モーツァルト200演奏会無事終了

三澤洋史 

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いざよいの月
 9月11日日曜日19時20分。新幹線の中。中秋の名月の翌日。まだきれいに輝かしい円を保っている「いざよい」の月が、新幹線と同じ速さで逃げていくのを、逆方向に通り過ぎる雲がすれ違う光景に目を見張る。月はむしろ弾丸のように雲を蹴散らしていくのだ。
 荷物が多いし、普通車が混んでいるようなので、今日はグリーン車にした。EXでスマホから事前に混雑状況が分かり、自分で座席を選べるので便利だ。演奏会の後なんだから、パソコンなんか開かないでぼんやり帰ればいいものを、やっぱ貧乏性なんだねえ・・・って、ゆーか、今のこの気持ちを文章にしておきたいんだ。(現に、この文章を推敲している翌日の自分は、もう心境が変化している)
 ぼーっとしているんだよ。でも満ち足りている。何かをやり切った、という安堵感はある。でもね、昔と違う。自分がやり切ったのではない。自分が頑張ったので偉かったのではない。そうではなくて、「また助けていただいた」という気持ち。「有り難い」という気持ち。それが、今の僕の心を支配している。

ありがとうの魔法
 今の僕が昔と違うことはただ1点。しかし、この1点がめちゃめちゃ大事。つまり、今の僕の心の真ん中にいつもあるもの。それは“感謝”に他ならない。

 今朝も、刈谷駅前にある名鉄刈谷インから「フローラルガーデンよさみ」まで散歩に行き、帰りに高須天神社に寄ってお参りをした。その時、
「ありがとございます」
を100回唱えた。別に100回と決めているわけではない。通常は30回くらい。今日は、なんとなく止まらなくなっただけ。
「今日もお散歩とお祈りで一日を始めることができることを感謝します。この健康を心から感謝します」

 午前10時前。チェックアウトのために部屋を出る時、お部屋の隅々に向かって手を合わせて唱える。
「ありがとうございました。お陰様で快適に過ごせました」
演奏会の前、楽屋を出る時、少し瞑想をしてから、唱える。
「ありがとうございます。演奏会までこぎ着けました。これから行ってきます」
演奏会が終わって、楽屋を出る時。
「ありがとうございました。お陰様で良いコンサートができました」
万事、こんな感じ。

 皆さんもね、何かにつけて「ありがとうございます」と言えば良いことが起きるよ。別に心を込めなくてもいい。ただ言葉だけでもいい。でもね、言ってると、なんか「利いてるな」という気がするのだ。「ありがとう」と言っているだけで、次のもっとありがたいことを呼び込んでいるような気がするのだ。

 新幹線は、トンネルを抜けたりしながら、ズンズン進んで行く。さて、僕は一度ノート・パソコンをたたんで、甘いまどろみの中に自分を置こう。感謝をすればするほど、心の中にしあわせの気持ちが広がってくる。
 感謝と幸福感とは、実は同じものなんだね。幸福感を感じている時、人は自然に感謝と同じ“微笑みの気持ち”になっている。その感謝を自分から積極的に行えば、今度は幸福感があわてて付いてくる。あはははは!そうやってハッピーに生きようぜ!

またまた名古屋での日々
 9月9日金曜日から名古屋に来ている。金曜日は、地下鉄東山線の上社(かみやしろ)駅と直結している名東小劇場で、14時30分から、セントラル愛知交響楽団と共に、モーツァルト作曲「レクィエム」のオーケストラ練習。
 夜は合唱とソリストが入っての練習。オーケストラとソリストが舞台に上がり、合唱はホールの客席から歌う。ズレるんだろうなあと思いながら指揮を始めたら、驚くことにピタッと付いてくる。最初は「なんで?」と思ったが、よく考えたら、最近はソーシャル・ディスタンスを考えて狭い練習会場では練習できないため、ホールを使っている。指揮者とピアニストが舞台上に上がって、合唱団は客席から歌っている。だから慣れているんだ。

 翌9月10日土曜日は、お昼からチャイコフスキー作曲「ロココの主題による変奏曲」とグリーク作曲ピアノ協奏曲の練習。結構時間をかけて細部の摺り合わせをした。コンクール入賞者のまだ若いソリスト達だと、
「大丈夫だね。じゃあ先に行くよ」
と僕らのような先輩が進めてしまうと、それ以上何も言えない。
 それでは意味がないんだ。だから、できるだけ掘り下げて、彼女たちが本当はどうやりたいのかを探り、引き出してあげて、のびのびと表現させてあげることが僕たちの使命だと思うのだ。
 フレーズとフレーズとの、ほんのちょっとの間や、フレーズの途中のデリケートなテンポの揺れにも寄り添ってあげたい。時には、本人でも気付いていない“間延び”や“窮屈さ”には、傷つかないように導いてあげたい。その点では、今回はセントラル愛知のコンサートマスターの寺田史人さんがとても協力的で、ふたりのソリストにも適切な助言をしてくれたので、大変ありがたかった。

