京都での日々と聖フランシスコのこと

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

2分間隔の新幹線ってどーよ!
10月23日月曜日。

 朝、京都ロームシアターで行われる「高校生のためのオペラ鑑賞教室」モーツァルト作曲「魔笛」公演の合唱指揮者として京都に向かう。新横浜駅を10時31分発の新幹線「のぞみ23号博多行」に乗った。すぐ前の「のぞみ327号新大阪行」が10時29分発と出ていたので、
「あれ?以前は、どんなに接近していても3分間隔より短くなることはなかったのに、わずか2分間隔かあ・・・ヤだな・・・」
と、ふと思った。
 だって新幹線という超特急の2分前に同じ速度で電車が走っているわけだ。その列車が、たとえば何かの原因で突然脱線して、トンネルの入り口に激突して線路を塞いだりしたら、後続する僕の列車が突っ込まないと誰が断言できようか?
 仮に、事故ったその瞬間に急ブレーキを掛けたって、間に合うのか分からないのに、もし連絡が少しでも遅れたりしたらアウトだよね・・・まあ、その辺は、緊急自動装置が働くなどの手立ては考えているのだろう。そんな馬鹿じゃないよね。わざわざ2分間隔にしたのは、むしろあらゆる可能性を考慮した上での、ハイテクの自信のあらわれとポジティブに評価しよう。
 でもさあ、だとしたって、なにもわざわざ2分間隔にしなくってもいいんじゃない?山手線じゃないんだよ。よりによって新幹線なんだよ・・・・と頭の中でぼんやり何度も反芻していたら、いきなりブレーキが掛かった!

沿線火災で2時間40分の足止め
 しかもそれは、新幹線では珍しいほどの急ブレーキだった。僕は、バイロイト音楽祭のドイツ語の資料を訳していたが、可動式テーブルに置かれた電子辞書がスルスルっと前に滑って座席との間に落ちそうで慌てて手で押さえた。同時に、
「ほれ見たことか!2分前の電車にぶつかるぞ!」
と身構えた。体中の筋肉が硬直した。新幹線は急ブレーキのまま、ガクンと止まった。
「ふうっ!」
次に考えたのは、後ろの列車にぶつけられること。でも確か、後続列車は2分とかではなかったのを覚えている。それにしても、なんで止まった?

 すぐに車内放送があった。
「ただ今、三河安城、名古屋間において、沿線火災が発生したという連絡が入ったため、臨時停車をしました。詳しい情報が入り次第お知らせします」
それから、一度動き出し、徐行してどこかの駅らしい所に再び止まった。後から知ったが、それは三島駅だった。

 結論から言うと、なんと僕たちはそこで1時間40分も足止めを食らった。例の2分前の列車も含めて、東京駅から火災現場まで、一体何台もの新幹線が立ち往生しているんだろう?上空から見てみたいものだ。止まったのは11時前で、動き出したのは確か12時40分頃だったか。正常運転をしていたら、もう京都に着いている時間だ。
 途中でお昼の時間になってお腹がすいてきたが、車内販売のワゴンのお弁当はとっくに空になっていた。それどころか、ワゴンそのものがほとんど空っぽの状態であった。普段そんなに買わない人たちが不安になったのだろう。周りの人たちを見ても、飲み物も含めてみんな意味なく何かを買っている。

 停車中に何度か放送が入ったが、なんとも歯がゆいものであった。
「ただ今、現場に係員が駆けつけております」
「現場に係員が辿り着きましたが、消火活動が始まるまでまだ時間が掛かる模様です」
「消火活動が始まりました」
「消火活動に時間が掛かっている模様です」
「消火活動は終わりましたが、安全確認を行っていて、運転再開までまだ時間が掛かる模様です」
「ただ今、現場近くの列車から順次運転再開が始まりました」

