神立スノーリゾートでのコソ練
3月14日木曜日。新国立劇場で「トリスタンとイゾルデ」初日の幕が無事開いたのを確認すると。翌日の15日金曜日。僕は早朝に家を出て、KSRと呼ばれる神立(かんだつ)スノーリゾートに行った。ここには必ずシーズンに1度は行く。ちょっと覚悟して行く。僕にとっては、いわゆる“コソ練スキー場”なのである。
先日の「マエストロ、私をスキーに連れてって」Bキャンプの、ほんのちょっとの合間に、僕は角皆君に、
「ねえねえ、ショートターンをきちんとやりたいんだけど、教えてよ」
と言って彼から教えを受けた。
コブを滑る場合、整地で自分が出来る速さのショートターン以上のピッチのコブだと、入っても決して長続きしない。ということは、反対から言うと、ピッチの速いショートターンが出来るようになれば、そのピッチ以下のコブが滑り易くなるということだ。
当たり前のことだけれど、ショートターンは単に“短いターン”というだけのものではない。ミドルターン以上のターンにはない独自のテクニックがあるはずだ。それを角皆君から教わった。
そのコツは、徹底的な外向傾とストックの付き方にあった。コブを前提としたショートターンは、ストックを結構ガッツリと突き、そのタイミングに全てを連動させる。突いたストックを軸として、瞬間的に板と上半身を正反対に捻(ひね)る勢いでターンする。極端な場合は、ストックを突いた瞬間にジャンプして、もう板は正反対の方向を向く感じ。 突いた腕をそのまま前に出すことで、外向傾を維持しながら、反対側の手のストックの先は、もう次のターンのために、いつでも突けるよう前方45度にに伸びている。板やブーツが左右に回転しようが、上体は常に谷を向いている。体重移動もほぼ瞬間的。これがリズミックにできるようになると、ショートターンのスピードと精度があがるのだ。
快晴の神立
広いコブ入り口
広いコブ
普通のコブ
手遅れから始めよう
よく思う。なんで自分は、こんなに一所懸命スキーをやっているんだろう?ってね。今更、どこかの大会に選手として出場するなんて全く考えていないし、SAJの検定を受けて級を取ろうという気持ちもない。そもそもこの歳になったら、いろいろが“手遅れ”だろう、って。
そうさ、手遅れに決まっているよ。でもね、そもそも僕の人生。全てが手遅れから始まっているんだ。音楽家になることを目指してピアノを正式に習い始めたのは高校1年生の夏休みだし、指揮者になることを具体的に目指したのも、国立音楽大学声楽科の3年生からだ。指揮者になるんだったら、耳が良くないと話にならないだろう。周り見ても、みんな「ご幼少の頃からピアノとヴァイオリンを習い」という人たちばっかりなんだよ。
絶対音感がないと指揮者にはなれないと思っている人も多いよね。でも、僕なんか、そもそも絶対音感そのものがあるかどうかも知らなかったんだ。その意味でも決定的に手遅れだ。ただしね、僕はその分、和声学を徹底的に勉強したから、ひとつの音さえもらえば、そこからスコア全体の和声構造を構築し、頭の中で完全に鳴らすことができる。これは、僕くらい努力すれば、誰でもできることだ。
逆に僕から見ると、絶対音感はあるかも知れないけれど、書かれたスコアから音以外の何も産み出せない人、何も創造の翼を広げられない人が、プロの音楽界に溢れているように感じられる。
また、昔、芸大のオペラ科や芸大合唱の授業を持っていて感じたことだけれど、せっかく芸大に入っていながら、上位に入れなかったという理由で、簡単に人生を諦めてしまう学生が少なくなかった。
「どうせ自分は頑張ったって、あいつらを押しのけてプロになるなんて出来っこない!」
と、目もうつろになり、努力もしなくなった彼らを見るのは辛かった。そういう人たちにとっては、芸大は単位だけ取って卒業し、卒業したら今度は、
「自分は“芸大出”だ」
と人に自慢するための手段でしかないのか、とも思う。