 その後の時間は、元来はモツレクのオケ合わせだったが、僕は、もう一度モーツァルト200合唱団と落ち着いてがっつりとことん稽古をしたかったので、ソリストも呼ばず、オケは帰して、岡戸弘美さんのピアノで厳しくやりましたよ。発声にこだわり、音色を統一し、リズムやフレージングを揃え、かなり細かい点までこだわった。でもね、これが明日の勝利につながるのです!

 その合唱練習が6時過ぎに終わってホテルに戻って来た。前の日は同じ名鉄インでも、名古屋駅新幹線口だったので、午前中に名古屋から刈谷に来て、フロントにスーツケースを預けていた。
 それを受け取って紐解き、まずはベッドに横になった。
「ふうっ!」
いやあ、指揮者ってエネルギー使うねえ。まあ、自分が、
「いいよ、そのままで、別に・・・」
なんて言ったら、それまでだもんね。

 ちょっと眠ろうかなと思いながらネットで検索してみたら、日本ガイシ・アリーナの温水プールの利用時間がなんと20:30までじゃないの。
「ええ?早く行かなければ!」
と飛び起きて、気が付いたら東海道線普通列車に飛び乗っていた。

 50mプールのある日本ガイシ・アリーナのある笠寺駅は各駅停車しか停まらない。でもちょうど7時くらいには着いて、7時10分くらいから泳ぎ始めた。
「あんなに指揮してまだ水泳ですか?」
と思うでしょう。ところが、こんな時こそ水泳なのです。
 右の上腕二頭筋が少し硬くなっている。それを水泳でほぐせるのだ。その晩は、ゆるゆるでリラックスしながら泳ごうと思っていたのだが、50mプールってあんまりないでしょう。ノンストップで泳げるのが嬉しくて、クロールと平泳ぎ合わせて気が付いたら1300m泳いでいた。
「ヤベエ。明日大丈夫かな?」
とも思ったけど、まあ「トリスタンとイゾルデ」全曲振るわけでもなし、多少疲れが残っていたところで、どうってことないさ。
 いやいや、それどころか翌朝起きたらね、両腕とも絶好調なんだ。ああ、いつでも好きな時に泳げる環境を作りたい。プール付きの家とかね・・・夢のまた夢・・・。

ふたりの若き才能にエールを送ろう
 さて本番となった。チェリスト梶原葉子さんの演奏する「ロココの主題による変奏曲」は、厳密に言うと協奏曲ではないけれど、チェロを独奏にした管弦楽曲には違いない。実は僕の大好きな曲で、練習の時からとってもしあわせな時間を持てた。
 僕はそもそもチャイコフスキーが大好きなのだ。ベルリン芸術大学指揮科の卒業試験もチャイコフスキーの交響曲第5番を指揮して一等賞をいただいた。ちょっとした和声の使い方も洒落ていて、新鮮で品が良い。この曲も随所にチャイコフスキー節が効いていて、くーっ!たまんねえ!

 梶原さんは、本番が一番音楽的で、彼女の一番良いところが出ていた。本番で上手く弾けるというのは才能のある証拠だ。本番では誰しもアガる。でも、その中でも音楽に没入し、音楽をエンジョイできるかどうかが、その人間が天性の音楽家かどうかを決める。本番中に新しい発見もあり、本当に楽しいひとときだった!Brava!

 次は、中道舞さんのグリークのピアノ協奏曲。演奏が終わって彼女は開口一番、
「ああ、ミスタッチしてはいけないと思ったところ、みんなしちゃった!」
なんて言ってたけどね、あんな超絶技巧の音が死ぬほどいっぱいある曲で3つや4つの音を外したからって別にどうよ。
 それよりも、彼女には、(身長も高いけれど)大きなピアニストとしての器を感じる。繊細なところはとてもデリケートに。そして、女性なのに、時にはとても大胆に鍵盤に飛びかかっていく野獣のよう。

