NHKでは言えないバイロイトの本音

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

京都滞在とその前の息抜き週間
月曜日から京都

 この「今日この頃」を皆さんがお読みになる頃、僕は恐らく京都にいる。京都ロームシアターにおける高校生のための鑑賞教室「魔笛」公演のために、10月23日月曜日から27日金曜日まで京都に滞在するのだ。
 公演は、26日木曜日と27日金曜日と2回の昼公演で、今年は残念ながら間にOFFの日がないから、いつものように北の鞍馬寺や貴船神社や比叡山に行ったり、あるいは奈良まで足を伸ばしたりはできない。

 まあ、それより、昨年同様NHKバイロイト音楽祭の解説の仕事が入っているので、滞在中の自由時間は、その準備をしていると思う。自宅にいるわけでないので野暮用がないし、午前中は練習も何もないため、かなり集中してできるからね。
 録音の日も、11月終わりと12月最初の2日間が決まっているので、今年はゆったりと準備ができる。とはいえ、東京に帰ってきてしまうと、また、新国立劇場合唱団と共に、井上道義さん指揮のマーラー作曲交響曲第2番「復活」の合唱稽古や、「こうもり」の稽古など入ってしまっていて、その他にもいろいろ落ち着きのない日々となってしまうため、とにかく出来る時にやっておくに限る。

息抜き週間
 先週は、Zoomレッスンをしたり、土曜日に東京バロック・スコラーズと新町歌劇団の練習があった他は、ほぼ一週間オフだった。「魔笛」旅公演の練習は、その前の週に集中的にやってしまって、新国立劇場のスタジオは、僕が降り番となっている「シモン・ボッカネグラ」の立ち稽古に明け渡している。ゆったりとした休暇期間を使って僕は、普段出来ないことをいろいろやっていた。

 たとえば、10月18日水曜日は、妻の運転で次女の杏奈を乗せて群馬の家に行って、姉の亡くなった後の荷物の整理をした。介護付き老人施設に入っている96歳になった母親は、まだ健在でいるものの、この家に戻ってくる可能性はほぼゼロなので、もうこの家を取り壊して更地にし、借地の主に返すことが現実的になってきた。
 勿論、そんなに急ぐ理由もないのだが、姉がいなくなった今となっては、整理出来るものはしておきたいのだ。その日は、家中の布団を押し入れから出して、紐で縛って町のはずれのゴミ集積場に持って行った。ここは、東京なんかと違って、100kgのゴミまで無料で、100kgを越えても、とても安く引き取ってくれる。

 驚いたのは、姉が生きていた間は、彼女がそんなに庭を歩き回っていたわけでもないのに、庭の土はきれいなままだったが、今回行ってみたら、姉が死んでからいくらも経ってないというのに、いきなり庭中が背の高い雑草で覆われてしまっていて、車庫から母屋まで辿り着けないので、第一の仕事として草刈りをしなければならなかった。
 それに、家の中も、いかにも廃家ですという殺伐とした雰囲気を漂わせ始めてた。驚いたね。家って、人が住んでるだけで、住んでいるオーラを出し、庭の雑草も遠慮しているのだね。もう布団もないので、僕が生まれ育ったこの家に僕が泊まることは二度とないんだ。そう思うと、ちょっと淋しい。
 と思っていたら、いきなり固定電話のベルが鳴り出したのでびっくりした。勧誘の電話であったが、そういえば、もう誰もかける人もいないので解約をしなければ、と思ってすぐに解約をした。電気と水道は、また掃除に行った時にトイレにも入るだろうし、残しておくことにした。

 布団の他にもいろいろ整理して捨てた後、母親の施設に寄った。母親はもう視点も定まらず、僕が息子だということも認識できない。だから姉の死のことを伝えても仕方ないので、黙っていた。流動食しか喉を通らないため、手なんか文字通り骨と皮だ。こういうのを元気と言えるのかどうか分からないけれど、まあ落ち着いている。

NHKでは言えないバイロイトの本音
音源を入手~行動開始

 さて、いろいろな想いを胸に抱きながら、家に帰って来てパソコンを開けてメールを確認すると、NHKからバイロイト音楽祭2023の「ニーベルングの指環」4部作の音源が送られていた。
「よし、やっと来たぞ!」
たちまち仕事モードに意識が復帰して、書かれていたURLにアクセスしてzipファイルをパソコンにダウンロードした。
 去年はWAVファイルで、音が良かったけれどファイルが重かった。今年はMP3かあ、と思ったが、音の劣化は別に感じないなあ。早速i-Podに入れ、その一方で、先日バッテリーが故障しかかって自力で治った“曰く付きのi-Pad”には、Petrucciからダウンロードした4部作のそれぞれのフルスコアをforScoreというアプリに入れた。
 これで京都の滞在中に、「リング」の演奏を楽譜を見ながら存分に聴く準備が整った。i-Pad君も、京都滞在中は、バッテリーへそ曲げたりなんかしないで、よろしく頼むよ!

