ブロムシュテットのマーラー

三澤洋史 

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ブロムシュテットのマーラー
 最近は、夕食の時にビールとか飲んでしまうと、その後の時間を有意義に過ごせないので、夕食時にはオールフリーというノンアルコールビールを飲みながら食事している。昨晩(11月6日)、仕事を10時過ぎまでしていて、ビールの缶をプシュッと開けてコップに注ぎ、ひとくち飲みながらテレビを付けた。
「あ、今日は日曜日か。N響やってるかな」
とEテレにチャンネルを合わせたら、ヘルベルト・ブロムシュテットがマーラーの交響曲第9番を指揮している。

 こういう冗談は言ってはいけないかも知れないが、もしかしたらお亡くなりになって追悼番組をやっているのかな?と本気で思った。でも曲が終わってテロップで出ていたのを見たら、10月15日にNHKホールで収録したものだという。
 驚いたのは、N響が本気で演奏している。かなりの名演が進行していて結構感動した。僕はかつて、最晩年のスタニスラフ・スクロバチェフスキーの指揮で、合唱指揮者として読響とミサ・ソレムニスなどで共演したけれど、その時の雰囲気ととても似ている。「これが最後かも知れない」という危機感と緊張感が漂っているのだ。1927年生まれだというから、もう95歳だ。
 ブロムシュテットとも、僕はバッハのロ短調ミサ曲などで共演したけれど、それはかなり前で、彼も今より随分若かった。とにかくブロムシュテットは、N響とは1981年の初共演以来、40年近く関わっているというのだ。

 コップの中のビールはたちまち飲み終わり、白霧島のソーダ割りに変わって、だんだん良い気持ちになってきた。ああ、マーラーっていいな。昨年交響曲第3番を指揮したけれど、第9番をいつかやりたい!
 でもなあ、第9番を指揮しちゃったら、あとはもう死ぬしかないような気がする。だって、和音のひとつひとつがこの世の響きを超えているもの。とはいいながら、あまり高齢になってから指揮すると、テレビの中のブロムシュテットのように、体が動かなくなって、最小限の運動でアインザッツを出したりするのも、本人的にはあまり楽しくないなあ。伸び伸びと指揮できる内にやらないとな・・・。

 酔いが回って、すっかり良い気持ちになってきた。いつの間にかマーラーが終わって、佐藤しのぶなんかが歌っている。良い声なんだけど、あの大きいビブラートに時代を感じるなあ。オペラって、みんなが敬遠するのはビブラートのせいなんじゃないかなあ。というか、どうしてみんな、フレージングや曲想によってビブラートをコントロールして表現に生かせないんだろう。
 例えは悪いけれど、セルジオメンデスとブラジル66のメイン・ボーカリストであるラニ・ホールのビブラートの掛け方なんて、本当に素晴らしい。最初にスーッとノンビブラートで入ってクレッシェンドしながらサッとビブラートを掛ける。バロック歌手は、そういうコントロールができるのだが、ドイツ・リートでもオペラでも、ビブラートをもっと表現方法として活用すればいいのに・・・なんて思っている内に、いつしか番組が終わったので、さっさと寝室に行って、ベッドに入ったら、3秒後にもう朝になっていた。

ハロウィンに働く“魔”
 カトリック教会は、待降節から始まる1年の暦の最後の時期にあたる11月に、“死者の月”という位置付けを与え、ミサの中で朗読する聖書も、終末などに関係する内容となっている。
 その死者の月である11月の最初の日は“諸聖人の日”と定められ、2日は“死者の日(万霊節)”とされた。聖人達を含め、共に故人を偲ぶことに意識を集中させているが、それは、アイルランドあたり(古代ケルト民族)で信じられていたドゥルイド教の風習を、布教のために取り入れたことに由来する。

 ドゥルイド教では、11月1日が新年で、大晦日にあたる10月31日の夜には先祖の霊が帰ってくると信じられていた。その際に、悪い霊たちも活動するので、魔除けの焚き火をしたり、仮装したりしていたという。これがハロウィンの起源だ。
 悪霊や魔除けに教会は一切関知していないが、キリスト教の布教に伴ってハロウィンも広がったことは事実だ。特にアメリカに渡ってから今日のようなものになって、全世界に逆輸入されたという。

