「ヨハネ受難曲」演奏会無事終了

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

ふぬけ
 6月6日月曜日朝7時半。今、パソコンに向かっている自分は、本当にふぬけ状態で、頭はボーッとしているし、珍しく何をどう書いていいか分からない・・・・という姿勢のままで、10分経った。
 駄目だコリャ。またベッドに行ってひと眠りしてこよう。今日は10時から歯医者さんの予約が入っている。それまでは、まだまだ時間があるので、また起きて書こうっと・・・・。

 夢の中で、すぐ近くの電信柱のスピーカーから流れる声が聞こえてきた。
「ポンポンポンポン~。子ども達の見守りのため~地域のみなさんの見守りを~お願いしまーす~」
あれっ?この放送は・・・ということは午後2時半だ。いやいや、朝からずっと眠っていたわけではない。順番に書いていこう。

 それからもグズグズしていたが午後3時前にやっと起きた。外を見ると土砂降りの雨が降っている。最近多いな、こういうの。

 先週金曜日(6月3日)も、新宿の芸能花伝舎で「パルジファル」の最後の合唱稽古を終わったお昼過ぎ、こんな土砂降りの中を、二期会合唱団員達は勇敢にも帰っていたが、僕はi-Padで雨雲レーダーを見ながら、小山祥太郎君に、
「これは、これから止むどころか、むしろ10分後にピークがくるので、通り過ぎるまで待った方がいい。雷も鳴るぞ」
と言って、ふたりで雨が小降りになるのを待っていた。予想通り、間もなく雷鳴が西新宿一帯を轟かせ、
「おら、おら、おら、俺様のお通りだい!」
と大威張りで駆け抜けていった。
 その後、外へ出ると、もう雨はほとんど止んでいた。
「みんなも、もう少し待ったらよかったのにね。さあ、新宿まで一緒に行こう」
と言って、僕たちは歩き出した。
 小山祥太郎君は、一昨年、僕がYoutubeで「三澤洋史のスーパー指揮法」をアップし、同時にZoomレッスンを始めた時、一番最初に申し込んで来た生徒で、今回、僕の紹介で二期会「パルジファル」公演の副指揮者として従事している。

ええと・・・何のこと、書いていたんだっけ?

あ、土砂降りか。駄目だねえ。頭が働いていないわ。

 実は、朝のぼんやりと、午後のお昼寝の間には、歯医者に行ってきたのだ。それは6月1日だったと思う。かぶせていた上の歯が突然グラグラし始めた。でも取れそうで取れない。それで行きつけの歯医者さんに、すぐ見てもらえるようにお願いした。
「すみません!6月5日の日曜日に、大事な本番が入っていて、どうしてもその前に治療して欲しいのですが!」
と言って、いろいろ時間を調整しようとしたが、どうしてもお互いの時間が合わない。
 そしてとうとう、一番早いタイミングが、今日すなわち6月6日月曜日10時だったのだ。その間に僕は、とりあえずどこでもいいから応急処置だけしてもらおうと思って、新宿のある歯医者さんにネットで予約を取った。
「これは、かぶせものより、歯自体に異常がある可能性があるので、とりあえず強力な接着剤で周りの歯と共に固めておきます」
とその新宿の歯医者さんは言って、接着剤でとめてくれたのだが、残念なことに約2時間後、接着剤は剥がれ、またグラグラしてしまった。それでも、残りの接着剤がくっついているお陰で、グラグラ度は少なくなった。仕方ない。これで演奏会までなんとか持たせるか。
 問題は、その歯が、あらぬ時に突然取れてしまうことだ。前歯ではないので、普段なんでもない時に、取れるならいっそ取れても見かけ上は問題ないのだけれど、たとえばさあ、「ヨハネ受難曲」演奏会前のスピーチで、喋っている間に、突然、その歯がポロッと取れて、舞台上をコロコロっと転がっていったりなんかしたらどうしよう!などということだ。みなさん、笑っているね。いや、笑い事じゃないんだよ。あはははは(自分も笑ってらあ)。

 10時に、国分寺の西浦歯科に行ってきた。この先生は、僕よりは若いと思うが、結構年配の男性。とっても知識が豊富で、今どういう状態で、それに対してどんな治療をどのようにするかレントゲンの映像を見ながら具体的に全部教えてくれる。そういうの鬱陶しい人も中にはいるかも知れないが、僕にはとっても合っている。
 新たにレントゲンを撮ったら、
「差し歯の元の歯が割れていますね。これはもう抜くしかありません」
と言う。

 それで思いだした。
「宮崎だ!地鶏の炭火焼きだ!」
 宮崎国際音楽祭のために宮崎入りした5月10日火曜日は、19時くらいまで大野和士氏の音楽稽古があったが、ホテルに帰ってきてから僕は独りで街に繰り出し、地鶏を出してくれる居酒屋に入った。
 ここの鶏肉は今朝締めたばかりの地鶏ということで、楽しみに頼んだのだけれど、なにしろ硬くて、しかも量が多かったので、今年の2月くらいに西浦先生に治してもらったその歯を使って、ゴリゴリゴリゴリ噛んで噛んで噛みまくったのだ。その時に、もしかしたら何らかの亀裂が入った恐れがある。
「先生、きっとその地鶏です!」
先生はニコニコ笑いながら、
「それで、美味しかったですか?」
と聞く。
「ええ、まあ・・・でももう二度と食べません!」

写真 鉄の皿で調理されたての地鶏炭火焼き
問題の地鶏炭火焼き

 で、あっさり根こそぎ抜歯された。先生は抜歯の名人で、親知らずを抜いたときも、あっという間に処置し、全然痛まずに平気で夕食が食べられたくらいだ。

「大きな穴があいたので、プロテインの塊を入れて歯茎の肉を縫合しておきました。一週間後に抜糸です。抗生物質の薬を必ず飲むこと。それと、麻酔が切れたら痛くなりますから、遠慮しないで痛み止めを飲んでください。30分後には、もう食事してもいいですよ」

 家に帰って昼食を食べたら、麻酔が切れてちょっと痛くなったので、いつもは我慢するのだが、今日は無理しないで痛み止めを飲んだ。すると、なんだか体がだるくなったので、ベッドに行って横になった。ちょっと休んでからこの原稿を書くつもりだった。そして例のチャイムの音で目覚めたら、なんと午後2時半だったということ。

 ただいま午後4時前。だらだらと書いていたが、コーヒーを煎れて再びディスプレイの前に帰ってきた。ええと・・・「ヨハネ受難曲」のことを真っ先に書こうと思って、朝もパソコンに向かったはずだけれど、さっきから僕はずっと何書いてんだ?
 でもねえ、演奏会前の歯というのは、とっても大事なんだよ。だって、万全の状態で臨みたいじゃない。たかが歯というだろうけれど、グラグラの歯を抱えての本番って、どーよ!

すべて御心のままに
 そういえば、歯がグラグラになった日は、孫の杏樹が熱中症に掛かって、夕方熱を測ったら37度5分あった。僕は杏樹が寝る前に、例の「ルドルフとイッパイアッテナ」の5巻あるシリーズの最後の「ルドルフとブッチー」を読み聞かせてあげた。杏樹を寝かせて居間に降りて来たら、妻が、
「ねえねえ、コロナってことはないわよねえ」
という。
「まさか!」
それで、まだ仕事中の長女の志保に、念のために、練習後の帰宅の途中で抗原検査キットを2つ買ってきてもらうことをお願いした。

 次の朝、杏樹の熱はやや下がっていたが、平熱には戻らなかった。杏樹は、もう自分は元気だと言って学校に行きたがったが、休ませることにした。僕たちはドキドキしながら杏樹に抗原検査キットを渡した。線が一本現れた。でも・・・陽性のところの線は・・・現れなかった。
「ふうっ!もし、これで杏樹が陽性で、自分が感染して熱が出たりなんかしたら、『ヨハネ受難曲』演奏会はどうなるんだ?」
とも思ったが、不思議と僕の心は平安で、
「もしそうなら、それが神様の御心ってことさ。もし、神様がこの演奏会が無事行われることを望んでいるなら、自ずとそうなるだろう。いや、そうなるしかないだろう」
という想いが、ある確信を持って僕の心を支配した。その時、僕は、僕の運命を全面的に創造主に委ねた。

 その時に僕はもうひとつの決心をした。それは、今回の演奏会では、暗譜するのはやめてスコアを置こう、ということだ。もう、福音史家のドイツ語のテキストに至るまで9割7分くらいまで覚えていたのだけど、暗譜で指揮するということになると、これから演奏会までの日々を、ただ「暗譜で指揮すること」に費やすことになる。
 それは、
「おお、凄いな!譜面を持たないで指揮している!」
という驚嘆を呼び起こすかも知れない。また、僕が合唱団やオーケストラに出すアインザッツをカッコいいと思ってくれる人がいるかも知れない(自分自身、昔は、僕ってカッコいいでしょう、なんて自己陶酔してたからね)。

 でも、創造主に委ねた僕は、自分への評価や名声が最終目的ではないどころか、そんなことが何の意味も持たないことに気付いていた。それどころか、自分にはもっとやるべきことがあるという想いが沸き起こってきた。
 もっともっと僕は、自分の中で、この受難劇の本質、すなわち、人間の愚かさと、それを見つめる神の視線というものや、レシタティーヴォ、群衆合唱、コラール、アリアなどを組み合わせて物語を進めていくバッハのドラマティカーとしての本質に、肉薄していかなければならないのだ。
 それに、もう僕は何度もこの作品を暗譜で指揮している。今更、達成感に酔うというものでもない。むしろ、僕をこの「ヨハネ受難曲」演奏に向かわせてくれる存在に栄光を、という感じで、謙虚に演奏会に臨まないといけないと思った。

 そういいながらも、本番までの間、僕は何度も何度も、ヨハネ福音書の該当個所を読み、頭の中では日本語に変換することなくドイツ語のまま、その一字一句の語感や意味を味わっていた。その意味では、福音個所は100パーセント覚えていた。
 だからこそ、その一字一句をバッハがどう読み、どう味わい、具体的にひとつひとつの音符に落としていったのかが、手に取るように分かったのだ。それが、畑儀文さんの福音史家への細かい指示につながっていった。
 普段は、自分で福音史家を歌いながら指揮もする畑さんにしてみれば、自分でテンポも表情も構築できるので、目の前で僕にあんな風に指図されるのは鬱陶しいだろうに、そんなプライドも捨てて、彼は僕の描き出すドラマを肌で感じ、僕たちは一体となってバッハの描く受難ドラマに肉薄していった。僕は真の芸術家である畑さんに、心からのリスペクトを捧げる。ほら、こんな素晴らしい共同作業に、僕の暗譜のプライドなど何の役にも立たないだろう。

 ソリスト達も、物語の中で自分の立ち位置を良く理解してくれて、アリアになって進行が停滞するどころか、その瞬間の止まった時間の中で、その意味を凝縮したり解き明かしをしたりしてくれたし、合唱のコラールも福音書からスーッと入ってまた福音書にスーッと受け継いでくれた。
 全てが一体となって、この演奏会全体を創り上げてくれた。僕は思った。
「これが21世紀のバッハだ!」

 変な話。歯がグラグラしたり、杏樹が熱を出したりしたことが、今回の演奏会で、これまでと違った状態で本番を迎えられたことと関係していると思っている。僕が全てを超越的な存在に委ねる気持ちになったこと。「自分が自分が」という気持ちがなくなって、ひとりひとりをよりリスペクトする気持ちになったこと、とは言いながら、指揮者として無心な気持ちでみんなを牽引していくことができたこと。

 この演奏会に足を運んでくださった聴衆のみなさんも、この稀有な演奏会を一緒に創り上げてくださったのだと思う。僕は、聴衆のただならぬ緊張感を感じていた。コロナや、あるいはロシア・ウクライナ戦争と、この受難の悲劇との関連性も影響していると思う。
ただただ感謝です!
今日は、もうここまでにしましょう。
来週、もっと細かいことが書けるような気がします。

写真 声楽ソリスト、コンサートマスターと三澤
ヨハネ受難曲ソリスト達




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