ウクライナ戦争と僕の体

三澤洋史 

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ウクライナ戦争と僕の体
 今年は、3月初めから、折ある毎に蕁麻疹(じんましん)が出ている。子供の頃から僕は蕁麻疹持ちで、季節の変わり目にはよく出ていた。食べ物が原因で出ることは全くなかったので、医者は「寒冷蕁麻疹」と言っていた。大人になってからは、ほとんど出なかったのだが。今年は特別だ。

 それなので、今年の上半期は全くプールに行かなかったが、夏が来たらパタッと止んだので、今年の夏は、いつもの年とは逆に、よくプールに行った。愛知祝祭管弦楽団の練習などでしっかり指揮をした次の日などに行くと、硬くなった筋肉がほぐれるし、練習の前の日に行くと、指揮の動きが滑らかになって、団員達は見易かったのではないかな。

 関連性について確信は持てないのだが、蕁麻疹が出る直前や、出ている間というものは、いつも僕の心がちょっと憂鬱であったような気がする。だから、もしかしたらロシアのウクライナ侵攻と関連があるような気がしてならない。ブチャの虐殺や、捕虜の虐待などの痛ましいニュースを聞くと、心の中にグッとある種のプレッシャーがもたらされ、少し経って沢山蕁麻疹が出た。

 僕は基本的には楽天的でハッピーな人間だ。最近、瞑想したり、いろいろなことに対する“気づき”を与えられて、ますますその傾向が強い。仮に、人からネガティブな波動を浴びせられても、僕がそれに反応して負のスパイラル(連鎖)を広げてはいけないと思う。むしろ、僕から発信するものはいつもポジティブな波動でないといけないと信じているのだ。それどころか、僕の周りには常に暖かくてしあわせな波動が出ていて、みんなが、僕と一緒にいたらなんとなくしあわせになれる、そんな存在でいたいと願っている。

 ところが、この3月からは、僕の心の一部にブラックホールのような一画ができて、まるで通奏低音のように絶え間なく重苦しい音楽を発信しているような感じだ。そのことが僕の人格にある翳りを与えて続けていたような気がする。
「人間が人間に対して、何故こんなことをするのだ?」
「人を不幸に追い込んで、それで自分たちはしあわせだといえるのか?」
という失望とも怒りともつかない気持ちに、蕁麻疹がいつも寄り添っていた感じだ。

 夏の間に蕁麻疹が出なかったのも、ウクライナに西側諸国の武器が渡って、ロシアの動きが鈍くなり、硬直状態に陥っていたせいかも知れない。ただ、この一週間、それが突然再会した。この点に関しては、戦争のせいではないような気がする。ここのところアレルギー体質になっていたので、気候の変化に体が過敏に反応したのかも知れない。

 志木第九の会の「メサイア」演奏会が終わって翌日の9月20日火曜日。午前中は1日遅れの「今日この頃」原稿を書いていて、午後に、昨日の疲れた腕を癒やすためにプールに行こうと思っていた。
 台風が過ぎ去っても、未だ蒸し暑い天気であった。ところが、柴崎体育館の前まで行ってみたら、「休日」と書いてある。うっかりしていた。柴崎体育館は第1と第3の月曜日が休日。今日は火曜日だから関係ないと気にもかけなかったが、昨日は祝日だったんだね。その場合は次の日が振替休日になるのだ。ということで、泳ぐことも叶わず、立川駅で珈琲を飲んで、プリンタのインクなど買って、家に帰って来た。

 ところが、その後、いきなり蕁麻疹が体中にブワッと出た。なんだなんだと思っていたら、気温が急に信じられないくらい下がっていたのに気が付いた。台風の熱い風が過ぎ去って、秋の冷たい風が入り込んできたのである。
 それから毎日蕁麻疹は出た。さらに次の台風が近づいてくると、気圧が不安定になって、頭も痛い感じになった。その台風も週末過ぎ去って、やっとだんだん戻って来たが、今日の時点でも、まだ少し体に残っている。
 これが出ている内はプールに行けない。20日にもし泳いでいたら、どうだったのかな?プールから上がった途端に全身に出たのかな?