 僕のイタリア語の先生はこう言う。
「昔はカトリック国のイタリアでも、ハロウィンなんてなかったけれど、アメリカから流行してきて、今ではイタリアでも若者が変な仮装しながら騒いでいるわ。
全く、ピッツァだって、元来はマルゲリータとマリナーラしかなかったわ。それがアメリカに行ってから何でも勝手に乗っけて味も悪くなったものが逆輸入しているのよ。あんなもの、食えたもんじゃないわよ。マクドナルドもそうよ。
アメリカでは、何でも軽薄にさせ、二流なものにアレンジして、世界に広めるのよ」

 確かに、オーセンティックなナポリ・ピッツァを一度食べてしまうと、もうシェーキーズなどには入れませんなあ・・・ま、そんなことはどうでもいいけど、ハロウィンについて言うと、僕自身は、とっても苦手だ。
 最近は、どのお店でも、夏が過ぎるともうハロウィン商品があちこちに並ぶが、それらのグッズが気味が悪くて、足早に通り過ぎる。カボチャはまだいいとしても、蜘蛛の巣やドラキュラのお面や魔女の帽子など、とにかくハロウィン商品の置いてあるコーナー全体に、雲に覆われているような暗いオーラを感じてしまう。はっきり言って、全世界からハロウィンなどという馬鹿騒ぎが、一刻も早くなくなって欲しいと思っている。

 と思っていたら、韓国でとんでもない事件が起きた。それはハロウィンの前日であったが、狭い路地に人が入りすぎて、なんと154人もの人が圧死して亡くなったというのだ。たった1人が圧死しただけでも大変だというのに、なんという数だ!
 テレビに映し出された事件直前の映像を見て、震えが襲った。見たこともないような人々の密集状態がそこにあった。直感的に僕は思った。
「これは絶対に、ある霊的作用の仕業だ!」
 
 普通、こんな状態になる前に、みんな離れようとするだろう。ここまでになることってないだろう。こんなになってもなお、人々がそこから離れないどころか、あの狭い路地にさらに入って行こうとしている。
 みんな無意識の行動なのだろうが、それは一種の催眠状態であり集団精神異常だ。何ものかに操られているとしか言いようがない。つまり原因は横倒しになったことではないのだ。この過密状態を作り出し、さらに長時間に及んでいたら、いつか事件が起きるのが必至なのは誰にでも分かることだ。それなのに、何故?

 みんなよく考えてみよう。ハロウィンでなかったら・・・これが普通のお祭りだったら・・・こんなことは起こり得ないのではないか?つまり、これは・・・“魔の仕業”である。間違いない!

 僕は、みなさんに警告します。若者達よ、ハロウィンには、もう街角に集まってはいけない。さもないと、将来もっとひどいことが起きるかも知れない!

スキーDVDのための音楽、仕上がりました!
 京都に滞在している間は、NHK-FMのバイロイト音楽祭の解説の準備で、音源ファイルを聴き続けながら、ドイツ語の解説や批評などをネット上で読み続けていたが、東京に帰って来てからは、一度中断して、角皆優人君のDVDの音楽の作曲に没頭していた。

 「整地」「パウダー・スノウ」「コブ」のビデオの為の音楽はすでに仕上がっていたが、残りの「エアリアル(ジャンプ)」だけが残っていた。しかも、この「エアリアル」が最も難易度が高いのだ。わずか2分数秒の映像ながら、なんと23回もジャンプをするのだ。そのジャンプは、シンプルなものもあれば、空中で何度も回ったり、捻ったり、体を伸ばしたり丸めたりで、実にバラエティに富んでいる。