素晴らしい「ラインの黄金」
 10月19日木曜日の午後。国立駅前のスターバックスに行き、早速「ラインの黄金」を聴く。僕は、何か集中して仕事をしたい時には、大抵外のカフェに行くんだ。その日は天気も良く、気温も清々しかったので、戸外のテラスに出て、i-PodとBoseのノイズキャンセリング・ヘッドフォンでのんびり聴いた。風が時々優しく頬を撫でていく。

 「ラインの黄金」では、まずバイロイト祝祭管弦楽団のうまさに舌を巻いた。さらに、それをドライブするフィンランド人指揮者ピエタリ・インキネンの素晴らしさに圧倒された。昨年のコルネリウス・マイスターも随所に独創性が感じられ、僕個人としてはとても良かったと思ったが、やはり本番10日前に飛び込みで入るのと、充分に稽古を積んで公演を迎えるのとでは、オケの消化度が違う。オケはインキネンの音楽をしっかり把握し、自分たちの表現として出している。とても音符に正確で、これほど整然としていてピタッと合う演奏は、祝祭管弦楽団でも珍しい。

 キャスティングは、ほとんどが昨年と同じなので、今年は新しくコメントする材料があまりないなあと思った。相変わらず声を張り過ぎて、僕の好みのローゲ~すなわちローゲには弱音を駆使して狡賢く慇懃無礼な表現をして欲しい~に合わないダニエル・キルヒはさておいて、他の、恐妻ぶりを発揮するクリスタ・マイヤーのフリッカや、神秘的なオッカ・フォンデア・ダメラウのエルダ、邪悪で陰険なオラフール・シーグルダルソンのアルベリヒ、卑屈なアルノルド・ベズイエンなど、各キャスト達も健在で、よくオケと合っている。
 その中でもとりわけ、ヴォータンが、昨年のエギルス・シリンスに変わって、トマシュ・コニエチュニが「ラインの黄金」も歌うことによって、その後の「ワルキューレ」「ジークフリート」と合わせて全3作品を担当するのは、統一感の面からも良かったと思う。この人、声も豊かだけれど、表現もニュアンスに富み、かなり理想的なヴォータンに近い。

「ワルキューレ」での疑問
 10月20日金曜日は、孫娘の杏樹の学童保育のお迎えを16時30分に行くことに決めて、彼女の通っているシュタイナー学校のすぐ近くにあるロイヤルホストで、午後の時間をたっぷり使って、コピーしたドイツ語の資料を読んだり、「ワルキューレ」第1幕を聴いたりした。しかしながらこちらは、「ラインの黄金」とは異なり、いくつかの点で、
「あれっ?」
と違和感を持った。

 インキネンが「ラインの黄金」で示した長所が、「ワルキューレ」では必ずしも生かされていない。アンサンブルが合っているのは相変わらず素晴らしいし文句の付けようがないのだが、何かが足りない。何だろう?う~~ん・・・そういえば、「ラインの黄金」のニーベルハイムにヴォータン達が降りて行く間奏曲でも少し感じたのだが・・・「ワルキューレ」冒頭の嵐の音楽で、それが決定的な要素となるもの・・・あ、そうだ・・・熱量だ!
 この演奏。音は良く鳴っているのだが、意外と冷めているんだ!嵐の音楽は、単に嵐の描写に留まらず、これから始まるジークムントとジークリンデの愛の情熱と葛藤、酷い運命の象徴なのだ。つまり、ここに欠けているのは、月並みだけれど“情熱的表現”というものなんだ。

 批評をいろいろ読んでいると、僕の印象にも関わらず、おおかたの批評はインキネンに好意的で、彼を誉め称えている。
たとえばMerkur.deというサイトのMarkus Thielという批評家の文章。

Dirigent Pietari Inkinen ist nicht nur besser als Cornelius Meister anno 2022, sondern auch als bei seinem eigenen „Rheingold“ vom Vortag.
Inkinen betreibt sorgfältige Detailarbeit....