 ということで、ようやく動き出した。まあ僕自身は、お腹がすいたのは置いといて、合計3時間40分かかった新横浜~京都の旅もあまり気にならなかった。というのは、臨時停車をしたので、これは時間が掛かるかも知れないなと思って資料を読むのを中断し、その代わりにi-Podを取り出して、バイロイト音楽祭の「ワルキューレ」音源を第2幕から聴き始めたから。むしろ静かなので集中して聴けたのが良かった。しかしワーグナーって長いんだね。それでも「ワルキューレ」は、聴き終わるどころか、京都に着いても第3幕途中までしか行かなかったのだからね。

「魔笛」練習時間変更
 さて、僕だけでなく、同じ新幹線及び乗車変更をして別の列車に乗った人も含めて、沢山の合唱団員が同じように閉じ込められたので、携帯メールが劇場側から送られてきた。
「新国立劇場合唱団の皆様。本日の14時からのロームシアターにおける舞台稽古は、新幹線の遅延のため、18時からに変更になりました」

 京都には午後2時過ぎに着いて地下鉄に乗り継ぎ、烏丸三条にあるホテルにやっとこさ着いて荷物をほどいてベッドに体を伸ばし、ちょっと休んでから時計を見たら、もう3時近くになっている。
 とにかくお腹がすいているので、お昼をどこかで食べなければと思い、夜の「魔笛」の楽譜などを含む荷物を持ってホテルから出た。三条通りを河原町方面に向かって歩く。ところがね、3時というと、気が利いたお店は、もうみんな一度閉まっているか、開いていても、なんだか入りにくい雰囲気なんだ。なので、仕方ないから河原町通りの“なか卯”に入った。せっかく京都に来たのに、な・・・なか卯???

ピエタリ・インキネンの「ワルキューレ」
 それからドトールに入って「ワルキューレ」の続きを聴く。ピエタリ・インキネンの作る音楽は、とても整然としていて、オーケストラの各声部もくっきりとバランス良く浮かび上がり、指揮者としての希有なる才能を感じさせる。しかしながら、恐らく4部作の中では残念ながら「ワルキューレ」は、彼にとっては最も手ごわい作品に違いない。つまり、彼の方向性に最もマッチしない楽劇だから。

 そもそも楽劇「ニーベルングの指環」という作品は、ワーグナーの中ではとても珍しい叙事的作品だ。「さまよえるオランダ人」や「タンホイザー」など、救済やカタルシスに向かって物語や音楽が熱狂的に進んでいくのとは真逆に、人間の欲望や悪徳、憎悪、対立が、世界を没落に導いていく物語だから、ワーグナー自身、「ラインの黄金」でも、感情的にのめり込むことはしないで、彼の編み出した「指導動機=ライトモチーフ」を駆使しながら、実に冷静に作曲している。
 しかしながら、その「リング」全曲の中で、唯一「ワルキューレ」だけは、ジークムントとジークリンデの許されない純愛に始まり、ヴォータンの娘を想う親子の愛に終わるという、情感に満ちた作品である。
 それを描いてしまったワーグナーは、だからこそ、その後の再び叙事的な「ジークフリート」にすんなり戻れず、「リング」を中断してまで、あの愛の熱狂と法悦に満ちた「トリスタンとイゾルデ」に寄り道してしまう。「ワルキューレ」は、そんな中断を導いたほどの影響力を持っているのだ。

 ピエタリ・インキネンは、耳も良く理知的で、オーケストラを操るテクニックと、バランス感覚も抜群だ。だから「ワルキューレ」においても、その点では申し分ない。しかしながら、先週の「今日この頃」でも書いた通り、「ワルキューレ」冒頭の嵐の音楽を聴いただけで、僕は大きな失望感を味わった。彼の中からは、残念ながら、彼にとっての必要性を超えた情感や熱狂性は聞こえてこなかったのだ。
 第3幕の「ワルキューレの騎行」は良かったが、ブリュンヒルデとヴォータンの対話、及び、ヴォータンの「告別」は退屈であった。第2幕にも退屈なところはあったけれど、歌手が歌っているところは歌手の表現力に助けられているし、彼の歌手に対するサポートは的確なので、全体としては良く仕上がっている。
 でもねえ、やっぱり第3幕後半と「告別」には、もっとプラスアルファーを期待するじゃないの。ブリュンヒルデのダニエラ・ケーラーDaniela Köhlerとヴォータンのトマシュ・コニエチュニーTomasz Koniecznyの歌唱は素晴らしく、それだけで音楽的満足感は得られるものの、この場面はやっぱり、それを支えるだけじゃ物足りない。大音量で歌を覆ってしまったら駄目だけれど、時には、過剰なくらいに押し寄せるオーケストラからの大波に溺れそうになるくらいの体験が欲しいわけです。

