「リング」と「トリスタン」の解説をしてみて

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「クリスマス・オラトリオ」編集作業
 Nさんから東京バロック・スコラーズの「クリスマス・オラトリオ」の画像ファイルが届いた。いくつものカメラを使って丁寧に撮り、そつなく編集してある。

 この録画撮りの日、僕は新型コロナ・ウィルス絶賛隔離中で(実際にはもう熱もとっくに下がって元気だったのだけどね・・・悔しい!)、指揮を奥村泰憲さんにお願いした。でも、みんな頑張っているし、仕上がりも悪くない。特に10月の終わりから、僕はほぼ毎週練習に出席して、発声に関しても、コロラトゥーラや音符処理に関しても厳しく指導して、
「今年は、これまでから一皮むけた演奏を目指そう!」
とけしかけていた甲斐あって、キリッとした演奏になっている。

 これを僕なりに加工し、解説もつけて作り直し、今週中にYoutubeにして発表しなければ、と思っている。NHK・FMのバイロイト音楽祭2022の録音も終わったので、集中してこれから作業を行おう。

 「クリスマス・オラトリオ」を録画し、ビデオ配信するのは、できれば今年が最後にしたい。本来、このような音楽というものは、教会の聖堂という“実際の空間”の中で、聴衆を目の前に、肌の触れ合いという感覚で味わうものだ。
 しかしながら、コロナ禍で、いろんな方面でオンラインが活躍し、
「これはこれで、いいじゃないの」
という雰囲気が生まれた。
「会議とか、わざわざ集まらなくてもオンラインで充分じゃない」
とか、各方面でそういう声が聞かれる。

 それはそれでいい。でもオンラインやビデオや録音と、いわゆる“生”というものは、比べること自体が無意味なほど、別なものなのだ。最近は僕もZoomで指揮のレッスンをしたり、会議をしたり、時にはSkypeでイタリア語のレッスンを受けたりもするが、たとえば会議では、意見を言おうとする人の直前のオーラが感じられないから、変な間があいてしまったり同時にしゃべったり、イタリア語のレッスンでは、同じ1時間がとても長く感じられてしまう。

 音楽では空間を感じることが大切だ。これはね、CDだけ聴いているクラシック・ファンには感じられない。我々は、ただ音を聞いているのではないのだ。みなさんはどう思うか分からないけれど、僕は特にバッハの音楽が鳴っている空間に、聖霊がうごめいているのを感じるのだよ。

 ま、とはいえ、ビデオはビデオの楽しさもある。画像や動画を入れたり、これから楽しんで編集します。今年ならではの僕からのメッセージも入れます。Youtubeがいつ仕上がるか分からないけれど、「三澤洋史、クリスマス・オラトリオ2022、東京バロック・スコラーズ」などで検索すれば出てくるようにします。

是非ご覧になってください!

NHKバイロイト音楽祭2022放送が始まっちゃった!
 12月9日金曜日に、ようやくNHK・FM「バイロイト音楽祭2022」の「トリスタンとイゾルデ」放送分の収録が終わってホッとして、さてさて実際の放送日っていつなんだろうと、探してみたら、思ったより早かったので焦った!昔は、もっとずっと遅くて大晦日に近かったので、うっかりのんびりしていた。
 実は「ラインの黄金」の放送は、12月12日、つまりこの原稿をアップするまさに“今晩”なんだよね。みなさんは、だいたい火曜日の13日あたりにこの原稿を読むわけでしょう。すると「ラインの黄金」を聴き逃してしまうのか。残念!指揮者コルネリウス・マイスターのことを話したりするからね。
 申し訳ない!ただ放送後一週間は、聞き逃し放送の“らじる・らじる”というアプリで聴けるというから、どうかそちらの方でアクセスしてください。とりあえず放送日と時間を列挙しておくね。

「ラインの黄金」
12月12日月曜日 19時30分から22時10分
「ワルキューレ」
12月13日火曜日 19時30分から23時30分
「ジークフリート」
12月15日木曜日 19時30分から23時45分
「神々の黄昏」
12月16日金曜日 19時30分から午前0時10分

「ローエングリン」
12月17日土曜日 12時30分から16時15分(解説 広瀬大介氏)
「さまよえるオランダ人」
12月17日土曜日 19時20分から22時(解説 広瀬大介氏)
「タンホイザー」
12月18日日曜日 12時30分から15時55分(解説 広瀬大介氏)
「トリスタンとイゾルデ」
12月18日日曜日 19時20分から23時35分

