アムネリスという生き方と終幕について

 

三澤洋史 

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アムネリスという生き方と終幕について
 昨日4月16日は日曜日だったこともあり、「アイーダ」公演のチケットは、聞くところによると公演が始まってから確認したら、99.999...%の入りで、つまり、わずか1席だけ空席だったという。
 オンラインのチケット前売り状況は、連日×だったそうだが、数日前にいきなり△になって4席出たと思ったら、たちまち×になり、また返券が出て、また×の繰り返しで・・・という、ほとんど前代未聞の売れ行きだったという。
 コロナ禍で、みんな自粛を余儀なくされ、地下でくすぶっていた情熱が一気に吹き出したのだろう。ブラボーも解禁になって、終演後のカーテンコールにも活気が戻ってきた。 そんな中、僕たちは未だにほぼ数日毎にPCR検査を強いられているが、ここのところずっと「全員陰性」状態が続いている。助演も含めて、あんなに人が出入りしているのにだよ・・・。ともかく、嬉しい限りだ。

 さて、第4幕第1場は、タイトルを付けたならば「アムネリス」だろうな。エジプトの王女という地位も名誉もあり、好きなものはなんでも手に入る立場にありながら、唯一ラダメスの心だけはどうにもならない。
 そのラダメスが、国を裏切ってこれからの裁判で死刑になることがほぼ決まっている。アムネリスは衛兵に命令して、ラダメスを連れて来させ、二人きりになると、
「アイーダを諦めるならば、あなたを死刑から逃れるようにしてあげる」
と詰め寄るが、ラダメスは言うことを聞かない。
「僕は死ぬ覚悟ができている。あの人のために死ねるなら、むしろ無常の喜び」
と答える。アムネリスは何度も問い詰めるが、らちがあかないことに業を煮やし、とうとう彼女は、ラダメスを裁判に引き渡してしまう。

ひとり残されたアムネリスの言うセリフに、僕はいつも笑ってしまう。
(soffocata dal pianto) (涙に息を詰まらせて)
E in poter di costoro あいつら権力者たちの中に
Io stessa lo gettai! 彼を投げ入れたのはあたし自身よ!
Ora a te impreco. 今となってはお前を呪うわ
Atroce gelosia, 残忍な嫉妬心よ
che la sua morte お前が彼の死と
E il lutto eterno del mio cor segnasti!   あたしの心に永遠なる悲しみの痕跡を残したのよ
 いつの間にか「嫉妬心」に責任をなすりつけている。いやいや・・・その嫉妬心を持っているのは、あなた自身でしょ。

 こういう表現って、イタリア・オペラ独特である。もっとひどいのが「ドン・カルロ」の中にある。主人公カルロに横恋慕しているエボリ姫のアリア。エボリ姫は、フィリップ王に妃のエリザベッタとカルロの仲を疑わせるような細工をする。そのことについては、一応後悔するのだが、同時に、エリザベッタには、王と不倫の仲であったことも告白する。そして歌うのが、有名なアリアO don fatale(運命的な贈り物よ)だ。
O don fatale, o don crudel, 運命的な贈り物よ 残忍な贈り物よ
che in suo furor mi fece il cielo!     天があたしに 怒りと一緒にくださったの
Tu che ci fai sì vane, altere, お前は あたし達を 虚栄と尊大に駆り立てる
ti maledico, ti maledico, お前を呪うわ お前を呪うわ
o mia beltà. あたしの美貌よ!
 ええっ?悪かったのは、すべてあんたの美貌のせいなんだ。へー、そうなんだ?これ、一応反省のアリアなんだけど、もの凄い責任転嫁だと思わない?こうしたセリフが、その後の「アイーダ」のアムネリスでも繰り返されて、誰もおかしいと言わないのかね。不思議だよね、イタリア人!ちなみにドイツ・オペラとか、他の国のオペラではないね。こういう表現。

 僕は、「アイーダ」に、ヴェルディの全作品の中で、一番「死の匂い」を感じる。ヴェルディは、1872年にミラノ・スカラ座で「アイーダ」を初演した後、富も名声も築いたことに満足して、サンタガタの自分の農園に引っ込んで余生を送ろうとした。
 その後すぐ、1873年に尊敬する作家であるアレッサンドロ・マンゾーニが亡くなったため、レクィエムを書いてはいるが、オペラに関しては、1887年「オテッロ」の初演まで、なんと15年もの間筆を折っていたことになる。

 この「アイーダ」と「レクィエム」に流れているトーンが共通している。それが「死の匂い」だと僕は言いたいのである。「アイーダ」の終幕の不思議さも、それを裏付けているように思われる。地下牢に閉じ込められたラダメスが失意に沈んでいると、あろうことか、前もってそこに隠れていたアイーダが出てくる。
 ふたりは永久にそこに閉じ込められたまま、緩慢な死を迎えなければならない。地上では神への礼拝の合唱が響き渡る中、静かに幕が降りる。普通のオペラのように、劇的な死を遂げるわけではない。
 ト書きに寄ると、一応アイーダはラダメスの腕の中で息絶えることになっているが、そんなことはどっちでもいいね。むしろ死への予感の中で終了するというのが、余韻があっていい。こんな作品はとても珍しい。

アイーダとラダメスの二人は、閉ざされた地下牢で歌う。
si schiude il ciel e l'alme erranti… 天が開き さまよえる魂は
Volano al raggio dell'eterno dì. 永遠の日の輝きに向かって飛んでいく
… il ciel…… si schiude il ciel! 天が・・・天が開き

アムネリスは地上で祈っている。
Pace t'imploro, 平安をお願いします
… pace, pace… 平安を平安を・・・
… pace! 平安を・・・
合唱が裏から響き渡る。
Immenso Fthà!    偉大なるプタハの神よ!
 この最後の変ト長調というフラット6つの調性がたまらないね。深みがあり、とても精神的な感じが漂う。

 さて、新国立劇場の「アイーダ」は、あと4月19日水曜日夜公演と21日昼公演の2回を残すのみとなった。無事、千穐楽を迎えたい!

