京都での日々

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

10月22日土曜日
 ロームシアターの楽屋でこの原稿を書いている。昨日(21日金曜日)から京都に来ていて、昨日は午後から「蝶々夫人」のオケ合わせ。夜は合唱中心の場当たり稽古。オケは京都市交響楽団。指揮は阪哲朗さん。
 今日は、全キャストも加わってのピアノ付き舞台稽古。第1幕のボンゾのシーンが終わって楽屋に帰ってきた。これで第2幕の終わりのハミング・コーラスまで合唱はないので、その間にノートパソコンを開けてこうして書いている。

 旅先では、よくこんな風にして月曜日以外でも少しずつ原稿を書く。今朝は6時前に起きようと思ったけれど、ちょっと寝坊して6時10分起床。あわてて着替えて西本願寺に向かう。西本願寺では、すでに長い祈祷の時間が終わって、ちょうどお坊さんのお説教が始まるところだった。
 浄土真宗のお説教は、とどのつまりは、
「阿弥陀様に、あなたの弱さや愚かさや罪深さも含めて、すべてを任せなさい」
という、とってもシンプルなもの。でも聞いているとと、なるほど、実は難解な神学なんて要らないんだ。要は、「信じ切ること」と「ゆだね切ること」さえできれば、人生はしあわせに生きられるのだ、とあらためて感じられる。

写真 早朝の西本願寺
西本願寺

 キリスト教だって本当はそうだったんでしょう。イエスの最初の方の説教はこんな感じ。
「悲しむ人々は、さいわいである。その人たちは慰められる」
では、その人たちは、一体誰によって慰められるのだろうか?
「柔和な人々は、さいわいである。その人たちは地を受け継ぐ」
その人たちは、一体誰によって、その柔和さを評価され、地を受け継ぐことを許されるのだろうか?
 その慰めてくれたり、地を受け継ぐことを許してくれる実体を、イエスは“父なる神”と呼んだわけでしょう。それを浄土真宗では“阿弥陀如来”と呼ぶわけだ。だから、そうした絶対的な愛の存在を信じ、そこに委ね切ることさえできれば、それを“父なる神”と呼ぼうが、“阿弥陀如来”と呼ぼうが大差ないのではないか?そこをこだわるのが了見の狭い人間なのだろう。

なんてことを、お坊さんのお話を聞いてとっても気持ちよくなりながら、ぼんやり考えていた。

 それから西本願寺を出てそのまま東に歩いて行くと、すぐ東本願寺に突き当たる。実際、西本願寺と東本願寺とはかなり近い。もちろん僕は東本願寺には入らずに、北側の裏門を右手に見ながら烏丸通(からすまどおり)に出て、そのまま北上した。
 五条通と四条通の真ん中くらいに、コメダ珈琲店があったので、ふらっと入って・・・気が付いたら、ゆで卵付きのトースト、ミニサラダ&たっぷりブレンド・コーヒーを頼んでいた自分がおかしかった。
「なんで京都に来てまでコメダなんだ?」
 コーヒーは別においしくはない。どうせできあがったものを鍋で煮立てただけ。時々煮なおした時に出る特有の細かい泡が浮いているもの。でもね、なんとなくこの味に慣れているので心地よい。独特の柔らかい朱色の椅子もゆったりと心地よい。決して安くもないんだけどね。
 要するに、なんていうかな、この名古屋的心地よさがコメダにハマる原因だ。1985年に愛知県立芸術大学に勤め初めてから、ずっと名古屋と様々な団体と関係を持ち続けている。それ以来、風来坊の手羽先とコメダが自分の体に染みついてしまった。

 一度ホテルに戻ってきて、すぐに水着を取って四条烏丸駅から阪急電車に乗って西京極駅まで行く。西京極総合運動公園の一角にある京都アクアリーナの正面玄関前に9時5分前に着いたら、もう結構な人たちがオープンを待っていた。
ここで1300メートル泳いで再びホテルに帰って来て、あらためてシャワーを浴び頭を洗ってから、ゆったりと京都の街に出る。

 午後一時。ロームシアターでの場当たり稽古は14時からなので、劇場のそばの、スターバックスのテラスに沢山並んでいる椅子とテーブルを勝手に借りて、i-Podに入れたバイロイト2022の「ラインの黄金」の録音を聴き始める。年末のNHK FMのバイロイト音楽祭の解説を頼まれたので、他に雑用がないこの京都滞在の間に、できる準備はやっておこうというつもりだ。
 昨日は、新幹線に乗りながら、ネットで、バイロイト音楽祭のホームページや批評などを読んでいた。「ニーベルングの指環」は、なんとコルネリウス・マイスターだ。

写真 指揮者のコルネリウス・マイスターさん
コルネリウス・マイスター君

 僕は、コルネリウス・マイスター君とは結構仲良しだ。彼はわずか24歳でハイデルベルクの音楽監督に就任し、ドイツの劇場の歴代音楽監督の中で最年少就任と騒がれた。新国立劇場に最初に来て「フィデリオ」を指揮したのが2006年なので、まだ26歳くらいだった。その時の印象は忘れない。見るからに若くて、色白のドイツ人の若者にありがちな、
「お前どっから声出してんの?」
という感じの女性的な高い声でしゃべっていた。ただ、若いのに、音楽的にはとってもしっかりしていた。

