「リゴレット」初日間近

三澤洋史 

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オペラ劇場での用語
 5月14日日曜日。新国立劇場では、「リゴレット」がオーケストラ付き舞台稽古に突入していた。案外、一般には知られていないが、オペラ業界の人たちが普通に使っている業界用語を今日は紹介しよう。これを使えないとオペラのプロとは見なされない。何故か、みんなドイツ語なんだよね。

 音楽稽古はMusikalische Probeで、立ち稽古はSzenische Probeだが、これは日本ではあまり使われない。普通に“音楽稽古”と“立ち稽古”と言うだけ。しかし、立ち稽古期間の後の、歌手とオーケストラでの合わせ練習はSitz Probeジッツ・プローベ(座っての練習)と特別に呼ばれる。

 それから舞台装置の揃った劇場空間に移ってのピアノ舞台稽古となるが、その最終日は、衣装を着けての通し稽古になるので、この時だけ特別にKHPカーハーペーと呼ばれる。すなわちKlavier Haupt Probe「ピアノ主稽古」。
 それからオーケストラが入っての舞台稽古となる。ちなみに、ピアノ舞台稽古までは、進行を仕切るのは演出家だが、オーケストラが入ると練習を止めたり直したりする権限が指揮者に移る。オケ付き舞台稽古はBOべーオー(Bühnen Orchester Probe直訳すると舞台オーケストラ練習)と呼ばれる。BO最終日も衣装付きでノンストップ(何故かノンストップだけrun throughランスルーと英語で呼ばれる)である。

 そしていよいよ、日本でもゲネプロと呼ばれるGPゲーペー(General Probe総練習)となる。コロナ禍で滞っていたが、GPは通常招待客を入れて、完全に本番と同じようにやるため、よほどの事故でも起きない限り進行を止めないのが原則だ。
 歌手及び演奏者は、次の出番までどのくらいの時間の余裕があるのかを測りながらペース配分をするし、舞台スタッフも次の舞台転換までの時間を読むし、照明のタイミングや、楽屋アナウンスの歌手のコールのタイミングなど、劇場では大勢の人たちが同時進行で動いているので、ランスルーはとても重要。だから本番までKHP、BO最終日、GPと3回も衣装付き通し稽古があるわけだ。

 ところが今回は、舞台稽古が5月11日木曜日、12日金曜日で、KHPが13日土曜日、BOが14日日曜日と15日月曜日と続いた後、休日を置かずに、16日火曜日のGPに突入してしまうため、指揮者のマウリツィオ・ベニーニ氏の判断で、BO最終日の衣装付き通し稽古をやめて、歌手の体調を見ながら、BOの1日目である14日を第1幕のみ、2日目の15日を第2幕及び3幕のみの「返しアリ」の稽古にした。
 我々は楽なのだが、僕はマニアルで行われる舞台転換が少々心配だ。第1幕第1場と第2場の間とか、舞台上の転換にKHPではまだ時間が掛かっていたからね。まあ、それでも、彼ら舞台スタッフもプロだから、GPまでには、なんとかするのだろうな。

 日本では、このようにドイツ語主体で呼ぶわけだが、イタリアでは当然ドイツ語は使わないでイタリア語で呼ぶ。だが、僕の知る限り、たとえばミラノのスカラ座では、KHPやBOなどの特別な略語は使われていない。ゲネプロは、GPなどと短くされないで、面倒くさがり屋のイタリアン人だけど律儀にProva generaleと呼んでいるので、我が国では呼びやすいドイツ語の略語を使っているのだろう。日本人の方が、長い言葉を嫌うわけだ。

