ふたつの原爆記念日の間に核と人類の愚かさを語る

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

ふたつの原爆記念日の間に核と人類の愚かさを語る
 今、この原稿を書いているのは8月7日月曜日。1945年8月6日には広島市に、8月9日には長崎市と、ふたつの原子爆弾が投下された間の日である。この時期、毎年、広島と長崎では、原爆投下に関する平和記念式典が開かれ、
「二度と人類がこのような愚行を繰り返すことがないように」
と強く祈られている。

写真 原爆投下後の広島の街
原爆投下後の広島の街

写真 香焼島から見た長崎の原爆
香焼島から見た長崎の原爆

 先週の「今日この頃」でも書いたが、僕はこの時期になると、原爆投下及び日本の終戦記念日までの一連の流れに、想いを馳せることが習慣となっている。でも、これまでは、
「それは過去のことであって、もうこのことで学習した人類が、これから過ちを犯すことは二度とないのではないか?それに、今や世界には、この地球そのものをいくつも滅ぼすに足る核兵器があると聞く。それは憂慮すべき事態ではあるが、逆にそのことによって、一度どこかの国が核兵器を使用したとしたら、その報復の繰り返しによって人類は確実に滅亡する。それが抑止力を担っているから、よもやあえてそのリスクを犯すことはあり得ないのではないか」
と思っていた。

 ところがここにきて、事態が変わってきている。ウクライナがロシアに対して大規模な反転攻勢に出ている。一方ロシアは、国も巨大で人口もウクライナから見れば比べものにならないくらい多いのに、戦い方があまりにも稚拙で戦果を挙げることができない。その上にさらに、プリゴジンの反乱以来、プーチン大統領の権威に翳りが見られ、国民に動揺と不安が広がっているし、ロシア人による反体制的動きも見られる。
 そうした情勢を受けて、メドベージェフ前大統領などは、
「ウクライナの反攻が成功なら核使用も辞さない」
と明言している。

 情けない!本当に情けない!人類はかくも愚かなのか!結局、何も学習していないではないか!これからも、果てしなく愚行を繰り返すというのか!それでは動物と同じだ。いや、動物を馬鹿にしてはいけない。動物は、無用な殺生をしないように神によってコントロールされている。満腹なライオンは、目の前に獲物が通っても見向きもしない。その意味では“動物は清らか”なのだ。
 人間だけだ。明日の空腹のために獲物を殺して保管する“知恵”が与えられているのは。しかし、せっかく与えられたそうした知恵を、人間は天の意志に沿って使わなければならないのに、目先の欲望やエゴイスティックな目的だけのために使っているではないか。ましてや、一瞬で数え切れない人たちの命を奪う兵器を作って使用することなど言語道断である。

 “戦術核”という言葉は偽善的なものだ。それは入り口にしか過ぎない。何故なら、
「核を、いかなる時でも決して使わない」
という垣根を取り払う役目を担ってしまうからだ。
「戦術核だから大丈夫だ」
ではないのだ。一度箍(たが)が外れてしまうと、間違いなく本格的な核でのせめぎ合いが始まってしまうのは必至だ。
 子供の喧嘩を見ていても分かるだろう。一度手が出たら、
「やったな!」
と言って相手が殴り返す。
「おいおい、そんな強くやんなかったぞ!」
と言いながら、悔しさも手伝って、ちょっとだけ強く殴り返す。

 気が付いたら人類が滅んでいる、というのが冗談でも比喩でもなく、現実に迫っている「今日この頃」です。

写真 長崎の原爆雲
長崎の原爆雲

「修道女アンジェリカ」の危ういストーリー
 新国立劇場の新シーズン開幕は「ダブルビル」、すなわち「二本立て」という意味であるが、プッチーニ作曲「修道女アンジェリカ」と、なんと、ラベル作曲「子供と魔法」という、全然スタイルの違う2作が並べられている。
 とはいえ、曲想のイメージに反して、「修道女アンジェリカ」の初演は1928年で、よりモダンな音楽に感じられる「子供と魔法」の初演が1925年だというから、選曲した大野和士芸術監督は、その辺のギャップをも狙ったのではないかな。

 さて、終末は名古屋ばかり行っているが、ウィークデイでは、他のいろいろな用事に混じって、やっと「修道女アンジェリカ」の勉強を始めた。題名の通り、この作品の主人公は修道女で、舞台は始終修道院の中。
 わずか1時間の作品だから当たり前だけれど、ストーリーは単純だ。

