僕の忙しいゴールデン・ウィーク
Zoom指揮レッスンの時間割が変わります
今、すでに予約している方達はそのままですが、これからZoom指揮レッスンの時間割が変わります。詳しくはトップページの「Zoomレッスンのお知らせ」をご覧になっていただきたいのですが、基本的にABCをABのみにあらため、基本的時間割を以下のようにします。なお、休日のDEはCDとなります。
A 9:30-10:15理由としては、実際に、これまでのBすなわち10:15-11:15と、Cの11:15-12:00を続けてレッスンすることは行っていないことが挙げられます。
B 11:00-11:45
(休日のみ)
C 13:00-13:45
D 14:00-14:45
春のとおみゲレンデ
白馬でシーズン最後のスキーと対談
4月25日月曜日午後。僕はエイブル白馬五竜スキー場の上部アルプス平のグランプリ・コースにいた。暑い!僕を白馬駅まで迎えに来てくれたペンション・カーサビアンカのオーナー大野正吾さんは、
「今、この白馬でなんと(気温が)26度ですよ」
と言っていた。
さすがに山頂までくると、それよりは涼しいが、ゲレンデはザラメ雪で荒れ放題。ここも、先日のかぐらスキー場同様、いたるところに深いコブが出来ている。この時期になると新雪など望むべくもないので、コブは沢山のスキーヤーによって、ただ深く掘られていくのみ。すでに土が見えているところもある。
朝イチ4月26日グランプリ
宮崎音楽祭の「ヴェルディ・レクィエム」練習
4月27日、28日は、宮崎のヴェルディ・レクィエムの練習。プロの合唱団員相手ではあるが、ヴェルディなので、今回はベルカント唱法にかなりこだわって指導した。横隔膜の状態や腹圧の作り方を、細かくチェックし、様々な音楽的表情に対応した発声のあり方を規定した。みんな「何をいまさら?」って最初は思っただろうが、やってみると、案外完璧からはほど遠い。
特に、持ち声の美声な若いテノール達から、不用心なナザーレの響きが聞こえてくると、僕は即座に、
「その声だけは絶対に使っちゃいけない!」
と強く言う。
他人から「良い声」とちやほやされながら、本当の支えやチェンジやアクート(高音を出す特別なテクニック)の習得を怠っていると、中年に差し掛かるや否や、それらに復讐される。声が揺れはじめ、ブレスが続かなくなる。
だから、声楽家は決して持ち声に溺れてはいけない。そして、支えを強固に保つだけでは不充分で、腹圧の強さにも曲想によって様々なバリエーションがあるし、音色を操り、喉に掛かる圧や、口腔内の開け方など、いろいろなことにきめ細かく精通すること。とにかく、まず自分の持ち声など一度忘れて、徹底的にテクニックを身につけることに尽きるのである。
名古屋での日々
4月29日金曜日は名古屋に行く。東京駅に出ると、久しぶりにホームに人が溢れている。ああ、人が戻ってきたな、と思ったら、なんだか嬉しくなってきた。今日はモーツァルト200合唱団で、「モーツァルト・レクィエム」の練習。
昨年、僕がコロナに感染したせいもあり、演奏会が流れてしまって申し訳なかったが、それ以来の再会で、みんな温かく迎えてくれた。ありがとう!今年は是非演奏会を成就させよう!
そのまま名古屋駅に隣接するホテルに泊まって、30日土曜日と5月1日日曜日は、愛知祝祭管弦楽団の練習。もちろん「トリスタンとイゾルデ」。第2幕から開始したが、2日間かけて全曲をくまなく練習できた。
でも、なんといっても、第2幕第1場と第2場が、オケにとっては難しい。特に、待ちに待ったトリスタンとイゾルデとの出遭いの瞬間は、狂気の沙汰で、音楽も狂気で、オーケストレーションも狂気で、まるでこれはケダモノ達の交尾(失礼)ではないか!ワーグナーは完全に頭おかしい(笑)。
第3幕で、イゾルデの来訪を告げるホルツ・トランペットの場面から後も、難しいといえば難しいが、変拍子も含めて、結構調子よくいける。トレーナー達も優秀とみえて、弾き込んできているのが分かる。
とにかく団員達みんな頑張っている。考えてみると僕は、何故か名古屋の人たちと気が合うようだ。振り返ってみると、1984年にベルリン留学から帰国した僕は、1985年4月から愛知県立芸術大学非常勤講師を務め始めたが、それ以来、名古屋バッハ・アンサンブルコールやセント・ミカエル・クワイヤー、そして名古屋芸術大学客員教授、モーツァルト200合唱団、愛知祝祭管弦楽団と、名古屋から片時も離れたことはないんだ。不思議な運命のつながりを感じる。
高崎滞在
5月3日には高崎に行く。翌日に控えたモツ勉こと「モーツァルト・レクィエム勉強会」の発表会の最終練習を行う。名古屋、高崎と「モツレク」が重なるのは偶然ではない。この二つの団体は、どれも、2020年12月5日、すなわちモーツァルトの命日の深夜に、ウィーンのシュテファン寺院で「モツレク」を演奏するというツアーの拠点になっていたからだ。
それが、そのツアーに向かって練習を始めるやいなや、新型コロナ・ウィルス感染拡大によって、1年延期となり、さらに2021年も叶わず、ひとまず振り出しに戻ることを余儀なくされて、結局中止。宙ぶらりんになってしまった。中止言われたって、今さら収まりがつかないじゃないの。
ということで、やっと今年、高崎は5月4日に発表会を行い、名古屋は9月に演奏会を行うというわけ。
