稀有なる「ヴェルディ・レクィエム」体験

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

カトリック生活6月号
 宮崎から帰ってみたら、カトリック生活6月号が届いていた。ただいま絶賛発売中!
今月は「洗礼者聖ヨハネ」の特集で、その中に僕が寄稿しています。「音楽で表現された洗礼者ヨハネ」という題名なのだが、実は、この中で、みなさんが思いも寄らないような記事を書いているんだ。
 音楽で表現・・・と書いてあるから、オペラ好きの方なら真っ先にリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」が思い浮かぶだろう。もちろん、ヘロデ王の前で7枚のベールの踊りを踊って、その後褒美にと洗礼者ヨハネの首を所望した妖艶なサロメのことも書いてあるが、一番紙面を割いているのはそれではない。

 なんと「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の主人公ハンス・ザックスのことなのだ。実は、「マイスタージンガー」で歌合戦が開かれるのは6月24日のヨハネ祭(洗礼者ヨハネの祝日)の日であり、前奏曲に引き続いて歌われるニュルンベルクの聖カタリーネ教会での聖歌は、洗礼者ヨハネへの賛歌だ。そもそもハンス・ザックスのハンスHansはJohannesの略であり、つまりザックスは洗礼者ヨハネの名前を持っている。

 そして、ここからが大事なのだが、この楽劇のストーリーは、たわいのない喜劇の形をとりながら、洗礼者ヨハネとキリストとの関係を暗示しているのだ。表向きは、若い騎士ヴァルターとエヴァとのハッピーエンドだけれど、この楽劇の本当の主人公は、エヴァを本心では愛していながら、若いカップルを助け、自らは彼らに道を譲って身を引いていくザックスその人で、それが洗礼者ヨハネの生き方とダブって表現されているのである。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ヨハネによる福音書第3章30節

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写真 カトリック生活6月号の表紙 特集 洗礼者ヨハネ
カトリック生活6月号

稀有なる「ヴェルディ・レクィエム」体験
 5月14日土曜日、14時。宮崎市メディキット県民文化センター、アイザックスターンホール。演目はジュゼッペ・ヴェルディ作曲「レクィエム」。
演奏は以下の通り。
指揮: 大野和士 
ソプラノ: 中村恵理 
アルト: 池田香織 
テノール: 宮里直樹 
バス: 妻屋秀和 
管弦楽: 宮崎国際音楽祭管弦楽団 
合唱: 新国立劇場合唱団 
合唱指揮: 三澤洋史 

 大野和士氏のタクトが静かに降ろされると、チェロが、ミードーラー・ラーソファミーという単音のメロディーを弾き始める。それは孤独と哀しみに満ちてホールに響き渡った。それからヴァイオリンが弦楽器のイ短調の和音に支えられてメロディーを奏で、男声合唱がRequiemと呟くように歌う。
 美しい!この美しさには空間を浄める力がある。女声合唱も同じように呟くが、マエストロ大野の指示で、Requiem語尾のmをハミングのようにやや伸ばす。それからTutti(全員)でRequiem aeternamと呟く。この冒頭の数小節は、数え切れないほど聴いているのに、今初めて体験するようにゾクゾクする。
 ソプラノがやや大きくDona, donaと歌う。鼻歌ででも歌えそうなダイナミックではあるが、きちんと横隔膜が下がっていて、適度に腹圧がかかっている。いいぞ!腹圧に乗ってこそ気持ちが入るのだ。響きの中にふくよかさと優しさが感じられる。
「与えて下さい・・・与えて下さい・・・彼らに・・・安息を」
会場全体がピーンと緊張している。聴衆は固唾を呑んで、この稀有なる空間を共有しているようだ。

 ヴェルディの音楽は、プロパガンダでもなく、政治的意図もなく、こんなに自然で、こんなに優しく、今僕たちを取り囲んでいる世界の中にある悲しみを映し出している。誰もそうしようと理性でしているわけでもないのに、自然とそうなってしまうのが、音楽の正直なところであり、音楽そのものがスピリチュアルなものとつながっている証し。

