協奏曲の楽しみとモツレク

三澤洋史 

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協奏曲の楽しみとモツレク
 「トリスタンとイゾルデ」公演が無事に終わったので、しばらく名古屋に行かないかというと、その一週間後の9月4日日曜日に僕は再び名古屋駅に降り立ち、東海道線で刈谷に向かった。モーツァルト200合唱団の演奏会が9月11日日曜日にあり、そのオケ合わせのためだ。オケはセントラル愛知交響楽団。

 モーツァルト200合唱団の定期演奏会は、現在、刈谷国際コンクールと提携しており、演奏会の第1部では、このコンクールで優勝ないしは入賞した人と協奏曲をやる。僕はこれまで、2018年に牧野葵さんとブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲を共演し、2019年には、大竹かな子さんとラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第3番を共演している。
 2020年と2021年には、コロナ禍のため演奏会ができなかったので、そのソリストは2年間お預けを食っていた。それがようやく実現する。今回は二人ソリストがいて、チェロの梶原葉子さんがチャイコフスキー作曲ロココの主題による変奏曲、中道舞さんがグリーク作曲ピアノ協奏曲を演奏する。

 この二人のソリストとは、事前に合わせをしておいたので、僕とは、音楽的なところでのズレや驚きはないが、やはり彼女たちにとってオーケストラのメンバーの前でソロを弾くというのは、大変な緊張を伴うのだろう。僕は、こうした若い音楽家達と共演するにあたって、最大限の助力を惜しまないつもりだし、この機会を通して、彼女たちが大きく羽ばたいていくことを期待したい。

 ロココの主題による変奏曲は、昔、ベルリン音楽大学指揮科在籍中に、チェロ科の生徒の卒業試験に、指揮科の級友がベルリン交響楽団を指揮した時があり、僕も勉強したことがある。大好きな曲で、今回これを指揮できて嬉しい。梶原さんは確実なテクニックでこれをさばいていく。カンタービレの感覚もあって美しい。
 グリークのピアノ協奏曲は、これまで僕は、ベートーヴェンやブラームス、あるいはシューマンの協奏曲にばかり目が行っていて、そんなに特別に意識した曲ではなかったが、一般ウケする主題のメロディーに隠れて、随所に独創的な和声や曲想があるのに気が付き、この機会にとても好きになった。中道さんは、テクニックも確実だけれど、とても音楽的であり、彼女との2度にわたるセッションは、それ自体が充実していてとても楽しかった。

 さて、その二人との共演後は、メイン・プログラムのモーツァルト作曲「レクィエム」だ。オケ練習をやっていたら、飯田みち代さん、三輪陽子さん、神田豊壽(とよひさ)さんという、なつかしい「トリスタン」メンバーが入ってきた。それとバスの鈴木健司さんだ。
 今日は、オケ練習がメインなので、独唱者達は、オーケストラとは、ほぼ通しで合わせた後、オケを帰してから、ピアノで独唱部分をゆっくり稽古した。
合わせの練習をやった後、飯田さんが言う、
「三澤さん、トリスタンの直後だからでしょうか、モツレクだけで何度も共演しているけれど、今回はちょっとロマンチックな感じがするわ」
「いっけねえ!マジそう思う?」

 ということで、またまた9日金曜日から名古屋に滞在して、9月11日日曜日に刈谷総合文化センター大ホールで演奏会です。バラエティに富んだ楽しい演奏会ですので、皆さん是非出掛けて下さい!  

「トリスタンとイゾルデ」のバランスについて
 愛知祝祭管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」公演の実現に命を賭けていたので、先週の「今日この頃」を書いていた頃は、このコロナ禍で公演が実現できたこと自体の喜びに酔っていた。しかし、その後の一週間では、いろいろ細かいことを思い出したり、反省もしたり、それぞれ個別の出来事の意味を探ったりしている。

 今回、是非コメントしておきたいことがある。それは「トリスタンとイゾルデ」演奏における、歌とオケとのバランス感覚についてである。批評家の東条碵夫さんをはじめとする何人かの方達がブログなどで書いておられる通り、オケの音が大きくて歌がかき消されたところは確かに数カ所あった。
 恐らく、僕が批評家だったなら、東条さんなどと同じ事を書いただろうな。通常だったら、これに言及しなかったなら、
「あんた批評家のくせに何を聴いていたのだ?」
というレベルだったもの。
 
 一方、僕は、新国立劇場を中心として、長年オペラの世界に生きてきた人間だ。歌手とオーケストラとの響きのあり方には熟知しているつもりだ。高校生の鑑賞教室の「蝶々夫人」だけで東京フィルハーモニー交響楽団を25回も指揮している。
 オーケストラピットと舞台上だけでなく、演奏会形式でオケが歌手達と同じ空間で演奏しなければならない状態においても、それはそれで、いろいろ配慮する引き出しは持っている。僕の耳は、自分が今立っている指揮台の上にはなく、客席にある。つまり、
「今自分にこう聞こえているということは、客席ではこう鳴っているに違いない。1階はこう、2階はこう・・・」
という想像力もかなり働いていると自負している。

