縁について

三澤洋史 

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今日この頃をどんな風に過ごしていたか
 以前にも書いたけれど、4月前半は新国立劇場のオペラの練習及び公演はお休みだ。つまり、3月29日に「トリスタンとイゾルデ」千穐楽が終わって以後、4月19日金曜日から「椿姫」の合唱音楽稽古が開始するまで、劇場へ出掛ける予定がなにもない。だから珍しく京王線の定期券も今月は買ってない。

 とはいえ、僕個人は決して暇ではない。そもそも毎週末は地方に行ったりして忙しい。特にワーグナー協会の講演などもあったし・・・・。その一方で、ウィークデイは、家にこもってアッシジ祝祭合唱団の演奏会のためのオーケストラ・スコアを作っていた。
 先週は詰めて仕事したので、その間にスコアはほぼ完成。これから、パート譜のレイアウトにかかる。パート譜のレイアウトは、めくりの個所に休みの小節がくるようにとか、奏者の立場に立ったきめ細かい気配りが要求される。

 忙しい時は、まるでサラリーマンのように毎日劇場に通っている僕ではあるが、考えてみると、作曲家って、みんなこんな生活を送っているんだよね。いや、それどころか、学校とか公的機関と関係なく本番を沢山抱えている指揮者だって、本番や練習のない日が結構あるだろうから、家でスコアの勉強をすることがむしろ日常という人も少なくないんだよね。

 4月11日木曜日の午後は、ミュージカル「ナディーヌ」のナディーヌ役及びピエール役の2人の立ち稽古。出遭いの場面なので動きは大きくはないが、心理的な描写やそれに伴うデリケートな表情など、やはり音楽稽古では見えなかったものがいろいろあって、直すところが少なからずある。でも、主役二人の若々しい表情はなかなか魅力的ですよ。
 今週18日木曜日に再び立ち稽古があるが、主役にプラスして、オリー役の大森いちえいさんとドクター・タンタン役の初谷敬史君が加わるというので、ますます練習が活気を帯びることは間違いなしだね。

縁について
 今日は、最初にとっても大切なことを言おう。みんな神社に行って、いろんなことをお願いするでしょう。でも、大抵はお願いしたことそのものを後で忘れてしまったりして、叶ったのか叶わなかったのかすら気にしないで生きていたりする。でも、それじゃダメなんだ。

 その前に僕たちは、神社の神様のすることを知らないといけない。厳密に言うと、神社の神様は、その人の願いごとを直接叶えることはしないんだ。そうではなくて、
「あなたの願いは分かりました。それでは、その願いを成就させるために、この人とこの人に縁を繋ぎましょう」
ということなのだ。

 一般に言われる“引き寄せの法則”も、そのことを言っている。その人の関心が、あるいは情熱が、あるいはワクワクが、その人の周りにいる人たちを惹き付ける。言葉を変えると、その人が輝いていないと“引き寄せの法則”は機能しないし、縁は働かないので、願いや計画は叶わない。叶わないとしたら、それはそもそも叶わなくても良いし、叶うに値しなかったことなのだ。それだけ!チャンチャン!

 最近、僕は“人の縁”というものをすごく感じている。というより、これまでの人生を振り返ってみて、必要な時には必ず必要な縁が与えられてきた。必要な人と出遭い、その人たちによって助けられてきた。それを想うとき、僕の心には感謝しかない。

 このホームページcafe MDRを管理しているコンシェルジュとの縁などは、最も良い例だ。以前にも書いたけれど、そもそもこのMDRの名前ってどこから来ているか分かりますか?それは、2005年に東京交響楽団で僕が指揮したブラームス作曲「ドイツ・レクイエム」に由来しているのだ。
 僕は、90年代後半、東京交響楽団が持っている専属合唱団である東響コーラスの合唱指揮者を頻繁に行っていた。そこで当時事務局の合唱担当だったN氏が、一度僕に合唱指揮だけでなく、東京交響楽団の指揮者として特別演奏会を開いてくれることを提案してくれたのである。
 そのためには、サントリーホールを満員にしなければならない、ということで、N氏は、新町歌劇団やいろんなところに出向いてくれて、集客に奔走してくれたのである。その一環として、演奏会の約1年前に、僕のホームページを立ち上げることも提案し、今のコンシェルジュにその管理を頼んでくれたのである。

