとで呼び合うよそよそしい世界。こんなにも近くで吐息を交わし合うduの世界とは対照的で、オクタヴィアンは昼間の世界へ帰りたくないのだ。
 「トリスタンとイゾルデ」のような哲学的意味で読み込むこともできなくはないが、オクタヴィアンはその後すぐにゾフィーに夢中になってしまうので、命を懸けて愛を貫くという深い意味よりも、このひとときにいつまでも浸っていたいという感じだろう。

 第1幕最後のあたりでは、オクタヴィアンはメランコリーに沈む元帥夫人に成す術もなく、しだいにduから大文字のSieに変わっていくが、その過程に小文字のsieというのを使う。まあ、大文字か小文字かということに関しては、リブレットを読まないと、劇場で聞いていても分からないけれど、少なくとも台本作家のホーフマンスタールHugo von Hofmannsthalは、それを意識して書いている。
Octavian:
Ich weiß nicht,wie alle Männer sind.
ほかの男たちのことなんて知らないよ
Weiß nur, daß ich dich lieb hab,
僕が知っているのは、きみを愛しているということだけ
Bichette, sie haben dich mir ausgetauscht,
ビシェット(小鹿ちゃん)、彼女は人が変わっちゃたようだ
Bichette, wo ist sie denn!
彼女は一体どこにいるんだい?
 それから元帥夫人が“過ぎゆく時”の話をしみじみすると、その後からオクタヴィアンは大文字のSieを使い始める。
Octavian:
Mein Gott, wie Sie das sagt.
なんですか、そんな言い方するってことは、
Sie will mir doch nur zeigen, dass Sie nicht an mir hängt.
貴女はもう、僕の事なんてどうでもよくなったって示したいのですか
 duとSieとEr。これは“君”や“貴女”や“貴殿”という日本語に単純に置き換えれるものではない。目上とか目下とかということとも関係ない。つまりは相手と自分との社会的距離感であり、たとえば、西洋人にとって神様というのは常にduなのだ。自分の心の中にいて、一番近いところから全てをお見通しの存在、というわけである。
 だから、この作品でのduやErやSieの距離感の変化はとても興味深いのだけれど、白状すると、僕も最近まで、この「使い分け」に横たわる“人生の機微”というところに全然気が付かなかった。

欧米と日本との距離は、まだまだ遠いなあ。



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