「タンホイザー」立ち稽古始まる

三澤洋史 

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日常への回帰
 1月10日火曜日。Aキャンプが終わり、里に帰ってきても、午前中は「今日この頃」の更新原稿を書いていたので、まだ雪山の余韻が残っていた。

 けれども、午後になって外出し、新国立劇場楽屋口を通る時に、プシュっと手の平の消毒をして、体温測定器に体を近づけ、ディスプレイに映し出される35度台の体温に、いつも通りあきれて笑いながら通り過ぎると、もうそこは僕の職場。
 14時からの「タンホイザー」の音楽稽古が、何事もなかったかのように始まった。2日後に迫る「立ち稽古」のために、何度も同じ個所を繰り返す暗譜稽古を行う。
「今日は譜面を見ながら歌う最後の稽古です。明日は、こちらを向いて歌うんだよ。要するに、明日は暗譜稽古ではなくて、みんなが暗譜しているのかの『確認稽古』だからね」  

「タンホイザー」立ち稽古始まる
 10月12日木曜日の立ち稽古は、ソリストを優先してトリとなったので、合唱の立ち稽古初日は13日金曜日となった。

 稽古場に行くと、指揮者のアレホ・ペレス氏と会った。1974年5月4日アルゼンチンのブエノスアイレス生まれというから48歳か。細身なので見かけはもっと若い感じがする。ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルと共に「ファウスト」などで成功を収めた他、オペラ及びコンサートで活躍中だ。スペイン語を母国語とするが、僕とはドイツ語で会話する。

 写真 「タンホイザー」チラシ裏面 スタッフ、キャスト、あらすじ、日程の紹介
「タンホイザー」スタッフ&キャスト

 その日は、男声合唱だけで第1幕と第3幕の巡礼合唱。ペレス氏の音楽作りは繊細で、弱音の魅力を引き出し、フォルテとのコントラストを強調する。それが僕にとっては、とても有り難い。
 何故なら、この「タンホイザー」合唱指揮は、僕にとっては久し振りの古巣(純粋新国立劇場合唱団)における、自分の“いま”を測る真剣勝負となるからだ。どういうことかというと、僕にとって、前回の「タンホイザー」は、もう2年前になるが、二期会公演だったので二期会合唱団との共演だった。また、一番近いワーグナーの合唱指揮を手掛けた「パルジファル」は、新国立劇場合唱団と二期会合唱団との合同であった。ワーグナーではないけれど、ごく最近のNHK交響楽団第九の合唱団は、新国立劇場と東京オペラ・シンガーズとの合同であった。

 他団体で合唱指揮をすることを僕は厭わない。それどころか、そういった一期一会の機会に僕は喜んで飛び込んでいく。新しい出遭いから得るものも大きいし、これまで考えていなかったことに気付かされることも多々ある。
 しかしながら、同時に僕は新国立劇場でもう20年以上も合唱指揮をしている。そこで、最近いろいろ関わった他団体(そういえば東京混声合唱団との共演もあったな)からの刺激を踏まえて、あらためて、僕が最も心酔するワーグナーの音楽で、新国立劇場合唱団と共にもう一度真剣勝負を賭けたいのだ。

 その際に、ダイナミズムばかりを要求する指揮者が来てしまったら残念だったろうが、ペレス氏のような繊細なマエストロと共に音楽を構築できるのが幸運だと僕はいいたいのである。

 ゴーマンのそしりを覚悟して皆さんに言いたいが、どうか我が新国立劇場合唱団の“巡礼の合唱”のきめ細かく芳醇なサウンドを聴いていただきたい。男声合唱というものは、倍音が勝負なのだ。バスからだんだん上に倍音を多く含む音色を積み上げていったならば、合唱が作る実音の1オクターブ上に、そっくり倍音による音像ができる。これが男声合唱の輝きを作り、それと実音とのミックスにより、ふくよかさや豊かさに溢れた理想的な男声合唱の“おと”が出来上がるのだ。

 思い起こせば、県立高崎高等学校合唱部における“男声合唱の初体験”から始まり、六本木合唱団や東大OBアカデミカ・コールなどを通して、こよなく男声合唱を愛し続け、常に男声合唱の理想的サウンドとは何ぞやを追求し続けてきた僕の辿り着いた“いま”の姿です。