 それで、肝心の名前であるが、何のことはない。Misawa Deutches Requiemの頭文字を取ってMDRなのである。つまり基本的には2005年の演奏会が終わったら用済みのホームページに過ぎなかったわけであるが、僕も原稿を書くことは大好きだし、すでに定期的に楽しみにしながら読んでくれる購読者も少なくなかったため、費用と管理を受け継いで、しばらくそのまま継続しようという話になった。
 でも、いつまでも「三澤ドイツ・レクィエム」という訳にはいかないので、どうしようか考えたあげく、フランス語でmourir de rire「可笑しくて死にそう」という言葉があることに気が付いて、「可笑しくて死にそうなカフェ」cafe Mourir De Rire = cafe MDRとして生まれ変わったわけである。

 ホームページをあらためて開いてみたら、2005年の5月1日の演奏会を睨んで、最初の「今日この頃」は2004年5月28日・・・・それが2024年4月まで続いている。ということは・・・うわあ!もう20年も経つんだよ!

 実は、このコンシェルジュは、信じられないことに、このcafe MDRの管理をずっと無償で行ってくれている。しかもその管理費用も立て替えてくれたりしている。せめてもの気持ちとして、僕の方から1年に1度、夫婦を食事に誘っているだけなんだよ。あと何も取らない。なんと奇特な方だろう。

 ここまで来る間に、僕の方も遠慮したり、
「もう自分でやりましょうか?」
と言ったり、いろいろなやり取りもあった。でも正直な話、僕にはここまで素晴らしいホームページのレイアウトをはじめとする管理の才能は全くないし、コンシェルジュがいなかったら、ここまで続けていられたかどうかも分からない。

 まあ、こんな風にね、縁というのは凄いものだ。そしてさらに、アッシジ祝祭合唱団に関しても、彼はアッシジに一緒に行ってくれるだけでなく、このホームページ内からアクセスできるように取り計らってくれたり、またカトリック田園調布教会における国内演奏会の実現にも大いに貢献してくれた。国内演奏会のチラシもデザインして作ってくれたんだ。
 さらに、それについては、実は彼を介してもうひとりの助け手が縁あって僕の前に現れたのだ。これも驚くべき事だ。あるアメリカ人の田園調布教会信者さんで、オペラ大好き、とりわけワーグナー大好きの人物で、彼の猛烈なポジティブなエネルギーが不可能を可能にしてくれたのだ。

 逆の言い方をすると、何かが実現する時には、決してひとりの力ではできないように世の中は作られているようだ。必ず助け手が現れて、不可能を可能にしてくれる。もしかしたら神様は、そのことによって僕たちが、
「これは俺の力だ」
と傲慢にならないように導いてくれているのかも知れない。
とにかく、僕たちはみんな、沢山の縁で結ばれており、沢山の人たちに助けられている。

 キリスト教徒の人たちも、神様だけに感謝しないで、自分を取り巻く沢山の人たちと、“その縁を結んでくれた神様”として、あらためて感謝を捧げようではないか。

忙しい週末
 4月13日土曜日は忙しかった。午前中はアッシジ祝祭合唱団の練習。午後は場所を変えて東大アカデミカコールの練習。それから高崎線で群馬県まで行き、新町歌劇団の練習。僕はずっと立って練習を付けるので、肉体的にはクタクタだったが、関わっている演目は好きなものばかりなので、どうしても練習には熱が入ってしまうのだ。って、ゆーか、3つの内2つは自作だからね。熱も入るわ!

アッシジ祝祭合唱団
 アッシジ祝祭合唱団の練習では、Missa pro Pace「平和のためのミサ曲」がいよいよ終わりまで行った。その日の練習は、残ったSanctus、Benedictus、Agnus Dei、そしてDona nobis Pacemの4曲。

 前にも言ったけれど、このミサ曲の作曲は、終曲のDona nobis Pacemのメロディーから始まった。宇宙の中にアーカシックレコードのように“巨大な音楽の川”が流れていて、その中から、ある時、僕はDona nobis Pacemのメロディーをすくい取ったのだ。

 バッハやベートーヴェンなどの天才と比べると足下にも及ばない僕だけれど、たったひとつだけ自信を持って言えることは、良い曲が生まれる時は、自分の脳みそからひねり出したものなどではないということ。あらためてこの曲を練習しながら、あの白馬のみそら野の貸別荘で深夜に生まれた曲が、アッシジの聖フランシスコ聖堂に響き渡るという運命の不思議さに感動を覚えていた。