 この演奏会にはタイトルがある。「喪失と悲哀を越えて」~大野和士が捧げるレクィエム、という。この演奏会を計画し、タイトルを決めたのは、ロシアのウクライナ侵攻の前だったに違いないが、今これを聴いている聴衆で、このタイトルとヴェルディ・レクィエムの組み合わせに運命的なものを感じない者はいないだろう。

写真 宮崎音楽祭のチラシ表
宮崎国際音楽祭


 Dies irae「怒りの日」に始まる続唱は、第二バチカン公会議以降、「いたずらに信徒の恐怖を煽る」という理由で、死者のミサからはずされた内容を持つが、こうして聴いてみると、終末の恐怖の大王による審判というよりもむしろ、この世における極限的な恐怖や怒りや、狂気、怒号などの音楽化のように感じられる。

 それから約1時間半が瞬く間に過ぎ、合唱団の、
Libera me.
「解き放ってください」
の呟きで、曲が終了したが、聴衆はしばらく拍手を始めることもできなかった。それほど、これは特別な体験であった。

スーパー・オーケストラ
 それにしても、この宮崎国際音楽祭管弦楽団というのは、あり得ないオーケストラだ。勿論、日常的には本当にあるはずもないオケで、たとえば第1ヴァイオリンを見ると、コンサート・マスターからして長年ウィーン・フィルのコンマスを務めたライナー・キュッヒル氏だ。その隣には読響コンマスの小森谷巧さんが座っているし、2列目は、都響のコンマスの矢部達也さんと、日フィルと九響コンマスを兼ねている扇谷泰明さん。3列目は、東フィル・コンマスの三浦章宏さんと、その横には・・・なんと、徳永二男さんがいるじゃないの!
 その他、元読響コンマスの藤原浜雄さんや、漆原朝子、啓子姉妹、フルートの高木綾子さんなど、もう休み時間なんか、行き交う人たち、みんなスターばっかじゃないの。それよりも、この期間、在京のオケは一体どうなってんだ?

 しかも名前を連ねただけではない。それが実際に音楽として余すことなく現れているのが凄い。Dies iraeの16分音符なんか、弓の飛ばし方が惚れ惚れするほどだし、フォルテの充実感は勿論、先ほど述べた冒頭のイ短調のように、ピアノの美しさが本当に夢のようなのだ。そしてそれが単に音響的にだけでなく、魂から表現されているからこそ、哀しみは深く、優しさには体温のぬくもりが感じられ、一瞬一瞬が稀有なる体験となるのだ。

新国立劇場合唱団よ、僕を越えていけ!
 そうなると、我が新国立劇場合唱団のメンバーも、オケに刺激され、それを感受しながら、それぞれが自らの“うた”を、体から紡ぎ出す。みんな生まれついての芸術家だ!それぞれが相乗効果で、芸術家魂をどんどん目覚めさせられる。
 自分が指導した合唱団ではあるが、今や僕が何をか言わんや。期待したレベルのはるか上を彼らは飛翔している。各々内から出た表現への意欲が、技術的にもより高いクォリティを自らに科し、それを実現させ、維持している。僕は彼らに最大限のリスペクトを捧げる。
 
 67歳になって、こんな体験をするとは思わなかった。この曲は、自分も指揮者として何度か演奏会で指揮しているので、スコアは完全に頭に入っているが、どの個所も、頭に描いていたサウンドが少しずつ塗り替えられる気がした。

 まあ、それにしても、このスーパー・オーケストラを操って、こんなヴェルレクを創り出せる大野和士氏の能力は凄い!こんな時、普通だったら同業者として少しくらい嫉妬したり、あら探ししたりするんだけれど、今回ばかりは、もうなんにも邪心はおきないで、素直に脱帽します。まいりました。恐れ入りました。顔洗って出直してきます。

ブラボー!マエストロ大野!