 愛知祝祭管弦楽団のオケ練習に取り組み始める時、僕は毎回、ひとりひとりが楽譜を正確に読んで、ワーグナーの書いたとおりに弾けるようになることを目指す。ライトモチーフの説明などはするが、その時に変に精神性を持ち込んだりしない。ましてや、指揮の仕方に「曰く言い難し」というワケの分からない要素を持ち込んだりもしない。
 とにかく明晰さを失わずに譜面を読み込むことに徹する。練習に約1年かける当団の練習では、歌手が入るのは半年後から。しかしオケだけの練習の時点で、「トリスタンとイゾルデ」には、他の楽劇にない“心配な要素”があった。

 それを説明する前に、ちょっとだけ横道に逸れる。ワーグナーの創作のあらゆる頂点に立つのは「神々の黄昏」だ。特にその管弦楽法に関しては円熟の極みを見せている。なによりも、歌声と管弦楽との色彩の絡み方、そしてバランスは絶妙だ。ここでは、あのバイロイト祝祭劇場の、舞台の下に潜り込んだオケピットがなくとも、譜面通り演奏すれば、はっきりと歌が聞こえるのだ。
 どんなにオケが厚くとも、きちんと楽器ごとに整理して、余分な贅肉が付きすぎないよう注意しながら演奏すれば全てがすっきりと聞こえる。少なくとも、ワーグナー・チューバを含む、それまでの音楽史において最も巨大な管弦楽法で書かれた「神々の黄昏」では以外と透明性を維持できる。
 それを僕は2019年の演奏で実証したつもりだが、僕が偉かったのではなく、それこそが巨匠の成せる業だ。そしてそれは「パルジファル」では、さらに磨きが掛かっている。

 ところが「トリスタンとイゾルデ」では全く違うのだ。たとえば第2幕第1景から第2景に入り込むところ。待ちきれずに焦燥感を募らせているイゾルデのところにトリスタンが飛び込んでくる。
 管弦楽は、第2景の8小節前のfから4小節前にpiù fとなり、さらに第2景1小節目で、またしてもpiù fの表示がある。どんだけpiù(もっと)なんだ?そしてトリスタンの歌う「イゾルデ!」のAs音と共にオケはTuttiでffとなる(ただしトロンボーン、チューバ、ティンパニーはfひとつ)。
それからイゾルデが「トリスタン!」と歌う高音のラでは弦楽器のみfひとつに変わるが、ふたりで「いとしい人!」と声を合わせるところで、ふたたびpiù fからff。そこからはフル・オーケストラでの全員がしばらくff。
 「トリスタンとイゾルデ」では、こういう個所が何カ所もある。つまりワーグナーは、こういうことをするとオケの響きが歌手達の声をかき消すのを百も承知で、オケの音量を落とすどころか、時には歌手をさておいて、
「いっちゃえ~!」
と書きなぐっているのである。「書き殴って」と書いてもいいな。

 こういう無茶振りが多いのだ。第3幕で、傷を負い、もう二度とイゾルデに逢うことは許されないのかと失意の内にいるトリスタンに、クルヴェナールが、自分のはからいで、イゾルデをここカレオールに呼んだことを告げると、トリスタンはイゾルデに会える喜びに我を忘れる。ワーグナーは、最初の内こそ管弦楽のダイナミックに周到に配慮しているが、

愛の渇望に焚き付けられて
イゾルデが私に向かって舵を切るあたりを
探り、うかがうのだ!

という個所の直後では、管弦楽はなんと2分の2拍子の中に3拍子を滑り込ませて、Tuttiのffの大音量で演奏する。この直前の歌唱部分は、まだfひとつに留まっているが、この3拍子のffの瞬間が、あまりに“狂気のるつぼ”という感じなので、そこに至るまでの過程も「冷静にバランス良く演奏する」なんて考えられないのだ。

 さらに、実際にイゾルデを乗せた船が見えて、岸に近づいてくる時の、変拍子の個所、すなわち4分の3拍子と4分の4拍子のコンビネーションや、4分の5拍子が活躍するあたりの管弦楽法なんか、作曲家がイッちゃってるんだから、あんた、聞こえるわけないじゃないですか?
 それでもねえ、いちおう本番までは悩んでいたんだよ。歌手達にもね、
「オケはだんだん整理されてくるから、本番ではみんなの声はなるべく聞こえるようにしてあげるからね」
と中途半端に言っていたが、実は自分の中では正直言って自信がなかった。いや、話は簡単なことなんだよ。両手を使って押さえる動作をすれば、オケの音量は自然に落ちる。それだけのことなんだよ。