 どうせだから、そのひとつひとつのジャンプに、対応するフレーズやパッセージを当てはめようと思った。その作業は、とても難航するのではと予想していたけれど、やってみると、思ったよりずっと楽しく早く進んだ。
 僕の行った方法はこうだ。ストップ・ウォッチを持って、ビデオ中の飛び上がる瞬間と着地の瞬間の秒数を測り、メモする。音楽は4分の2拍子で4分音符120のテンポに決めた。こうすれば秒数イコール1小節だから、映像と合わせやすい。
 あとは、それで音楽的に仕上がるか、という疑問だけだ。まあ、「トムとジェリー」のようにはピッタリといかないかも知れないが、かなり良い感じに作曲は進んでいった。

 さて、ビデオ後半の、今より若い頃の角皆君の「超絶技巧的エアリアル映像」に当てはまる音楽をどうしたものかと考えていた。こんな凄いジャンプなんだから、前半よりももっと盛り上がらなくちゃな、と思っていた。

 髪がとても伸びていたので、京都から帰ってきてすぐに、国立駅前のFEELという行きつけの美容院に行った。髪をカットしてもらっている間に、とっても心が安らぎ癒やされているのに気が付き、それがお部屋に流れているBGMのせいだと気が付いた。ストリングスのアンサンブルがゆったりと流れ、ピアノがポツンポツンとつまびくように響いている。発展するようでもなく終わるようでもない環境音楽。
 いつもカットしてもらっている店主の藤村さんにふと聞いた。
「こういう音楽って、有線とかから自動的に流れているんですか?」
「いえ、自分でYoutubeなどから探して、気に入ったのをパソコンに入れて流しているんです」
「へえ、ご自分で選ばれる?」
「はい」
さすが藤村さん。そういったきめ細かい努力を怠らない性格が、カットの確実さにも現れているんだね。

 ふと僕の頭の中に、角皆君の何回転ひねりの超絶技巧映像が見えた。この静かな音楽と重なって・・・・。
「あ、分かった。これだ!」
と思った。

 家に帰ってすぐに譜面作成ソフトに五線をひとつ追加した。Strings Ensemble。そして、癒やし系のシンプルなコード進行の音楽を書き込んでいった。ひととおり書き終わって、楽譜のプレイバックと映像とを同時に流してみる。
 すると、角皆君があんなにグルグル回ったりしているのに、彼の飛翔する姿が崇高な感じになってきて、動の中に究極的な静というか、もっと言うと、一種の悟りや涅槃の境地が感じられてきた。この映像だけ、ややスローモーションとなっているのも、静かな音楽と溶け合う要因となっている。このインスピレーションは、天が僕にFEEL(フィーリング)としてくれたものだ。

 さて、楽譜の打ち込みは終わった。でもそれだけで終わりじゃない。ジャンプ映像の前半には、どうしても生の打楽器が必要だ。何故ならFesta(お祭り)の雰囲気を出したいから。それで、マイクを立ててから、階下にあるコンガ、カホーン、タンバリン、ウィンドチャイムを二階に運んで、ひとつひとつ録音していった。孫の杏樹がびっくりして見ている。前半はノリノリ、そして後半の癒やし系音楽はウィンド・チャイムの響きと共にフェードアウトしていく。

 仕上がった!考えてみるとおかしいな。僕は昔、録音の仕事もやったから分かるけれど、30年前なら、どんなに易く見積もっても、100万円以下では、こうした音楽はできなかったよね。作曲をするのは一緒だけれど、パート譜を作って、録音スタジオを借りて、専門のミキサーを雇って、スタジオミュージシャンを集めて生演奏して録音する。
 雇うのは、ブラス・アンサンブル、ビブラフォン、生ピアノ、エレクトリック・ピアノ、エレキ・ギター、ストリング・アンサンブル、ドラムスを含む数人の打楽器奏者、エレキベース。

 でも、それらを自宅でたったひとりでできるのだ。パソコンさえあれば!
Finaleという譜面作成ソフトでスコアを作ったら、そのままMIDIファイルにして、それをSinger Song Writerというシーケンス・ソフトで回し、外部のシンセ音内臓オーディオインターフェイスSD90で音色を決めて録音する。
 一方、打楽器は自分で生演奏して別途録音。その両方のWAVEファイルをバランスを測りながら、何度もトラックダウンして、ひとつのWAVEファイルにまとめる。それから動画編集ソフトPower Directorで映像とシンクロさせて最終的にMp4に仕上げる。
 録音スタジオでマイクを立てるアシスタントも要らなければ、トラックダウンもひとりでやる。かかった費用は電気代だけ。いい時代だねえ!