 実は白状するけど、僕は、グリークのピアノ協奏曲って、嫌いではなかったけれど、これまでそんなにピンと来なかったのだ。リストの協奏曲ほど薄っぺらくはないが、やはり技巧重視であって、ベートーヴェンやブラームスほどの深遠な内容はないし、ショパンやシューマンのようなロマンチシズムは望めないし・・・と思っていた。
 でも、今回の彼女との共演で、2回の個人的な合わせをはじめとして、オケ合わせになってからも、
「ここはこうしようか」
と僕の方から提案したり、一方、彼女の方からも、
「ここはもっとたっぷり演奏したいです」
という要望に従ったりする過程で、随所でグリークの独創性に出遭ったし、第2楽章などでの深いロマンチシズムを発見したり、どんどん曲の持つ魅力にハマっていった。そして、その二人のセッションが、本番で見事に実ったと思う。
 この後、2週間ほどで、彼女はザルツブルクに渡り、モーツァルテウム音楽院ピアノ科で学ぶという。是非、大きく羽ばたいて欲しい。

写真 協奏曲を演奏したソリストの二人
梶原葉子さん(左)中道舞さん(右)
写真提供:セントラル愛知交響楽団

そしてモツレク
 モーツァルトのレクィエムを久しぶりに暗譜で指揮した。すると、当然のように、また何かが降りてきた。暖かい光の筒が降りてきて、僕をすっぽり包む。そこはまるで慈愛の海のよう。
 といっても、勿論瞑想しているわけではない。それどころか、実際の指揮の活動というのはめちゃめちゃ現実的だ。

 宇宙飛行士が、
「はい。まもなく第一ロケット切り離し!」
と言い、次の瞬間、
「Go!」
と言い。その次の瞬間、
「無事切り離し完了!」
というように、リアルタイムで進んでいくのを、いちいち確認している。アインザッツを出しているのに、誰かが少しでもタイミングが遅れると、
「あいつ遅いな」
と思うし、やっていることは、実に現実的な営みだ。

 でも、そういうことではなく、そうした現実的な自分の内側にもうひとりの自分がいる。その自分は、そうした活動している自分を静かな目で見つめていて、曲のエッセンスを、ディズニー映画で妖精が銀粉をまき散らすように僕に振りかけてくれる。

「もうすぐトランペットとティンパニが入ってくる。それと一緒にアルトのアインザッツを出すよ。それっ!」
なんてやっていながら、心の中はとっても静か。汗はかいているのに、心は平安そのもの。

昨晩の水泳が効いていて、腕の動きが今日は滑らかだなあ・・・なんてことも考えている。

 自分で言うのもなんだけど、
「とっても良いモツレクを今、この今の今、僕たちは創り出している。とっても良いモツレクがだんだん仕上がってくる」
と曲が進行して行くにつれて、どんどん嬉しくなってきた・・・・そして最後のquia pius esの第3音を抜いた空虚な5度の和声に到達し、長いファエルマータで曲が完成した。

 演奏している間は、僕たちは時間の中にいて、それぞれの瞬間で演奏しているのだけれど、変な話、終わってみると、こんな感じに仕上がる全体像を、僕はすでに知っていたような気がする。

 それにしても、モーツァルト200合唱団から出ていたオーラというか、熱気が凄かった。演奏会のできなかったこの2年間・・・いや、準備を合わせると3年間・・・ずっと、おあずけを食っていたのだ。
 いや、そればかりか、合唱などというものは不要不急の代名詞のように言われて、ずっとみんなが心の中で封印を強いられていたのは・・・・まさに、この歓びだったのだ!この熱狂!この興奮!この、「自分たちは今、生きているんだ!」という生命の叫びだったのだ!

写真 レクエイムを演奏した独唱者4人と三澤洋史
(左側から)神田豊壽さん、飯田みち代さん、僕、三輪陽子さん、鈴木健司さん
写真提供:セントラル愛知交響楽団

 ソリストの4人も本当にひとつになってこの作品に向かい合ってくれました。飯田みち代さんは、発声の基本はイゾルデのまま歌っているように見えるけれど、ビロードのようなモーツァルトでした。
 三輪陽子さんの確実な歌唱。あるべきところにあるものがいつもある。これは凄いことです!神田豊壽さんは、今回は裏の舟歌から始まったり、メーロトという悪役を演じるのではなく、正々堂々と表で美声を披露してくれました。鈴木健司さんも、Tuba mirumのバックにもひるまず、堅実な歌唱を聴かせてくれました。もういちど賛辞を送ろう。Bravi tutti!

 アンコールのAve verum corpusは、まさに天国だったですね。
最後にセントラル愛知交響楽団の真摯なサポートには、本当に感謝しかありません。

写真 ステージ下手から見たレクイエム終演カーテンコール
モツレク・カーテンコール最後
写真提供:セントラル愛知交響楽団

 さあて、来週初め(9月19日)には、志木第九の会での「メサイア」全曲演奏会。もう9月も半ばになるけれど、これが終わらない内は、僕の夏は終わらないんだ!



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