I have a dream

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

マエストロ・キャンプ早割最終報告
 最近になってバタバタとキャンプの申し込みがあった。しかも、2月末のBキャンプでは、常連客だけではなく、新規の方(弦楽器や合唱指揮者や声楽家など)が何人も申し込んできて、今回のキャンプはとても楽しみになってきた。

 Bキャンプは、ペンション・カーサビアンカの宿泊が基本となっているため、部屋数に限りがある。新型コロナ・ウイルス感染が収まっているわけではないため、ひとり参加の方はひとり使用が基本。まだお部屋に少し余裕はあるけれど、カーサビアンカが満室になると、ご自分で宿を探していただくことになってしまう。
 年内の早割期間(参加費30.000円のところ1割引の27.000円)が間もなく終了することもあり、Bキャンプの申し込みはお早めにお願いします。

 一方、1月7日土曜日から9日月曜日(祝日)までのAキャンプは、「休日をフルに使ってガッツリいこうぜキャンプ!」と名付けている。1月7日午後のレッスンは、8日からのメイン・レッスンに備えてのプレ・レッスン的意味合いがあるため、8日日曜日からの参加も可。その場合の参加費は、35.000円から5.000円引いた30.000円となります。
 こちらは、今のところ申し込みは常連さんのみだが、もちろん全てのレベルで新しい方大歓迎。ただこの期間はカーサビアンカが使えないため、宿泊はご自分で探してください。
詳しくはキャンプ募集要項を参照のこと。

長髪の井上道義さん
 12月18日日曜日。浜松バッハ研究会の練習の帰りは、新幹線の停電騒ぎで、やっとのこと家に着いた。すぐにお風呂に入って遅い夕食を取る。ビールの350ml缶を飲み、それからお湯を沸かして、白霧島のお湯割りを口にすすりながら、
「日曜日か。N響は何をやってんだろう?」
と思ってテレビをつけたら、井上道義さんが出ていた。
「明日会うんだけどな・・・」
と思いながら観ていたら、なんと昔の映像をやり始めた。とっても若い頃。まだ長髪なので笑ってしまった。
 超エネルギッシュな「フィガロの結婚」序曲。それから、僕がベルリン芸術大学指揮科の生徒の時に、カラヤン・コンクールを受けるので一生懸命勉強した思い出のある、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」を、全力投球という感じで実に若々しく振っていた。

今の井上さんの第九
 12月19日月曜日。泉岳寺のN響練習場に行って、第九のマエストロ稽古の前に、井上さんと会った。
「ねえ、引退するとか言ってるけど、どうせ直前になって、やっぱりやめたとか言うんじゃないの?」
「いやいや。よぼよぼになって、早くやめろと言われる前に潔くやめたいの。朝比奈(隆)さんも、立てなくなったらやめるって言っていたでしょ。結局最後は座って指揮したけどね」
「この間、ブロムシュテットのマラ9をテレビで観たけれど、いやあ立派でしたよ。95歳ですよ。ああいうのもカッコいいじゃない!」
N響のマネージャーが、僕の方を向いて、「もっと言ってやって!」という雰囲気で、笑顔でうなづいている。
「でもね、最小限の動きでとか、目で合図とか、オーラでとかいうの、ヤなの。自分の体で表現出来なくなったらもういいんだ」
と、きっぱり言う。お、案外本気なんだと思った。だったらなおさら、期日なんて決めないで動ける内はやればいいんだけどなあ・・・。

 こんな風に、井上さんって僕より10歳も歳上なのに、なんかタメ口みたいなノリでしゃべれるんだ。彼も僕のことを「三澤!」って呼び捨てにして、思っていること遠慮なく言うので、こっちもズケズケ言う。失礼かな?と思っても全然気にしている風ない。ものの言い方とか態度とかとっても変だけど、僕は彼のことが大好き。向こうも気が合うと思ってくれているみたい。

 東京オペラ・シンガーズ40人、新国立劇場合唱団40人を束ねるのは楽ではなかった。合唱に対する美意識が全く違うから。シンガーズの方は、ソリスト級の声が出るメンバーを集めて音圧で勝負という感じだが、僕は、合唱としての響きの統一感や、テキストのきめ細かい表現が欲しいので、新国立劇場のマネージャーは、僕が途中で我慢の限界に達してキレるんじゃないか、などと心配していた。実は僕自身もちょっとは心配していた。

 しかし、そんな心配は無用であった。元々僕は、新国立劇場合唱団の指揮者になる前に、何度となくシンガーズの合唱指揮をしていたし、若いメンバーの中にも、二期会に出入りしている人や、昔、僕が東京芸大の声楽科合唱を受け持っていたときに生徒だった人たちなど知り合いが少なからずいて、みんな素直に言うことを聞いてくれたよ。