 さて、いざ本番。演奏を始めると、ワーグナーの情熱が僕の全身に乗り移ってきた。僕は、何かが見えたり声が聞こえたりする霊能者ではないが、特にバッハやワーグナーを本番で指揮している時には、何かが自分の全身に降りて来て、自分が一種のシャーマンになっているのを感じる。
 僕には分かるんだ。今演奏している箇所を書いた時の作曲家の想いが手に取るように。「トリスタンとイゾルデ」では、そもそもこの作品を創作した動機そのものが、やむにやまれぬ熱狂と陶酔に支えられている。

 するとね、ここで「管弦楽を抑える」という選択肢が、僕の中から消えた!むしろ、
「オケを中途半端に抑えてはいけない。情熱を解き放つのだ!」
と言われているようだった。
「ええ?オケを抑えなかったら・・・だって困るでしょう」
と、自分の中で二人の自分が対話している。
「バイロイトはいいよな。抑えなくてもいいんだぜ。みんながアクセルを踏み込んでグーッと音を出せる。そしてその音圧を共有できる」

「あの音圧!」

 1999年夏。キース・ウォーナー演出の「ローエングリン」では、祝祭合唱団は、演出の意図があって、結婚行進曲をオケピット内で歌った。僕は、奥過ぎてアントニオ・パッパーノの指揮が見えない合唱団員の為に、ピットの一番後ろに立ってペンライトで指揮を中継していた。
 本番演奏中のオケピット内での祝祭管弦楽団の爆音は、まさに衝撃的であった。結婚行進曲に入る前の第3幕前奏曲で炸裂するトランペットやトロンボーン奏者達の嬉々としたフォルティッシモが忘れない。木管楽器及び弦楽器の音圧も・・・。
 その音圧が頭に甦ってきた。つまり、ワーグナーでは、こんな時オケというのは、抑えるというベクトルを志向してはいけないんだ。オケのパッションを抑えるどころか全開にするという必要性から、あの舞台下に深く潜り込んだバイロイト特有のオケピット構造が生まれたのだ。その記憶が甦ってきた。

 んなこと言ったって、ここは残念ながらバイロイトではない。常識的に考えたら、コンサート・ホールでの演奏は、Tuttiでffと書いてあったって、オケを抑えるべきだが、僕の胸の中で至上命令が出たからには、僕にはオケのエネルギーを中途半端に殺すということはできないんだ。

 さて一方、勝手ながら、僕には歌手達に対する信頼感があった。今回起用した主役群の中には、誰も「声を押してオケと張り合おう」という歌手はいない。そのことで喉を壊しそうな人もいない。また、練習中にオケが大きいと怒ってきた人もいない。
 特に主役のカップルの飯田みち代さんと小原啓楼君の発声法は秀逸で、最強音を出しても力んでしまうことは一切ないし、この二人はそもそも声楽的フォームが完璧なので、ワーグナーを歌い切ることで声を壊すようなことはあり得ない。
 だから、仮に管弦楽が爆音となることで自分の声が隠れると思ったところで、
「ああ潜っているなあ」
と思っても、彼らは自分なりのffを自分なりの表情をつけて出すことに徹してくれるだろうと思ったし、実際にその通りに歌ってくれた。聞こえる個所はすべて適切な表現で素晴らしく歌ったし、聞こえないところでも響きはきちんと乗っていてオケの響きに溶け込んでいた。
 まあ、聴衆の中で、「どんな時でもオケを突き抜けて歌って欲しい」と思う方には物足りないかもしれないが、そもそも聞こえないところは、ワーグナーも分かっていて、どうせ「トリスタン!」とか「いとしい!」とか言っているだけだし、ワーグナーはそもそも、彼として大切なテキストを言っている時に、自分からオケのffで覆ったりするほど愚かではない。

 さて、今回のアンバランスなバランス感覚において、公演そのものに確かな説得力と満足感を与えてくれた一番の功労者は、なんといっても愛知祝祭管弦楽団そのものである。ここでもし、ただうるさいだけの荒っぽい音を出していただけだったら、僕のアプローチは、ただの失敗に終わっただけだ。
 しかし、手前味噌及び自画自賛で申し訳ないが、彼らの演奏はまさに神がかっていた。前奏曲の冒頭のチェロからして、ビビッときたぜ!なんと充実感のある良い音を出してくれるのだろう。なんて、ワーグナーのスコアからワーグナーが望んだようなサウンドを出してくれるのだろう。パワフルで、それでいてしなやかで、繊細で、大胆で、愛と情熱に溢れ、音楽を深く深く理解し、曲に没入し、それが各奏者の各フレーズのひとつひとつに反映されている。
 コンサートマスターの高橋広の存在は、このオケには欠かせない。例えば第1幕第5場冒頭の「宿命の動機」!ちょっとエグモント序曲冒頭を感じさせる弦楽器のモチーフの重量感なんか、ヒロシ君なしでは成し得ないのだ。世の中に上手はオケは多いが、このオケでしか成し得ないような、こういう思い入れたっぷりなサウンドって、ちょっとハチャメチャだけれど、常識に囚われる人には絶対に出せない。
 名古屋一の非常識人(失礼)高橋広君に乾杯!とか言っちゃってるけど、彼ってかなり大きな会社の社長さんなんだよね。

