バイロイト音楽祭練習期間とレナート・バルサドンナ

三澤洋史 

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1999年7月3日(土)
 「ローエングリン」の立ち稽古が始まった。演出家のキース・ウォーナーは、太い体型なのに練習場の中を走り回りながら、体当たりで演技をつけている。実にエネルギッシュだ。これは面白い「ローエングリン」になりそうな予感がする。
 ウォーナーは時々自分で歌う。きれいなテノールの声だ。ドイツ語はあまり得意ではなくて、細かい事になると英語になってしまう。そうすると、花田夏枝さんの息子のマティアス・フォン・シュテークマンが英語からドイツ語へ通訳をする。
 マティアスのドイツ語は、訛りが全くなくとても分かりやすい。彼はバイロイトに来る時以外は、映画やテレビの吹き替えの声優をやっているだけあって、言葉がぴちっと立っている。もちろん演出助手としても優秀で、ウォーナーは彼をとても信頼している。

指揮者のアントニオ・パッパーノはバイロイト初登場の若手だ。と言っても彼はかつてここでバレンボイムのアシスタントをしていた。バレンボイムがユダヤ人コネクションで彼を連れてきたという噂だが、真偽のほどは分からない。
歳は40に届いたくらい。現在ブリュッセルのラモネー歌劇場の音楽監督をしている。こちらもまたワーナーに負けず劣らずエネルギッシュで、かなり大ぶりだ。テンペラメントはあるが、繊細さをどこまで表現できるかはまだ未知数だ。
バラッチが彼にいろいろサジェスチョンをしている。時には「ちょっとやらせてくれ。」とパッパーノを差し置いて合唱を振ってしまう。合唱団は、バラッチに目の前で振られたら合わせない訳にはいかないので、パッパーノで合わない所でもピタっと合う。そんな時のバラッチは誇らしそうだ。バラッチはウォーナーにもどんどん注文をつける。ウォーナーもバラッチにはさからわない。本当に凄いよバイロイトのバラッチって。

今日からもう一人合唱アシスタントが加わった。パッパーノと同じブリュッセルの劇場から来た、イタリア人のレナート・バルサドンナだ。後半からの契約だけれどもう来てしまっている。ヴィーデブッシュとオッペンアイガーの二人は前半だけの契約だから、彼らが帰った後はマリーとフリードリヒと僕、それにこのバルサドンナの四人で公演をまわすことになるのだろうな。それにしてもみんないいなあ。それぞれ自分の劇場では、一国一城の主だ。劇場のChor Direktor(合唱音楽監督)の肩書きを持っていないのは僕だけだ。まだ日本ではそんなのないから仕方ないけど、ちょっと寂しいな。

7月8日(木)
今日の午前中の稽古で、「ローエングリン」の立ちが全部ついた。短期間なのに、あれだけ動きの多いコーラスを能率よくさばいて、活気に満ちた稽古をしてくれたウォーナーに感謝したい。練習の終わる直前、ウォーナーは「二つの事をぜひ言っておきたい。」と団員を集めて話をし始めた。僕は塔に上ったままでみんなの様子を見下ろしていた。
「私のこれまでの二十数年間にわたる演出家としての活動の中で、こんな素晴らしい人達と一緒に仕事した事はなかった。音楽的にも、演技に対する姿勢、そして感性の面でも、あなた達はまぎれもなく世界一の合唱団だ。今日全ての部分の立ちがついたが、驚くべきレベルのものが驚くべき早さで仕上がったのだ。本当にありがとう。もう一つは、マティアス・フォン・シュテークマンの通訳を兼ねた演出助手としての素晴らしい働きに感謝する。彼なくしては、ドイツ語も得意じゃない自分がここまでのものを達成する事は決して出来なかったであろう。」
ウォーナーは頭を下げる。みんな大きな拍手。いつまでもやまない。ここに来ている人達は純粋だからこんな時は本当に涙が出そうな瞬間になる。僕の人生にとってもかけがえのない瞬間。だがここバイロイトではそんなことが何度も起こるのだ。やはりここは一種の聖地なのだ。