 まあ、それでもね、二重フーガのテノールのSeid umschlungenのハイA音の出だしでは、初回の練習で僕は即座に止めてこう言った。
「あのね。その響きは合唱では決して使ってはいけないの。どんな良い声でも。誰と誰の声って分かるじゃないの。よくレベルの低い素人合唱団の中にひとりくらいいるでしょう。演奏会終わって友達に『俺の声、聞こえた?』って訊く奴。
 僕たちが今作っているのは、そんなレベルの合唱じゃない。なるべく音色を溶け合わせて、ひとつの方向を向いて表現を作る。バレエの群舞と一緒。集団としての表現。といっても声を半分に落とせとは言わない。95パーセントまでは出して良い。あとの5パーセントを使って、ひたすらまわりの声を聴いて自分の声を溶け込ませることや、言葉をクリアに出すことや、徹底的に声を自分のコントロール下に置くことに専念して欲しい。それがプロというものだ」

 ということで本番が来た。僕はふたつ驚いた。ひとつは井上さんがとても元気なこと。もうひとつはN響の響きが変わったこと。

 井上さんは、桐朋学園のサイトウ・メソードには珍しく、“先入”という振り方をしない。“先入”とは、小澤征爾さんの振り方を見てみれば分かるが、1拍目の瞬間にはもう棒が跳ね上がっていて、「1と」の時には、すでに2拍目の点に棒の先が着いているような振り方。僕が自分の指揮メソードで、これを極力避けるのは、これだと、オケのタイミングを合わせることはできても、音楽的フレージングやラインが描けないこと。
 井上さんの指揮は、格好がなんかおかしい・・・というか、はっきり言って時々とっても不格好でユーモラスでさえあるんだけど、先入がないため、描くラインはとてもクリアできれい。それ故、意図する音楽的方向が良く分かって実に説得力がある。
 若い時は、とにかくパワーで直球という感じだったけれど、もの凄く進化していて・・・とはいえ巨匠の貫禄とかいう種類のものではなく、依然若々しく新鮮で、感動的なベートーヴェンの世界を紡ぎ出していく。

 もうひとつの驚きは、N響が完全に若返って別のオケになっていること。それもそうだ。僕も67歳だろう。ということは、僕の年代の人は、みんな定年で辞めてしまったので、自分より若い人しかいないんだね。そして音もフレッシュで輝かしい。
 「うまい日本のオケ」という表現はもう適さない。つまり、サッカーで言えば、長友佑都や吉田麻也みたいのがいっぱいいる感じがして、インターナショナルなテイストを持つオケへと変貌を遂げている。

そのN響が、井上さんと互いに楽しみながら化学反応を起こしている。こんな楽しいことはない。

 演奏会初日は12月21日水曜日。22日木曜日はカメラ・リハで、テレビ録画は12月24日の昼公演。24日の夜、立川教会の降誕祭のミサに行ったら、妻と長女の志保が、
「生放送で聴いてたよ」
と言う。あ、そうか・・・テレビ放映は大晦日の夜だけど・・・ということは、これも「聴き逃し放送らじる・らじる」で聴けるんだ、と気が付いて、早速聴きながら録音した。一週間は聴けるというから、金曜日までは聴けますよ、みなさま!

ベートーヴェンの音楽が問いかけるもの
 僕は、この新しい第九の演奏を聴きながら、あらためてベートーヴェンの音楽に深く感動した。ベートーヴェンの音楽は、他の作曲家の音楽と何もかも違う。ひとつひとつの音が意味を持ち、意識の重さを持ち、ひとの心の扉を無遠慮に明けて土足で上がり込んでくる。時に胸ぐらをつかみ、
「俺は、こう思うんだあ。どうだ、まいったか!」
という感じ。

 第1楽章を聴いていると、人生は荒波を航行するようなものだなあと思う。親は子供に、できれば苦労させないで人生を渡っていって欲しいと願うだろうが、逆にそれでは、魂にとっては益がないのだ。
 沢山の障害が自分に立ちはだかって、それを克服していってこそ、人生は生きる価値がある。なかなか思い通りにならないからこそ、忍耐が生まれ、人間性が練られ、人に対しても包容力が生まれる。でもねえ・・・あんまりうまくいかないと辛いよねえ!
 第2主題のように、束の間安堵の瞬間もあるけれど、ベートーヴェンそのものが、立ち向かってくる運命に孤軍奮闘って感じ。展開部なんてもの凄いよね。
「くっそう!俺は諦めないぞ!」
とベートーヴェンは怒鳴っている。

 第2楽章は、ひたすら切磋琢磨。1に努力、2に努力。自分を磨いて鍛えて高みを目指す。そして中間部に飛び込んでいくと、あれれっ?なんか楽しくなってきたぞ。井上さんは、「踊るように」ではなくて本当に踊っている。
 それを見ている内に、
「ああ、これは農民の踊りなんだ」
と思った。日本のお祭りと一緒。民衆のエネルギーの発露。ベートーヴェンにとってみると、民衆の中に入り、民衆と共に歩もうとする宣言。
これが第4楽章の「抱き合おう!Seid umschlungen!」につながってくるわけだな。