 二度目に会ったのは、2017年の読売日本交響楽団のマーラー作曲交響曲第3番の時。「フィデリオ」から10年以上経っていたので、だいぶ大人びてきたが、やはりお坊ちゃん的素直さは残っていた。
 しかし、ひとたびマーラーの音楽に向かうと、彼の音楽作りは、随所でとても独創的だった。特に際立っていたのは、「ビムー・バムー」の第5楽章から終楽章に入る時。合唱団を立たせたままにしておき、ほとんど聞こえないような最弱音から入っていった。
 僕が昨年5月に同曲を指揮した時、いくつもの箇所の解釈を彼から受け継いだことを白状しよう。ただ終楽章の入りだけは、何度も迷ったけれど、結局合唱団を座らせて普通に始めた。僕に勇気がなかったのかも知れないが、それによって失う終楽章冒頭の響きの実在感を残念に思ったからだろうな。何か特別なことを行うには、それによって失うリスクを覚悟しなければならない。コルネリウス君は、時にそうした思い切った解釈をする。

 そのコルネリウス君が、まだ若いのに、バイロイト音楽祭で、よりによって本丸の「リング」を振るんだぜ。凄いね。ティーレマンも真っ青という感じで・・・ティーレマンにいじめられなければいいけど・・・おっと言い過ぎた。でもドレスデンのゼンパー歌劇場をめぐって、ティーレマンは前任者のファビオ・ルイージを結構イジメたからね。
 ティーレマンが次期の音楽監督に決まるにあたって、現職のルイージが毎年担当していた大晦日のジルベスター・コンサートの指揮を、まだ任期中なのに、
「俺にやらせねーと音楽監督になってやんない!」
と言って横取りしたとかね・・・そこまでやるんだよ彼は・・・でも残念ながら才能はあるんだよね。
 
 さて、バイロイト祝祭劇場のホームページに載っている、久しぶりのコルネリウス君の写真は、髭を生やしてかなり貫禄が付いた様子であった。楽しみにi-Podのスイッチを入れて「ラインの黄金」を聴き始める。
 コルネリウス君の「ラインの黄金」のテンポは基本的にかなり速い。たとえば巨人登場の際のライトモチーフをびっくりするほど速く演奏する。従来の「たっぷりなテンポで巨人の体の大きさを表現」というのとは全然違うのに最初は拍子抜けした。
 ただファーゾルJens-Erik Aasbø(なんて読むのかよく分からない。後でNHKに聞こう)も、ファフナーのWilhelm Schwinghammerウィルヘルム・シュヴィングハンマーも、重厚なバスというよりも、ちょっと軽くバリトンっぽいので、まあ、これもアリかなとは思う。

10月23日日曜日
 いっけねえ、寝坊した!目が覚めたらもう6時半過ぎ。もう西本願寺に行くのはあきらめて、ホテルから四条河原町に向かって歩き出し、結局鴨川を渡って八坂神社にお参りして帰ってきた。ここも結構気が澄み切っていて良い神社だ。

写真 朝日を受ける鴨川と川添いの建物
朝の鴨川

写真 早朝の八坂神社の正面
八坂神社

 その後、新京極のドトールで「ラインの黄金」の続きを聴く。いやあ、コルネリウス君の「ラインの黄金」は面白い!ワーグナーが意図した、ドラマと音楽との一致というのが、とっても自然な感じで成し遂げられている。やっぱり才能あるわ!

 14時から、ロームシアターでピアノ付き舞台稽古。マエストロが不在なため、飯坂純さんが指揮をする。それが終わってから、またまたスターバックスの椅子で「ラインの黄金」の録音の残りを聴く。
 ラインの乙女の一番高音を担当するヴォークリンデ役のLea-ann Dunbarのちょっとキツイ音色とビブラートが気になるなあ。またローゲ役のDaniel Kirchダニエル・キルヒの歌い方は、従来の弱音を使ったりしてずる賢い表情を出すタイプとは違って、始終大きな声で張って歌っているね。そうすると、ミーメやフローなどとキャラの違いがあまり出ないね・・・・ええと、今言っているのは、まったく個人的な独り言であって、公なNHKでこのようにコメントするかどうかは分かりませんよ。多分しないと思う。

 ともあれ、コルネリウス君は完全に、あのプライドの高いバイロイト祝祭管弦楽団を掌握している。もうそれだけで僕などは感心してしまうなあ!

 一度ホテルに帰ったのが18時20分くらい。それから、一念発起して、またまた西京極のアクアリーナに行く。日曜日の晩であまり人がいないので、のびのび泳げて、とてもいい気持ち!
 帰りはホテルの近くにある「やよい軒」でテイクアウトをして、ビールと黒霧島のソーダ割りで部屋食べ&部屋飲み。明日、ちょっとした飲み会をするので、今日は落ち着いて過ごす。

10月24日月曜日
 昨晩、静かに過ごして早く寝たおかげで、今日は寝坊をしないで5時半起床。例によって西本願寺目指してお散歩し、祈祷の最初から参加。広い本堂に勝手に入って、椅子に座る人、正座する人、あぐらをかく人、様々だが、僕は今日は結跏趺坐で半ば瞑想状態で、ずっと祈祷を聞いていた。

 やっぱりさあ、仏教の祈祷って、何言ってるか分からないよね。みんな意味分かっているのかなあ?まあ、カトリック教会だって20世紀半ばの第二バチカン公会議まで、ミサの言葉は全部ラテン語だったわけだから、よその宗派のことを偉そうに言えた義理ではありません。それに下手に意味が分からない方が、瞑想するにはいいね。
 その後、「なんまんだー」が延々続く。これも瞑想するのには最高。それから、今日はお説教が女性だった。スーパーで大根を買った話をしていたよ。自分の弱さを白状していた。

 それからお部屋に帰ってきて、昨日までの記事を推敲して今日の分を付け加えた。さあ、そろそろ用意して、オケ付き舞台稽古(実質的にはゲネプロ)に出掛けよう!



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