アンジェリカは、未婚の子供を宿した事で咎められ、子供と引き離されて修道院に入れられて7年になる。
そこへ叔母が訊ねてくる。
アンジェリカは叔母に自分の息子の消息をたずねる。叔母は、伝染病に冒されて死んだと告げる。
アンジェリカは、様々な薬草を調合して他の修道女達を癒やす能力のある女性であるが、息子の死に絶望し、自ら毒薬を調合し自殺を図る。
しかし悔恨する彼女を、天使たちの合唱が包み込み、アンジェリカは聖母マリアから金髪の息子を受け取って幕となる。

 初演時、この作品は、カトリック信者、プロテスタント信者の両方から様々に攻撃されたという。プロテスタント信者にしてみると、あまりに聖母マリア信仰が強すぎること。カトリック信者からしてみると、礼拝に遅れて参加したシスターを修練女長が咎めるなど、女子修道院の中のことが、ややカリカチュアして書かれていることなどが挙げられる。
 また、これは全てのクリスチャンに言えることだけれど、自殺はキリスト教最大の罪なのに、簡単に赦されて、むしろ聖母マリアから直々に差し出された息子を受け取ってのハッピーエンドという点が、大きな抵抗感を持って受け取られただろうと想像する。

 僕は、それよりもね、とっても嫌なのは、不義の子供を宿したということで「子供と引き離されて修道院に入れられる」という事だ。
 僕が初めて群馬県の新町カトリック教会に入信を求めて足を踏み入れた時、カテキスタと呼ばれる、教理を教えて洗礼まで導くシスターがそこに住んでいた。
 その頃僕は「サウンド・オブ・ミュージック」という映画を観て感動していたので、シスターにその話をすると、彼女は怒って言った。
「せっかく修道者への道を歩んでいるのに、好きな人ができたからといって修道院を出るなんて、そんな安易な気持ちで修道院に入って欲しくありません」
僕は驚いて、
「よく物語であるじゃないですか。好きな人を諦めるために修道院に入るなんて・・・」
「修道者はね、神に全てを捧げたいと強く思い、自ら決心して、人生を賭けてなるものです。好きな人を諦めるためだなんて、そんな気持ちではロクな修道者になんてなれません」
なるほどなあ、さすが現役の修道者の言うことは違う。僕の考えが俗っぽくて甘かった、と思った。
 そのように修道院という所は、個人の信仰への純粋な動機によって入るべき所なのだ。僕が嫌だと思うのは、「無理矢理修道院に送られる」という社会だ。修道院は刑務所とは違うのだ。アンジェリカを取り巻く環境は、ひどい世の中だと思う。
 
 理性的に考えると、このオペラには内容的に抵抗感がいっぱいあるのだが、しかしながら、プッチーニの天才にかかると、最後の合唱で思わず感動してしまうのだ。
「よかったね、7年間ずっと待ち続けていた息子さんに、やっと遭えたね」
という感じで・・・。

 「ダブルビル」の練習は、愛知祝祭管弦楽団の「ローエングリン」公演の翌日、8月21日月曜日から始まる。「修道女アンジェリカ」では、信仰論はともかく、感動の終幕にお客様を誘うよう、美しく清らかな合唱の響きを作り出すべく努力しようと思っている。

束の間のバカンス
 8月3日木曜日と4日金曜日は、三澤家の家族で束の間のバカンスをした。車に乗って、僕たちはまず相模湖の手前あたりから山中湖に通じる国道413号を通って道志村のセンタービレッジ・キャンプ場に向かった。ここのコテージを予約していたのだ。

写真 道志村のセンタービレッジ・キャンプ場受付
キャンプ場受付

 地図を見ると、そんなに北でもないので、行く前は、きっと暑いんだろうなあ、と覚悟していたが、どうしてどうして・・・かなり涼しいし、すぐ近くを流れる小川の水の冷たさったら、ずっと入っていると足が痛くなるほどだ。

写真 キャンプ場の冷たい小川で遊ぶ孫たち
冷たい小川

 晩はバーベキューをした。炭や着火剤などは事前に買って持って行ったが、バーベキュー台は受付で貸してくれた。その時、受付の建物のそばに一匹の野性の鹿がいた。受付のおじさんは言う。
「鹿が畑を荒らすので、漁師が来て撃ったのです。でも、子供がいて親なしの鹿が時々このあたりにやって来るのです。おとなしくて、草を食べていて何もしません」

写真 キャンプ場のコテージ
コテージ

 さて、コテージに帰って、バーベキューの準備を始めたら、さっきの鹿がコテージのすぐそばまで来ていて、ずっと僕たちの近くに留まっている。可愛いな。連れて行って家で飼ってもいいかなと思ったくらいだ。勿論、そんなことは叶わないが・・・・。

写真 鹿と孫
鹿

 炭を起こすのは僕の役目。コロナ前まで、お盆で群馬に帰郷していた時、姉の子ども達みんなで集まって行うバーベキュー・パーティーの火起こしをしていたので、僕はちょっとしたエキスパートなのだ。
 最初にトウモロコシ及びベビーコーンを焼いてから、肉、ソーセージ、野菜などを焼いていく。ビールやスパークリング・ワインや、白赤のワイン。僕のファミリーはみんな飲んべえで、僕が一番弱いくらいだから、どんどん食もお酒も進む。

 コテージには冷房が付いていないので、最初は不安に思ったが、夜中は、むしろ寒くて起きた。うわあ、こんなに東京と違うんだ、と驚いた。翌朝のシャワーの暖かさが体に染み渡るほど、肌寒いキリッとした空気であった。

 翌日は、ここから昇仙峡に向かった。実は、孫の杏樹は、昇仙峡のロープウェイ横の川で、「宝探し」といって、川床に様々な光る石を忍ばせて、それを子ども達に採らせるイベントがあるのを楽しみにしていたのだが、何故か突然中止になってしまっているのを前の日に知ってガッカリしていた。
 でも、対岸のお蕎麦屋さんでお昼を食べながらその川を見てみたら、女の子がふたりで何かを採っている。
「もしかしたら、残りの宝があって、それを採っているのかな?」
 それで、杏樹と母親の志保をその川で降ろして、僕と妻、それに次女杏奈の3人は、山の上にある金櫻神社に車で行った。ここは水晶発祥の神社で有名で、とても気が良い。
神社から戻ってきて帰って来てみたら、杏樹が喜んでいる。
「いっぱい採れたよ!しかも競争する相手がいないから、採り放題さ!」

 一応心配性なので、キャンプにも勉強道具は持って行くんだよね。でも、予想通り、1ページも開きませんでした。まあ、それでこそバカンスというものだね。

またまた熱い週末と楽しみな本番
 土曜日は、朝8時半からイタリア語のレッスン。今、ひとつの小説を少しずつ訳して先生のところに持って行ってる。イタリア語って、いくつかの単語を組み合わせた独特の言い回しが多くて、しかも辞書に乗ってないので、先生に訊くしか方法がない。ただ、書き言葉でしかない表現があるので、勉強になる。
 11時からは、ひとりZoomの指揮レッスン。茨城県の守谷氏在住で地元の合唱団の指揮をやっているとても熱心な方だ。
 
 その後、僕は名古屋に向かう。夕方から「ローエングリン・スペシャル合唱団」の練習だ。僕は、作曲もしたりいろいろするけれど、一番の職業は合唱指揮者だから、合唱には容赦しない。めちゃめちゃしごきまくって、僕自身もヘトヘトになって終了。

 翌日、8月6日日曜日は、愛知祝祭管弦楽団の練習。今日はメインキャストが揃うので、初めて冒頭から通し稽古をした。ノンストップで通して、その後、直し稽古をすると思っていたが、一度止めると、あっちこっち直したくなってしまう。でも、心を鬼にして、なんとか午後の前半には最後まで行った。

 フリードリヒ・フォン・テルラムントの青山貴さんとオルトルートの清水華澄ちゃんの演じる第2幕冒頭の二重唱は圧巻だぜ!予想した通り、飯田みち代さんの清楚なエルザと、暗い奸計に満ちた華澄ちゃんのオルトルートとの対比が素晴らしい。また、谷口洋介さんのローエングリンの端正さが、周りの渦が勢いよく回れば回るほど際立つ。

 先週も予告したように、11日金曜日と12日土曜日の午前中には、コレペティトールの西聡美さんの弾くピアノで、僕は、各キャストの細かいニュアンスに至るまで、表現を突き詰めていこうと思う。

 これだけ丁寧に練習を積み上げたら、決して他では聴けない繊細で表現力豊かな「ローエングリン」となりますよ。みなさん、今からでも遅くはないから、どうか8月20日日曜日愛知県芸術劇場コンサートホールに足を運んでください!決して後悔させません!

2023.8.7



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