アンジェリカと対峙する叔母の存在感

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

アンジェリカと対峙する叔母の存在感
 新国立劇場ではダブルビル(二本立て)の立ち稽古がだんだん煮詰まってきて、今日(9月18日月曜日)午後の稽古場通し稽古を最後に、新国立劇場Aリハーサル室から離れ、オーケストラ合わせから舞台稽古へと進んでいく。

 「子供と魔法」に関しては、合唱団は全て裏コーラスになってしまったので、立ち稽古には参加していないし、稽古時間も違い、僕は残念ながら、そちらの様子は良く分からないが評判はとても良い。その一方で、「修道女アンジェリカ」の仕上がりはバッチリだ。

 出演者の中では、なんといっても主役アンジェリカのキアーラ・イゾットンが素晴らしいのひとことに尽きる。経歴を見ると、すでにヴェローナ歌劇場でこの役を務めており、細やかな表情に至るまで的確で、演じているというより役そのものになり切っている。ハイCも難なく出すし、歌唱も音楽的で、なかなかこれ以上のアンジェリカ役を望むのは難しいと思う。
 そのアンジェリカに、息子の死という冷たい現実を突きつける叔母の公爵夫人を演じる齋藤純子さんの存在感が光っている。長身な彼女の毅然とした物腰で淡々と語りながら、アンジェリカの淡い希望をも踏みにじる瞬間には、背筋に冷たいものが走るのを感じる。

 これからオケ合わせ、舞台稽古と進んでいくに連れて、「子供と魔法」の稽古にも参加していくので、いろいろ報告します。

郁ちゃんのこと
 僕には2人の姉がいる。学年が2年ずつ離れているので、僕が小学校1年生の時、長女の通子は5年生、次女の郁子は3年生だった。僕は昭和30年の3月生まれなので、いわゆる早生まれだが、彼女たちは昭和25年と27年生まれということになる。

 長女とは、歳が随分離れているため、ほとんど喧嘩した覚えはないが、次女とは、つまらないことでしょっちゅう喧嘩した。僕は、末っ子の男の子ということで親から特別に可愛がられていた。特に祖母は僕のことをえこひいきして、よく人からお菓子をいただいてくると、姉たちに内緒で僕だけにくれた。すると次女が、僕の素行がおかしいのを察知して、
「あ、ひろふみ、何食べてるの?狡い!あたしによこしな!」
と言って、僕から暴力的にひったくって、わざと目の前で食べてみせた。
僕は、
「郁ちゃんが、取った!」
と言って、母親のところに泣きながら訴えに行くと、母はむしろ、僕だけにお菓子をくれた祖母の素行を無言の内に責めるような表情をした後、
「仕方がないねえ」
とだけ言った。父親の母親である祖母と、三澤家の嫁という母の立場との力関係の微妙さを、その時いつも感じさせられた。
「洋史にだけあげないで、最初から分けてあげればいいのに・・・」
と、その眼は語っていたが、立場の弱い母がそれを口に出せるはずもなかった。

 その郁ちゃんとは、中学生くらいになると、むしろとても仲良くなった。郁ちゃんは運動神経バツグンで、陸上部のエースだった。その頃スポーツが苦手だった僕は、郁ちゃんがいつも羨ましかった。
 彼女が高崎市立女子高校に通い、僕が高崎高校の1年生になって、帰りの高崎駅でばったり遭うと、ふたりでこっそり買い食いをして、親には黙っていた。夕飯をあまり食べないで不審に思った母親は、
「お前たち、もしかしてまた駅前で餃子でも食べてきたんじゃない?」
と言い当てる。どうしてお袋は分かるんだろう?超能力者?などと思っていると、
「どうせお前たちの考えることは、そんなことだよ」
と、とっくにバレていた。

 高校を卒業すると、郁ちゃんは和裁の専門学校に通うことになっていたが、その春休みに、高崎駅前の喫茶店でウエイトレスのアルバイトをした。すると、そこに高崎経済大学の学生が彼女を見初めて足繁く通ってきたという。
「ちょっとカッコいい人が、ジッとあたしを観ているの」
 学生はやがて郁ちゃんをデートに誘い、プロポーズし、郁ちゃんは姉よりずっと早く結婚して家を出て行った。その時、僕はとても淋しい思いをした。

 月日は流れた。ある時、そのご主人が心筋梗塞で急死した。60歳にもならない59歳の死であった。群馬の実家では、僕の父親が肺気腫で亡くなり、お袋がひとりで住んでいたし、郁ちゃんの家のふたりの女の子(僕には姪)と長男(甥)は、みんな栃木県佐野の家を出てしまっていたので、郁ちゃんは、群馬の実家に戻ってきた。僕は、親父の死後、年老いたお袋のひとり暮らしが心配でならなかったので、むしろありがたいと思った。
 毎年、お盆と正月には、長女の息子ふたりを含む家庭と郁ちゃんの子ども達が我が家に大集合していた。夏には、僕が炭を起こして庭でバーベキューし、冬ではタラバガニを長男としての僕が用意して、みんなを出迎えた。家中の布団を出して、決して狭くはない我が家ではあるが、みんなは雑魚寝のようにして泊まり、それはそれで普段と違って楽しかった。だから、毎年2回のその集まりの時期が近づいて来るのが楽しみだった。コロナ禍が始まるまでは・・・・。