指揮者ベニーニ氏とのやり取り
 指揮者のマウリツィオ・ベニーニ氏は、素晴らしい指揮者であるが、練習はとても細かく、時に神経質。合唱団のことをとっても気に入ってくれているのはいいけれど、それだけに、少しでもズレると、止めて注意をする。
 そのくせ、第1幕冒頭で舞台裏から演奏される小オーケストラ(俗にBandaバンダと呼ばれる)は、アシスタント・コンダクターに任せて、自分では指揮しない。
 そのBandaに乗ってソリストが歌い、すぐに合唱団が反応し、またソリストが歌うわけであるが、テンポが速く歌手達の音符も細かいので、ソリストがズレるとつられて合唱もズレる。僕は、実際には、客席後ろの監督室でフォローの指揮を赤いペンライトで行っているので、舞台上の彼らにとって、全く何も頼りになるものがないわけじゃないけれど、その僕自身が、彼らが歌ってしまうことでBandaが聞こえずらくなって、Bandaのテンポ自体が分からなくなる。それなのに、目の前の指揮者が振らないのだ。それって、ひどくない?

 休憩になった。僕は即座にベニーニ氏の所に行く。
「マエストロお願い!バンダも振ってくださいよ」
「Bandaは自分の管轄ではないから、僕は指揮しない主義なのだ」
と勝手に決めていて、ズレても気にしないのだ。僕は、
「自分が振っているところでは、あんなに厳格に、ちょっとでもズレるなって言っているくせに、君(僕たちはtuで呼び合っている)は、この公演の監督として、目の前でBandaとソリストや合唱があんなにズレていたって、自分の管轄ではないといって放置していていいんだ。Nessuno guida(誰も仕切ってくれない)状態でもいいんだ!」
僕の剣幕に驚いたのか、彼はうろたえて、
「わ、分かった。Bandaを指揮するから・・・」
「Bandaに合わせるだけでもいいからね。それで、ズレたらみんなの頼りになってね」

 第1幕の終わりで、マントヴァ公爵の家臣達がジルダをさらっていく場所で、演出家のエミリオ・サージ氏は、歌い終わる前にジルダの乗っているワゴンを動かしながら退場することを指示したが、ベニーニ氏は歌い切りる前にテンポが乱れたり、切りが合わなくなることを嫌って、立ち稽古の時にすでに、
「歌い終わるまで動くな!」
と合唱団にも演出家にも言った。

 けれども、舞台稽古になって、舞台セットと共にやってみたら、それでは、その後、合唱団が舞台裏に走って行って、
「Vittoria!(誘拐成功!)」
と歌う裏コーラスに、どうしても間に合わない。
 Vittoriaの歌声が、あまりにショボイので、マエストロもそれにはガッカリして何度もそこを繰り返しながら、歌う位置も変え、音楽的にもきちんと響く場所を探した。その際に、ベニーニ氏は、演出家であるエミリオ・サージ氏をさて置いて、どんどん仕切っていく。
 サージ氏もサージ氏で、演出家なんだから、ステージ上の事ではもっと威張って、たとえばベニーニ氏に向かって、
「うるさい!ここは俺が仕切るのだ!」
と怒鳴ってもいいのに・・・・そもそも、サージ氏が最初に指示したタイミングで動けば裏コーラスに間に合ったし、ドラマ的にも整合性があるのに・・・・なにか力関係で弱みでもあるんか?
 と思っていたら、たまたま、音響的にも良く聞こえて、裏コーラスにも間に合う合唱の位置が決まった。たまたまだよ。たまたま。その後でサージ氏は、その立ち位置に入る際の音楽的タイミングだけ決めた。ズルっ!

 次の休憩に入った時、僕はベニーニ氏の方に行った。彼は、僕がツカツカと寄ってくるのに気付くと、
「な、何か言うことあんのか?」
と怯えた目をしているから、
「いや、響きも良くなって、裏コーラスも間に合うようになりましたね。合唱指揮者としてはありがたいです」
と言ったら、ホッとした顔をして、すぐそばにいたイタリア人(照明家かな)に小声で、
「この合唱指揮者はねえ、あなどれないんだよ」
と言った。