午後3時。バラッチが「さまよえるオランダ人」の音楽稽古を行う。ピアノは僕。オランダ人のピアノを弾くのは楽しい。音楽のアイデアは初期の作品だけあってシンプルだけれど、それだけに表現が直載的で、心にダイレクトに響いて来る。なによりリズミックなのがいい。休憩になって外に出たら、ヴィーデブッシュが僕の方に近寄ってきた。
「おまえのニックネームを考えたよ。」
「なんだい?」
「Klavier Tiger(ピアノの虎)さ。決して獲物を逃さない虎のように、お前は完璧にバラッチのタイミングをとらえ、まさに動物的なカンでピアノを操る。おまえこそ典型的なKlavier Tiger以外の何者でもない。」
「ありがとう。」
そんなこと言われちゃうと何となく恥ずかしい。
 新人のバルサドンナは、休憩後に初めてピアノを弾く事になっていたが、なんか怖気づいてマリーに譲ってしまった。意気地なしだなあ。早いうちに清水の舞台から飛び降りちゃった方が楽なのに。もっともバルサドンナの出身のイタリアには清水の舞台はないか。あるとすればピサの斜塔だな。

午後6時。今朝演技がつき終わってウォーナーが挨拶したって、晩にはちゃんと再び第一幕の通し稽古をするのがバイロイトならではのスケジュールだ。日本人が勤勉だとよく言われるが、ここバイロイトの練習は、最もハードなアマチュア・オーケストラやコーラスの合宿も負けるほど超ハード。しかもこれが毎日続くんだからね。ハンパじゃないよ。

7月9日(金)
今日はアクシデントの連続だった。10時からの第二幕の通し稽古の最中に、ゼンタ役のディーナーの後ろの壁が突然倒れてきて、彼女はその下敷きになってしまった。一瞬あたりがものものしい雰囲気になってみんな舞台の上に駆け上っていく。
僕もその瞬間を見ていたのでドキドキしていたが、彼女はすぐに立ち上がった。壁はそう重いものではないらしく、ケガはなさそうだ。でも相当ショックを受けているらしい事が傍で見ていてもよく分かる。話に聞くとディーナーは妊娠4ヶ月だそうだ。大事に至らなければいいが・・・。
練習はその事によって長い間中断され、再び始まってもディーナーの姿はなかった。アシスタント・コンダクターがオーケストラピットから歌い、演技は演出助手の女の子がやっている。第二幕の終わりまでどうしてもいかないと後の予定がつまっているので、1時までの練習が20分くらい延びた。

終わって合唱アシスタントの控え室に帰ってくる途中、バルサドンナが何処から聞いてきたのか「午後の3時からの練習はなくなった。それと5時~8時の練習は変更になって、6時~9時になった。」
と言う。僕はそれをてっきり信じてしまった。

 午後の時間が突然あいたので、昼寝をしたり、知り合いにFAXを送ったりしてのんびり劇場に戻るとバラッチに会った。 
「結婚行進曲のフォローはどこでしますか?」
「もう終わったよ。」
「はい?」
「練習は5時から始まったんだ。」
「ええ?でも僕は6時に変更になったと聞いたのですが。」
「言ったのはバルサドンナだろう?」
「はい。そうです。」
「それはあいつが何か聞き間違ったのだ。でも大丈夫。今練習は中断している。テクニカルに問題が発生してなおしている最中だからあわてることはない。結婚行進曲はオーケストラ・ピットの中に合唱団が入ってやる。まあ少し休んでいなさい。」
 なんだなんだ一体どうしたのだ。バルサドンナの奴、許さないぞ!とにかく僕は舞台の様子を見に行こうとカンティーネの前の廊下を歩いていると向こうからマリーがやって来た。
「我々は昔の教訓を思い出すべきだね。イタリア人を決して信じちゃいけないという教訓をね。」
彼もバルサドンナの事を信じたのだが、ちょっと不安に思って5時ちょっと前に来てみたら、みんなが居たのでびっくりしたそうだ。

 塔に行ったらオッペンアイガーとバルサドンナが居た。僕を見るなりバルサドンナは
「ヒロ、ごめん。この通りだ、本当にごめん。」
と平謝りになっているので、もうそれ以上強い事は言えない。
「大丈夫だよレナート。バラッチにも会ったし。でもどうして間違ったんだい?」
「おかしいなあ。そう聞こえたんだけどなあ。」
やっぱりマリーの言う通り、こいつはつまり正真正銘のイタリア人っていうことか。