中村恵理さん、応援しています!
 ソプラノの中村恵理さんは、初日のピアノ合わせの前に僕に会うなり、
「この曲、初めてなんです。一生懸命取り組んだんですが、まだうまくできなくて・・・ごめんなさい、もう今から謝っておきます」
と言っている。
 練習を始めてみると、勿論レベルには達しているが、声作りのバランスが良くない。もっとはっきり言うと、この作品で求められる声よりもドラマチックな方向に重点を置いてしまっている。

 ヴェルレクのソプラノは、「ドン・カルロ」や「アイーダ」とは違うのだ。ドラマチックなキャラクターはむしろアルトの役目。
Dies Irae「怒りの日」の、
quidquid latet, apparebit,
Nil inultum remanebit.
「すべて隠れているものは明るみに出され、罰せられずに残る者はひとりもいない」
というような暗く厳しい役目を、ヴェルディは全てアルトに負わせているのである。
 
 その一方で、ソプラノは、むしろLacrimosa「涙の日」の、
Huic ergo parce Deus,
「その者をお許し下さい」
の高音におけるpの伸ばしとか、
後半Offertorio「奉献唱」の、
Sed signifer sanctus Michael
repraesentet eas in lucem sanctam.
「そうではなく、旗手である聖ミカエルが、聖なる光に導いて下さいますように」
のような、繊細で安定感のある高音の弱音が求められている。つまり“清らかで光り輝く存在”に軸足を置かなければならないのだ。
 勿論、終曲の、
Libera me, Domine, de morte æterna, in die illa tremenda.
「主よ、永遠の死から、私を解き放ってください。その恐ろしい日に」
のようなドラマチックな個所もないわけではないが、すぐその後に、アカペラ(無伴奏)の合唱をバックに高音最弱音で歌う恐ろしい個所が来るのだ。だから声作りは、常に細めでSotto voce寄りにポジションを保持していないと、大事なところでほころびが出てしまう。

 僕は彼女に言った。
「いいかい。物足りないと思われてもいいと思って、まずは、弱音で高音のポジションを第一に考えて声作りすること。それで余裕があったら少しドラマチックな方に寄ってもいいけど、いつでも戻れる範囲内にいること。
極端にいえば、最初に僕が中村さんの声を聴いた(約20年前の)バルバリーナの歌い方を思い出しながら歌うんだ」
彼女は笑ったが、頭の良い子なので、僕の言いたいことは理解してくれたようだ。
「池田香織さんが目の前でドラマチックに歌っても、決して張り合おうとしてはいけない。むしろそれは彼女の役割で、自分は違うんだと割り切ること」
「分かりました」

 それから日を追う毎に彼女は変わってきた。それにつれて、この作品のでのソプラノの役目である“清らかさ”が際立ってきた。そして本番の歌唱は、文句の付けようがなかった。カーテンコールが終わって舞台袖に戻って来た時、彼女は僕に向かって、
「これが精一杯でした!」
と言ったので、ひとこと、
「ベストの歌唱だったよ」
と答えた。
 群馬で、僕の作品「おにころ」の桃花を歌ってくれてからもう10年も経つが、彼女も第一級の芸術家に成長したなあ、と感慨ひとしおであった。

 帰りの東京行きの飛行機は遅くて、羽田空港到着がなんと21時45分だった。みんな、
「あーあ、どう考えても家に着くのが深夜だな」
と思いながら、飛行機から出て手荷物受け取りの場所へとダラダラ移動していたら、後ろから全速力で走ってくる人がいる。中村さんだった。
「先生、ありがとうございました。これから、このままドイツへ行きまーす!」
と言って、僕たちの一行を駆け抜けていった。
そばを歩いていた合唱団員一同、
「はあっ?ドイツ!これから?」
と目が点。
「頑張ってね!」
と言おうとしたが、もうすでに遠くで豆粒のようになって消え去って行った。

 まだ若いからね。どんどん活躍してね!ただ自分の声を大切にして欲しい。本当は、あまり重い役を歌わない方がいいんだけどね。新国立劇場で歌った「蝶々夫人」も「椿姫」も、本当は彼女の持ち声には重すぎる。
 歌ってもいいんだけど、その役なりの声を要求されるじゃない。これからだって、馬鹿な指揮者が、
「もっと出して下さい!」
と言ったり、馬鹿な聴衆が、
「物足りない」
と言ったりしたら、答えないといけないと思って無理をしてしまうかも知れない。それが心配。
 まあ、賢い彼女のことだから、うまく切り抜けていくと思うけれど、内にしっかりした音楽を持っているので、息の長い歌手としてずっと活躍していって欲しい。

応援していますよ!

