「教会で聴くクリスマス・オラトリオ」が帰って来た!

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「教会で聴くクリスマス・オラトリオ」が帰ってきた!
 11月25日土曜日。JR中央線四ツ谷駅近くの日本キリスト教団・番町教会で、東京バロック・スコラーズ(TBS)の団員達が「ミニ・クリオラ」と呼んでいる“教会で聴くクリスマス・オラトリオ”演奏会が開かれた。バッハ作曲の6つのカンタータから成る「クリスマス・オラトリオ」の中から、僕が曲を抜粋して並べ替え、約1時間の休憩なしの長さに構成し、途中何度かスピーチも入るものだ。

 この演奏会を、僕はTBSのとても大事な活動として捉えていて、2019年は2020年3月に「ヨハネ受難曲」を計画していたため行わなかったが、それまでほぼ毎年行われていた。それが2020年春からの新型コロナウィルス感染拡大の影響で、「ヨハネ受難曲」も中止になり、その後も、聴衆を集めての演奏会のためには、どこの教会も貸してくれなくなってしまった。
 しかし教会に限らなければ、団員達がある程度ソーシャル・ディスタンスを取って無観客で行うことは可能だったので、ビデオに撮ってYoutube配信を行うことにした。団員の中には、沢山のビデオカメラを使って様々な角度から録画し、編集してくれたものを僕の所に送ってくれる奇特な人がいた。それを使って、僕は、自分の解説を入れたり、あるいは画像や字幕を加えたりした。その作業は楽しかったし、そのやり方でも結構イケるとは思ったよ。

 でも、今回、4年ぶりに聴衆を入れての演奏会を経験してみて、やっぱり全然違うなと思った。
「音楽は生に限る!」
 演奏する行為自体は、ビデオであろうと生であろうとあまり変わらない。でもね、音楽会というものは、聴衆と共に作っていくものだ。それは、バッハの音楽を通して、演奏者も聴衆も、みんなが同じ時間に同じ空間を共有し、同じ喜びを分かち合うかけがえのない空間なんだと気が付いた。

 まだ11月でクリスマスには早いかも知れない。でも、クリスマスへ期待はもう始まっている。僕がスピーチでしゃべっているのだが、人間の死は、肉体の死と一致しているけれど、誕生日といいうのは、実は“命が生まれる日”ではないのだ。赤ちゃんが地上の空気を初めて吸う日ではあるが、命そのもの、はすでに母親のお腹の中でとっくに始まっているのだ。
 12月24日から25日への真夜中がマリアの出産日だとすると、今頃、マリアはそろそろ臨月に入る頃で、彼女のお腹の中で、イエスはもう活発に動き回っているということなのだ。

 当日ピアノを弾いていた僕の長女の志保が、孫娘の杏樹を産んだ直後によく言っていた。
「生まれてからの杏樹を見ていたら、お腹の中にいた時と、全く同じ動きをしているんだ!人間はもうお腹の中にいる時から、個性を主張しているんだね」
 マリアはもう、イエスと出遭っているというわけだ。この地上で対面する日を、楽しみで仕方なく、指折り数えていたのではないか?そして生まれた時、
「君だったのね。ようこそ!」
と心から喜び祝ったのだと思う。旅先で大変だったことや、貧しい馬小屋だったことなど、その瞬間、どこかへ飛んでしまっただろう。

 そういえば、全然関係ないことを言うが、京都滞在中に、朝、西本願寺に行って聞いた説教にこんなんがあったっけ。
「子供から訊かれたんですよ。どうして人は死ぬのでしょうか?私は答えました。それはね、生まれたからですよ・・・と」
 うーん・・・この言葉はとても深いと思った。生まれなければ死はない。生まれたから死ぬ。つまり逆に言うと、生まれたから、人は生きなければならないということだ。そしてその人生の最後にゴールとしての死がある。とすれば、その限られた“生”というものをどのように生きるかを、人は問われているのだろう。

イエスの人生。それは何だったのだろうか?