 その後がもっと悪かった。休憩の時、カンティーネの前にオッペンアイガーと二人でいたら、バラッチが、
「オッペンアイガー!ちょっと話がある。」
と言ってきた。見ると真っ赤になっている。ヤバイととっさに思った。かなり頭にきてる証拠だ。向こうの方でバラッチは、オッペンアイガー相手に怒鳴っている。凄い剣幕だ。しばらくたって戻ってきたオッペンアイガーに「どうしたんだい?」と聞くと、「もうどうもこうもないさ。」とすっかりいじけている。
 つまりこうだ。オッペンアイガーは、バルサドンナの情報が嘘だと分かった時に、僕に知らせなければいけないと思ってくれたそうだ。でも電話番号が分からないので、事務局のタウト女史のところに事情を話しに行った。そこに運悪く、ヴォルフガング・ワーグナー氏が通りかかり、情報が錯綜する問題が合唱セクションで起こっているらしい、何?三澤が時間に来ないと?一体何をやってるんだ?という風に問題がどんどん大きくなっていってしまったらしい。
 きっとバラッチは、その事でワーグナー氏に何か言われたんだろう。オッペンアイガーめ、余計な事しやがって、という感じで戻ってきたのだ。オッペンアイガーもなんか気の毒だなあ。タイミングが悪かったんだ。彼はここに来てからというもの、やる事成す事ついてない。

7月12日(月)
 「ローエングリン」がオケ付舞台稽古に入った。
バラッチは舞台にコーラスを乗せる前に必ず声出し稽古をする。今朝はバルサドンナがどうしても弾くんだと言ってピアノの前に座った。バラッチの練習には彼独特の流れがあって、それにうまく乗れないでもたもたしていると彼の機嫌がだんだん悪くなる。
 バルサドンナは途中までいい感じでいっていたんだけれど、一度バラッチの指し示した場所の意味が分からなくて練習を中断させてしまった。僕はあわててバルサドンナの所へ走っていって、
「ほらここだ!」
と助け舟を出してあげた。
「じゃあみんな、頑張るように。Toi Toi Toi!」
と言ってバラッチは合唱団員を舞台に送り出す。
 この瞬間は僕の好きな瞬間だ。この声出し練習とその後のToi Toi Toi はゲネプロや本番の間もずっと続くという。親が子供に「ほら行きなさい。」と言って押し出してやるように、手塩をかけた自分の合唱団を広い世界に送り出してやるバラッチの真心が伝わってくるようで、何故か感動的だ。

 みんなが居なくなってポツンと一人バルサドンナがピアノの前に座っている。
「初めてにしてはよくやったじゃないか。」
と僕は彼の肩を後ろからポンとたたいた。
「どこだか分からなかったから、小さい声で女声合唱の入る所からですかと聞いたのに、バラッチは答えてくれなかった。」
みると目に涙を一杯にためている。な、泣くなよ!おい、男だろ。
「だめなんだよ、バラッチには聞いたって答えてはもらえないんだよ。肌で感じるんだよ。わかる?」
 バルサドンナったら、泣いたりして、よっぽど悔しかったんだろうな。分かるよ、その気持ち。僕はその瞬間とても彼の事が好きになった。同じ情熱で結ばれている者同士の連帯感みたいなもの。僕だってここまで来るまでに何度も何度も口惜しい思いをしたり、眠れない夜を過ごしたことがある。人はよりよくなりたいと思っている限りこうしたつらい目に必ず遭う。それは誰もが通らなければならない道なのかも知れない。


 オーケストラ付舞台稽古は大変だった。パパーノの棒がものすごくオケをあおって早振りするので、コーラスが早く出てしまうのだ。僕は上手の照明塔でマリーのペンライトフォローを見ている。反対側にはフリードリヒがいる。
「あの野郎!なんて棒を振るんだ。こんなの合わせられっこない!」
などとマリーは悪態をつきつつフォローしている。僕にやらせてもらえればもうちょっとうまくいくんだけどなあ。

7月13日(火)
 第三幕の有名な「結婚行進曲」はオーケストラピットの中で歌うことになった。マリーがパパーノの棒をペンライトフォローするというので安心していたら、フリードリヒに、
「マリーがピットで助けて欲しいと言っているのですぐ行くように。」
と言われた。
急いで地下に降りてピットに入る。ピットの中はコーラスの人達で溢れ返っていた。マリーのライトが見えない人達がけっこういて、中継が必要であった。気がついたら僕はソプラノのど真ん中に立っていた。
「まあヒロ、あんたソプラノ歌うの?」
なんてみんなからかう。みんな背が高いから僕の目の高さには沢山の胸元が壁のように立ちはだかっている。