京都河原町教会
 「ワルキューレ」を聴き終わると、僕はドトールを出て、京都滞在中に必ず行く場所に向かって歩いた。そこは、庭の部分が大きな塀で覆われていて、中では工事の音が大音響であたりに響き渡っていた。しかし聖堂の部分は塀の外にあったので、中に入ることはできた。

 目当ての場所は、カトリック河原町教会である。ここは京都府、滋賀県、奈良県、三重県という4県にまたがる京都司教区の中心である司教座聖堂(カテドラル)だ。ここでお祈りというより、むしろ瞑想と言った方が近い行為をする。その日はどなたかが二階にあるオルガンの練習をしていた。

写真 カトリック河原町教会の礼拝堂の中
カトリック河原町教会

 バロックではなく、結構柔らかいロマン派的な音を使っていた。フルストップで聖堂一杯に鳴り渡る大音響を響かせるかと思うと、直後にゲネラル・パウゼ。ストップを替える音がかすかに聞こえる。次またフルストップで来るかな?それともピアノで?と思うと体が緊張してしまう。結局、その日の瞑想は、あまり集中出来なかった。いや、別に、その方のせいではありません。もしかそのオルガニストの方が「今日この頃」読んでいたら、全然気にしないでくださいね。

 ロームシアターに18時前に入ると、前日から稽古しているソリスト達は、14時からの稽古に遅れる心配はなかったので、合唱の個所だけ抜いて、すでに午後の舞台稽古が終了していた。だから夜は逆に合唱個所だけ。
 とはいえ、裏合唱のPA(マイクで声をひろって表でどう聞こえるか)の音響チェックや、平面の稽古場と違って立体的で段差のある本舞台での動きの確認など、いろいろあって、結局21時までたっぷりかかった。


10月24日火曜日
西本願寺

 朝、6時に起きて、京都滞在中の僕のもうひとつの訪問場所である西本願寺に向かって散歩する。ここは親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派の中心地で、毎朝6時から晨朝法要(じんじょうほうよう)と呼ばれるお祈りがある。
 讃仏偈(さんぶつげ)・正信偈(しょうしんげ)という法要を一同で唱えた後に法話があるが、怠惰な僕は、全部聞くと長いので、勝手に6時30分ぐらいを目指して行って、法要をボーッと聞き、お坊さんの法話を楽しみに聞く。

 法話は日によって人も内容も違うが、カトリック教会の神父よりたいてい面白い。法話が終わると、だいたい7時くらいになるので、また散歩しながら帰ってくる。その日は途中のコメダで朝食を採った。ゆで卵付きのトーストにミニサラダを付けて、珈琲はたっぷりブレンドに代えてもらった。

写真 西本願寺の法要が終わったころ
西本願寺法要を終えて

「ジークフリート」を聴く
 本当は、東西線の西京極駅を最寄り駅とする西京極総合運動公園内のアクアリーナというプールで9時から泳ぎたいのだけれど、火曜日が休日なので今日は行けない。残念!ということで、またまた今朝も河原町のドトールに行って、楽劇「ジークフリート」を聴き始めた。
 こういう叙事的作品ではインキネンの精緻な音作りが光っている。ただ、第1幕後半の速い個所がちょっと速すぎて、オケは転ぶし、ジークフリートもミーメも随所で、入り損なったり、むしろ早く入ってしまったり、二人の歌が重なり合ってしまったり事故続出で、結構笑えた。
 それにしても、ジークフリート役のアンドレアス・シャーガーAndreas Schagerといい、ミーメ役のアーノルド・ベズイエンArnold Bezuyenといい、まあよく舌が回りますなあ。あんなに速くドイツ語が歌われながら、言葉が全部分かる!これだけでも驚異的なことだねえ。