ロ短調ミサ曲本番一週間前
 4月15日土曜日。浜松アクトシティ大ホール・リハーサル・ルーム。朝10時から12時まで、ピアノとオルガン伴奏による浜松バッハ研究会の合唱練習。昼食をはさんで13時からオーケストラが入り、最初は合唱とのオーケストラ合わせ。15時からソリスト達が参加してアリア及び重唱の練習。

 午前中の合唱練習は、演奏会を1週間後にひかえて、東京を初めとして各地方からのエキストラも加わり、練習に熱が入った。特に難しい箇所の抜き稽古。CredoのConfiteorから始まり、SanctusのPleni sunt coeli et terra、Osanna in exceisisあるいはGloriaのCum sancto spirituなどの対位法的箇所を抜き出して、曖昧な箇所を徹底的に洗い出して練習した。

 白馬五竜スキー場に行ってコブと格闘してから、もう一週間以上経つが、どうもコブを滑ると、こうした複雑なフーガのような音楽に対する聴覚が鋭敏になるようだ。細かいリズムのズレや音程の悪さが気になって、何度も繰り返し、テクスチュアがクリアになるまでは満足ができなかった。
 ここまで出来ないと気が済まない、というこだわりが指揮者には必要な気がするが、それをスキーが・・・特にコブが助けてくれたとしたら、何て有り難いことだ!

 それにしても、バッハのフーガは、同じバロックでも、ヘンデルなどと比べて躍動感が際立っている。Confiteorのやや伸びやかなモチーフに、in remissionem peccatorumの弾むリズムを持つモチーフが絡んでくると、その二つの異なったキャラクターの組み合わせが、ひとつの運動性の“場”を作り出す。
 Cum sancto spirituの後半のフーガでは、本当のテーマを丸ごと演奏するパートと、テーマの冒頭だけを、まるで“おとり”のように演奏して、
「騙されたね、バーカバーカ!」
と嘲りながら中断するパートが重なり合っている。
「本物は誰だ?」
って感じである。

 そうした遊びの精神に満ちていて、しかも、めちゃめちゃリズミックなので、本当に、まるでゲレンデにいてコブと格闘しているようなスリリングな気持ちを味わえるのである。
「バッハは精神性の高い音楽だから重厚に」
と思っている人がいたら、大間違いである。バッハの音楽の崇高さを疑う者はいないが、彼の場合は、何のしがらみにも捕らわれず、心が完全に解き放たれている境地にあるので、魂は軽くしなやかで、全き自由さの中で飛翔しているのだ。
 そんなバッハを聴いてみたいという人がいたら、是非4月22日土曜日、浜松アクトシティ中ホールに来て、コブを滑っているようなバッハを聴いてください。

「ザ・シークレット」について
 白馬で角皆優人君が言った。
「三澤君、『ザ・シークレット』という本、知ってるよね?」
「ああ、昔読んだよ。多分家にあると思う」
「僕も以前読んだけど、全く何言ってんだか理解できなかった。でも、最近読み返したらね、全部とても良く理解できるんだ。もう一回読んで見てよ!」
それで東京に帰って探したら、なかった。すると家内が言う。
「あ、それね、多分杏奈が持って行って読んでいると思う」
「へえ、杏奈が・・・」
それで、Kindleにdownloadして読んで見た。

 理解するもなにも、今、僕は、まさにこのロンダ・バーン著の「ザ・シークレット」(角川書店単行本)のように生きている。ここで最初に言われる「引き寄せの法則」は、ごく普通に理解し、そのように行動している。
「意識的なものであれ無意識的なものであれ、今自分が強く想い、信じて願うものは、必ず引き寄せられてくる」
という宇宙の原理。
 その原理は、バシャールの言うこととも一致している。すなわち、今自分が一番ワクワクするものを全力ですること。そして結果を問わないこと。そうすれば、本当に自分にとって必要なものを次々と引き寄せてくる、というセオリーである。

 考えてもごらん!僕が一番ワクワクするスキーをしに白馬へ行った。そこで、僕は、先ほども書いたようなロ短調ミサ曲へのエネルギーをもらったし、さらに、そこで角皆君から「ザ・シークレット」の話を聞いた。
 もうそれだけでも充分でしょ。だから人生に無駄なものは何一つないんだ。僕は、またひとつ、この生き方が全く正しいのだという確信を天からいただいた。

 ひとつだけ欠点がある。いや、欠点と呼ぶようなものではないんだけどね。「ザ・シークレット」もバシャールの言っていることも、あまりに単純なので、もっと複雑な宗教理論や哲学論を望んでいる人には、「ふ~ん・・・」で終わってしまう可能性があるのだ。 でもね、世の中、本当に大切なことが、複雑なはずないんだ。あまりに簡単で、見過ごしてしまうようなことだからこそ、知性があってもなくても、若くても年寄りでも、誰にとっても“真理”と成り得るのだ。
 さらに、それに従った行為の第一歩を踏み出すだけで、結果はすぐ現れ、もう疑問の余地はなくなる。信じる者は、ますます信じる者になる。それこそが、仏陀が悟った後すぐに説いた“因果の法”であり、イエスが最初に説教で述べた、
「求めなさい。そうすれば与えられる」
という言葉の真意である。



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