小さな宇宙人アミから教わったこと

三澤洋史 

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プールに行き始めました
 大好きなスキーのシーズンもとっくに終わってしまい、朝のお散歩はしているけれど、5月前半は、新国立劇場の「椿姫」の立ち稽古や、アッシジ祝祭合唱団関係及びモーツァルト200合唱団のスコア作りに追われていて、体がなまっているのを感じながら何も出来なかった。
 それが「椿姫」が5月16日に初日の幕が開くと、中2日ずつ休みになり、特に5月20日月曜日から始まる週では、ウィークデイに結構オフの日が生まれた。スコア作りも1日中していたら疲れてしまうため、気休めも必要。5月21日火曜日の午後、僕は決心して自転車を走らせ、立川の柴崎体育館に泳ぎに行った。本当に久しぶりである。

 案の定、結構体力が落ちていて、休憩開けの13時から次の休憩13時50分までの50分間に、ハアハアと中断しながらやっと1000メートル泳いだが、水から上がってもっとグターッとなるかと思ったら、案外爽快感が自分を包んでいる。お、これはイケるな、と思った。
 その後、カトリック立川教会に行った。コロナ禍の間、よく瞑想しに行ったなあと思って、聖堂に入って10分くらい静かにしているだけで、その日は帰って来た。それから例によってMissa pro Paceのスコア作りに戻ったが、結構頭が冴えている。

 22日水曜日は「椿姫」公演三回目。翌日23日木曜日は、午前中にひとりZoom指揮レッスンを行った後、また午後に柴崎体育館に行ってみた。すると、先日1回泳いだだけで、もう感覚が戻ってきたし、筋肉もヤル気でいる。クロールと平泳ぎを混ぜて1000メートル泳いだ後で、ビート板を使ってバタ足の練習や、プルブイを使ってのストロークの練習を行った。それからまたまた立川教会で瞑想。その日は20分くらい。
 それで味を占めて、さらに翌日の24日金曜日の午後、柴崎体育館。それから立川教会。瞑想は徐々に長くなり、40分ほどいたかな。この、プールと瞑想のコンビネーションって最高!その日は、教会の後、立川駅近くの駐輪所まで行って自転車を置き、立川駅北口の髙島屋内6Fのジュンク堂に行った。
 

小さな宇宙人アミから教わったこと
 ジュンク堂で、何か良い本ないかなと探した。最近僕が呼んでいた本は、割とハードなものが多かった。先日この「今日この頃」で紹介した森永卓郎氏の「書いてはいけない」や、ディープステイトがコロナ・ウィルスやアメリカ大統領選挙を操っているとかいう陰謀論的内容の本で、これらは読んでいて面白いのだが、あまり精神的に良い影響を与えない。


最近読んでる本


 そこで、宗教やスピリチュアルのコーナーを回っている内に、ある本を見つけた。奥平亜美衣著の《小さな宇宙人アミの言葉》出版-ヒカルランド。小さな宇宙人アミのことは以前から知っていた。『アミ 小さな宇宙人』『もどってきたアミ 小さな宇宙人』『アミ3度目の約束 愛はすべてをこえて』の3部作は、大人気だったのに、日本語版の発売元である徳間書店が何故か絶版にしてしまい、本屋には売っていない。その間にプレミアムがついて、今では、数千円から高いものは3部作で何万円もするものまである。だから、ちょっと買う気が起きなかった。

 元になったアミ・シリーズのオリジナル『アミ 小さな宇宙人』の原題は、スペイン語でAmi, el niño de las estrellas)。著者はエンリケ・バリオス (Enrique Barrios) 。1986年(昭和61年)にチリで出版され、ベストセラーとなった小説だ。ストーリーは次のようである。
 少年ペドゥリートは祖母とのバカンス中、宇宙人アミ(アミーゴ=友人の意味)に出会う。アミはペドゥリートをUFOに同乗させ、地球の上を飛ぶ間、本来の人間の生き方である『宇宙の基本法』を彼に教える。そして、月やオフィル星へと連れて行く・・・。

 それで、僕が買った《小さな宇宙人アミの言葉》は、奥平亜美衣さんが、アミの3部作から大事な言葉を100個選び出し、そこに彼女なりのコメントを添えた内容の本だ。


小さな宇宙人アミの言葉

 これだけでも、かなりオリジナルの本の言いたいことは伝わる。というか言っていることはとても単純で、要するに「愛こそすべて」と、かつて僕が「おにころ」や「ナディーヌ」「愛はてしなく」で強調したテーマそのものが直球で語られている。
 そんな風に自分からも「愛」をしつこく発信している僕だから、神の本質が愛だということなんかとっくに分かっているはずだけど、それでも、あらためて読むと感動してしまう。