ずっと悪天候の宮崎
 さて、宮崎には5月10日火曜日から4泊5日で滞在した。
10日火曜日は、着いてそのままピアノによるマエストロ稽古。
11日水曜日が、10時から15時でオケ合わせ初日。
12日木曜日は、オケ合わせ2日目だが、この日の午後にノンストップの通し稽古をした。
13日金曜日はオフ。
14日土曜日は、12時15分から部分的な稽古をして15時から本番。

 13日のオフ日には、みんなどこかに行きたいと思っていただろうが、滞在中ずっと悪天候で、しかもよりによってオフ日が最悪の土砂降り日。僕も、朝、あてもなく青島とかに電車で行こうと思って、宮崎駅まで行った。
 でも、東京の駅のように甘く考えていたことに気付いた。電車の本数が極端に少ないのだ。ヘタに当てずっぽうで行って、雨宿りする所もない駅にうっかり降りて、帰りの電車がいつ来るか分からなかったら嫌じゃない。
 そこで、遠出はあきらめて、西村楽器店でレンタル・スタジオを借りて、ピアノを練習したり、デパートの見晴らしが良いカフェでマグカップでコーヒーを頼んで、のんびり「ヨハネ受難曲」のレチタティーヴォを覚えたりしたら、一日が瞬く間に終わった。

宮崎神宮
 宮崎神宮は、本番の会場から歩いて5分もしないところにあるので、滞在中二度ほど行った。二度目は演奏会当日の練習後本番までの間。この日だけは、曇りではあったが雨は免れることが出来た。

写真 宮崎神宮の大鳥居から遠くに本殿を見る
宮崎神宮

 大鳥居をくぐって本殿の方に向かったら、ちょうどお参りを終わったマエストロ大野と出くわした。大野さんは照れくさそうに、
「本番前にね、邪気を浄めてもらおうと思ってね」
なんて言っている。
 僕もちょっと照れくさくなって、
「僕ねえ、キリスト教なのに神社大好きなんですよ」
と言った。
なんか神社で人と会うの恥ずかしいねえ。

 読響コンマスの小森谷巧さんにも遭った。
「もの凄い第1ヴァイオリンですね!」
と言うと、
「いやあ、合わねー!キュッヒルさんもあきらめているけどね」
なんて言ってる。
「そんなことないですよ。でもひとりひとりがもの凄い勢いで弾いてますよね。普通のオケには考えられないことです。」
 オケの弦楽器では、第2プルト(第2列目)以降は、ズレないように、第1プルトよりちょっとだけ小さく弾くという習慣があるが、みんなコンマスやソリストばかりのこのオケでは、そんなこと知ったことか、という感じで、キュッヒルさんの隣の小森谷さんからしてみると、
「後ろのおめえら、もう少し第1プルトを敬え!」
というところだろう。あはははは!楽しい!

 本殿では、ちょうど結婚式をしていて、それを見ただけでも清々しい気分になった。その時思った。神社って、結婚式はするけどお葬式ってあまりしないよね。だから邪気が少ないんだ!死霊がその辺をうろついたりしないし、逆に結婚式など祝福の気が漂っているからね。

写真 神宮本殿前で新婚者と結婚式参列者たち
宮崎神宮本殿での結婚式

 まあ、それよりも、ズバリ邪気を払うのが神社の役目ってことか。大野さんも、邪気が払われて浄められたから、あの素晴らしい本番があったのだろうし、もしかしたらこのタイミングで境内でふたりで遭ったことによって、念のつながりが強くなった、ってことだって考えられるよね。



Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA