「おにっころの冒険」は僕の冒険

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

感染下での二つの挑戦
 このオミクロンの爆発的感染状況の中で、7月31日のDream Concertと、8月7日の「おにっころの冒険」ができたこと自体、まるで奇蹟のように感じられる。このふたつは、この夏前半において、僕の最も大きな挑戦であった。
 片や合唱指揮者として、我が国を代表する二つのプロ合唱団を相手に、どのような音楽をどのレベルで構築するのかというチャレンジであり、もう一方は、何もないところから何をどこまで創り上げることができるのかという「ゼロからの挑戦」である。

 僕の67歳の人生を賭けたこの二つの挑戦を、コロナなどで邪魔されてたまるかと思っていたが、8月になってからも感染者はどんどん増え、誰しもが、
「こんな状況の中で、果たして無事にコンサートなんてできるのかな?」
という不安を抱かなかった者はいないだろう。
 実際に、Dream Concertでは、2名のテノール歌手がコロナ感染で参加出来なかったし、新町歌劇団も、ひと組の団員夫婦が参加を断念せざるを得なかった。その方達にとっては残念だったが、でも、それくらいで済んだのだからまだ幸運な方だ。コンサートそのものが中止に追い込まれてしまう可能性は、どこにも転がっていた。チケット払い戻しなどで大損害となってしまうし、ここまで練習し努力した全てが無駄になってしまう。どの団体も、そうした瀬戸際で活動しているに違いない。

写真 こどもたち全員でポーズ
「おにっころの冒険」練習風景1

集中的ワークショップ
 高崎のコンサートの練習も、そんな状況の中で進んでいた。「たった4回のワークショップで創り上げる子供ミュージカル」という無謀ともいえる企画は、僕が28年前に、子ども達を集めて同じように行ったワークショップの経験と、孫の杏樹が通っている立川のシュタイナー学校の教育方針に感化されて決断したものだ。
 子供は短期集中に限る。もし練習期間をもっと広げてしまうと、練習に欠席者が出たり、中だるみが出たりで良い結果は望めない。現に、初回のワークショップ以来本番に至るまで、16人の全ての子ども達は、ひとりの欠席者も遅刻者も出ないで、実に集中的に、まるで積み木を縦に積み上げるような感じで、公演に向かって歌も踊りも演技も作り上げていった。
 
 子供の記憶力は凄い。それを僕は、杏樹のシュタイナー学校で、とっても長い詩を子ども達に何の苦もなく朗読させていることなどで知っている。おにっころや桃花、庄屋や鬼の大将などの、あらかじめセリフが決まっている主役達以外は、初回にセリフの読み合わせをした時、すべてのセリフを全員で通しで読ませ、
「これらのセリフは、誰が当たってもいいように、まるごと次回のワークショップまでに覚えてくること。覚えてこなかった人には、何のセリフもあげないからね」
と言い渡した。
 そうしたら、次回のワークショップで全員がきっちり全部のセリフを覚えてきた。僕は、各子ども達にセリフを割り振って台本なしで言わせた後、今度はシャッフルして別の組み合わせで何度も言わせた。もう、誰がどこに当たっても問題はない。それからそれぞれの子供のキャラクターを見ながら、最終的に各自にセリフを割り振った。それから言い渡した。
「これから本番まで、誰かがセリフを言い忘れて、沈黙が1秒以上続いたら、もう誰がしゃべってもいいから。それでそっちの子の方が上手だったら、その子にそのセリフをゲットさせるかも知れない」
と言ったら、
「せっかくのセリフを誰かに取られたら大変!」
とばかりに、その後、ほとんどセリフが止まることはなかった。
 それどころか、みんなが他の子供のセリフを知っているということは、各自が、そのシーンのドラマ性を把握しているということにつながる。だからシーン全体のテンションをみんなが持続することができたというわけだ。

 僕の練習はかなり厳しかったと思うが、みんなよく付いて来てくれた。最初はグズグズと後れをとっていた子ども達も、ある時から豹変する。すると、それに影響されて他の子ども達も突然上手になる。僕はそれを28年前に経験している。そしてそれを「化ける」と言っている。
 今回、僕のアシスタントを務めてくれた初谷敬史(はつがい たかし)君は、子ども達のオーディションの時から同席し、音楽面だけでなく、いろいろなことに気が付く人で、本当に助けてもらった。
「見ていろ。子ども達、ある時から化けるからな!」
と僕は彼に言った。
そして、次々に豹変していく子供を見ながら、初谷君は、
「ホントですね。子供って面白いですね!」

写真 「おにっころの冒険」プログラム第一部
「おにっころの冒険」第1部

杏樹と仲良し
 「おにっころの冒険」の16人の子ども達のうち、なんと9人が、僕の孫の杏樹と同じ小学校3年生だった。おにっころの村井田悠太君、鬼の大将の桑原康太朗くん、鬼の見張り役の奥西有紀ちゃん、双子の畑羽胡(はた わこ)ちゃんと帆々(ほほ)ちゃんなどだ。杏樹は6日土曜日から高崎に来て、練習を見ている内に、特に3年生の子達と急速に仲良くなっていった。子供って、本当にボーダーレスだね。誰とでもすぐ仲良くなる。

写真 双子の双子のはた わこちゃんとほほちゃん
「おにっころの冒険」練習風景2

 演奏会が終わって、妻が運転する帰りの車の中で、杏樹は、ほとんどのセリフを覚えていたし、ほとんどのナンバーを踊り付きで歌っていた。前の日の練習とゲネプロと本番しか観てないのに。やっぱり子供ってそうなのだ。前から僕は思っていたが、子供って決して「未熟な大人」などではないのだ。むしろ大人の方が、ある意味、退化した子供なのだと思う。

