69歳になりました

三澤洋史 

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69歳になりました
 3月3日日曜日。東京文化会館において二期会「タンホイザー」の千穐楽。開演10分前に男声楽屋にダメ出しに行った瞬間、声楽家達の豊かな声でHappy Birthday To You!の歌が響き渡り、みんなに祝ってもらった。ちょっと恥ずかしかったけれど嬉しかった。マエストロのアクセル・コーバーは、毎回僕のダメ出しに同行してくれて、ダメを出すというより感謝と激励をしてくれるが、驚いていた。

 「タンホイザー」の公演が無事終了して家に帰ると、最近結婚したばかりの次女の杏奈が家に来ていて、料理の準備を孫の杏樹と一緒にしてくれていた。長女の志保は、「タンホイザー」で稽古ピアニストとして練習に関わっており、公演では照明のキュー出しを務めていたが、僕より一足先に家に着いていた。一方妻は、今日の公演を聴衆の一人として観ていて、杏奈に言われて国立駅で足りない買い物をしていたので、ちょっと遅れて帰宅した。

 間もなく、テーブルの上に所狭しと並んだ料理を前に手拍子と歌が始まった。
「タンタン、タンタン誕生日~~、パーパのパーパのたんじょうび、タン!」
僕はそれに合わせて、これ以上は無理というほど体を激しくゆすって踊った。
「おたんじょうび、おめでとう!」


お誕生日の食事


 こうして僕は、なんと69歳になった。思えば遠くに来たもんだ。69歳といえば、ワーグナーの死んだ年であるし、プーチンがウクライナとの戦争を始めた年だ。70歳の壁というものがあるようで、持病を抱えたプーチンは70歳を迎えられないのでは、とも言われたが、2022年10月7日の誕生日はあっけなく過ぎ去り、もう71歳になっている。

 一方、ワーグナーは(以前も書いたと思うが)、69歳の2月13日(誕生日は5月22日)の朝、滞在していたヴェネツィアに、こっそり「パルジファル」の花の乙女達の内のひとりの可愛い娘を呼んでいたのが妻のコジマにバレて、彼女と大喧嘩をしていた。そこへ持病の心臓発作が起きて急死したのだが、コジマはワーグナーの遺体を抱きかかえたまま、他の人たちがどんなに言っても離さず長い間いたという。
「やっと、あなたは私だけのものになったのよ」
という勝利に酔っていたのだろうか?

 いやあ、ワーグナーは69歳になっても元気だったね。元気といえば、僕だって大病ひとつしないでここまで来たけれど、自分はもう女性のことで妻と喧嘩するなんてないだろうな。自分を取り巻く女性達を見ていても、仮に絶世の美女や、自分の好みの女性だったりしても、みんな妹や娘を見る視線になってしまって、穏やかで下心なんて湧かない。それを残念に思うこともあったが、それも昔の話。

 誕生日にちなんで自分の抱負を語ろう。オーバーに言うとね、今、一番の関心事は、もっと宗教的に覚醒したい。とはいえ、これを言うとちょっと問題なのだけれど、僕はもうキリスト教にこだわってはいない。むしろ僕がもっとキリスト教を必要としていたのは若い頃。性的な欲望に打ち勝つために僕はキリスト教の強い縛りを求めていた。そのためにフランシスコ会の清貧、貞潔、従順の3つの戒律を守ろうと努力していた。
 でも、今の眼で、その聖フランシスコを眺める時、はじめて彼の本質が理解できる。彼ほど解放されていた人間はいなかったと思う。同じように、聖書を読む限り、イエスという人物が、真に、世の中の全ての欲望から解き放たれた、まさに神の子であったことも皮膚感覚で理解できる。
 すなわち「罪―悔恨―贖罪」のツールとしての宗教ではなく、もっと広く高く、宇宙の秘密を解き明かすために、僕は聖フランシスコやイエスの足跡を見つめ、はるか遠く、とても及ばないとしても、自分の命が続く限り、彼らの軌跡を後から辿りたい。

それのみが69歳になった僕の抱負。それ以外何もいらない。
 

「タンホイザー」無事終了
 アクセル・コーバー率いる読売日本交響楽団の音が、どんどんキレッキレになってきて、本当に小気味良い。それを、オケ合わせからゲネプロを通って、本番の1日目から4日目まで、聴き込んでくるにつれて、よく巷で聴かれる「なんか精神的なような感じがするボテボテのワーグナー」って、何なんでしょうね?と思ってしまう。