 ロームシアターでは14時から再び舞台稽古。僕たちが通常KHP(カーハーペ-)と読んでいるKlavier Haupt Probeピアノ通し稽古の後、直し稽古。早く終わったが、その夜は、お世話になっている合唱部門チーフ・プロデューサーのTさんと一緒にお食事をした。

10月25日水曜日
 昨日よりちょっと早く起きて、西本願寺へ向かう。去年までは四条通り近くのホテルだったが、今年のホテルは三条通りなので、やや遠くなり、徒歩だと片道たっぷり30分かかる。法要と法話をただボーッと聞くだけなんだけど、こうして一日を始めることができるってしあわせだ。

 9時からようやくアクアリーナで泳ぐ。「魔笛」は、今日のオケ付き舞台稽古から本番もずっと午後1時開始なので、ただでさえ時間がないのに、そこにプールの時間がねじ込まれてきた(ねじ込んだのは自分なのだが)。だから能率良く泳がなければならない。
 ウォーミングアップ代わりに平泳ぎで始めて、平泳ぎとクロールとを100mずつ交互に泳いで6セット。つまり1.200m泳いで、きっぱりとホテルに帰ってきた。そこで急いでシャワーを浴び、シャンプーとリンスをする。
 時間がないとは言っても、徒歩で河原町三条まで歩くのはハズせない。ドトールで「ジークフリート」を聴くが、時間がないのでちょっとだけで切り上げる。それからカトリック河原町に寄って20分間お祈り(瞑想)をする。これも忙しくたってハズせないことだ!それから劇場方面に向かう。

巨匠の創作の頂点の後の簡素化
 今日は13時からいよいよオケ付き舞台稽古。指揮者は園田隆一郎さん。オケは京都市交響楽団。やっぱりオケの音になると、モーツァルトの偉大さをあらためて感じるね。僕は、自分の著書である「オペラ座のお仕事」(早川書房)が文庫本になるにあたって、新しく書き加えた一章で、あらゆるオペラの中で最も好きなオペラが「魔笛」であることを白状している。その理由として、巨匠がその創作の頂点に辿り着いた末の、ある種の“簡素化”が見られることを挙げている。

 「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」での、あの挑戦的なアプローチによって作風も極限にまで達し、名声も欲しいまま手に入れたモーツァルトは、フッと肩の力が抜け、リラックスして母国語で「魔笛」を書く。パパゲーノ登場の際には、3番まである“誰でも書けそうな有節歌曲”を作曲した。でもそれは、誰でもかけそうに見えるが、決して誰にも書けない天才のみが成し得る業なのだ。
 同時に、序曲のAllegroのフーガでは、晩年のモーツァルトが傾倒していったバッハへの影響力が見られる。第2幕フィナーレの途中で、鎧を着た二人の男たちがユニゾンで歌う厳めしくもカッコ良い音楽も、やはりバッハへのオマージュ。つまり彼らの歌うメロディーはコラールであって、このハ短調の素晴らしい対位法的楽曲は、バッハのコラール幻想曲の様式を借りている。

 「魔笛」のキャスティングは若手中心で、一世代そっくり変わったなあと驚いて見ていたが、みんな頑張っている。そして我らが合唱団も頑張っている。合唱団は、本体である「契約メンバー」が、目下、劇場で「シモン・ボッカネグラ」の立ち稽古をやっているため、この京都メンバーは登録メンバーで構成されている。でも僕は、彼らを相手に、ドイツ語の発音とニュアンス、また歌唱の際のちょっとしたコツなどを伝え、ドイツ語の多彩な表現力を最大限に引き出したつもりだ。

素晴らしい夕食
 その晩は、京都ヴェルディ協会理事のOさんからのお呼ばれ。僕も理事のひとりだけれど、Oさんは現在、僕などの講師への連絡係も含めて、実質的には代表のような仕事をしている。その晩連れて行っていただいたのは、和食の店なのだが、チーズなどもふんだんに使ったユニークな創作和食に感激しました。

