待ちに待った秋

三澤洋史 

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待ちに待った秋
 今年の夏は暑かった。例年なら、5月になってもまだストーブが必要な日すらあったのに、それどころかすでにクーラーが大活躍したし、反対に9月になっても残暑が厳しかった。
 我が家では、僕の仕事部屋、居間、長女志保のグランドピアノのある部屋と、3部屋はいつも必要なのだ。また、孫の杏樹は、シュタイナー教育の方針で、8時にはもう寝るので、寝室も合わせて同時4部屋冷房中という瞬間もあって、いったい電気代がどれだけかかるのかと心配になったが、逆に、それだけに、日中の太陽の放射もハンパじゃなかったため、太陽光発電が大活躍して売電量も多く、相殺して、ピーク時でも一万円台に留まった。ああ、よかった!

 しかし驚くべき事に、9月後半に入ってもまだ夜まで暑くて、明け方まで冷房が切れなかった。

 さて、9月23日土曜日。もう冷房なしでいいだろうとクーラーをつけずに窓を開けて寝たら、夜中に寒くて起きた。
「へえ!」
と思って窓を閉め、隣にある妻のベッドから勝手にブランケットを取って、2枚重ねで寝た。
 妻は金曜日から、聖ウルスラ修道会(彼女の洗礼名である聖アンジェラ・メリチの修道会)の管区集会のために、アソシエ(在俗)会員として仙台の修道院に2泊で参加していた。
 24日日曜日の朝、目が覚めて窓を開けたら、爽やかな風が入ってきた。
「やっと秋になった」
としみじみ思った。

 待ちに待った秋。僕がi-Podで仕事以外の音楽をいろいろ聴きたくなる季節に突入した。ブラームスの音楽が似合う季節。何を聴こうかな?第3交響曲の第3楽章なんてセンチメンタル過ぎるよね。渋くクラリネット5重奏曲とか・・・。
 他にi-Podに何を入れようか。キャノンボール・アダレイのアルバムSometin' Elseのマイルス・ディヴィスのトランペット・ソロに涙する季節だね。
 そうだ、久し振りにフランソワーズ・アルディを聴こう!「もう森へなんか行かない」という曲。かなり昔の曲だね。かつて「沿線地図」というドラマの挿入歌として流行った曲。アンニュイで、そこはかとなく淋しくて、秋にはピッタリです!
 字幕付きのYoutubeがなかなかないので、皆さんのために自分なりに訳してみました。歌詞のフランス語は、とっても単純なものなので、CDの歌詞も含めて、いくつかの訳を参照してみたけれど、僕の訳も結果的に他の人と似たようなものになってしまうことを断っておきます。その一方で僕はなるべく凝った意訳は避けて、オリジナルの内容を正確に伝えようと努めました。



私の青春は行ってしまう(Ma jeunesse fout le camp)
Ma jeunesse fout le camp 私の青春は行ってしまう
Tout au long des poèmes 詩に沿って 
Et d'une rime à l'autre 韻から韻へと渡っていくように
Elle va bras balants 腕をぶらぶらさせながら
Ma jeunesse fout le camp 私の青春は行ってしまう
A la morte fontaine 枯れた泉に向かって
Et les coupeurs d'osier 柳の枝を切る人たちが
Moissonent mes vingt ans 私の青春を刈り取ってしまう

Nous n'irons plus au bois 私たちはもう森には行かない
La chanson du poète 詩人の歌
Le refrain de deux sous 安っぽいリフレイン
Les vers de mirliton 俗悪な詩
Qu'on chantait en rêvant 夢見ながら歌っていた
Au garçon de la fête 陽気な少年に
J'en oublie jusqu'au nom わたしはその名前すら忘れている
J'en oublie jusqu'au nom わたしはその名前すら忘れている

Nous n'irons plus au bois 私たちはもう森には行かない
Chercher la violette すみれを探しになんて
La pluie tombe aujourd'hui きょう雨が降って
Qui efface nos pas 私たちの足跡を消してしまう
Les enfants ont pourtant それでも子どもたちは
Des chansons plein la tête 頭の中は歌で満ちている
Mais je ne les sais pas でも私はそれを知らない
Mais je ne les sais pas でも私はそれを知らない

Ma jeunesse fout le camp 私の青春は行ってしまう
Sur un air de guitare ギターの調べに乗って
Elle sort de moi même それは私自身から出て行ってしまう
En silence à pas lent 沈黙の内に ゆっくりした足取りで
Ma jeunesse fout le camp 私の青春は行ってしまう
Elle a rompu l'amarre それは網をちぎって立ち去って行った
Elle a dans ses cheveux それは髪の中に
Les fleurs de mes vingt ans 私の青春の花を刺したまま