 僕自身が、今晩の12日の夜は、新国立劇場で「タンホイザー」の合唱音楽練習をしているので、生放送は聴けない。明日の晩の「ワルキューレ」は、昼に「ドン・ジョヴァンニ」公演千穐楽なので、夜は空いているから聴けるかな。

「リング」と「トリスタン」の解説をしてみて
 今回は、「ニーベルングの指環」4部作の解説をまず頼まれて、その際に、
「あと、何か手掛けたい演目ありますか?」
と聞かれたので、たまたま8月に愛知祝祭管弦楽団で全曲指揮した「トリスタンとイゾルデ」を指定して採用された。
 今から振り返って見ると、そのお陰で「リング」と「トリスタン」のみに集中することができ、その対比からいろんなことが自分の中でクリアになった。

 この「トリスタンとイゾルデ」だけでも、何度も録音を聴き、元のバイエルン放送協会の音源ファイルに入っている幕間のドイツ語のインタビューを聴き、さらに自分の意見が見当外れのものでないか確かめるために、主としてドイツ語と英語の批評をいくつか読み、どんなコメントを話そうかと試行錯誤を繰り返し、しだいにコメントをまとめていって、与えられた時間の中に収まるように何度も推敲を重ねて、やっと録音に臨んだ。

 「リング」のひとつひとつの作品に対しても同じようにしっかり時間と手間をかけたので、時給に換算すると全然割が合わない・・・と言ったって・・・ワーグナー自身なんか、割が合わないどころか、見ろよ!ドレスデン革命で国を追われたワーグナーは、スイスのヴェーゼンドンク伯爵の処に身を寄せたと思ったら、その奥さんのマチルデ・ヴェーゼンドンクを愛してしまい、その、“道ならぬ恋”に胸を焦がしながら「トリスタンとイゾルデ」を書いたんだ。
 ライフワークである「ニーベルングの指環」を中断してまでのめり込んでしまったわけだが、ということは当然、上演の見通しなんか立つはずがない環境で作っていたので、作曲にかかった時給を計算すること自体がナンセンスである。
 それどころか、きっと、「この作品が売れるか売れないか?」「ギャラをいくらもらえるか?」なんて、彼にとっては「ドーでもいい」ことだったのだね。書かずにはいられなかったから、思う存分書きたいように書いた。何が悪い?チャンチャン、というわけ。

 というわけで、作曲家の想いがハンパでないので、「トリスタンとイゾルデ」は、関われば関わるほどのめり込まされる恐ろしい作品である。指揮をする時は、指揮をするなりに・・・今回のようにコメントする時には、コメントするなりに・・・指揮はまだいいね。自分の想いを自分なりに出せばいいんだから。
 コメントはね、気を付けないと、自分の想いが強過ぎて独善的になってしまうんだ。
「あ、ここの演奏は良くないな」
の「良くない」が本当に「客観的に良くないか」は分からないんだ。自分の好みや勝手な判断の可能性もある。
 
 さて、こうした「トリスタンとイゾルデ」というかけがえのない作品に接してもなお、僕は、ワーグナーの最高傑作は「神々の黄昏」であるという自説をくつがえすつもりはない。何故かというと、「ニーベルングの指環」(リング)そのものが、(「ワルキューレ」は除いて)ある意味、冷徹なバランス感覚に従って書かれているからだ。
 「リング」は、人間の持つ権力志向や様々な欲望が、対立と争いを引き起こし、結局世界を没落に導いていく作品だ。だから奸計、裏切り、猜疑心、憎悪、復讐というネガティブな感情ばかりが描かれており、純粋で感動的な愛を描くシチュエーションが極めて少ない。
 これは逆説的に聞こえるかも知れないけれど、だからこそ、ワーグナーは、熱狂しすぎることなく、自分の提唱した楽劇の理論に従って、ブレることなく作曲できたのだ。特に「神々の黄昏」は、熟練した管弦楽法を伴っていることも相まって、全ての面において巨匠の大成が感じられる。ワーグナー・チューバを含む巨大な管弦楽なのに、ワーグナーの指示通りのダイナミックスに従って演奏してみるならば、管弦楽は決して歌手の歌を覆ってしまうことはなく、全てが適切に聞こえる。
 それに「ラインの黄金」から積み上がってきたおびただしい数の指導動機(ライトモチーフ)を縦横に作品全体に張り巡らせて、隙の無い立体的な音楽を構築しているのには舌を巻く。