 話はちょっと変わるが、今、全国的に有名になっているラスクのガトーフェスタ・ハラダというのがあるでしょう。あれって、実は、僕の生まれた(当時は群馬県多野郡新町だったけれど)高崎市新町にあった、「美味しいけれどフツーのパン屋」だったのだ。でもね、その包装紙に書いてあった言葉が、子供の頃から常に僕の心を捉えていた。
これでいいということはないが、これが今の私の精一杯の姿です
(相田みつを)
 こうした姿勢が、代替わりしてラスクで大フィーバーし、今のガトーフェスタ・ハラダに受け継がれているわけだけれど、僕もこの言葉と共に生きてきたし、この歳になっても、その言葉を胸に、こうして音楽に向かい合っている。

 さて、1月14日土曜日午後は、女声も入って有名な第2幕歌合戦の場面。この混声合唱のサウンドも、マエストロはとても気に入ってくれた。ワーグナー合唱の定番中の定番といえるものであるが、ここでも響きの安定性及び繊細さと大胆さが同時に聴かれるのではないだろうか。

ツッコミ処満載の「タンホイザー」
 「さまよえるオランダ人」もそうだけど、男の罪を清らかな女性に救ってもらおうとするワーグナーの甘ったれた根性には、同じ男として許せないものがあるが、音楽が素晴らしいため、「ま、いっか」となってしまう。

 歌合戦の最中に、タンホイザーが呼ばれもしないのに乱入して、ヴォルフラム達が歌う純愛を嘲り、
「快楽のない愛なんて絵に描いた餅!」
と言ったあげく、とうとうヴェーヌス賛歌を歌い上げ、ヴェーヌス・ベルクにいたことを言ってしまった!
 女声達はひとり残らず逃げ去ってしまい、男たちは怒りのあまり剣を抜いてタンホイザーに迫る。その時、ひとりの女性が躍り出て、
「やめなさい!」
と威圧的に制する。一同驚愕に打たれ、
「エリーザベト!何故?清純な乙女がこんな罪人のために?」

 こんなしょうもない男をここまで庇うモチベーションが、どうしてエリーザベトにあるのか?というところに、この作品のリアリティのなさがあるのだが、ワーグナーの側からすると、
「こんなに悪いことをしても、許してもらえるのだろうか?」
という大真面目な宗教的疑問を、この作品に投げかけずにはいられなかったのだろうな。

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
(マタイによる福音書18章21-22)
 そして、キリストが《人類の罪のために》その身を犠牲にしたように、エリーザベトという無垢な女性の一方的ともいえる犠牲が必要だと、ワーグナーは考えたのである。ワーグナーに登場する多くの女性がそうであるように、その辺にいそうなリアリティを持った女性ではなく、観念的な存在なので、ワーグナーの作品に馴染みがない人にとっては、捉え難いわけだ。
 それに、エリーザベトが何故死んだのかという死因もはっきりしない。彼女は要するに、タンホイザーのために祈って・・・祈って・・・祈って・・・死んだのである。だから、ローマに巡礼に行ってローマ教皇にまで会ったのに赦されなかった罪が、その犠牲死によって天から赦され、枯れた杖に緑が芽吹いたというわけである。

 それにしても・・・カトリック教会的に考えた場合、この作品にはある重大な過ちがある。それは・・・ローマ教皇には「人を赦さないという権利」はないということである。本当は、人を赦す権利もないはずなのだが、それについては、先に掲げたマタイ福音書でイエスが言った言葉などに従って、司祭をはじめとする聖職者に、イエスの代理人として「赦しの秘蹟」というものが与えられているので、可能である。

 しかし、「タンホイザー」で語られていることを見てみると、ローマ教皇は、明らかに越権行為を行っている。その教皇謁見の様子を具体的に想像すると、実にユーモラスでさえある。
「何?お前はヴェーヌス・ベルクに行ったと?そんな良い処に・・・ずるいずるい・・・俺も行きたかったのに・・・悔しい!・・・だから、そんな奴は絶対に赦してなんてやるものか・・・は!バーカバーカ!これから枯れた杖を渡すが、その杖に鮮やかな新緑が芽吹いたりしたなら話は別だが(へへへ、そんな事起こりっこもないわ)、さもなければ、お前の罪なんか永久に赦されることはないんだよ。おとなしく地獄へ行くがいいわ。はい、さよなら。では次の方どうぞ!」