 バッハは、クリスマス・オラトリオの終曲を受難コラールを使って“コラール幻想曲”として作曲した。「人類の罪を贖うために十字架に掛かって殺される」ために生まれたと言いたげだ。しかし実は僕は、そうは思っていないのだ。これはクリスチャンとすると問題発言かも知れないけど・・・。

 実は昨日、すなわち11月26日日曜日は、浜松バッハ研究会の練習だったが、ヘンデルの「メサイア」第一部の最後の合唱曲をやっている時に、僕は練習を止めてみんなにお話しをした。

「この曲とその前の二重唱は、イエスがこの世にやって来た本当の目的と理由について述べています。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びな さい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
  (マタイによる福音書11章28-30)

イエスが人のために捧げ尽くす人生を送ったことは事実です。けれども、もしイエスがただ十字架に掛かることによって人類の罪を贖うためにだけこの世にやって来たとしたなら、最初からそれを言っていたでしょう。
本当は、人々がイエスのもとで学んで、価値のある人生を送るためにやって来たのです。要するに“安らぎのある人生”です。
だから、この言葉で第1部を終わった『メサイア』は、素晴らしい作品であり、この終曲のある種の軽さ・・・え?この曲で第1部終わりなの?と思わせるような軽さの意味を、我々は理解しなければならないのです」

 だから僕は、自分で再構成した「ミニ・クリオラ」の終曲にも、第6部の終曲を持ってこないで、第4部冒頭の36番合唱曲を持ってきたのだ。

感謝と誉め歌を
いと高き“慈悲の君”に捧げよう
神の子は、この地上で
救世主及び解放者となることを欲し
敵の怒りと混乱を和らげた


「教会で聴くクリスマス・オラトリオ」演奏曲目


 そして、その曲で「ミニ・クリオラ」を終えた後に、会場中みんなで歌った「来たれ友よ」の合同合唱の美しさを何にたとえよう!ライブでないと絶対に味わえないね。空間が浄められたと感じてゾクゾクしたよ。


「教会で聴くクリスマス・オラトリオ」終演後
(TBSの許可を得て撮影)

 今度の日曜日から待降節に入って行くが、イエスの誕生に先駆けて、西本願寺の説教「生まれるから死ぬのだ」を、僕はじっくり考えてクリスマス前の4週間を過ごそうと思っている。

バイロイト音楽祭解説の録音
 今日は、この「今日この頃」の原稿を書き上げてから、いよいよNHKに行って、バイロイト音楽祭2023の「ラインの黄金」と「ワルキューレ」の録音をしてくる。そのための原稿は、もう仕上げてあって、初稿を元に担当者と多少のやりとりをして、見直し、推敲し、訂正稿を再度送っているので、あとは録音するだけ。

 とはいえ、今回はまだ読めない部分がある。というのは、今回の録音では、すでに放送した場面の音源を流しながら、同時に解説することを試みてみようと思っているので、果たして解説してから流すのが良いのか、流してから解説するのが良いのか、はたまた、流してから解説して、もう一回流すなど・・・やりようはいろいろあるけれど、実際問題、果たして、制限時間に収まるのか?収まらなかった時、どこを削るか?などの不確定要素が少なからず残っているので、そうサクサクッといかないのではないかとも思われるのだ。

 今年初めて試みることはもうひとつある。それは僕自身の意見を言うだけでなく、批評家たちの意見を話すこと。それは、僕がこの「今日この頃」で、沢山のコピー紙の写真付きで。
「今、批評を集めてます」
と書いたのを、放送担当の人が読んでいて、
「解説に批評を交えたらどうですか?」
と書いてきたのだ。
 僕は思った。
「なるほどな。自分の意見ばかり言っていたら、この意見は公平なんだろうか?客観的なんだろうか?とリスナーに疑われる危険性があるけれど、批評家の意見も交えながら語ったら、僕が思っていることの裏付けにもなるな。あるいは、ある演奏に、長所も短所も感じさせられる場合には、自分はこう思っているけれど、こういう批評もあります、と言えば、意見に幅が出てくるな」
 ただね、
「批評も片寄ってはいけない。いろんな意見を集めなければ」
と思っている内に、オタッキーになって、凄い数の批評が集まっちゃった。それを訳すのも時間かかるし、どこに誰がどの歌手の事を言ってる記事があるっけ、と探すのも大変だ。


批評

 いやあ、ここのところ、ドイツ語の勉強を一生懸命やってるので、読むドイツ語が上達したなあ・・・といい気になっていたら、木曜日の夜遅くになって、いきなりイタリア語のレッスンが翌日に迫っている事に気が付いた。
 実は、イタリア語のレッスンでも、今ちょうど、小説を訳しては先生のところに持って添削してもらっている。もう酔っ払っているからその晩は無理。
翌朝、焦って、朝早くから訳して先生のところに持って行ったら、急いで訳したので、あっちこっち嘘ばっかり!添削されまくって帰ってきた。で、またドイツ語に向かう。

 でもさあ、そんなわけで、めちゃめちゃ充実した毎日を送っています。今日の録音が終わると、楽劇「ジークフリート」と「神々の黄昏」の録音が、来週の火曜日の12月5日。今まだ原稿は「ジークフリート」の途中で、「神々の黄昏」には手も付けていない。

が、頑張ろう~~!

インプラント
 白状すると、最近まで“入れ歯”をしていました。まず、原因は、にっくき宮崎の地鶏の炭火焼きだ。これがめちゃめちゃ堅くて、ゴリゴリ我慢して強く噛み続けていたら、しばらく日数が経ってから、ある時突然、歯の詰め物がグラグラしてきてしまった。そこで歯医者さんに行ったら、
「これ、根っこが割れてしまってます。残念ながら抜かないと駄目です」
と言われたので、抜歯した。

 で、抜歯する前に、
「抜いた後、どうします?」
と先生に訊かれた。
「両側の歯に寄りかかってブリッジにするのは値段が安いですが、他の歯に負担がかかります。一番お薦めなのが、今流行のインプラントです。でも、インプラントには歯科医の高い技術が必要で、はっきり言って、他の歯医者さんはお薦めしません・・・・」
 言うことも自信たっぷりだが、実はこのお医者さん、とっても勉強熱心で、技術も僕がこれまでの生涯かかった歯医者の中で最も上手なんだ。親知らずを抜いた時なんか、
「えっ?もう抜いたの?」
という感じで、その晩はさすがにお粥を食べたが、痛み止めなんか全然要らなかったし、勿論化膿なんかしなかったし、2日後にはもうなんともなかった。

 なので、インプラントも、やるならこの先生しかないなと思って決心した。それを告げると、歯科医はさらに僕にレクチャーをする。
「スイスのストローマンという会社のインプラントが最も優れていると私は考えています(何故優れているかのレクチャー、約15分)・・・インプラントには時間がかかります。歯の土台を骨に直接埋め込むのですが、チタンという金属が、なんと骨と結合し骨に同化するという性質を持っているんです。チタンの土台を歯に埋め込んで何ヶ月か置いておくと、もう分かち難く結びついてしまうのです。
そこで、純粋チタンでも良いのだけれど、ストローマンの開発した“チタン合金”にすると、さらに同化率が高くなることが実験の結果明らかになったので(これを話している間、先生は実に楽しそうで、約15分)、多少高いけれどそちらをお薦めしたいのですが、いいかがでしょうか?」
 まあ、ここまで言われちゃ、ストローマンのチタン合金以外の選択肢はなくなってくるわな。

 で、最初、チタン合金の土台を手術で骨に入れて、土台と骨との結合&同化を何ヶ月か待ってから、型を取っていよいよ歯を乗せるわけだが、その間、部分入れ歯を作ってもらって入れていた。これが実にうっとおしかった。入れ歯と歯茎の間に食べ物のカスが詰まるので、何か食べた後、必ず人のいないところに行って、入れ歯を外してお掃除しなければ気持ち悪いし、それよりも、なんだか自分が急に年寄りになったようで、とっても寂しかった。入れ歯を掃除する度に、僕の頭の中を「昭和枯れススキ」が流れていた(笑)。
 で、先週、晴れて歯が入ったので、もう入れ歯は不用だい!はっはっは!ざまあ見ろ!インプラントのお陰で超快適です・・・でもねえ・・・大量の入れ歯洗浄剤が突然要らなくなって余っているんだけど、誰かもらってくれない?

2023.11.27



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