ということで、これからは再びNHKの解説の準備に戻ります。

バイロイト音楽祭2022本音トークPart3
 NHKのスピーチ収録は、初日の「ラインの黄金」と「ワルキューレ」が11月23日なので、まだ急ぐ必要はないが、今回はじっくり確実に仕事したい。

 先週の「今日この頃」を書いていた時は、「神々の黄昏」を聴き終わってから、すぐ「トリスタンとイゾルデ」を聴き始め、第2幕まで聴いて中断していたところだった。
 その後、エアリアルの音楽が11月4日金曜日の晩に仕上がって送ると、5日土曜日午前中の東京バロック・スコラーズの練習後、お昼を食べてから残りの第3幕をゆっくり聴いた。これで全ての音源を一通り聴き終わったわけだ。
 そして今日の午後は、原稿の下書きを仕上げたところで、自転車で国立駅前のエクセルシオールに行き、「ラインの黄金」の第2回目を聴いて、今帰って来たところ。

 さて、またまた言いたい放題です。勝手な個人的感想を自分のホームページで勝手に言うだけです。今日は「トリスタンとイゾルデ」について書きましょう。

 2022年7月25日、バイロイト音楽祭の初日を飾った「トリスタンとイゾルデ」を指揮したマルクス・ポシュナーMarkus Poschnerは、ミュンヘンの教会音楽一家に生まれ、幼い頃からジャズピアニストとして活動していたというユニークな経歴の持ち主であるが、音源を聴いた限りでは、即興的というわけでもなく、とても堅実な音楽造りをしていた。もっとはっきり言うと、予定調和というか、僕にはあまり面白みのない「トリスタン」であった。
 まあ、やることはきちんとやっているし、鳴らすところは鳴らし、バランスもいい。勿論、優れた指揮者であることは疑いようのないところだけれど、コルネリウス・マイスター君が「神々の黄昏」公演終了後に浴びたブーと比べると、肯定的に受け入れられ過ぎている気がして、なんとなく釈然としない。
 というか、僕は別にポシュナーにブーが欲しかったわけではない。むしろ、コルネリウス君のスコアの読みの深さと独創性を、バイロイトの聴衆は理解できないのが残念なのだ。つまりね、バイロイト音楽祭を伝統芸能継承の場にさせたくないだけだ。

 ひとつ気になることがある。管弦楽が音楽イニシアチブを持って進行しているところは問題ないのだけれど、レシタティーヴォ的なところで、歌手の歌に合いの手のように伴奏を付けるところが、ポシュナーはいつもかなり遅い。
 これに関しては、代役で飛び込んで日数がなく、しかも、難しい音響状態のバイロイト祝祭劇場でのデビューということで、情状酌量の余地はあるが、むしろ僕は、アシスタント・コンダクターは一体何をしていたのか?と問いたい。

 というのは、バイロイト祝祭劇場は、オーケストラピットが舞台の下に潜り込んでいるので、オケの響きはまず舞台上に飛んでいく。それから舞台上で反射して初めて客席に響いていくのだ。
 一方、舞台上の歌手の声は真っ直ぐに聴衆に向かって飛んでいく。ということは、歌手が指揮者のタクトに合わせて歌ったならば、オケの響きよりかなり早いタイミングで客席に届いてしまう。歌手は、舞台上に響いているオケにゆったり乗って歌うくらいが丁度良い。
 反対に、指揮者は、歌い手には構わずどんどん指揮していかなければならない。レシタティーヴォ的なところで、歌を聴きながら合わせてなどしたら、客席では完全にオケが遅れて聞こえてしまう。