写真 創作和食の前菜盛り合わせ
創作和食の前菜盛り合わせ

 昨年のロームシアター公演のために京都に来た時には、自宅に招いていただいたのだが、今回は、この日の午後、彼は自宅に親しい人たちを招いて、来年のびわ湖ホール主催「薔薇の騎士」公演に備えて、「薔薇の騎士」に関する講演会を開いていろいろ話していたのだそうだ。Oさんは言う。
「実は、びわ湖ホールから話して欲しいと言われて・・・自宅でこうして何回かに分けて会合を開いているのも、その事前準備のためでもあるんです。何か、うんちくがあったら何でも話してください」
「薔薇の騎士」については、僕にもいろいろ思い入れがあるので、その後、話に花が咲いて盛り上がったことは言うまでもない。

10月26日木曜日。
「魔笛」本番

 昨日と同じく、朝、西本願寺~9時からアクアリーナで泳ぎ~三条近くのドトールで「ジークフリート」をちょっとだけ聴き~カトリック河原町教会で瞑想し~そのまま徒歩でロームシアターに向かう、というお決まりの1セット。違うのは、今日と明日は練習ではなく本番だということ。
 公演は、園田隆一郎マエストロの手堅い指揮のお陰で、順調に運んだ。これまでパパゲーナを当たり役としていた九嶋香奈枝(くしま かなえ)さんが、今回は初パミーナ。キャラが違うんじゃね?と思っていたが、元々頭の良い人だし、年齢を重ねてきたこともあって、どうしてどうして、しっとりした素晴らしいパミーナだったよ。
 一方パパゲーナは、先日の「子供と魔法」で火の役などで驚くべき超絶技巧を聴かせてくれた三宅理恵さんが、お婆さんの演技も含めて、魅力たっぷりのパパゲーナを演じていた。
 新国立劇場制作の「魔笛」では、昔のミヒャエル・ハンペの演出の方が、個人的には素直で美しくて好きだが、新しいウィリアム・ケントリッジ演出も、影絵を効果的に使ったり、動く歩道を逆走したり、遊びの精神満載でとても楽しい。

鯛焼き
 京都滞在最後の晩は、特にお呼ばれもないし、元々みんなでつるんで飲みに行くとかは好きではないので、ひとりで過ごす。何しよっかな?う~ん・・・貧乏性だから、やっぱりお仕事するんだろう。公演終了後、のんびり三条通りを歩き、鴨川を渡って河原町通りを横切る。
 その三条通りが新京極商店街と交わるところで、よく外国人達が美味しそうに立ち食いしている鳴門鯛焼本舗という店が、いつも気になっていた。そこで思い切って鯛焼きを一個だけ注文して、歩きながら食べた。京都で鯛焼き?と思うなかれ。かなりおいしい。

写真 三条の鯛焼き屋の店頭
三条の鯛焼き屋

 それから烏丸(からすま)通りまで戻ってきてカフェに入る。で、またまた「ジークフリート」第2幕の残りを聴く。

 昨晩とその前の晩で外食が続いたので、今日はすっきりしようと思って、夕方「やよい軒」に行って“サバの塩焼き定食”を食べる。しかも、もち麦御飯で。おおっ!素朴で良いね。それからコンビニでソーダとウィスキー、それからイカリングとナッツを買って、今晩はひとりで部屋飲み。

「ジークフリート」第3幕
 ホテルの部屋に入って飲む前に、再びi-Podを取り出し、「ジークフリート」第2幕の残りを聴いて、第3幕に入った。やっぱり仕事の虫と言われても仕方ないね。第2幕はジークフリートと大蛇の戦いや、ジークフリートが自分を育ててくれたミーメを殺すシーンは、インキネンの快適なテンポ感でとても楽しい。しかしながら、第3幕前奏曲は・・・素晴らしく整っているのだけれど・・・インテンポということばかり目立ってしまって、はっきり言って、こんなつまらない第3幕前奏曲を聴いたのは人生で初めてだ。

 と、思っていたら、同じ事を書いている批評家がいた。あ、やっぱりFranziska Stürzだ。この人、辛口だけれど良く分かっているなあ。言い回しが独特なので、多少意訳しています。

Doch leider bietet sich im dritten Akt optisch wie akustisch wieder ein zerfasertes Bild. Das eigentlich immer so mitreißende Vorspiel zum dritten Akt klingt unter Inkinen wieder akademisch akkurat, aber blutarm.

しかし、残念なことに、第3幕は、視覚的に再び擦り切れたような光景を見せら れたが、それは音楽的にも同様だった。
本来、常にその熱狂性で心を奪われるべき前奏曲なのだが、インキネンの指揮の元では、再び、アカデミックで几帳面で、しかしながら血の沸き立たない(直訳では貧血症の)演奏であった。

 さて、第3幕を聴き終わった。終景でダニエラ・ケーラーDaniela Köhlerの演じるブリュンヒルデを眠りから起こすのは、勿論アンドレアス・シャーガーAndreas Schagerのジークフリート。この二人の長い二重唱の場面を聴いている内に、これを来年クラウス・フローリアン・フォークトが歌うのかと思って暗澹たる思いに捕らわれた。
 フォークトが比べられるのは今年のシャーガーだけではない。彼は、歴代のヴォルフガング・ヴィントガッセン、ジェームス・キングから、ステファン・グールドに至るまでのヘルデン・テナーの系列と同じステージに立たされ、容赦なく批評される。僕には結果が目に見えているだけに、ため息が出てしまう。

 さて、しらふのまま思っていたより長く聴いてしまった。ホテルのエレベーターの横に製氷機があるので、まず氷を取ってきて一度冷蔵庫に入れる。ツマミを空けてまずビールを飲み、それがすぐにウィスキーのソーダ割りに変わった。ほろ酔いの気分の中、京都最後の夜は更けていった。

10月27日金曜日
 いつもの西本願寺へのお散歩。法要の最中はきちんと「南無阿弥陀仏」と歌うくせに、みんなで唱えるときには「なんまんだ~~」とユルくなるのが笑える。阿弥陀如来に失礼じゃね?とも思う。

 朝食は、あまり体には良くないが、烏丸五条の角にあるマクドナルドで朝マック。ソーセージ・エッグマフィン、ハッシュポテト、ホットコーヒーのセット。外国人がとても多い。今日はプールはなし。その代わり、ホテルを早めにチェックアウトして、リュックサックを背負い、スーツケースを持って京都駅に行く。帰りにロームシアターからスーツケースを転がして行くのは嫌だから・・・さりとて、宅配に頼むと、今日中に開けたい荷物もあるから・・・コインロッカーに預けた。

 それから、新幹線の指定券の乗車変更をした。昨日の一回目の本番で、劇場を出られる時刻がだいたい分かったので、その約1時間半後の列車に替えた。そして地下鉄を乗り継いで、京都市役所前で降りて、いつものドトールで「神々の黄昏」を聴き始める。
「ふうっ、ワーグナーって、なんだってこんな長いものを作るんだ!」
とあらためてあきれた。序幕と第1幕だけで2時間もあるんだぜ。頭おかしい。

感謝、法悦感、しあわせであること
 それから河原町教会へ最後の訪問に行く。ここの聖堂はいつ行っても明るくて落ち着く。そしてすぐに深い瞑想に入る。手を合わせながら瞑想していると、心の中に自然に感謝の気持ちが沸き起こり、それが自分の胸を満たして法悦の世界へと誘う。
 「禅宗の人って馬鹿だな」と思う。せっかく深い瞑想をしていても、ただの無の境地になってしまったら、この歓喜の感情は得られないじゃないか。まあ、向かう対象が、創造主かそうじゃないかの違いかもね。
 自分がしあわせだと思って、人間は初めて、他人のしあわせを心から願うことができる。だから人はしあわせになる権利があるだけではなくて、「しあわせでいる義務がある」と僕は思う。