 ウクライナでは、西側諸国からの武器の供給も進んで、ロシア侵攻への抵抗が驚くほど戦果をあげ、各地で奪還を果たしている。よし、頑張れ!と声援を送りたい気持ちもあるが、ロシア兵士だって亡くなったり怪我をしたりしているんだ。その意味では、敵も味方もないのだ。双方に帰りを待っている愛する人がいる。要するに殺し合いをすること自体、双方の兵士達にとって大きなダメージをもたらすのだ。

 一方、何の戦果もあげられないどころか、むしろ追い詰められたロシアでは、プーチンが自国に近い4州に対して、ロシア編入住民投票を強行しようとしたり、新しい兵の部分的動員をかけたりしている。もっと卑怯なことには、戦術核の使用をほめのかしている。そんな姑息な手を使っても、もうプーチンに勝ち目はないのだから、無益な人殺しをいつまでも続けるのはやめて、さっさとあきらめて欲しい。

 プーチン自身、これまで、きっと良いこともしたんだろうけれど、69歳という彼の人生の終わりの時期における、このウクライナ侵攻における彼の想いと行動だけでも、天に対してどうなんだろう。
「ああ、やっちまった!最後の最後で今度の人生大失敗!」
って感じなのかも知れない。それを思うと気の毒でならない。

東大コールアカデミーOB交歓演奏会
コロナ禍で頑張ってます

 昨日9月25日日曜日は、赤坂の星陵会館における「東大コールアカデミーOB交歓演奏会」で審査員を務め、合同演奏を指揮した。これは、東大音楽部の男声合唱団コールアカデミーのOB会が主催したもので、もちろんその中で中心になっているのは、僕がよく指揮するアカデミカコールであるが、行ってプログラムを開いてみて驚いた。実に11団体もあり、それぞれの団体がしのぎを削って歌い、僕は審査して講評をそれぞれの団体に告げ、そしてその中から三澤賞なるものを授与する。ほとんど内輪での会で、外部からの聴衆は、団員の家族や友人などを除いてほとんどいない。

 たとえば冒頭に演奏したDistance Sixという団体は、コロナ禍にわずか6人でオンラインでのユニットを作り、練習をしていたという。だからディスタンスなんだ。ゴスペルソングを3曲を演奏した。なんでも、現実に6人が集まっての練習は、直前に行っただけだそうである。
 蓋を開けてみたら、アカデミカコールのメンバーばっかり。U-70(アンダーセブンティ)では70歳以下限定とか、フォーティナイナーズは、昭和49年度入学のメンバーが集まったカルテットとか、部分的に分かれて、人によっては何度も参加していた。

 その他に、ずっとアカデミカコールのピアノ伴奏者をやっている三木蓉子さんが、アルベニス作曲「イベリア第2集」より「アルメリア」を独奏したり、現役のコールアカデミーがコロナ禍でわずか5人の参加とか、コールアカデミー女声版として結成されたコーソ・レティツィアの宮澤賢治の詩による「光の丘のうた」(なかにしあかね作曲)など、実にバラエティに富んでいて、審査するのも忘れて楽しんでしまった。

 その中にも特筆すべきは、かつて若者達を集めて結成した男声合唱ジョーバニから、有志わずか3人によるユニット。真ん中に、オルガンやチェンバロの音を出すキーボードを置いて、かつての指揮者のメンバーが弾くが、その両側にひとりずつメンバが立ち、モンテヴェルディのDuo Seraphim とZefiro Tornaというコロラトゥーラの超難曲を見事に歌い切る。まるでサーカスのよう。聴いている一同、言葉も出なかった。これって、変な話、ストリート・ミュージシャンで結構稼げんじゃネ?