 第3楽章については、僕はこれまで、恋愛も含めたところの「個人的幸福の成就」と思っていた。だからそれは、いったん第4楽章で否定されて、
「個人的なしあわせをひとりで享受することを最終目標にしないでくれ。むしろ、みんなが幸福に暮らせるような世界を目指して、具体的な行動を起こそう!」
というものだと思っていたけれど、井上さんの演奏を聴いていて、むしろこれは宗教的あるいは内面的法悦の世界だと思った。
 それだったら、それは否定されるものではなく、むしろその法悦と歓喜を内に抱き、それをモチベーションの根源としながら、心を世界に向け、世の中と関わっていこう、という風に捉えられる。この違いは、案外大きいな。

 そんなわけで、第4楽章に辿り着くと、いよいよベートーヴェンの想いが炸裂する。第1楽章からのモチーフの回想の後の低弦のレチタティーヴォは、それぞれを否定するのではなく、むしろ第4楽章の認識に至るまでのプロセス、すなわち人間的成長の軌跡を振り返っているのである。それから、「歓喜の歌」が遠くから静かに聞こえてくるのである。

歓喜の歌と僕たちが生きている世界
 「おお友よ、このような音ではなく」と、バスのゴデルジ・ジャリネーゼが歌い始めて、交響曲に歌声が入ってきた。我らが東京オペラ・シンガーズ+新国立劇場合唱団は、落ち着いてきめ細かく、ベートーヴェンの想いを解き放ってくれた。結構、胸が熱くなった。“うた”って、器楽に比べて、本当に直接的に僕たちの心に入ってくるものなんだね。聴きながらすぐウクライナの人たちのことを思い出した。

写真 N響「第9」演奏会 カーテンコール
N響「第9」演奏会

 ロシアからのミサイルによる卑怯なインフラ攻撃を受けて、極寒の国で今、電気もなく寒さに震えているウクライナの人たち!このクリスマス期間でさえも、手を緩めることなく、ミサイル攻撃を続けているロシア。その、何処に飛んでくるか分からないミサイルに怯えて夜も眠れない人たち。一方、愛する人たちと離れて、行きたくない戦争に駆り出されて、明日の命をも知れない双方の兵士達。
 それらを考えるだけで胸が痛む。遠く離れた日本で、何の心配もなく生きていること自体に罪悪感を覚えるような気持ちだ。

「喜び、それは神々の火花、楽園の娘」・・・なんと遠く隔たっていることだろう!
「幾百万の人々よ、互いに抱き合おう!」・・・なんと遠い理想なのだろう!

 残念ながら、僕たちが今生きているこの世界は、理想郷とはほど遠い。なかなか終わりの見えない新型コロナ・ウィルスの感染。そして、あろうことか、2月終わりから突如始まったロシアのウクライナへの軍事侵攻。世界は、そのようなネガティブな問題に、何ら解決の糸口を見つけられないまま、2023年に突入しようとしている。

何故、こんなことになってしまったのだろう?

一方では、呑気に、
「人類はアセンションを遂げている」
なんて言っている人もいる。
だったら、こんな世の中になどなっているはずがない。

ただ、ひとつの希望はある。

 この、すべてネガティブな状況が、もしかしたら反転する可能性があるかも知れない。いや、それはすでに始まっているかも知れない。たとえば中国。白紙のデモで民衆が立ち上がったではないか。それを習近平は弾圧できなくて、ゼロコロナ政策を突然緩和して、さらに感染者が膨れ上がり、死者も急増して、まずます無様な状態になっているではないか。
 ロシアの侵攻は、2日でキーウ制圧などと言っていたが、見事な失敗に終わっていて、もう1年も経とうとしているではないか。
「NATOが東側に拡大してきたのが、ロシアにとって脅威だ」
というのが、ウクライナ侵攻の理由だったはずだが、侵攻したことでスウェーデンとフィンランドがさらに加盟することが決まり、“やり損”だったのは明白だ。

要するに、「これでは駄目なんだ」ということが、自然に積み重なってきているではないか。

I have a dream
 僕は、人類を信じる。
これらのネガティブなことを通して、人類がいつか必ず、あるべき認識に辿り着き、ベートーヴェンが望んだような世の中が訪れることを本気で信じ、待ち続ける。
 それが、僕の生きている内だったら、もちろんいいけど、そうでなくともいい。でも、少なくとも、そちらに向かい始めるのを生きている内にできれば見たいし、そのために、ほんの少しでも、また拙くとも、自分のできることで、手を差し伸べたい。

 みんなは信じないかも知れないけれど、音楽家の僕は、自分が音楽をすることで、人類の意識を変えられると信じている。だから音楽家をやっている。

命尽きるまで、歩み続けたい。
これが、僕の来年への抱負、願い、祈り。

だから僕は、ヨボヨボになっても引退はしないよ。



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