 あははははは。別に喧嘩を売っているわけではないんだ。でもね、良い公演にするために、主張するべきことは主張しなければ。

 僕は、立ち稽古が始まって指揮者が来日したら、まず、なるべく早く(だいたい初日の内に)仲良くなろうとする。一応礼儀をつくして敬称から会話を始めるが、できればTu(ドイツ語ではDuつまり“君”)で呼び合う仲になるのが望ましい。
 この辺が、日本人にはなかなか理解し難いところでもあるし、英語圏の人にはない要素なのだが、相手の指揮者が僕とTuで呼び合うかどうかは、相手の持つ「人との距離感」のスタンスによる。つまり、相手が、他人と接する場合に「お互いにリスペクトを持ち合った関係を保っていましょう」というスタンスを取るか、あるいは「内輪の存在として何でも言い合う仲になろうぜ」というスタンスを取るかの違いなのだ。

 現に、Tuで呼び合うようになった途端、相手はかなりズケズケと自分の要求を言ってくる。しかし、ここでひるんではいけないし、逆になんでもハイハイと言うことを聞いていたら、相手はしだいに馬鹿にしてくる。ここが肝心。
 相手も「ズケズケと言う」ということは、こちらも「ズケズケ言える」ということなのだ。そういう関係に僕たちは入っているということであり、それで初めて、相手は自分を対等な存在として認めてくれるということなのだ。

 うるさいだけに、ベニーニ氏の音楽作りはしっかりしているので、今日これから2回目のBOを過ぎて、明日のGPを経過していけば、初日の出来は保証します。

「リゴレット」序曲の効果
 「リゴレット」の序曲では、たとえば「ナブッコ」序曲などのように、オペラの中の名曲のハイライトを並べてきっちり作る作曲方とは打って変わって、とてもシンプルなC音の複付点音符と16分音符のモチーフで始まり、そのモチーフのみで短く終わる。つまり序曲全体が、曲というより、ひとつの要素のみからできているといえる。

 こうした作り方は、恐らくヴェルディの独創的な部分だと思うが、もしかしたら先駆者がいて、ヴェルディは真似しているのかも知れない。いずれにしても、モンテローネがリゴレットに投げかけた「呪い」のC音が象徴的に演奏されていて、それが序曲のみならず、このオペラ全体を支配しているのだ。
 この序曲の作り方の由来は、6月10日土曜日の京都ヴェルディ協会の講演会「ベルカント・オペラが初期のヴェルディに与えた影響」の準備において、これから僕はゆっくり調べて行こうと思う。

 先ほど述べた、「煮え切らない」エミリオ・サージ氏の演出であるが、ここにおいては彼の才能は光っている。序曲が鳴り響く前に緞帳が開く。舞台は暗い灰色一色。人が寝ているのが分かるが、あまりに暗いので誰だか分からないし、この音楽と共に、あたりは運命的で陰鬱な雰囲気に支配されている。
 ところが、それが終わってBandaが鳴り出し、舞台がパッと明るくなると、あたりは華やかな舞踏会に一転する。寝ていた人たちは女性ダンサー達だった。上からはシャンデリアが降りてくるし、合唱団員達が登場し、踊り狂わんばかりの女性達を眺める。この対比は実に見事だ。サージ氏、なかなかやるな!

 その対比は、とりもなおさず、華やかな宮廷で道化として生きるリゴレットのゆがんだ内面と生活を、「過度の闇」と「過度の饗宴」との両面から表現しているといえる。ヴェルディは、こうした変わった題材を取り上げることで、人間の心の中に潜む真実を赤裸々に描き出そうとした。見ていて気持ちの良いオペラではないが、「リゴレット」がヴェルディ初期の大傑作であることには疑いの余地はない。

 「リゴレット」は、新国立劇場で5月18日木曜日19:00から初日の幕が開く。その後、6月3日土曜日まで、全て14:00開演。全部で6回公演。休憩を含んで2時間30分というので(カーテンコールがあるから、もうちょっとかかるかな)、聴き易いオペラです。

2023.5.15



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