世のために働き~しずかに死んでゆこう
 その後、全員の合同演奏で、僕は多田武彦作曲、組曲「雨」より第5曲「雨の日に見る」と第6曲「雨」を指揮した。僕は、高校生1年生で合唱部に入った時、この組曲「雨」に出遭い、それが自分の合唱人生の原点になっている。
 だから事前での合同練習の時もね、やりながら熱が入り、気が付いたらこの2曲だけで45分くらい練習してしまったよ。本番はなかなかの出来でした。終曲「雨」の2節目のソロは、現役生ふたりが行った。

あの音のようにそっと
世のために働いていよう
 この八木重吉の詩に、高崎高校に入ったばかりの頃はとっても惹かれた。まだ働くことの意味も良く分かってはいなかったので、現役の2人も同じような気持ちかも知れない。でも、何か感じるところがあるだろう。この歌詞。
 僕も、あれから果てしない時間が流れ、実際に家族を養うために一生懸命働いた。「世のため」という風に特に思ったわけではないけれど、結局は家族も含めて、世のため働いていたから、仕事が絶えなかったのだろう。
 気が付くと、娘達もなんとか一人前に育って、今では孫娘を目の中に入れても痛くないほど可愛がっている日常がある。

 自分の人生を振り返ると、過去の果てしない行程が遠くにボウッと霞むほど広がっている。全てが思い通りに進んできたわけではない。でも、自分は、この人生を悔いのないように生き切ってきた。沢山の出遭いがあり、挫折や障害もあったかも知れないが、それらのことを通して、僕は学ぶべきことを学び、今の人格ができあがっている。それを思うと、満足と・・・そして感謝しかない。
雨があがるように
しずかに死んでゆこう
 そうだね。その通りだね。それがいつなのか分からないが、いつでもいいんだ。時来たりなば・・・そして、神様が、
「もう帰ってきなさい」
と言ったなら、喜んでそのふところへ戻っていこう。それまで、力まずに、けれどもひたむきに生き続けていこう。

 僕よりずっと年配の人たちもいるアカデミカコールのメンバーたちを前に、あるいは、これからまだまだ世の中に挑戦をしていく若者達とも向かい合いながら、この名曲を練習し、合同演奏で指揮するひとときは、何にもましてかけがえのない時間と空間であった。

三澤賞は「ソムリエ」
 それから講評を行い、続いて三澤賞の発表となった。僕からの三澤賞は、ガトーフェスタ・ハラダのラスクであった。ガトーフェスタ・ハラダは、もともとは僕の住んでいる高崎市新町(かつては多野郡に属していた)の僕の家から徒歩5分もしない普通のパン屋だった。今の社長夫人は僕の先輩で、いろんな関係で新町歌劇団の演奏会や「おにころ」公演に多大なる援助をしてくれている。

 僕が賞品としてあげたのは、普通のラスクGOUTER de ROIではなく、ソムリエSommlierというワインに合う甘くないラスク。ポルチーニというキノコやパルメジャーノ・レジャーノ、ナツメグやバジルなどが入っている。

 ある時、社長夫人と会った時、彼女が僕に、あるラスクを渡し、
「これ試食して、感想を言ってくれない?今度、新しく出すの。ワインに合うというふれ込みでね」
と言うので、食べてみた。
「うまい!これ、そのままでいいから、早く出して!」
と言ったら、とっても喜んでくれたのだ。
 でも、まだ多くの人が知らないのではないかな、と思って、ハラダの宣伝も兼ねて、三澤賞として4団体に差し上げた。

 その後は、主としてアカデミカコールの懐かしい団員達との懇親会に参加した。乾杯のビールはことのほかおいしかった。

明日は茨城にいます
 明日は、茨城県常総市立(じょうそうしりつ)石下(いしげ)西中学校に行き、文化庁主催のスクールコンサート。その後水戸に泊まって、明後日は鉾田市鉾田南中学校に行く。本当は新国立劇場合唱団から30名で行くはずだったのだけれど、ソーシャルディスタンスを考えて、今回は20人に絞られてしまいました。
 毎回、訪れる県のご当地ソングを編曲して歌うのだが、なかなか茨城県には良い歌が見つからなくて、(まさか、潮来のイタロウでもないし・・・)結局、茨城県民の歌というのを、凄くイメージアップして、美しい曲に編曲しました。みんなに聴かせてあげたい。
 茨城県は、霞ヶ浦もあれば太平洋もあるでしょう。だから水をイメージしたしなやかな音楽に作り変えたので、中学生達はびっくりするだろうな。

生徒さん達とは6月にワークショップに行って以来だけど、また彼らに会えるのが楽しみである。




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