 それをオケ付き舞台稽古で、客席にいながら指揮者に伝え、そのタイミングに慣れさせるのがアシスタント・コンダクターの役目なのに、それが全く機能していないのが手に取るように分かる。このように本番近くに飛び込んだ指揮者だったらなおさらのこと、そこだけ特化してもいいから、強引に指揮者に教え込まなければならない。
 僕が合唱指導スタッフの一員で働いていた頃は、ミラノのスカラ座や新国立劇場で「魔笛」を振ったローランド・ベアーなどがプライドを持ってその仕事をやっていた。あの我が儘なクリスティアン・ティーレマンだって、ピット内の電話で客席にいるアシスタントと頻繁にやり取りをしていて、おとなしく彼らの言うことに従っていたんだ。

 その点に関しては、バイロイトでアシスタント・コンダクターを務めたことがあるコルネリウス君の「ニーベルングの指環」での対応は見事である。きちんと彼は、祝祭劇場の特殊な音響に熟知している。

 トリスタン役のステファン・グールドStephan Gouldには、正直うんざりした。声量は豊かでテクニックもあり高音は楽々出すが、ベターって伸びる歌い方で、フレージングが全くなってない。声の誇示だけなので、音色も一本調子で状況にそぐわない。
 耐え難いのはフレーズの語尾が伸びること。小節が変わって音符が2つある場合、ドイツ語では例えば、gehenとかsingenとか、最初の音符にアクセントを付け、2つめは弱く、書いてある音符よりも短いくらいでいい。
 それなのにグールドは、2つめの音符を、時には小節いっぱいにまで伸ばしてしまう。そんなことをするのは、ドイツ語を知らない日本人歌手だけかと思っていたら、それをあの著名なワーグナー・テナーがするんだぜ。

 カテリーネ・フォスターも、グールドと遜色ないほど張り合っているので、きっと巨大な声の持ち主なんだろう。イレーネ・テオリンよりはかなりマシだが、やはりビブラートが気になる。音色は柔らかさもあって悪くないのに・・・・誰か、この2人の主役に、ワーグナーの本当の歌い方を教えてやってくれないかな。

 マルケ王のゲオルク・ツェッペンフェルトGeorg Zeppenfeldは、声も立派だし、発音も理想的だが、マルケ王の失望や悲しみに寄り添っていない。別に年寄りでなくてもいいのだが、少なくとも、前の奥さんを亡くした時に、もう自分には新しい妻は要らないと決心したものの、自分が最も信頼を置いていたトリスタンから強く薦められ、イゾルデを紹介された時には、あまりの美しさに胸ときめき、すっかりその気にさせられた挙げ句の果てに、そのトリスタンに裏切られたという状況説明には、もっと語り口の多様性が欲しい。 特に、この歳になってなお、邪推や疑惑に苛まされる苦しさの発露では、ソット・ヴォーチェを使って欲しいのに、始終立派な声ばかり披露されてしまった。

 結果的に、ポシュナーの安全運転やタイミングの齟齬、それに歌手達が、みんな声の競演になってしまった背景には、指揮者の10日前の飛び込みという状況が影響しているのは間違いない。歌手達の歌い方については、それを指摘し矯正できるのは指揮者しかいないからね。

 そういえば、京都で「ニーベルングの指環」を聴き続けている間、ずっと思っていたことがある。それは、
「欲望が世界を没落に導いていくというこの物語は、現代の世界の状態をそのまま映し出しているではないか」
ということだ。
 国を治める者というのは、本当は正しい認識と判断力を持って行動し、自分の国の民のしあわせを第一に考える人格者でなければならない。しかし、今世界を見渡してみると、プーチン、習近平、金正恩と、自分のことしか考えていない自己中な独裁者ばかりだ。しかも彼らは、ますます支配欲に囚われている。ワーグナーがいみじくも「ニーベルングの指環」で表現したような世界に、我々は現に生きているではないか。

 ということは、僕たちは、もうすぐ深い滝が待っている大河に浮かぶ船に乗っているような状態なのかな・・・。虚空に「愛による救済」のモチーフが響いても、その前に、世界が没落してしまったら、なんにもならないじゃないか!
それが、たった1発の核爆弾で起こらないと誰が断言できよう!



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