 例のフランス娘のラレンカが僕を見つけて、「ハーイ、ヒロ!」と言いながら抱きついてきた。「うっぷ!」よ、よせよ。そうじゃなくたって女性達の胸の谷間に囲まれているんだから勘弁してよ!
「ヒューヒュー、色男。」
一段下で僕のペンライトを見るべき男達が僕に向かって変な声を出している。
「シー!」
オケの団員が我々の方をにらんだ。
あ、ほらオケに怒られちゃったじゃないか。真面目にやろうよね、みんな。

 休憩後、第二幕に戻る。この間壁が倒れた場面に来た。ディーナーは今日は絶好調。素晴らしい声だ。まっすぐ通って、どこまでも柔らかく、包み込むようなリリックソプラノ。見ると壁がなくなっている。あの事故によって演出プランが変わっちゃったんだ。
 ウォーナーの演出では、水と火がとても効果的に使われている。エルザとローエングリンのシンボルは水。生命の源であり救済の象徴だ。オルトルートとテルラムントは火。暗い情熱の象徴。
たとえば第一幕では、舞台の真中に本当の水を張った池があり、そこからクリスタルの白鳥が浮かび上がる。第一幕ラスト・シーンはとても変わっている。エルザがローエングリンと会えた喜びのあまりその池に飛び込むのだ。
第二幕では、一人かがみこんで沈んでいるテルラムントのところに、松明を持ったオルトルートがやって来て、さっき池があったあたりのところに焚き火を起こす。
第三幕では、エルザとローエングリンが乗っている寝室のセットの周りのワクに水が張ってある。このセットは、二人がローエングリンの秘密をめぐって破局を迎えると、大きく傾き、ワクの水をセットの前にポッカリ開いている穴倉にザァーッと滝のように落とす。
本物の水や火を舞台で使うことは、様々な煩わしさやリスクを伴いはするものの、見る者に何か原始的な本能を呼び覚ますような独特な効果を与える。そしてドラマが立体的になるのだ。

朝、晩の舞台稽古にはさまれた午後の合唱稽古で、バルサドンナがピアノを弾こうとしたら、例によってマリーが座っている。パルジファルを少しやって、バラッチが急にトリスタンをやると言った。マリーは、「あ、譜面を取って来なくちゃ。」と立ち上がったので、すかさず僕が、「あ、僕持ってますからやります。」とピアノ椅子に滑り込んだ。
トリスタンは量が少ないのですぐ終わった。バラッチが、「さあ、ローエングリンをやるぞ!」といったのでマリーが再び立ち上がったが、僕はそれを知っててわざとバルサドンナに「来いよ!」と目と指とで合図した。バルサドンナが譜面を持ってピアノの方に突進してきた。マリーは仕方なくまた座った。バラッチは僕達のやり取りを微笑んでみていた。
マリーったら、いくら最年長だからって何もかも自分が取っちゃうなんてずるいよ。練習が終わってバルサドンナが僕に握手を求めてきた。
「ありがとう、Hiro!お前は親切だなあ。」
「お前の為にやったんじゃないよ。マリーが自分ばかり弾くからちょっと流れを変えようと思ってさ。」

 オッペンアイガーとヴィーデブッシュは、あと一週間足らずで任期が終わる。こうなるとバラッチも冷たいもんで、どうせ本番要員としては使えないのだからとあてにされなくなり、ほとんど仕事がもらえない。
ヴィーデブッシュは、
「あと何日でオレはアルプスでバカンスさ。」
とここのところ毎日嬉しそうに言っているが、反対にオッペンアイガーの顔は日に日にさえない。

7月14日(水)
 バルサドンナは奥さんに赤ちゃんが産まれそうなので、バラッチの許しを得てブリュッセルに帰って行った。
 いよいよパルジファルの立ち稽古が始まった。演出助手のシュテファン・ヨーリスは、ソロのパートをきれいなテノールの声で歌いながら、合唱団員の動きをてきぱきとさばいてゆく。動きのきわめて少ないスタティックな舞台だが、合唱が登場する神殿の場面は、本舞台に乗って照明が入ると見違えるようになると思う。
 静かな行進曲に乗ってゆっくり歩くだけなのに、右足と左足を反対に出したりして間違えるドジな団員が居る。

2024.2.5



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