「指揮者ピエタリ・インキネンは2022年のコルネリウス・マイスターより良いだけでなく、昨日の彼自身の「ラインの黄金」をも越えていた。インキネンは細かい個所について入念に指揮をして・・・・」
 sorgfältig「注意深く、綿密に」は分かるよ。Detailarbeit「ディテールにこだわった仕事振り」もその通りだ。でも叙事的にどんどん事件が起こっていく「ラインの黄金」と違って「ワルキューレ」は、それだけじゃ駄目なんだ。
う~~ん、この批評家はいったい何を聴いていたのだろうか?

 そう思っていたら、Franziska Stürzという批評家が、次のようなコメントを書いていたので我が意を得たりという感じで嬉しくなった。
Brutal klingt das Vorspiel zur "Walkure" unter Pietari Inkinen an diesem "Walkuren"-Premierenabend aber nicht.
Es grummelt zwar in den Bässen, doch die Blitze klingen nicht lebensbedrohlich, und dynamisch hätte das Bayreuther Festspielorchester sicherlich noch etwas mehr zu bieten.
Doch Pietari Inkinen bleibt auch im ersten Tag von Wagners Bühnenfestspiel bei seiner nüchtern-kontrollierten Wagner-Interpretation und verzichtet auf große romantische Impulse und markerschütternde Akzente, wie man sie hier durchaus schon gehört hat.

 (雷雨が野蛮に響かなければならないのに)初日のピエタリ・インキネン指揮による「ワルキューレ」前奏曲が野蛮に響くことはなかった。
 それはバス声部にかすかに感じただけだったし、稲妻も生命の危険を感じるような風には響かなかった。ダイナミックも、バイロイト祝祭管弦楽団だったなら、明らかにもっと何かを表現(提供)できたであろう。
 だがピエタリ・インキネンは、ワーグナーの舞台祝典劇の初日において淡々とコントロールされたワーグナー解釈に留まり、この劇場でいつも聴かれていた、大いなるロマンチックな衝動や、深い衝撃を与えるような強調などを、彼は放棄していた。

インキネンの指揮テクニックと音楽
 ああ、やっぱり・・・と思った。それで僕はYoutubeで彼の指揮する映像をいくつか見てみた。指揮のテクニックがしっかりしているので、オーケストラは良くドライブできている。曖昧なところはないし、音楽的な方向性も良く分かる。その意味では、とてもプロフェッショナルであり、良い指揮者であると言える。
 しかしながら同時に、(予想していたが)彼の動きはとても省エネで、ほとんど腕だけで指揮していて、体が使えていない。これだと、楽員が我を忘れて熱狂的に弾かされてしまった、などということを期待するのは無理だ。
 世の中には、実際、
「こうした指揮振りこそ、プロのプロたるゆえんなのだ。髪を振り乱し、派手な身振りで汗をまき散らしながら振るなんて格好悪い。プロはクールでなくっちゃ!」
と言う人も少なからずいる。でもねえ・・・ワーグナーの楽劇から熱狂性を取ったら・・・何も残らないとは言わないけれど・・・かなり寂しいものがあります。

歌手達のバランス
 さて、まだ第1幕を聴いただけであるが、ジークムントのクラウス=フローリアン・フォークトとジークリンデ役のエリザベト・タイゲの声があまりに違いすぎるのが気になる。昨年のジークリンデ役を立派に務めたリーゼ・ダヴィッドセンに対しては、僕は次のようなポジティブなコメントを残している。
「リーゼ・ダヴィッドセンは、やや硬質の声でもって、ジークリンデの芯の強さと一途さを見事に描き出しています。ジークムントに自分の運命を預けようと決心してからの歌唱が圧倒的で、グイグイ心に迫ってきました」
 でも、今年のエリザベト・タイゲは、ビブラートの強いギラギラした声で、はっきり言って、なかなか共感を呼びにくいなあ。そうでなくても、奇才?ヴァレンティン・シュヴァルツの演出では、ジークリンデがジークムントと出遭った時、もうジークリンデは妊娠していてお腹が大きいそうだ。それはヴォータンの子で・・・・近親相姦で純粋培養(のジークフリート)を目指して・・・・これでは、なかなか純愛は生まれにくいシチュエーションだ・・・まあ、それはどっちでもいい・・・NHKでは演出のことには意図的に触れないつもりだ。ともあれ、タイゲの歌唱から、あまり切なさが感じられないのだ。

 先ほど僕が評価したFranziska Stürzの批評では、この二人については、次のように書いている。

Klaus Florian Vogt und Elisabeth Teige sind stimmlich sehr verschieden, er singt in seinem gewohnt strahlenden, gerade fokussierten,schlanken Ton, sie mit dramatischem Potenzial und erregtem flirren in der grossen Stimme. Man ahnt, das wird nichts mit den beiden.