Nous n'irons plus au bois 私たちはもう森には行かない
Voici venir l'automne ほら秋が来る
J'attendrai le printemps でも私は春を待つの
En effeuillant l'ennui 退屈の花びらをむしりながら
Il ne reviendra plus 春はもう戻ってこないでしょう
Et si mon coeur frissonne もし私の心が震えたとしたら
C'est que descend la nuit それは夜のとばりが降りたから
C'est que descend la nuit 夜になったから

Nous n'irons plus au bois 私たちはもう森には行かない
Nous n'irons plus ensemble もう一緒には行かない
Ma jeunesse fout le camp 私の青春は行ってしまう
Au rythme de tes pas あなたの足取りに合わせて
Si tu savais pourtant けれども もしあなたが知ってくれたら
Comme elle te ressemble それがどんなにあなたに似ているか
Mais tu ne le sais pas だけどあなたはそんなことは知らない
Mais tu ne le sais pas あなたは知らない

東大音楽部合唱団100周年演奏会
稀有な演奏会のかたち

 9月24日日曜日は東大の安田講堂にいた。東大も、由緒ある建物が残っているが、安田講堂も随分古くなったなあと今回初めて思った。今回は、東京大学音楽部合唱団創立100周年記念交歓演奏会で、コールアカデミーのOB合唱団であるアカデミカコールの指揮をした。3部構成の演奏会には、なんと19もの団体が参加し、団体といってもその中には三木蓉子さんのピアノ独奏や奥村泰憲さんの独唱などが含まれ、さらに、会場の聴衆も含む全員合唱が、第2部と第3部の終わりに組まれていた。13時30分に始まった演奏会が終わったのは17時30分。4時間に渡ったコンサートであった。

写真 東大安田講堂の正面
東大安田講堂

 これはとても稀有な演奏会の形式で、これらの団体のメンバーは全て、男声合唱のコールアカデミーと2009年に発足した女声合唱コーロ・レティツィアが母体となっている。 たとえばU-70(アンダーセブンティ)は、アカデミカコールから70歳以下のメンバーで構成されたカルテット(4人)であるし、フォーティナイナーズ(49ers)は、昭和49年東大入学のパートリーダーだった4人によるカルテットだ。
 ジョーバニGiovaniはイタリア語で「若者達」という意味。コールアカデミーの若手OB合唱団で、アカデミカコールの弟分の位置を占めていて、アカデミカコールのメンバーが、かつて前田幸市郎氏を師と仰いでいたように、有村祐輔氏を尊敬し、彼を中心に活動を続けてきた。その有村氏は、もう90歳を越えているが、実にお元気で、僕もそれだけで尊敬してしまう。

 面白いのは、Con Delicatezzaというグループで、コーロ・レティツィアのOG2人とコールアカデミーOB3人から成る5人組だ。彼らが歌ったモンティヴェルディとシュッツのマドリガルが、響きも技術も素晴らしく、このように女声合唱男声合唱の垣根を越えて、独自の活動形態と美学を持っているのがたくましい。

 奥村泰憲さんは、僕の率いる東京バロック・スコラーズの指導もしてもらっている優秀なバリトン歌手だが、今回はカウンターテナーの声でカッチーニ作曲Amarilli mia bellaを歌って聴衆を驚かせた。
 さらに二曲目では、シューベルトの歌曲「死と乙女」を歌ったが、死の恐怖におののく乙女の部分をカウンターテナーの声で歌い、死に神の部分をバリトンの声で歌った。こうしたチャレンジが許されるのも、この演奏会の存在意義を示している。奥村さんは、次には「魔王」にも挑戦したいと言っている。子供と魔王とのコントラストが見事に描き分けられたら楽しいだろうな。

Volgaを指揮しながら思う事
 僕はアカデミカコールで、草野心平作詞、廣瀬量平作曲、男声合唱組曲「五つのラメント」より、終曲「Volga」を指揮した。草野心平は、我が母校高崎高校の校歌を作詞した詩人で、「上州の三つの山は、はるかにかすみ。セルリアンブルーの川は流れる」という歌詞がすぐに頭に浮かぶが、この組曲の第4曲目「オーボエの雲」でセルリアンという言葉が出てきた時にはびっくりした。
 ceruleanを英和辞典やネットで調べてみると、「澄んだ空のような青の」「深い空色の」「わずかに緑がかった濃い空色」とあり、ラテン語のcaelum(空色)が語源だそうだ。

オーボエの雲が。

流れる。

愛しく。
愛しく。

オーボエの雲が。
流れる。

セルリアンの空に。
わずかに染って。

 終曲Volgaは、タシケント・モスクワ間の機上から眺めたヴォルガ川から着想を得て作られたという。
バリトンとバスによるAの母音から曲が始まり、雄大な大河のようにうねりながら流れ
ると、aar in zen aar in zenという意味不明な呪文のような言葉がリズムを持って歌われる。