「神は人間のかたちをしていない」
「かたちはなく、きみやぼくのような人間ではない。無限の存在であり、純粋な創造のエネルギー、かぎりなく純粋な愛だ・・・・・」
「神は愛だからね・・・・・われわれの言葉では、創造者とか神性とか神とかを意味するのに、たったひとつの言葉がある・・・・・それは“愛”という言葉で、いつも大文字で書きあらわすようになっている」
「神は愛そのものなんだ。愛が神なんだよ」
きみは神と同じ物質からできている。きみは愛なんだよ」
「ただ、神のみがかんぺきなんだ」

そして、愛を行うことを妨げているエゴに対してはなかなか厳しい。

「われわれ」の内部には障害があって、それがわれわれのいちばんすばらしい感覚である愛を、はばんだり、ブレーキをかけたりしているんだ」
「エゴは愛が育つさいの大きな障害になっているから、他人に対するいつくしみ、思いやり、あわれみ、やさしさ、愛情などを感じさせにくくするんだよ」
「ひとに“勝つ”、ひとより上にぬき出るという考え方だね。それは競争だし、エゴイズムだし、そして最後に分裂だよ」

 この最後の言葉こそ、中学高校時代、僕がスポーツを嫌っていた原因なのだ。中学校時代、友達が喜んでテニス部に入っても、少したつと正規のメンバーからもれて、後ろで球拾い専門の補欠選手になっているとかを見て、競争原理とそれが生み出す差別が大っ嫌いだった。
 でも僕が本当はスポーツそのものを嫌っていたわけでないことは、先の文章を読んでも、あるいは最近の僕の行動を見ても分かるだろう。スキーをしてもSAJのバッジテストには興味ないし、レースになんて出ようとしない。いや、レースには出てもいいんだよ。でも、自分はまだ人間ができてないから、競争の中に入ったらきっとそこにこだわってしまって、純粋にエンジョイする心を失ってしまうような気がするんだ。

「神はいつもきみのハートの中にいるよ」
といえば、
「神はなにもしないよ」
ともいう。あはははは、見返りを望んではいけないんだ。

 ひとつ、絶対的に受け入れられる言葉に出会った。この言葉を読んだだけで、僕はこの本を買った甲斐があった。

「ここで、われわれは瞑想したり祈ったりする。瞑想のほうがいい。祈りは自分と神と別々だけれど、瞑想は神性と一体だ」

 そうなのだ!まさにその通りなのだ!僕が気がついていたこと、そのままなのだ。つまり、僕が祈りの中で、
「神様!」
と呼びかける時、僕の意識としては、神様は僕の外にいるんだよね。ということは、神様は僕と離れている存在ということになるんだけど、神様を同時に“内に感じている”ことも事実だ。そうなんだけど、言葉に出して祈れば祈るほど神様と自分が対立する存在となってしまう。
 でも瞑想では、深まっていけばいくほど、神様と自分は(円の大きさは全然違うけれど)、同心上に重なってくるのだ。そして自分が神様に包まれていのを感じてくる。で、その神様は、人間のようなものではなくて、まさに慈愛そのものというような気がしてくるんだ。

 さらに教会的な考え方をしてしまうと、自分と神様が離れている存在というだけではなくて、なんだか、こんな罪深い自分が、父なる神に直接祈るのは大それたような気がしてしまって、聖母マリアとか、自分の守護聖人とかで充分という考え方にどんどんなってしまうでしょう。でも、そうじゃなかったんだ。神様そのものが愛なんだから、その愛に直接つながればそれが一番いいんじゃない。僕たちがそれに値しないとか、関係ないじゃないか。
 勿論、そのことが分かっていたから、僕は聖堂で瞑想しているわけだし、神社でも、道を歩いていても、
「ありがとうございます!」
と感謝を捧げている。カトリック教会のみならず、キリスト教そのものにもこだわっていない。宗教の対立なんて本当にナンセンスだし、ましてや宗教の理由で戦争するなんて本当に愚かだと思っている。

「すべての宗教に霊感(インスピレーション)をあたえているのはおなじ精神なんだよ。また千年がすぎ、さらにつぎの千年がすぎ、あらたにその進歩と人類の必要に応じて、別の教訓をひろめるために別のひとが選ばれる。こうやって別の師と別の宗教が生まれる。そして、人々はその名前に混乱をきたし、宗教戦争をひき起こすまでにいたる。
でも、それがすべて愛である偉大なその精神と、愛によって道を照らすために送られてきた師を、どれほど深く傷つけるかということをまったく理解できないでいるんだ」
「宗教の意味が愛を実践することだということがはっきりと理解できないでいるかぎり、宗教や師の名をはり合ったところでなにも得るものなんかないんだ」

そうだそうだ!神は愛なんだ!それだけでいいんだ!

いやあ、こうしてあらためて言葉で言われると、胸がスカッとするね。

2024. 5.27



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