 教皇の言葉には意図的な悪意が感じられないかい?また、その後がもっといけない。あれほど苦労してローマまで行ったのに、罪を赦してもらえなかったタンホイザーは、再びやけっぱちになってヴェーヌスを求めるのだ。もうこういう状態になったら普通終わりでしょ。
 ところがエリーザベトの献身的な祈りで、あろうことかその枯れた杖に新緑が芽吹いたのである。まさに究極的ドンデン返し!ざまあ見ろ教皇!
「やーいやーい、俺だって救われたのさ。ヴェーヌス・ベルクへ行って・・・さらに救われたのさ。まさに“やり得”」
こーゆー物語展開、絶対良くないよね。

 ところがね、これをワーグナーの音楽と共に味わうと、悔しいけど感動してしまうのさ。その感動してしまう自分がまた赦せない。赦されるのか?赦されないのか?自分がそれを赦せるのか赦せないのか・・・こんな堂々巡りをしてしまうのが・・・「タンホイザー」の魅力というわけです。チャンチャン!

 これまでは、ソリストと合唱の立ち稽古は、混乱を避けるために別々に行われていたが、今日から両者合体して行われる。僕がNHK・FMの「バイロイト音楽祭2022」の解説で、ちょっと批判的な事を言ったステファン・グールドも来る。先日、音楽稽古の休憩時間に立ち稽古を覗きに行ったが、元来美声なのは間違いないが、やはりやや声を押していたなあ。
 会うなりツカツカツカと寄ってきて、
「お前、俺の悪口を言ったろう!」
と言われたら困るな。まあ、仲良くやろう。

 今日(1月16日月曜日)の午後は、第1幕巡礼シーン及び、第3幕巡礼シーン及び「タンホイザーのローマ語り」から、ラストの新緑の芽吹いた杖とタンホイザーの死のシーンまでの予定。
 明日(1月17日火曜日)が第2幕。歌合戦のシーンは、合唱だけで行われた立ち稽古では整然としていたが、大勢のソリスト達が入ってきて合同となると、ワサワサしてまた一筋縄ではいかないだろう。それを演出補の澤田康子さんは、きっと涼しい顔で裁いていくのだろう。

 昨年の秋から、規制がだんだん緩くなってきて、この「タンホイザー」では、舞台上でのソーシャル・ディスタンスが基本的に完全撤廃となった。そのために毎日の体温報告は欠かせないし、PCR検査も頻繁にやるのだけどね。
 なんかソーシャル・ディスタンスに慣れてしまっているので、みんなが密集しながら歌っているのを見るだけでドキドキする。合唱団員も、
「なんか怖いよね。うわっ、隣の人の唾が飛んできそう!なんて思いながら、自分も人に唾かけて歌っているんだもんね」
と言っている。

ストイックな独りスキー
 その後1月18日水曜日がオフで、19日木曜日からもう舞台稽古だ。その18日のオフ日にはガーラ湯沢スキー場に滑りにいく予定。すでにヤマト便で板を送ってある。
 スキーは、家族で行ったり、キャンプだったりするのも楽しいのだけれど、独りでいくとなると、意味が全然違う。結構僕はストイックでガンガン休みなく滑る。
 みんなで滑ってふくらはぎや腿が痛くなることはほとんどないが、ひとりではよく痛い。だから恐らく滑り終わった後、「ガーラの湯」に入って揉みほぐしてから新幹線に乗るだろう。練習するに相応しい良いコブが出来ているといいな。

 そういう独りスキーは今シーズン初めてだから、とっても楽しみな反面、気持ちを引き締めてもいる。リフトに乗っている時には瞑想している。大自然に包まれて意識は研ぎ澄まされ覚醒していく。最もアクティブな自分は、同時に最もパッシブとなっていくのだ。



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