護國神社
3日の晩に、本番会場で練習を行い、その晩は僕も高崎駅前のホテルに泊まった。次の日の朝6時に起きてお散歩に出る。
観音山に向かう
護国神社の大鳥居が見えてきた
護国神社本殿
山田かまち美術館
モツ勉発表会
発表会前半では、僕がプチ講演を行って、モツレクにまつわるお話しをした。
「1791年の夏、モーツァルトの処に見知らぬ男が現れ、レクィエムを依頼しました。ところが男は、依頼主は匿名にして欲しいと言い、かなりの報酬を約束し、その一部を前払いして去っていきました。モーツァルトは、これはもしかしたら自分のためのレクィエムではないかと思いはじめ、死への予感を抱きながら作曲を進めたと言われています。そして実際に、彼は体調を崩しはじめ、この曲を完成することができないまま、帰らぬ人となってしまいました」
そして、具体的にどのような過程を経て、このレクィエムが作曲され、どこまでが正真正銘モーツァルトの手によって作られたのか?Sanctus以降は補筆をした弟子のジュスマイヤーが作曲されたとも言われているが、たとえば、あんな素晴らしいBenedictusの4人のソリストのアンサンブルを作るほどに、ジュスマイヤーの作曲の腕は卓越していたのか?などについて語ってみた。
ちなみに、ジュスマイヤーは、補筆の中でも、数々の和声進行上の過ちを犯していて、音大作曲科の入試には絶対落ちるレベルであった。
また、レクィエムでは、モーツァルトが、それまでにない新境地を切り開いた、という声も聞くが、それは本当か?などを、簡単ではあるが語ってみた。今ここで説明し始めると長くなってしまうので、この内容をね、その内、Youtubeで発表してみるつもり。みなさん、楽しみにしていてね。
さて5月4日の発表会そのものは、伴奏こそオーケストラではなくピアノによる4手の連弾だったが、ほとんど手弁当でソロを務めてくれたソリスト達も、そして合唱団の人たちも、本当に真摯に作品に向かい合い、かなり感動的なモツレクが響き渡った。みんな、ありがとう!それにしても、これは本当に名曲だ!
ヴェル・レク最終稽古
5月6日金曜日は、宮崎「ヴェルディ・レクィエム」の最終稽古。みんなは、僕の強圧的ともいえる指導に、反発もせずに、それどころか真剣に向かい合ってくれて、声楽的にも、音楽的表現の面でも、かなり仕上がってきた。
さあ、これから宮崎に行って、うまいもん食べて・・・ではなくて・・・ええと・・・マエストロ大野和士さんの前で、この創り上げた僕たちのヴェルレクを披露する。今度は、彼の料理方法に合わせて軌道修正し、本番にまで持って行く。こうしたことは、一見、中間管理職のようにも見えるけれど、実は、こういうことこそ合唱指揮者の醍醐味よ!
東京バロック・スコラーズと新町歌劇団
5月7日土曜日は、午前中、東京バロック・スコラーズで「ヨハネ受難曲」の練習。その後またまた高崎方面に向かう。新町公民館で、8月7日のコンサートのための新町歌劇団の練習。僕が編曲した日本各地のご当地ソング。それでね、ご当地ソングではないのだけれど、どうしても加えたい曲があって、その日の練習にSDカードに入れて持って行った。
それは、みんな知っていると思うけれど、米津玄師作詞作曲「パプリカ」という曲。これは2020年応援ソングとしてNHK「みんなの歌」をはじめとして、何度も何度も流された曲だ。東京オリンピックを意識して書かれた応援歌。
それが、新型コロナ・ウィルス蔓延のため、緊急事態宣言が発令され、東京オリンピックも中止になってしまった。次の年にオリンピックは強行されたが、もうこの曲を歌う雰囲気ではなく、結局お蔵入りとなってしまった曲だ。
あの年、すなわち2020年の4月。新国立劇場では「ホフマン物語」公演が中止になり、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」など、全ての公演がなくなっていく中で、僕は合唱団員達が気の毒で仕方なくて、あることを決心して芸術監督の大野和士さんに頼みに行った。
「大野さん。緊急事態宣言が解けたら、合唱団員のために何かできることをしてやっていただけませんか?」
「何かって、たとえば?」
「コンサートとかです。このまま秋まで全ての公演が消えてしまうでしょう。オペラは動きがあるから無理でしょうが、コンサートならば、団員同士が距離を取って動かないで歌ったなら出来るのではないでしょうか?」
「三澤さんは、本当に団員のことを思ってくれているんだね。よし、企画してみよう!楽しいコンサートがいいね。じゃあ、三澤さん、曲目出してくれない?」
それで、その中に僕は「パプリカ」も入れて、合唱曲用に編曲していたのだ。
結果的には、緊急事態宣言が終わっても、コロナの蔓延状態は鎮まることもなく、それどころか夏場になってもコンサートそのものが世間からパッタリ途絶えてしまったので、企画は立ち消えになってしまったし、そもそも劇場内では、
「三澤が大野さんとなにやら勝手に何かもくろんでいる」
という目で見られて、敬遠されていたのだ。でも、僕は、僕の相談をきちんと受けとめてくれた大野さんの人間性を、今もこれからも最大限に評価している。
さて、そんなわけで新町歌劇団も、これから夏に向かってアクセルをふかしていく。
僕は明日から宮崎です。5月14日土曜日まで滞在し、夜の飛行機で帰ってきます。