2020年夏から現在まで、群馬の実家での集まりは行われていない。

 2020年のお盆も、コロナが怖くて誰も来ようとしなかったし、暮れの12月30日に神棚を掃除しに行こうとしたら、
「泊まりに来ないで欲しい」
と郁ちゃんに言われて、電話で口論となった。
 僕は長男で、群馬宅が実家なのだ。僕が松飾りをして、仏壇を守り、神棚に水をやってこの家の年越しを見守るのだ。それは僕と親父との約束なのだ。僕がクリスチャンになる時に、大工の親父は、
「この家の仏壇と神棚を守れないなら許せない」
と言ったので、
「それだけは守ることを約束する」
という条件で認めてもらったのだ。
「郁ちゃんなんて、所詮転がり込んだ出戻りなのに、偉そうに長男の僕に来るなと言える立場ではないだろう。あんたが自分の娘の所にでも行けばいいじゃないか」
と言ったら、めちゃめちゃ怒っていた。
 あの頃はまだ“東京からコロナを持ってくる”という恐怖感が群馬の人にはあったのかも知れない。郁ちゃんの子ども達も、実家に来ても泊まらないで帰っていった。

 その郁ちゃんが子宮癌になった。2021年夏に子宮全摘出の大手術を行った。経過は一時良好で、年内の抗がん剤治療もうまくいって、22年からはフレッセのパートタイムも再会した。僕は、実家には泊まらないものの、お盆には8月13日のお盆迎えと16日のお盆送りをしに行き、暮れには神棚の掃除を松飾りに行った。抵抗力のない郁ちゃんにコロナを移したら良くないと気を遣って、あまり近づかないようにした。
 しかし今年の初め、彼女から衝撃的なことを告げられた。癌が骨に転移したというのだ。骨の癌や肉腫は、完治することは不可能で、彼女は医師から余命半年を告げられたという。それからは、あれよあれよという間に体が衰弱していき、だいたい医師の言った通り、9月15日金曜日に息を引き取った。

 夏前から、僕は妻の車で群馬宅に行き、様々な荷物の整理をした。実家の土地は借地で、長い目で見ると、僕がそこに住まない限り、いずれは取り壊して更地にして大家さんの大久保医院に帰さなければならない。
 96歳で介護付き老人施設に入っているお袋が、ここに帰ってくる可能性はゼロだし、郁ちゃんもいつまでいるか分からない。両親の要らなくなったもの、あるいは僕や姉たちの子供の頃から様々なものが家中に膨大に溢れていて、この先それをどう考えても活用することは考えられない。
 だから今のうちに細々と、必要な物は東京に持ち帰り、処分できる物はしておこうと、いろいろ整理して、要らない物を町のはずれにある焼却場に持って行った。ここは100kg以下は大きさ関係なく処分がタダだし、それ以上の物でも、東京から比べると破格の値段で引き取ってくれる。
 その時、小康状態を保っていたため、病院から一度追い出されて、郁ちゃんは実家に住んでいたが、片付けの合間にいろいろ話して、かつての喧嘩のわだかまりも解消できたのは何よりだった。その後、再入院した後も、病院に2度ほど行った。

 亡くなった知らせを受け取った時、特に悲しみというものはなかった。最近、僕の周りでは飯守泰次郎さんといい森一弘司教といい、どんどん人が亡くなるが、自分が歳を取ったせいなのかな、知らせを聞いて即座に悲しいという感情と結びつくことはなくなった。 むしろ、その度に自分の胸の中に浮かぶのは、“自分の死”という考え。それも、不安とか恐怖感とかいうものとはかけ離れていて、どうなったら、何を成し遂げたら、自分は自分の人生で、死というものを完全に納得して受け入れられるのだろうか?という問いだ。
 もはや“道半ばにして”という言葉が当てはまらない歳になってきているが、今になってみて、もし“まだやり残したこと”があるとしたら、それは一体何なのか?人の死の知らせを聞く度によく考える。

 結論を言うと、僕が死ぬまでに欲しいもの。それは“宗教的覚醒”以外にない。それも通り一遍のキリスト教的覚醒とかいうものではなく、宗教や思想などという枠組みを超えた、もっと普遍的で自然で、それでいて、自分が呼吸したりする一挙一動の意味を根本から変えるもの。
 とっても抽象的で理解してもらえないと思うが、僕は自分の予感で、死ぬまでに必ずそこに到達すると信じている。というか、そこに到達しないで死ぬことはあり得ないと思っている。
 だからアッシジ祝祭合唱団を率いてアッシジにまで行くのも、そのプロセスのひとつだし、バッハの音楽に触れているのも、それからスキーをするのも、覚醒へのアプローチなのである。

 郁ちゃんの葬儀は、明日9月19日からだが、家族葬なので皆さんをお呼びすることはしません。届け出した人だけ参加可ということのようです。香典のようなものも決して受け取りませんので、知り合いの方は、お祈りだけお願いします。

ひとつの時代が終わった、という感慨だけはあるなあ・・・・。

2023.9.18



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