こころざしを果たして
 さて第2部は、新町歌劇団の歌う合唱曲を、僕がひとつひとつ解説をしながら演奏していった。最初のご当地ソングの数々も楽しかったけれど、「ふるさとの四季」の解説をしながら、
「志(こころざし)を果たして、いつの日にか帰らん」
という歌詞の説明をしながら、自分の胸もジーンとしていた。
「ああ、自分が高崎高校の生徒だった時代、この地を庭のように感じていたな」
と思っていたのだ。その高崎で、昨年の「おにころ」公演もそうだったけれど、演奏会ができるということには特別な意味があるのだ。

「フニクリ・フニクラと鬼のパンツ」
 演奏会の後半は、テノールの田中誠君が、声楽家であれば誰もが学生時代に歌わせられる歌い慣れたイタリアの歌曲やカンツォーネやナポリ民謡を、実に味わい深く聴かせてくれた。やはり優れた歌手だ。歳を重ねる毎に表現力が増し、いい知れぬ感銘を聴衆の心に残す。
 プログラム最後では、田中さんの歌に新町歌劇団の合唱を交えた「フニクリ・フニクラ」が演奏されたが、途中で突然、子供の鬼の軍団が合唱団を蹴散らすように現れ、「フニクリ・フニクラ」と同じメロディーで、「おにーのパンツはいいパンツー!」と歌う。
 「フニクリ・フニクラ」を選曲したのは田中さんなのだが、僕はある時突然気が付いて、
「あ、そうか!ここで『鬼のパンツ』を子供たちに歌わせれば、前半の『おにっころの冒険』とつながって、演奏会全体の統一感が計れるぞ!」
と決心し、編曲したのだ。

写真 「おにっころの冒険」プログラム第二部
「おにっころの冒険」第2部

「パプリカ」を選んだいわれ
 さらに、アンコールとして、「パプリカ」を選曲した。これにはいわれがある。2020年春、新型コロナ・ウィルス感染拡大が始まり、間もなく最初の緊急事態宣言が発令された。新国立劇場では「ホフマン物語」をはじめとして、夏までの全ての演目が公演中止となってしまった。
 その時、僕は、新国立劇場合唱団員の生活が心配になって、芸術監督の大野和士さんのところに出向き、相談した。
「この先、いつ公演が再開できるか分かりませんが、少なくとも9月頃までは、合唱団員は、スケジュールが真っ白になり、公演も10月末まではなくて、新国立劇場からの収入は長い間ゼロになってしまいます。そこで、緊急事態宣言が解除されたら、様子を見ながら、合唱団のためのコンサートを企画していただけませんか?彼らが可哀想でならないのです」
「なるほど・・・三澤さんの合唱団員を思う気持ちは、よーく分かった。では企画してみよう。三澤さん、任せるから、プログラムを考えてくれない?楽しい曲がいいな」
ということで僕はプログラムを考えたが、その中に「パプリカ」もあったのだ。

 東京オリンピックの中止は、すでに決まっていたが、それまでの間に「パプリカ」という曲は、オリンピックの応援歌として、テレビなどに、これでもかという感じで流れていたし、子ども達はその頃みんなといっていいほど、ダンスを踊れていた。
 それが、いきなり中断されてしまい、まるで最初からそんな曲なんてなかったかのように、無理矢理忘れ去られてしまったことに、僕は、いきなり収入の道を断たれてしまった合唱団員同様、一種の同情を曲そのものに対しても持っていたのである。

 次の年、すなわち2021年、東京オリンピックはコロナへの批判を背負いながらも「シレッと」行われたが、「パプリカ」が巷に戻ってくることはなかった。

 その“忘れ去られた曲”「パプリカ」を、僕は是非アンコールとしてやりたかったのだ。そして「おにっころの冒険」で出演していた子ども達には踊らせてみたかったのだ。オーディションで子ども達を選んだ後、ワークショップの第1日目で、「パプリカ」のダンスを練習した。若い新町歌劇団の団員で保育士を含む3人が、振り付けをしようと待機していたが、いざ振り付けを始めてみたら、驚いたことに、子ども達みんな、すでにほとんど踊れていた!
 つまり彼らはまさに、大人の都合で、東京オリンピックへのキャンペーンに踊らされ、そして中止によって忘れ去られてしまった“犠牲者”の世代だった!その瞬間、僕は、
「この曲をアンコールとして選んだことは正解だった!」
と確信したのである。
 アンコールでは、大人達が歌い、子ども達は(大人用のメロディーの高さで編曲したため)踊りに専念した。彼らが嬉々として踊るのを見ながら、僕は、なんだか、この曲への自分の務めを果たした気持ちになった。

成功のデジャブ
 話は戻るが、演奏会の日の早朝、僕はホテルを出て烏川(からすがわ)を渡り、母校を右に見ながら護國神社にお参りに行った。お祈りをしていたら、なんともいえないしあわせな気分になり、時を忘れてしばし瞑想に浸った。
 驚いたことに、そのしあわせ感覚は、演奏会が終わった瞬間の、僕の胸の中に湧き上がった感情と同一であった。つまり時を超えて、早朝に僕の心はもう“デジャブ”としてその感覚を得ていたのである。

こういうことが最近は頻繁に起こる。



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