「クラウス・フロリアン・フォークトとエリザベト・タイゲの声はとても違っている。
フォークトは、いつもの光り輝く、真っ直ぐで焦点の合ったスリムな声であることに対して、タイゲの声は、大きな声の中にドラマチックな能力を有し、キラキラと興奮している。この二人では合わないのではないかと予感させられる」

ですよね。この批評家の言っていることは他にもかなり説得力がある。

フォークトの将来を危惧する
 それよりも、僕が気になっているのはフォークトの声だ。彼がローエングリンを歌っている内は良かった。ノーブルで崇高な雰囲気が漂っていて、理想的なローエングリンだ。まさにFranziska Stürzさんが書いているようにstrahlenden, gerade fokussierten,schlanken Ton(光り輝く、真っ直ぐで焦点の合ったスリムな声)なのだ。

 でも、ジークムントを歌うようになってから、彼の発声の方向が明らかに変わってきた。それは彼の将来性を考える時、僕はとても危惧するのだがが、その危惧をさらに裏付ける二つの証拠がある。
 ひとつは、先日日本を訪れたバイロイトの住人Winter和子さんの証言。彼女が言うには、現在フォークトは、なんとバイロイトに住んでいるということである。
「まさか、彼は自分のレパートリーの軸足を、本当にワーグナーのみに移しちゃうつもりなのか?」
と僕は即座に思った。そのためにバイロイトに移り住んで来たとは思いたくないのだ。

 もうひとつは、来年のバイロイト音楽祭の演目発表を見たこと。なんと彼は、「ジークフリート」と「神々の黄昏」でジークフリートを歌うことになっているではないか!今年はステファン・グールドがキャンセルをして、アンドレアス・シャーガーが大活躍したらしいが、グールド亡き後、いつまでも元気が取り柄のシャーガーばかりに頼るわけにはいかないとは思う。でも、なにもフォークトにやらせなくてもいいではないか。
 というか、もしフォークトが、ジークフリートを最終目標にしながら、ここまで来たとしたら、僕ははっきり「彼は間違っている!」と言いたい。彼は決してジークフリートではない。というか、ジークフリートを歌った途端、彼は歴代のジークフリートと比べられ、彼のこれまで築いてきた名声さえも失ってしまうことになるのではないか・・・。

 僕が遠く覚えているのは、2005年に、まだほとんど無名のフォークトが「ホフマン物語」の主役を歌いに新国立劇場に来た時だ。細身の声ではあり、テノール歌手としての印象もまだ強いものではなかったが、実に音楽的で自由自在で、
「彼は、もしかしたら・・・」
と思ったのだ。
 その時には、今のようにワーグナー歌手になるなんて夢にも思わなかったが、次に「ローエングリン」で来日した時には、文句なく第一級歌手に成長していて、声のプレゼンスも充分で、理想的なローエングリンだと思った。
 でも、そこまでで充分だった。それに、ホフマン役を初めとして、彼がワーグナーでなくても素晴らしく歌える役はいくらでもあるじゃないか。

まあ、こんなことはね、NHKではあまりしつこくは言えないので、ここで「つぶやき」として聞いてくださいね。
 

アッシジ祝祭合唱団に早く行きたい!
 さて、京都から帰ってきたら、次の日の10月28日土曜日には、久しぶりにアッシジ祝祭合唱団の練習に顔を出そう。僕が今年の4月に作ったCantico delle Creature「太陽の賛歌~被造物の賛歌」を初めて実際の「人の声」で聞けるのだ。今からとっても楽しみにしている。
 あ、ついでみたいに言うけど、皆さん、今からでもアッシジの合唱団にどんどん参加して、一緒にアッシジに行きましょうよ。合唱団にはオーディションもないし、レベルは問いません。まあ、僕の曲が簡単ではない、というのが唯一のネックだけどね・・・でも、簡単ではないということは、それだけ内容があるってことですよ(自画自賛)。

2023.10.23



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA