「タンホイザー」合唱練習が始まった!

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

杏樹と新年初スキー
 1月9日火曜日。公立小学校はこの日から3学期が始まったが、孫娘の杏樹の学校は10日から始業なので、彼女を連れてガーラ湯沢に行く。前の日に積雪を見たら『55センチ圧雪』とか書いてあったのに、当日の朝は『120センチ新雪』だって!つまり一晩に65センチも新雪が積もったということだ。

 今日は午前中に杏樹をキッズ・スクールに預けて、僕自身は、シーズン初“ガッツリ滑り”をしよう!スキーって「仲間スキー」もとっても楽しいんだけど、何といっても、心ゆくまでの「修行」に自分を追い込んで、自己批判しまくり、1mmでもいいから前進することをめざす“ひとり滑り”こそが、僕のスキーに向かう基本スタンス。それができて初めて新シーズン到来ってわけだ。

 キッズ・スクールの集合場所まで杏樹を連れていったら、最上級のオオカミ・クラスでは生徒が杏樹ひとりだけ・・・つまりマンツーマンの個人レッスンになった。若い男性の先生に挨拶をし、バイバイすると、僕は一度だけ中央エリアでウォーミングアップした後、すぐさま北エリアに向かった。


ゲレンデマップ

(画像クリックで拡大表示)

 北エリアの頂上からは、初級者コースのスワンと中級者コースの“ブロードウェイ”がある。“ブロードウェイ”でも少し自然コブが出来ているので、ここでもちょっとコブに対応するショートターンなどの練習をして、その中腹から左側で合流するスワンに入り、少し行って右側に入ると、非圧雪コブ斜面の“スーパー・スワン”がある。こここそ、毎シーズン僕の「修行」の本拠地だ。
 ここを滑り降りては、ビクトリアという4人乗りリフトに乗る。ビクトリアは高速で、あっという間に頂上に着くため、何度も何度も実に能率的に反復練習ができるのだ。スキーって、雪がなくなってから長い間滑れないから、どうしてもシーズン終わりのレベルに戻るまで時間が掛かる。杏樹のレッスンは10時半から12時半までの2時間。この間にできるだけ集中してやるぞー!

 そんな反復練習の合間、リフトの上からふと見たら、杏樹が頂上から滑り降りてくるところだった。へえ、北エリアで滑っているんだ・・・と思ってリフトを降りてちょっと追い掛けてみたら、すぐに追いついた。
「すみません・・・杏樹のジージです。今年はこの娘にジュニア検定を受けさせようと思っています。コブとかも好んで滑りますが、親の言うことなんか聞きはしないで、自分の滑りたいように滑っているので、たとえば大回りなんかもレッスンの中に入れていただけると有り難いです。よろしくお願いします」
と言って、先を急いだ。

 お迎えの12時半までの間に、かなり感覚が戻ってきた。お迎えに行くと、先生は杏樹の滑りについて、
「この娘は恐怖感がないので、どんどんスピードを出したがりますね。そのせいでターン前半で思いっ切りスピードを出してから、後半で急激なブレーキを掛ける癖があります。レッスンでは、ターン前半で『我慢して、我慢して!』と何度も言いました。検定は大丈夫ですよ」
とアドバイスをしてくれた。

 それから杏樹と一緒にお昼を食べた。レストハウス・チアーズ2階は、ご当地グルメ『新潟食堂』となっていて、僕は“新潟名物タレカツ丼”、杏樹は“燕三条背脂ラーメン”。スキー場ってどうしても、こんな食事になってしまいますよね、あはははは!

 それから午後は杏樹と一緒に北エリアの“スーパースワン”を何度も滑った。新雪が降ったので深いコブは埋まってしまったようだが、杏樹はこのコブ斜面を一度も転ぶことなく安定して滑っている。でもスピードは僕の方が圧倒的に速いのだ。えっへん・・・いつもゲレンデ下部で杏樹のことを待っている。
「おーい!早く来い!」
「ジージの方が先生よりも全然上手だよ。先生、ここで二度転んだ」
「まあコブだけがスキーの腕じゃないけどな。スラロームとかめっちゃ速いかも知れないよ」
杏樹とこんな風にコブを滑る日が来るとはね。とっても楽しい!

 リフトに乗っている時、真下を見たら、支柱をよけて新雪の上を滑った跡が幾筋も見える。
「今度、ここに入ってみようか」
「うん」
というので、つるんとした新雪エリアに入って行ったら、思いの外新雪が深いのに驚いた。
 考えてみると、最初に書いた通り、これ昨晩から一夜で65センチとか積もったんだよな。新雪では板のトップの角度を下げすぎると、はまり込んでしまうので、ターンの入り口では、注意して板の裏全体で受けないといけない。そんなことも杏樹は別に教えないのに感覚的に学習している。
 みるみるリフトの入り口が近づいて来て、それまで赤い棒の柵だけだったのが、そこに赤い紐が付いたエリア、つまり「進入禁止エリア」に入りかけてしまった。杏樹はもう分かっていて圧雪エリアに降りている。おじいちゃんだから認識速度が遅いのかも知れない。 慌てて少し戻りながら圧雪エリアに戻る急斜面を駆け下りた・・・と思ったら・・・一瞬何が起きたか分からなかったが、気が付いたら空を飛んでいた!
ドスッ!
「痛い!」
右手首あたりから落下して手を突いた。
 ええと・・・ よーく考えながら今の状態を冷静に認識しようと努めた。左の板が雪に深く埋まっている。右は?・・・・あれっ、右足には板が付いていない。
「杏樹!」
「ん?」
「どっかその辺にジージの板埋まってる?」
「ちょっと待って、探してみる!」
 その間に、こっちは左足の板を雪から出そうとするが、相当深く埋まっていて、胴体の体勢をいろいろ変えてみるのだが、なかなかうまくいかない。やっとのことで、板を雪から抜き出した。
 杏樹は自分の板を脱いで僕の左の板を探してくれているが、
「ないよ」
と言っている。そ、そんなに深く、離れた板は潜り込んでしまったのか!
 それよりも杏樹は、歩くどころか、自分自身が腰くらいまで雪に埋もれてしまって身動き取れず、仕方ないので、半分横になって雪の上を泳いでいるみたいな格好をしているのが笑える。
「あった!」
「おお、ありがとう!」
 こちらも苦労しながら板の方へ行。板はテールだけちょこんと出ている他は、ほとんど雪に埋まっている。

 ということは・・・ここで僕は右足の板のトップを下げすぎてしまったため、板が雪に潜り込んで右足から外れてしまった。それで僕の体は左板と共に空を飛んで・・・落ちたところがあそこだから・・・おいおい・・・少なくとも軽く2メートル以上は宙に浮いていたってことだな。気が付いてみると、手を突いた右の掌(てのひら)の外側下部が痛い。「ジージ、転んだ!やーいやーい!杏樹転ばなかったよ」
「ほっといてよ!」

 でも掌の痛みは、その時はたいしたほどではなかったので、それからさらにスーパースワンを2度ほど滑り、中央エリアに戻って、ガーラ湯沢で一番高い高津倉山頂から降りる上級コース“グルノーブル”を滑り、ジジからチアーズに戻ってきた。その日は残念ながら大好きな下山コースが閉じていたので、ゴンドラで下に降りた。


グルノーブル高津倉山頂

 さて、「マエストロ・私をスキーに連れてって」2024Aキャンプが今週末にあって、そこの講演会でも話すつもりなのだが、僕には霊感や霊能力のようなものはないけれど、ひとつだけあるのは、予知夢déjà vu(デジャブ)を見ることだ。そのひとつに90年代に見た光景がある。
自分はとても高い所にいる。空を飛んでいるのかそうでないのか分からない。
眼下にはぐるりと火山の外輪山のような雪山の輪が遠く広がっており、その真ん中は・・・湖なのか何なのか分からない。
風景も寒々としているが、実際、とても寒い所。

 そこがどこなのか、スキーをするようになって初めて分かった。2012年の冬、生まれて初めてガーラ湯沢に来て、まだまだ今よりずっと下手だったので、上級コースに行くなんて恐かったし、別に無理して行く必要もなかったのだが、何故か勇気を出してコーチというリフトに乗ってグルノーブル・ゲレンデに出てみた。そうしたら、突然、眼下に開けていた魚沼平野の風景と、僕のかつてのdéjà vuが重なった!

 同時にその時、僕には「déjà vuの仕組み」というものも理解できた。あの時、夢に見たのは、その風景だけではなかったのだ。その夢は、同じ風景に出遭った瞬間の自分の“驚きの感情”を伴っていたのである。つまり、その夢の主人公は、“夢を見た時”の自分ではなく、“時を超えて夢が現実化した瞬間の自分”だったのだ。そして、そのふたりの自分は、同一の自分なのだ。ということは、自分というものには、90年代の自分や2012年の自分というものはなくて、ずっとたったひとりの自分がいて、その自分がこの人生で様々な経験をしているわけだ。
 そして恐らく・・・仮に自分の肉体が死んでも・・・この自分はずっと同じ所にいて存在し続けるわけだ。déjà vuは、それを僕に教えてくれた。
ということは、僕がスキーにこうやってハマるということは運命づけられていたのか・・・・。まあ、そうとしか考えられないね。

 さて、僕の左手の掌は、滑っている時には何でもなかったのだが、滑り終わって帰りの新幹線に乗っている間に、どんどん痛くなってきた。別に骨に異常があったとかいうレベルではなかったが、帰って妻に湿布薬を貼ってもらって、2日くらいはそのままでも痛かった。
 しかし不思議だね。なんで滑っている時には平気なんだろうね?アドレナリンが出ているからなのか?

 さて、今週末は、いよいよキャンプだ。先週も書いた“宿のことは観光協会とつながりを持っている角皆君の奥さんの美穂さんが何とかしてくれる”という「今日この頃」の記事を読んで、早速Aキャンプを申し込んで来た人がいました。今からでも全然大丈夫なので、前日までキャンプ申し込み受け付けているから、どうぞ皆さんも遠慮なく申し込んで下さい!
「宿は決まっていません」
と書いてね。
 

「タンホイザー」合唱練習が始まった
 年が明けてから、僕は新国立劇場をやや離れて、二期会主催のワーグナー作曲「タンホイザー」の合唱指揮を担当している。1月10日水曜日の夜は、その第1回目の練習であった。

 「タンホイザー」は、一度2021年にやっているが、元来指揮するはずだったアクセル・コーバーが、新型コロナウィルス感染拡大に伴う来日制限のためキャンセルとなり、代わりにセバスティアン・ヴァイグレが指揮を担当した。演出家のキース・ウォーナーも来日できずに、アシスタントによるオンラインでの立ち稽古が行われた。
 今から考えると、よくあの状態で稽古をし、本番まで持って行けたなあと感心してしまうが、2020年の全く仕事がなくなったあの空虚な状態を経験した我々一同からしてみれば、
「とにかくどんな状態であれ、できるだけ有り難い。やるっきゃない!」
という気持ちで、全力投球したのが懐かしい。

 そんなわけで、その2021年の公演そのものには何の落ち度もマイナス要素もなかったが、今回は本来のアクセル・コーバー指揮で、本物のキース・ウォーナーも来日して、ソーシャルディスタンスなしのオリジナル公演ということで、またモチベーションを高くして合唱練習に参加した。

 練習会場に行ってみたら、特に男声に関しては、かつてのメンバーもいるし、新国立劇場合唱団のメンバーも加わっている。女声は、前回は二期会オペラ研修所の生徒達が大部分を占めていて、ドイツ語の扱いから音色の統一まで、一定のレベルに到達するまでかなり苦労した覚えがあるが、その経験者もいるし、ベテランもいて、今回は結構良いレベルで仕上がりそうな予感がする。しかし、事はやってみないと分からない。

 すでに3度ほど稽古して、明日からまた再開するが、いやあ、ワーグナーってやっぱりいいですなあ!一番興奮しているのは僕自身ではないかな。ワーグナーの若い頃の作品だから未熟かというと、決してそんなことはない。むしろ、彼の中での問題意識がギュッと煮詰まった形で出ていて、これはこれで感動する。「巡礼の合唱」の半音階のハーモニーなんかは、まさに天才の技だ!

 合唱が仕上がってきたり、立ち稽古が進んできたり、マエストロが来たりしたら、またこの「今日この頃」で書きます。

この週末
土曜日

 1月13日土曜日は、朝から東京バロック・スコラーズ。「マタイ受難曲」第2部合唱部分の練習。「タンホイザー」もそうだけど、名曲と呼ばれるものは、どの曲でも特別な光を放っているね。ここが良いから名曲だって具体的に指摘もできるのだけれど、そういうことではなくて、そもそも風格が違う。本当に最大限のリスペクトを払って曲に近づいていかないとバチが当たりそう。
 夜は群馬県に行って、自作のミュージカル「ナディーヌ」の立ち稽古。こちらは自作なので逆にリスペクトはゼロで、創った人がどんなにテキトーな奴か知っているので、「モンマルトルの丘」というパリのお登りさんの集まる丘の情景を、自分が一番ハジけて演出した。

終わりのない歌
 1月14日日曜日。東京大学音楽部合唱団コールアカデミー定期演奏会に出演。OBのアカデミカコールと現役との合同ステージで、銀色夏生作詞、上田真樹作曲、男声合唱組曲「終わりのない歌」を指揮した。
 その日は、長女の志保も妻も多忙で、杏樹を預かる人がいなかったため、僕が杏樹を連れて、会場である代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターまで連れて行くわけになっていた。
 ただなあ・・・男声合唱を小学校4年生が延々と聴かされるのってどうなんだろうと思っていたら、今、学校でも、だんだん自力で登校することを始めている杏樹は、突然自分から、
「自分で歩いて谷保駅まで行って、南武線に乗って立川駅まで行って、それからまた歩いて(妻のいる)立川教会まで行ってみたい」
と言い出した。

 それは願ってもないことだ。本当は教会に行くのが理想だったのだが、そこまでの足がなかったのだ。教会に行けば誰かがいるし、少なくとも男声合唱を聴き続けるよりは楽しいだろう、と思った。
 結局、僕の方が一足先に家を出て、妻には、
「杏樹が教会に着いたら念のために連絡してね」
と伝えておいたが、彼女の携帯電話に杏樹は途中から、
「お腹が死ぬほどすいたので、メロンパン買っていい?」
と連絡して、それから間もなく無事着いたという。よかった。杏樹の成長が嬉しい。

 僕はひとりですっきりと会場に向かった。青少年総合センターの最寄り駅は小田急線参宮橋だが、僕はいつも使っている初台で降りて歩いて行った。

 今回演奏する男声合唱組曲「終わりのない歌」については、僕がプログラムに掲載した曲目解説の文章を、ほぼそのまま載せてみようと思う。

「終わりのない歌」について
三澤洋史
 3月が来ると僕は69歳になる。敬愛するワーグナーが死んだ年だ。ワーグナーは、その日、「パルジファル」の花の乙女達のひとりを、彼が住んでいたヴェネチアにこっそり呼んでいたのが妻のコジマにバレて、朝から夫婦喧嘩をしていたという。それから突然心臓発作が起きて死ぬと、コジマは、亡くなったワーグナーの遺体を抱きながら、人も寄せ付けず、身じろぎもしないで長い間いた。
「やっと、あたしのものになったのよ」
と究極の勝利に酔っていたのだろうか。
 こんな風にはとてもなれないなあ、と思っている僕が、男声合唱組曲「終わりのない歌」を指揮することになった。妻とは、ワーグナーのような夫婦喧嘩をする理由もないし、孫娘を目の中に入れても痛くないような平和な生活をしている僕ではあるが、スコアをピアノで弾いたり、また合唱団の練習をして曲に触れていくにつれて、若い時には気がつかなかったであろう、危うい青春の日々の中に光る生命の真実のきらめきに、新しい感動を覚えた。

Ⅰ. 光よ そして緑
銀色夏生さんの詩は、けっして難しい言葉や言いまわしは使わないけれど、洒落ていて人生の真実をさらりと描き出す。上田真樹さんはGメージャー・セブンスからCメージャー・セブンスへ移行する前奏から、詩の世界に対応していて、自分のふがいなさを嘆くよりも、光や緑の潔さを鮮やかに映し出している。

Ⅱ. 月の夜
「あれはただそれだけで そのものだった」という、青春のある日のある“充実した時”を振り返る“甘酸っぱい感情”が聴いている者を包む。曲はそのまま次の音楽に流れ込んで行く。

Ⅲ. 強い感情が僕を襲った
突然湧き出でた強い感情は、この主人公が、そのままでは済まなくなったということか?あの“充実した時”をあえて否定してまでも、前に進まないと気が済まなくなったということか?その危機感が「砂嵐が僕をかこんだ」の変拍子のオスティナートで表現され、鉛筆みたいに削られてなくなってしまった主人公は、それでも砂嵐に花束のような甘さを望み、そして解き放たれてしまった。

Ⅳ. 終わりのない歌
「時間をください ・・・力をください・・・」
すっかり自信を失ってしまった主人公は、「僕を包んで抱きしめたまま歩いてくれるものをください」と、大きな存在にすがろうとする。その切なさを、シンプルなメロディーと和声が優しく包み込んでいる。

Ⅴ. 君のそばで会おう
 「終わってしまった恋がある」を、僕はささやきのような響きから始めたい。きっと、この恋はすでに終わってしまっているのかも知れない。これは負け惜しみの歌なのかも知れない。「終わらせないと僕が決めたから」という勝手な言葉には、相手に対する思いやりの欠如があるのかも知れない。
 でもね、僕が一番感動するのは、この未熟さだ。この年になった自分は、もうこのようには生きられない。一方、若者はこれでいいのだ。全身の血がたぎるような激しい思い込み。恥も外聞もない捨て身のままの自分。かつて自分もそうだったからこそ、その赤裸々な生を今の僕は曲の中でぶつけてみたい!

若者達よ、覚悟しておけ。年寄りのノスタルジーの強さを!


 あはははは!そんなわけです。本番は、アカデミカのおじさま達、みんな若返って、若者のひたむきさや胸キュンな想いを、あまりに素直にぶつけてくれたのに僕自身驚いているほどだ。たかだか20分以内の組曲だけれど、僕も曲の内容にのめりこみ、集中して指揮したので、結構疲れた。

 6月16日、池袋の東京芸術劇場における東京六大学OB合唱連盟演奏会では、またまたアカデミカコールを率いて、髙野喜久雄作詞、髙田三郎作曲「水のいのち」を指揮する。これもまた、気持ちを若くして髙田氏の真摯な宗教心と向かい合いたいと思っている。


OB六大学演奏会

2024.1.15



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