 しかしさあ、ワーグナー自身はどう思っているのだろうな?
「いやあ、ゲルマン民族を代表して、北方神話の壮大な世界を描くのがライフワークだったけれど、案外燃える場面がなくてつまんなかったな。やっぱり『トリスタンとイゾルデ』が一番燃えたな。それに『タンホイザー』は、いまだにいろいろ気になっているんだよ。俺自身、まだまだヴェーヌスに惹かれているもんな。ああ、全身を炎に焼かれるような恋をしたい!」
なんてね。

 そんなわけで「リング」では、ワーグナー自身が我を忘れて夢中になるような、純愛の陶酔というものに乏しかったけれど、例外が、「ワルキューレ」のジークムントとジークリンデの許されない純愛と、ヴォータンのブリュンヒルデへの親子の愛だ。
 これを描いてしまったために、本来熱狂しやすいワーグナーの中で、再び「愛のほとばしる情熱をもっと描きたい!」という想いが目覚めてしまったんだな。
 その情熱を彼は「トリスタンとイゾルデ」に向けた。それどころか、彼はさらにそれだけでは飽き足らず、エヴァへの愛を胸に秘めながら、密かに身を引くハンス・ザックスを描くべく「ニュルンベルクのマイスタージンガー」までも続けて作って、随分長い寄り道をしてしまった。
 僕は思う。彼は、ザックスにエヴァを諦めさせることで、マチルデへの想いに、自ら決着をつけたかったのではないだろうか。彼は、そこまでしないでは、彼の人生を前に進めることができなかったのではないだろうか?
 とにかく、その寄り道は必要だったのだ。そして彼は再び、叙事的な「リング」に戻っていって、これを比類の無い完成度を持って仕上げていく。

「トリスタンとイゾルデ」解説の裏話
 さて、「トリスタンとイゾルデ」の解説の話に戻ろう。第2幕第2場について、僕はステファン・グールドとキャサリン・フォスターの2人が絶叫のように歌う個所のサワリを聴かせながら、ワーグナーのバランスを崩した無茶ブリを説明したうえで、8月28日の愛知祝祭管弦楽団で自分が指揮した体験を語った。それは次のようなものだった。(ほぼ本文のまま)

  さて、私事なのですが、私は、今年の8月に「トリスタンとイゾルデ」全曲を指 揮しました。
今聴いていただいた個所のオーケストレーションが厚すぎるので困っている内 に、本番が来てしまいました。
「ああ、オケを抑えなければ・・・」
と思っていたのですが、突然、心の中にある想いが強く沸き起こりました。
「このワーグナーの破れかぶれとも言える熱狂を抑えることは罪だ!」
ついに私は、オケを抑えるのをやめ、ワーグナーの想いを解き放ちました。
その結果、いつも私のワーグナーを誉めてくれる批評家の方から、
「オペラに精通して、常にバランス良く聞かせてくれる三澤さんだが、今回は、 オケの音が大きすぎて歌を覆ってしまった。どうしてだろう」
という辛口の批評をいただいてしまいました。
しかし、ワーグナーがクレイジーになっている時に、私がどうして冷静でいられ ましょう!
 あはははは。ま、そういうわけで、「トリスタンとイゾルデ」の特殊性がよく分かっていただけたと思う。結論から言うと、「トリスタンとイゾルデ」という作品は、「最も優れた傑作」とか「そつのない佳作」のように評価することはふさわしくなく、「希有なる作品」であり「世界にふたつとない作品」であり、問題作であり衝撃作品なのだ。

 収録では語らなかったけれど、ひとつ不可解な点が「トリスタンとイゾルデ」録音には残っている。実は、前奏曲から第1場の若い水夫の裏歌に入る処で、チェロとコントラバスがユニゾンでG-As-G-Es-H-F-As-Gと奏する個所があるだろう。そこがね、何と半音高くなっていて、Gis-A-Gis-E-C-Fis-A-Gisとなっているのだ。それ故、若い水夫のテノールのスィアボンガ・マクンゴが、歌い出しで混乱して音程が悪く、その後彼も半音上がったまま歌い続け、それがイゾルデの歌の直前のオーケストラで、何事もなかったかのように直っているのだ。よく聴いてみると、最後のMaidという歌詞の音が微妙にH近くで飛び込んでいて、オケのBとぶつかっている。
 一体、何でこんなことが起こるのか不可解だ。オケの低弦全員が気が付かないで半音上がったまま弾いちゃいました、なんてプロではあり得ないだろう。そこで僕の推測であるが、何かが起こって、音響技師(ミキサー)が何らかの細工を施したのかも知れない。誰かバイロイト祝祭管弦楽団員の中に知り合いでもいれば、録音を聴かせて話ができるんだけど、こんなことで、ただでさえ短い解説時間を使いたくもなかったので、パスしてしまった。本当はスィアボンガ・マクンゴの歌唱を誉めたかったんだけど、うっかり触れると、耳の良い聴取者から、
「三澤は、あの音の違いを分かってなかったんか?」
なんて思われるのも心外なので・・・。

