「ボリス・ゴドゥノフ」本番直前

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

作業中、もう本音トークはおしまい
 NHK-FMバイロイト音楽祭の解説の準備を、楽しみながら着々と進めている。実は、僕が「今日この頃」で勝手に書いていた「本音のワーグナー」を、NHKの担当者がみんなで読んでいて、
「楽しく読ませてもらってます」
なんてメールに書いてきた。ヤベえ!と思っていたら、どうやら結構自由にしゃべって良い雰囲気。

 「ラインの黄金」は、1幕だけの作品なので、幕間のトークがない。当初、前半のトークを5分、終わりのトークを2分と言われていた。え?それじゃ、なんにも言えないじゃないの、と思った。登場人物が多いので、キャスティングを読み上げるだけで1分近くかかるんだぜ。
 とりあえず原稿を作って読んでみた。すると、とってもとっても削って要点だけに絞ったにもかかわらず、あらすじもキャスティングも何も入れないうちに4分40秒になってしまった。
 それで、その旨を書き、
「個人的意見を抜かないといけませんね。前途多難です」
と書いた。すると・・・しばらくしてから担当者から返事が届いた。
 なんと、編成の人と相談した結果、放送時間を10分延ばしてくれるってさ!僕の個人的な話をカットするなんて、そんなもったいないことはございません、なんて書いてくれている。ヤッター!ええっ?そ、そんなことできんの?
 それで、のびのびと書いて、一応清書してNHKに送った。今は「ワルキューレ」に取りかかっている。これは、冒頭のトーク、それぞれの幕の間の2つのトーク、と最後のトークと、4個所しゃべれるので、まとめるのが大変だけど、いろいろ話せるから準備は楽しい。

 ということで、手前味噌かも知れないけれど、少なくともNHKの担当者が喜んでくれるような内容に仕上がっているみたいですよ。みなさん、年末には是非FMに耳を傾けて下さいね!  

「ボリス・ゴドゥノフ」本番直前
 11月11日金曜日。新国立劇場に行って「ボリス・ゴドゥノフ」のオケ付き舞台稽古、衣装付き最終日を観る。「観る」と言ったのは、僕は、二班に分かれて動いていた合唱団と一緒に、京都の「蝶々夫人」の方に参加したので、実は担当者ではありません。合唱指揮は冨平恭平君が行っている。

写真 オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」のチラシ。
「ボリス・ゴドゥノフ」


 そのお陰で、京都から帰ってきてからしばらくオフの日が多かった。その間に角皆君のスキーDVDの音楽を仕上げたり、NHK-FMバイロイト音楽祭解説の準備に費やすことができたのである。
 「ボリス・ゴドゥノフ」は、昨日の11月13日日曜日がゲネプロ(総練習)で、明日の11月15日火曜日が公演初日。合唱団は、ゲネプロと初日の間の今日から、公演の間を縫って、「タンホイザー」「ドン・ジョヴァンニ」の合唱音楽練習が始まる。それは僕が担当するので、今日から再び新国立劇場に頻繁に出入りするが、両方関わっているメンバーにとっては、とっても忙しい秋ですね。

 「ボリス・ゴドゥノフ」の上演予定は、すでに2年以上前から決まっていたが、ウクライナ戦争が今年2月に始まった時には、もしかしたらこのようなロシア・オペラ公演は中止か延期になるのではないかと、僕だけでなく誰しも思っていたのではないかな。
 でも、こうして仕上がってきたものをあらためて観てみると、逆に、今だからこそ、この作品は大きな意味を持つのだ、と気付いた。芸術監督の大野和士さん、さすが、先見の明があるのかな。少なくとも公演をやめないで良かったと思う。

 ムソルグスキーには「蚤の歌」という歌曲がある。僕はこの曲が大好きで、スクール・コンサートのワークショップでは、好んでバスの団員に歌わせて伴奏する。詩の原作はゲーテの「ファウスト」から取ってきているのだけれどね。
 内容はこうだ。昔、ある王様がいて、蚤が大好きだった。仕立屋を呼びつけ、ビロードの着物を蚤に着せる。そればかりか、王様は蚤を大臣にし、勲章までくれてやる。蚤は宮中を自由に振る舞う。妃も女官も、どんなに蚤に刺されても、手を出すことも出来ない。ましてや潰すことなどとんでもない。

 これは勿論風刺で、横暴な為政者に振り回されながら逆らうことなど許されない国民の状態を、笑いで包みながら表現しているわけだ。ショスタコーヴィチには、「鼻」という風刺のオペラもある。ある日、役人の顔から鼻が抜け出し、人間大に大きくなって街中を練り歩き、大騒ぎになるという、ワケの分からない不条理劇だが、これも「手に負えないものの象徴」である。ショスタコーヴィチがこれを作った時、すでにスターリンが台頭してきたといわれる。
「ああ、ロシアって昔からこういう国なんだ」
と思うよね。
 ロシアでは、ショスタコヴィチもプロコフィエフも、作品の価値とは関係なく、当時の為政者の手によってもてはやされたり弾圧されたりした。チェリストのロストロポーヴィチは、国が利用できそうだと思った時は持ち上げられ、そうでないと思われた時は、国外追放の憂き目に遭っている。

 さて、「蚤の歌」や「鼻」に対して、歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」は、実は、風刺などではなく、実在したボリス・ゴドゥノフ(在位1598年~1605年)という独裁者を真っ正面から描いている稀有なる作品だ。ムソルグスキーは、作曲するにあたって、プーシキンの戯曲を使って自らオペラ台本を書いた。
 そんな内容だから、当然のように、「ボリス・ゴドゥノフ」は作曲が完成しても、歌劇場が上演拒否をし、なかなか初演にまで辿り着かなかったし、初演しても批評家達によって冷たく迎えられた。しかし聴衆は正直で、かなり好意的に受け入れられ、その頃がムソルグスキーの創作の頂点だったという。
 1839年生まれのムソルグスキーにとって、初演は1874年だから35歳の頃。若いんだよね。ちなみに亡くなったのは1881年。42歳の若さ。35歳で亡くなったモーツァルトよりは長生きだけれど、短い!駆け抜けた人生と言っていいだろう。

 ボリスは、政治的野心のために、それまでの支配者の息子のドミートリーを殺し、まんまと最高の権力を手にする。しかしその間に、死んだはずの息子になりすます偽物ドミトリーが現れ、反乱を起こすため、ボリスは結局滅ぼされてしまう、という酷いストーリーだ。
 途中でボリスのアリアがあるが、彼は、
「私は最高権力を手にした。6年も経ったが、私の疲れ切った心にしあわせはない」
と嘆く。
 
 僕は客席で観ながら、そのボリスの姿にプーチンがダブって仕方がなかった。また途中、怪しい修道僧たちが登場する。それとロシア正教のキリル総主教がダブる。
 そういえばキリル総主教は、プーチンを「首席エクソシスト」に任命し、「反キリストに対する闘士」と位置付けたらしいね。ゼレンスキーをはじめとするウクライナの指導者達がサタンに憑かれているので、プーチンに悪魔払いをしてもらうのだそうだ。宗教者なのに、よくそこまで権力者に媚びることができるよね。どういう顔をして、神様の前に出るのだろう。
 キリル総主教は、ローマ教皇フランシスコと対談し、教皇に、
「あなたは、政治の言葉で話している。イエスの言葉で話そうよ」
と言われたそうだ。

 演出に関しては、当事者でもあるので、あまりコメントするべきではないと思う。でも、ちょっとだけネタバレすると、終幕はちょっとグロテスクかも知れない。舞台正面に上から縄が降ろされ、そこに大きなずだ袋が吊される。細長く、中に人体が入っていることを想像される形状だ。
 ドミトリーになりすましたグレゴリーがその袋を剣で刺す。するとそこから血と思われる赤い液体が流れ出て、それが音楽が静かに終わるまで続く。

 観ながら思った。自分は、プーチンの起こしたウクライナ戦争を一刻も早く辞めさせたいと思っているが、では、プーチンがこのような姿になるのを望んでいるか、と問われれば、それだけは嫌だと思っている。
 でも、見よ!ここに流れているのは、たったひとりの血なのだ。しかしながら、この人の決断で、これまでどれだけの人の血が流れたと思っているのか?それらのひとりひとりの命は、権力者の命よりも軽いというのか?否!権力者の命が尊いというのなら、名もない国民のひとりの命も、目の前に吊されている権力者のいのちと同じだけ尊いのではないか?
 権力者が、平民のひとりひとりの命をどうでもいいと思ったとしたら、権力者のいのちも同じだけ軽いというわけだ。

 こんなことをグルグル考えながら、この光景を見ていた。聴衆のみなさんは、嫌ならば目をつむっていれば、音楽は美しく流れている。

 実際ムソルグスキーの音楽は、アカデミックな和声の立場から見ると、変なところはいっぱいあるのだけれど、実に独創的で面白い。美しいところも沢山ある。

 こんな風に、とても今の世相にタイムリーな「ボリス・ゴドゥノフ」が仕上がりつつあります。



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