 それから劇場に行って、公演が終わってみたら、驚いた。外は猛烈な土砂降り。激しい雷が鳴っている。とても今出られる状況ではない。その時、公演終了後1時間半後の新幹線に乗車変更しておいて良かったと思った。
 落ち着いて待っていたら、少し経って雨が小降りになってきたので、リュックサックを背負い、合唱指揮者で舞台に登場する衣装の入ったバッグを小脇に抱え、ロームシアターを後にした。

聖フランシスコが辿り着いた認識
10月28日土曜日

 昨晩は、行きと違って新幹線は順調に走行し、無事に国立の家に着いた。そこで今朝は、久し振りにアッシジ祝祭合唱団の練習に出た。前半は副指揮者の酒井雅弘さんが「聖フランシスコの平和の祈り」Preghiera Sempliceの音取り稽古をしていて、僕は後半から「創造主への賛歌」Cantico delle Creatureの音楽稽古をした。

 「創造主への賛歌」は、今年の4月に作ったばかりで、まだ自分の耳で実際に合唱団が歌っているのを聴いていない。だからとても楽しみだった。勿論、この合唱団は9月2日に発足したばかりだし、まだ良く音が取れていない個所もある。しかしながら、やっぱり人間の生の声っていうのは違うねえ。素晴らしいねえ。

 僕は、練習をちょっと中断してこう話した。
「この曲は、聖フランシスコの本当の気持ちを表現している祈りです。太陽、月や星、風や水や火を通して、全ての被造物に神性が反映されており、全てが素晴らしいと祈るこの詩は、一見当然のように思われるでしょうが、この考え方こそ聖フランシスコ独自のものであり、またそれによって逆に、教会の教理からややはずれるものでもあります。

 話は変わりますが、僕は、京都滞在の間、毎朝、西本願寺に通いました。そしてお昼近くには必ずカトリック河原町教会に通いました。これを快く思わない人もいるでしょうが、僕の中では全てがつながっています。
 いみじくも教皇フランシスコが『カトリックの神などいない』とおっしゃったように、もし全ての宇宙を作られた創造主が本当に存在するならば、それはキリスト教のみの神でもなく、ユダヤ教のみの神でもなく、イスラム教の神でもなく、仏教の神でもなく、ただ『創造主』のみでしょう。

 キリスト教会では、人類は皆罪深いものであり、その我々の罪を背負って十字架に掛かることによって人類に救いをもたらしたイエスを信じることによってのみ、我々は救われるのだ、という教義が中心になっています。

 それも勿論事実ですし、我々は常に自分が犯してしまう傾向にある罪を見つめることは必要です。でも、その教義に縛られている限り、たとえば今イスラエルで起きているような宗教や教義の違いからくる争いやいさかいはこの世からなくならないでしょう。
 本当に創造主がこの世に存在するならば、それは全ての存在をあまねく超える超存在であるべきでしょう。その輝きは、全ての森羅万象に反映されているのであり、そこに気付くことによって、世界に新の平和と融和と理解が生まれるのです。人間だって、罪深いとるに足りない存在ではなく、神の息吹を帯びた素晴らしい存在なのです。
 これが聖フランシスコがこの曲の詩の中で説いていることであり、彼がキリスト教という枠の中だけで生きていない証拠であり、真に偉大な人間である証しなのです」

 ここまで言って、それから音を出したら、明らかに皆さんから出る響きが変わったよ。こういうのが小さな奇蹟なんだ。それを積み重ねていくのだ。

 自分で言うのもなんですが、その詩の深遠さには遠く及ばないものの、音楽も、僕が頭でひねり出したものではなく、上から降りて来たものであり、結構良い曲です。創造主の息吹はこの音楽の中にも現れていると僕は信じています。僕自身、ちっぽけな罪深い存在だけれど、上とつながることによって神性を帯びることを許されるのです。

 みなさん、今からでも全然遅くはありません。こうした曲に触れ、共に触れ合い、一緒にアッシジに歌いに行きませんか!

2023.10.30



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