 また、第1幕第2景で、ブランゲーネがトリスタンを呼びに行って、これはイゾルデ姫の命令だと高飛車に告げると、それに怒ったクルヴェナールが“べらんめえ的”に答えるくだりがあるが、クルヴェナール役のマルクス・アイヒェととオケがめちゃめちゃズレているのがあまりに可笑しいので、解説で曲を聴かせながら、こんな風にコメントしようかなと考えていた。
「ここは普通もっとずっと速くて、さらにアッチェレランドをどんどんかけていく処なのに、ポシュナーのテンポがあまりに遅いため、アイヒェが待ちきれなくて、けしかけるけれどポシュナーは付いて来ない。それでアイヒェが諦めかけると、今度はポシュナーが気を利かせてテンポを上げ、アイヒェが置いて行かれる。こんな感じでイタチごっこをやって、ずっとバラバラ。ブレーキかけるかアクセル踏むかどっちかにせい!というので笑ってしまいました」
 でもねえ、ここも、もっと大切なことが沢山あったので、残念ながらカットした。それに、わざとネガティブなことに触れるのもねえ・・・ポシュナーの評判落とすようなことに加担するようで・・・恐らくポシュナーが飛び込む10日前までは、「リング」の方に呼ばれたコルネリウス・マイスターが練習をつけていたので、コルネリウスのことだから、結構速いテンポでアッチェレランドもたっぷりつけていて、アイヒェもそれに慣れていたのではないかと想像する。

 とにかく、みなさまにおかれましては、是非、御自分の耳で聴いてみてください。自分が指揮していて、こんなにズレたら「人生終わり!」って感じだけれど、野次馬的に聴くと、いやあ、めっちゃ面白いですなあ・・・あ、失礼!

 あと、ステファン・グールドについては、どうしようか迷ったけれど、正直な感想を言ってしまった。NHKもそれを許してくれたんだよ。しかし言い訳するけれど、これは僕の感想というより、ドイツ語をネイティブにするドイツ人の感覚を僕が代弁したに過ぎない。

 第3幕で目覚めてすぐにトリスタンがつぶやくように歌う個所で、彼があまりに堂々と歌ってしまうので、その個所をわざと取り上げて、こう話した。
「発声も良いし持ち声も豊かなグールドですが、だからといって彼を当代一のワーグナー・テノールといって最大限に評価するようなことをドイツ人はしません」

楽譜 第3幕で目覚めたトリスタンがつぶやくように歌う個所
譜例 (画像クリックで拡大表示)

 たとえば最初のdochは本当に短くていいのに、彼はdo--chと長く伸ばしてしまうしweilteもsa-genも語尾がとても長い。特にsagenは、本来8分音符ふたつなのに4分音符のようにして歌い、しかもgenという語尾は、さらに伸びて2分音符のようになっている。 これはドイツ語の語感に完全に反する。しかも瀕死の重傷を負っているトリスタンが、力なくつぶやく場面なので、ドラマのシチュエーションとも全然合わない。僕は、これをひとつの例にとって、全世界に蔓延している「ワーグナー・コンプレックス」に対して警鐘を鳴らした。(以下ほぼ解説の本文通り)
  ワーグナーではオケを突き抜けるような声を出さなければ、という「ワーグナー ・コンプレックス」が世界中に蔓延しています。
歌手もそれを目指しているし、そればかりを望んでいる聴衆も少なくありません。
  でも、ワーグナーが本当に意図していたのは、管弦楽が色彩豊かであるように、 歌手にも、自分の書いたテキストの語感を大切にしながら、きめ細かい表情で歌 ってもらうことに他なりません。
  祝祭劇場のオーケストラ・ピットを作ったのも、その理由からです。
それなのに、その劇場でさらに大声を・・・では本末転倒です。むしろ、きちん とコントロールされた発声で、言葉を大切にしながら歌う歌手が、最大限に評価 されなければなりません。
そして解説の終わりにこう結んだ。
  私は、この解説の終わりに、これだけは言っておきたいと思っていました。
 ということで、時間の制約がありながらも、結構今回は言いたい事を言わせてもらえた。それを許してくれたNHKには本当に感謝している。



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