 でもヒロシ君だけでも成し得ない。弦楽器群全体の響きの充実感には目を見張るものがあった。暴走するピロシ君を支えつつサウンドの礎を作るヴィオラとチェロのセクションが光っていた。勿論底辺から支えるコントラバス達のズンとしたサウンドも・・・。
 管楽器メンバー間の連絡の密さと阿吽の呼吸は、もはや伝説的と言ってもいい。オーボエが奏でたメロディーをクラリネットが受け継ぐ・・・そしてフルートへと・・・同じ音楽的キャラクターを持ちながら、楽器の違いによる音色と雰囲気のちょっとした変化!
 そうした管楽器奏者の中でも、マルケ王の伊藤貴之さんの素晴らしい声と表現をしっかり支えてくれたバス・クラリネットのWさんと、第3幕冒頭の荒涼とした雰囲気を長いソロで見事に描き切ったイングリッシュホルンのKさんには、最大限の賛辞を捧げよう。 そして、なんといってもイゾルデの船が見えたことを知らせるHさんのホルツ・トランペット(実際にはミュートを付けたトランペット)は、この音色に決まるまでに、何度ミュートを取り替えてやり直しをしたことか。こうしたこだわりは情熱がないと生まれないし、何度も試す時間があることも、アマチュアならでの大きな利点である。

 さて、もういちどバランスの話に戻ろう。僕には二つしか選択肢がなかった。どういう風に書いたらどういう風に鳴るかに熟知していながら、あえてイッちゃて、あんな風に書いてしまったワーグナーに逆らって、理性を働かし、オペラ指揮者としての常識に従ってバランス良く振るか・・・これで文句を言う人はいない、むしろ称賛されるだろう・・・あるいは、リスクを犯しても、管弦楽から熱気と音圧を導きだし、歌と相まっての稀有なる「トリスタンとイゾルデ」を、この名古屋の地に響かせるか?

 それにしても、愛知祝祭管弦楽団はよく鳴った。
「ああ、歌が隠れる!」
と思う処に限って!

 でも、どうでしたかねえ?イタリアオペラのように歌だけをずっと追って聴こうとしていたお客様にとっては、確かに許しがたいバランスだっただろうけれど、歌が潜ったならば、歌だけにこだわらないで、歌も含むトータルな音響を楽しんだ人も少なくなかったのでは?
 まさに、演奏中の僕がそうだった。オケのパワーが歌をオーバーしたら、オケを楽しめば良いし、歌のパワーが出てきたら、その歌詞や歌のニュアンスを楽しめばいい。そう思った。fの後にオケがpになると、突然歌が、まるでトンネルから突然現れた新幹線のように、鮮やかに光を放つ。もしかしたら、これが「トリスタンとイゾルデ」の本当の楽しみ方なのではないか、とすら思った。
 まあ、何度も言うけれど、バイロイトなら、その楽しみ方が聴衆にも百パーセント伝わるのだろう。でも、しつこいですが、バイロイトであろうがなかろうが、僕の中に「オケを抑える」という選択肢だけはなかったのだ。

 最後に言います。終幕の《イゾルデの死》だけを、僕は特別なバランスで振ったのではない。そうではなくて、ワーグナーの指示通りに指揮しました。そこでは、ワーグナーの意識は、もう熱狂や情熱を超えて、覚醒と解脱の方に行っているのだ。
 その管弦楽は、たとえば冒頭では弦楽器だけで10声部に分かれ、実に繊細で神聖さに満ちている。それを究極の表現者である飯田みち代さんの高次の意識は捉え、まるまる自然体で何のてらいもなく、彼女の口からまるで巫女のようにほとばしり出ていたのだ。飯田さんはそういう歌手なのである。

 この終幕に向かって全てが動いていたのだ。その意味では、(自分の演奏を美化するつもりはないが)今回の歌手達とオーケストラの一人一人のメンバー、そして合唱もバンダも、全員が、この覚醒と解脱に向かって、それぞれの持ち場でそれぞれの役目を果たしながら貢献していたといえる。その向かうところに、高次の世界の扉が開いたのだ。

「トリスタンとイゾルデ」とは、そのような作品なのだ。そして、それを受け継ぐのは「パルジファル」をおいて他にないのである。


「トリスタンとイゾルデ」公演を終えて




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