 ゴーマンのそしりを覚悟で言わせてもらえば、“僕は神様に愛されている”のだ。というか、強調するけど、僕は決して“僕だけが神様に愛されている”とは言っていない。そんな僕と行動を共にする皆さんも、それぞれのあり方で、みんな同じだけ“神様に愛されている”のである。あとは、その事実を、どれだけのリアリティを持ってみなさんが信じるかだけだよね。
 ともあれ、アッシジ祝祭合唱団の皆さんは、僕と一緒に“方舟”に乗る人たちです。特別な縁があるのです。

アカデミカの「水のいのち」
 アッシジ祝祭合唱団の練習を終えると、南北線東大前駅から飯田橋を経て東西線早稲田で降り、穴八幡宮を右手に見ながら早稲田奉仕園の中のホールで、午後は東大アカデミカコールの練習。
 アカデミカコールでは、かつて「3つのイタリア語の祈り」とMissa pro Paceの初演を男声合唱でやったので、アッシジ祝祭合唱団の練習にも何人も出ているから、移動も一緒に行い、共にラーメン屋でお昼を食べた。

 曲は、髙田三郎作曲「水のいのち」男声合唱版全曲。この日は第4曲目「海」の“波を表現する音型”に徹底的に取り組んだ。
 混声版では、波の音型と歌詞の付いたメロディーとが、男声と女声とにきっちりと分かれているが、男声合唱版では、2つの合唱群に分かれて、同じ音域で同時進行する。混声に比べて音像の分離が難しいのは言うまでもないが、そもそもドビュッシーの影響を受けた髙田三郎氏の“波の音型”のハミングを、器楽的にかつ効果的に歌うのが、なかなか難しい。
 かなり時間を掛けて丁寧に練習した甲斐があって、海の視覚的要素が際立ってくると、曲に立体性が生まれてきた。この組曲の奇数番号、すなわち「雨」「川」「海よ」は、放っておいても気持ち良く歌えるし、多少下手な演奏でも、それなりに聴衆の心を打つが、「水たまり」や「海」をどう歌えるかが、全体の印象を決めるのだ。
 海が仕上がってきたので、その日は「川」「水たまり」「雨」と前に戻って行き、最後に終曲「海よ」を練習した。

新町歌劇団「ナディーヌ」
 アカデミカコールの練習をやや早めに切り上げると、僕は早稲田駅から高田馬場に出て、群馬に向かった。新町歌劇団では、土日と2日間かけて、自作ミュージカル「ナディーヌ」の集中練習。土曜日はまず音楽稽古に専念し。翌日曜日は、立ち稽古及び振り付け稽古。

 僕も、アシスタントで自らタンタン役も兼ねている初谷敬史(はつがい たかし)君も、その晩は藤岡ルートインに泊まった。主催者に夕食を誘われたのだが、僕は夜の練習後、あまりに疲れていたので失礼した。
 チェックインを済ませたらすぐ、ホテルの近くのセブンイレブンで、ビール及びバーボンのJim Beamポケットサイズや、ソーダ水などに加えて、“ななチキ”などの食べ物を買い込んで、飲んで食べてあっという間に寝入り、泥のように眠った。

 先ほどの縁の話の続きであるが、新町歌劇団では、長い間、ある方に振り付けをお願いしていた。それがワケあってお願いできなくなってしまった。そうなってから、僕は、これまでいかにその方に助けられていたか、初めて気が付いた。
 僕のミュージカルでは、振り付けはとっても大事で、オペラのように振り付けなしで舞台にただ突っ立っているだけなんて耐えられないのだ。そこで、仕方ないので、僕は自分で振り付けてみたのだが、そこで初めて気が付いた。僕には振付師としての才能が全くないことを(笑)!
 いや、笑ってる場合ではないんだよね。それで半ば絶望的になっていたら、やはり縁があって助け手が現れてくれた!群馬音楽センターや高崎芸術劇場に於いての「おにころ」公演のための合唱団は、新町歌劇団のメンバーが母体とはなっているが、公募による別団体だ。その「おにころ合唱団」のメンバーの中にダンスの得意な女性がいて、彼女が振り付けを担当してくれることになったのだ。
 また、初谷君の足利の合唱団のメンバーで照明のできる方がいて、その方も14日日曜日の練習に来てくれて、いろいろ打ち合わせができた。

 日曜練習は朝9時半から始まり、お昼を挟んで長時間にわたったが、いろいろの場面が決まっていって、いよいよ6月の公演に向かっての見通しが立ってきた。

2024.4.15



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