 精神的なものは、音楽の内側から滲み出てくるもの。アクセルの解釈に、全く「我が意を得たり」の気持ち。特に初期の「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」はこれでいい。
 彼は、自分の指揮棒でオーケストラをドライブするのではなく、時には指揮をほとんど止めて、読響の楽員が自主的にアンサンブルをするに任せるが、テンポ及び解釈は、全て彼の手の内にある。こういうのを本当の職人というのだ。
 また、親しみやすく、良い意味で力の抜けている彼は、決して巨匠然としているわけでないが、一筋縄ではいかないプロの楽員が自ずと従っていこうと思わせる人格こそ、真の“巨匠”と言うのだね。つまり、まず職人があり、さらに磨き抜かれた職人が巨匠となる。この道を辿った者は、どんな時でも揺らぐことがないのだ。

 第1幕の巡礼の合唱に関しては、テノールあたりをもっとガッツリ響かせて欲しいという聴衆もいるかも知れない。しかし、内に罪の悔恨を背負っている巡礼の男たちなのだから、決して開放的に聞こえてはいけないと思いながら、僕は音造りをした。
 その反面、第3幕の巡礼の合唱については、体はボロボロになっているけれど、ローマまで行って教皇に赦されて、そしてやっと故郷に帰ってきたという歓びが感じられなければならない。でもね、その歓びは、心の奥の中から出た深いものでないといけない。そう思って、それにマッチするような響きを、全く初心に戻って、何もないところから構築していった。特にHallelujaの歓びの叫びは、薄っぺらくならないよう細心の注意を払った。
 アクセルは、そんな僕の試行錯誤を全て理解し、真摯に受け取ってくれて、僕たちはお互いに魂の深いところで分かり合えた。

第3幕が始まる時、彼を楽屋から送り出す際、
「この公演が終わったらどうするの?」
と訊いたら、
「明日、日本を発って、まずはマンハイムの自宅に帰る。それからウィーンで『薔薇の騎士』を振るんだけど、稽古なしで飛び込むんだ」
「ええ?『薔薇の騎士』を稽古なしで・・・・」
開いた口が塞がらなかった。
 リヒャルト・シュトラウス作曲「薔薇の騎士」は、管弦楽も複雑だし、特に歌唱部分が、語りさながらのスピードで進んで行くのを、寄り添うようにオーケストラで伴奏しなければならない。もし自分にとって初めての歌手が、練習なしでいきなり舞台上で動きながら歌うと考えただけで、自分までドキドキしてきた。と、いうことを彼に告げると。
「ウィーン国立歌劇場って、そういうところなんだよ」
と笑いながら言う。
調べてみたら、3月21日、25日、27日、30日の4回公演。無事を祈ってます(笑)。


アクセル・コーバーと僕

今週のスケジュール
 今日(3月4日月曜日)から4日間は新国立劇場。今日は、来シーズンの合唱団員の新人のオーディション。明日の5日火曜日及び6日水曜日は、現行メンバーの試聴会。

 今日聴く新人達は、前もって彼らが歌って吹き込んでもらった音源を聴いて、すでに選んである。人数が多くなったらそれだけオーディションの時間が長くなるので、多過ぎないように厳しく選んだつもりだが、最近応募してくる人たちってみんな結構優秀なんだよね。気が付いたら65人になっている。11時半から審査して午後6時半くらいまでかかるようだ。
 明日あさっては現行メンバーなので、もっとシビア。可愛い合唱メンバーたちの誰も落としたりしたくないんだよね。でも、努力している人は拾ってあげるべきだし、優秀な新人がいたらチャンスを与えてあげるべきだ、と思う。でも、誰かが上がると誰かが落ちるのだよ。辛いねえ。1年で一番嫌な時です。毎年心を鬼にしています。

 3月7日木曜日は、「トリスタンとイゾルデ」のオケ付き舞台稽古。その日は第1幕だけ。それで8日金曜日が第2幕で9日土曜日が第3幕なのだけれど、合唱団は男声合唱で第1幕の裏合唱だけなので、僕は8日から白馬に行って、プレキャンプからゲレンデに出て、9日土曜日と10日日曜日の「マエストロ、私をスキーに連れてって」Bキャンプを行ってきます。
 Bキャンプには結構人が集まってきていますが、みなさん、今からでも申し込めますから、どうぞ遠慮なく申し込んでね。楽しくて、いろいろ眼からうろこの体験ができますよ!

2024.3.4



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