さて、僕ぐらいの歳になったら、みなさん!昔、下手だったもの。あるいは、今まで全くやったことのないものを始めた方がいいと忠告しておきましょう。何故なら、加齢による体力の衰えを考慮に入れたとしても、そうやって新しく始めたものは、まだまだ“伸びしろ”があるのですよ。
反対に、
「昔選手として大活躍して・・・」
というようなものは、“加齢による衰え”をより感じてしまうだろうから、むしろ新しいものに注目した方が精神的にはベターだ。
人間というのは、進歩することに“本能的な歓び”を感じるものなのだ。僕にとってはスキーがそう。人の目なんか気にしてはいけない。また先の芸大生のように、
「今更始めて、進歩したところで、どうせたかが知れてる」
なんてネガティブに考えてはいけない。
というか、どんな時でも「何かを何かの手段として」考えてはいけない。無心になって、そのものを味わうのである。一歩でも進歩すれば、歓びが生まれる。それを大切にすればいいのだ。
その意味では、たとえば「100メートル走」のような“基礎体力に頼るもの”を選んでも、あまり楽しくはないし、そもそも進歩は望めないので、体力よりもテクニックを磨くことで進歩が望めるものがいいね。僕はしないけれどゴルフだっていいし、一時期僕もハマったテニスや、あるいは卓球などもいいかも知れない。
でも、やっぱり理想的なのはスキーだよ!これは力でどうなるものではなく、フォームや体勢、及び重心移動など、頭を使うものだし、緩斜面で滑っていたって充分楽しいし、自分の体力に応じて行きたい所にいって、滑りたいように滑ればいいのだ。
それでね、きちんと指導者について、なるべく最短距離で上達して、自分が関わっているものの“本質的な楽しさ”を味わえる境地にまで早く達することだ。僕が行っている「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプも、そうした意図で始めたものだ。
僕も指導者チーフの角皆優人君も69歳だからね。まあ、そのお陰で今年のキャンプも大勢参加してくれてとっても盛り上がったけれど、同じような世代の人が多かったね。
逆に、若い人たちにも、こうした“手段ではない純粋な歓びの獲得”のために、もっともっと来てもらいたいなあ。確かに、このキャンプに出たからといって、何かの資格をもらえるものでもないが、確実な指導によって“スキーの楽しさ”が広がるわけだ。
この世の中は、
「何々のために、これを我慢して行う」
とか、
「自分の出世のために、あの人におべっかを使う」
とかいう打算の人生に溢れているけれど、変な話、僕くらいの歳になると、仮にそうやって自分を押し殺して生きてきても、その先がみんな見えちゃうんだよね。定年になっちゃえば所詮一緒とかね。
最近どこかで読んだけど、
「定年になったら、あれもしよう、これもしようと、と思っていたけれど、いざ定年になってみたら、予想をはるかに越えて退屈だっていうことに気が付いて、逆に何をする気にもならない」
という人が多いという。
それで、最初の話に戻るけれど、自分で勝手に“意気地なしの自分”と向かい合って、意気消沈して、「でもやっぱり!」と奮起して、コブを克服するということも、結局は歓びや楽しさにつながるのだ。どこにも義務感はないのだけれど、勝手にドラマを作って演じているのだ。何もしないで家の中でゴロゴロ寝転んで、ポテトチップスなんかをかじっているより充実した人生です。
来週は、孫の杏樹が春休み中なので、彼女を連れてどこかに滑りに行ってきます!これは、お楽しみとチャレンジの両方を求める“二兎を追う行為”かも知れません。杏樹は、結構コブをどんどん滑るからね。孫にだったら、抜かされてもいいのさ。
要するに、何をやってもエンジョイしている人には“手遅れ”なんてどこにもないのさ!
2024.3.18