曽(かつ)てはは流氷(ザエ)に血がまじり。
屍体が流れ。
馬の首。
えぐられたもの。
が流れ。
aar in zen aar in zen

 今のロシア・ウクライナ戦争の世相をいみじくも反映しているではないか。

歴史は時に逆流し。
(生々しくよみがえるもの。)
   ※この括弧内は歌われなかった

 戦乱は、決して過去のものではない。先の二つの大戦で「戦争は愚かな行為」と学習したつもりでいた人類は、かくもあっけなく今日(こんにち)も愚行を繰り返す。歴史は時に逆流するのだ。雄大なヴォルガは、遠い遠い過去から、ありのままにそれらを見つめている。それらのことを胸に抱きながら、僕は指揮をしていた。

写真 東大正門から銀杏並木の奥に安田講堂を眺める
東大正門から安田講堂を眺める

 演奏会が終わってからの打ち上げは、安田講堂の地下にある食堂で行われた。アカデミカコールのメンバー達といろいろ話せてとても楽しかったが、体調を崩されて出席できなかったメンバーの方がいることに少なからず心を痛めている。

姉の葬儀とMemento Mori
 9月19日火曜日。高崎斎場で姉郁子の葬儀が行われた。小学校4年生の孫娘である杏樹にとって、身内の死に遭遇するのは初めてだった。人の亡くなった顔を見るのも初めてだったし、火葬場において、さっきまで人間の形をしていたものが、あのようなボロボロ崩れ落ちそうな白骨となって出てきて、それを目の前にしながら、自分で箸を持って骨を他の人と運ぶ体験も初めてだった。
 その時は、特にコメントするわけでもなく、何でもない顔をしていたが、半ば予想した通り、次の朝微熱が出て、その次の朝は37度を越えていたので学校を休ませた。やはりいろいろかなりショックだったんだろうなあ、と内心を思いやった。こうした体験を誰しも通って、人は我々の日常の陰に潜む人生の真実を受け入れていくのだろう。

 僕は、臨終間近の彼女を見ていたので知っていたが、末期にはかなり痩せて、腕も、ほとんど骨の上から皮膚が覆っているだけの状態になっていた。けれども、そのまま静かに逝くんだろうなと思っていたが、その予想は残念ながらはずれて、彼女の長男や長女の話によると、僕が面会に行った後、発熱して呼吸や心拍数が極端に上がり、かなり辛そうな時期が訪れたという。
 体が最後の抵抗をして死と戦っていたのだろうか?人間がひとり亡くなるためには、こんな苦しむ過程を経なければいけないのか、と思うと、それが哀れに思えて仕方なかったなあ。

 ルネッサンスは、それまでのキリスト教的な罪の意識と自制の世界観から解放されて、carpe diem「今を楽しめ!」を合い言葉に、現世肯定の精神に貫かれていたが、同時にmemento mori「死を忘れるなかれ!」という言葉を忘れることもなかった。
 むしろ現代の方が、「縁起でもない」という言葉で、あえて「人は必ずいつか死ぬ」という真実から意図的に目を背けているきらいがある。

 先週も書いたけれど、僕も68歳となっては、これから大いなる可能性と輝かしい未来、あるいは大ドンデン返しが待っている、という風にはあまり期待しても仕方がない。むしろ、自分の出来ることをひとつひとつ丁寧に生き切っていくこと・・・その都度、最も大切だと思えるものに全力を注いで、その日が来るまで後悔のない人生を送っていくこと、これしかない。 まあ・・・でも・・・それって、きっと若くても歳を取っても、同じ事なんだろうなあと思う。

 楽しいと思えることは、遠慮なく楽しんでいい。人生一度きりないし、出遭いはまさに一期一会で、今をエンジョイできない人は、明日もエンジョイできないし、「自分は今しあわせだ!」と思って感謝できない人は、自分が不幸だけでなく、しあわせそうな人を見てうらやんだり妬んだりしてしまうかも知れない。

 僕個人のことを言えば、ここで姉の死を見つめる機会を与えられてよかったと思う。また、幼い頃からの記憶も含めて、お嫁に行った後、ご主人の亡くなった後、我が家に出戻った後という、ほぼほぼ彼女の人生を俯瞰してみて、誰よりもしあわせとも言えないけれど、まあ良い人生だったのではないかと思う。

 そしてそれは、彼女の子ども達の言葉に裏付けられる。長女の貴子、次女の知美、末っ子で長男の敦夫の3人とも声を揃えてこう言っていたのだ。
「よくしゃべって、陽気で、楽しくて、そして子ども達には優しくて、とても良い母親でした」
 僕自身、それを聞いてとっても嬉しい気持ちになれたし、姉自身も、どこかで彼らの言葉を聞いて、満足しているのではないかな。

さあ、Memento Moriを想いながらも、僕の魂は再び現世に完全復帰するぜ!

2023.9.25



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