コロナ禍とは何だったのか
今、巷にまたコロナが流行っているようだ。僕の近辺にも何人かいる。6月11日火曜日は、本当は名古屋に行ってモーツァルト200合唱団の夜の練習に参加するはずだったが、その指導者の山本高栄君が、先日のアッシジ祝祭合唱団の演奏会の時に来て、
「合唱団の中で何人かコロナになっているので、今週はおやめになった方が良いかも知れません」
と言った。それで僕は、団長と相談して行くのをひかえた。
本当は、モーツァルト200合唱団の演奏会のために、ただいまMissa pro Pace「平和のためのミサ」パート譜のレイアウトの真っ最中なので、実際の合唱団の響きも聴きたいし、練習も付けたかったんだけどね。
僕自身は、すでにデルタ株とオミクロン株の2回感染していても、正直言ってコロナに対する何の恐怖心もない。とはいっても、僕が行ってその後実際に感染でもしてしまったら、かえってモーツァルト200の団員達に、
「三澤先生に私たちが移してしまった」
と罪の意識を感じさせることになってしまうので、おとなしく従った。
まあ、後で述べる「トスカ」の練習も始まるし、六大学演奏会や「ナディーヌ」も控えていたからね。僕だけの体ではない。みんなが迷惑する。
そういえば、コロナが流行り始めた頃、岐阜の合唱団でクラスターが出たって大騒ぎになったことがあったね。その時、僕が聞いて一番嫌だったことは、日本人特有の陰湿なバッシング。
「軽はずみだ!」
なんて、本当に嫌な世間の風潮だった。
「なんだって?石田純一がコロナ?けしからん!」
とか、まるで感染したことが罪悪のようにみんな扱ったし、東京から地方に行くと、
「東京から来るな!」
と、車に落書きしたりする人もいた。岐阜の合唱団も気の毒だった。
トスカ
今週から新国立劇場では「トスカ」で忙しくなってしまうので、モーツァルト200合唱団には、7月に入ってからあらためて行く。その間僕は、特に午前中は家にこもって名古屋のモーツァルト200合唱団のためのパート譜作りをしている。
フル編成のオーケストラともなると、パート数が多く、スコアのパートが隣接しているため、Finaleという譜面作りソフトでは、時々強弱記号などが隣に読み込まれてしまって、パート譜を開くと、あるパートではfが2個ついていると思うと、別のパートでは抜けている、ということが頻繁に起きる。それを発見しながらレイアウトなどを行っていると、結構時間がかかるのだ。
6月14日金曜日。久しぶりに新国立劇場に行った。「椿姫」の千秋楽が5月29日水曜日だったから2週間とちょっとぶり。「トスカ」の合唱音楽稽古が始まったのだ。この「トスカ」は、本公演の他に高校生のための鑑賞教室もあるので、かなり長い期間に渡る。今週木曜日まで音楽稽古をして、来週から立ち稽古。
「トスカ」は、もしかしたら、僕が生まれて初めてオペラというものに惹き付けられた作品かも知れない。小学校の頃、たまたまテレビでやってた映画が印象的だったのだ。
原作では、主役のトスカは、悪漢のスカルピアに、政治犯として銃殺される恋人カヴァラドッシの命をなんとか助けてと懇願する。スカルピアは、トスカに向かって、
「銃殺は、周りの手前、実際に行われたことにしないといけないのだ。ただし、一度だけでいいからお前が私のものになってくれたら、カヴァラドッシの銃殺を空砲で行うことにして、命を助けてあげよう」
と約束し、トスカに迫るが、トスカは隠し持っていたナイフでスカルピアを殺してしまう。
その後の銃殺のシーンで、実はスカルピアはトスカを裏切っていて、空砲ではなく実弾で処刑が行われていた。恋人が死んでしまったことに気がついたトスカは、サンタンジェロ城から身を投げて死んでしまう。
主要キャストが全員死んでしまうという実に残酷なオペラであるが、僕が小学生の頃にテレビで観たその映画は、さらにもうひとひねり凝っていた。映画の中でオペラ上演が行われていて、カヴァラドッシ役を演じている映画の主役の人が、上演中に実弾で撃たれて本当に死んでしまうというものだったのだ。
オペラって、もっと上品なものだと思っていた僕にとって、「トスカ」は実に衝撃的だったが、音楽でこれほどドラマに肉薄できるのか、と、音楽表現の可能性に目覚めた僕の、「おにころ」や「ナディーヌ」などの作品に至るまでの道程のスタート地点の作品と言えるのかも知れない。
それにしても、スカルピアの、聖堂の中で騒ぎまくる聖歌隊の子供達を怒鳴りながら蹴散らすシーンでは、スカルピアの怖さがむしろカリカチュアに感じられるし、テ・デウムの荘厳な祈りの最中に復讐を誓う姿など、プッチーニの天才性が余すところなく炸裂している。合唱の部分は長くないのだが、第2幕の裏コーラスなど、とても美しいし、練習は実に楽しい。
先日新町にメインキャスト達が集合した時、この「トスカ」音楽稽古の期間のどこかの日で、練習後に「ナディーヌ」の「忘れ防止稽古」をしようね、と彼らと約束していたんだけど、手帳のないところで話したので、後で書いておくのも忘れた。それで金曜日の初日練習の午前中、ナディーヌキャストLINEで、みんなに、
「いつだったっけ?」
と訊ねたのだけれど、ちょうどみんな見てなかったようで、誰も答えてくれない。
そうこうする内に、僕も外出するので、携帯電話をしまい込み、新国立劇場で練習を付けた後、ゆっくり帰ろうとしたら、みんなが音楽スタッフ室にやって来て、
「やりましょう!」
という。
「え?もしかして今日?」
「そうですよ」
いっけねえ!譜面も台本も持ってきてない。日を変えようか、と言ったら、
「(主役で新国立劇場合唱団メンバーでない)山本萌(はじめ)君も、こちらに向かっていますよ」
と言う。あちゃーっ!
それでみんなから代わる代わる譜面と台本を借りて、ピアノを弾いて練習し始めたが、指慣らしもしてなかったので間違えまくって弾いた。でもまあ、みんなにとってはこのタイミングが一番良かったのかな。やっぱりすぐに手帳に書かないと駄目だね。この歳になると、もとより自分の記憶力なんて何の頼りにもならないからね。
またまた忙しい週末
土曜日=アッシジ~アカデミカ~新町歌劇団
ここのところ毎週同じ事を書いているような気がするが、先週末も、いつものような忙しい週末であった・・・というか、貧乏性だね。自分で忙しい週末にした。まず、午前中のアッシジ祝祭合唱団の練習であるが、先週国内演奏会が終わったばかりなので、本当は行く予定ではなかった。
午後、アカデミカコールの最終練習を池袋で行い、その後、新町歌劇団の練習のために群馬まで往復しなければならない。そのために体力温存をしようと思っていたが、気持ち的にはどうしても、アッシジ祝祭合唱団のみんなにあらためて感謝の気持ちを表したかったし、またその一方で、部分的には(お客様には申し訳ないが)、未だ音程がとれていない箇所もある状態のまま本番をやってしまったという後悔もあって、気になるところだけでも音程取りをしたかった。
そこで、アシスタントの酒井雅弘さんに、
「後半からブラッと行きます」
とメールを送っておいて、ちょうど休憩が入る頃に行った。
Sanctusの最初の女声合唱とか、特にMissa pro Pace「平和のためのミサ曲」では完全4度を重ねた4度和声が頻繁に使われている。それが調性感を曖昧にさせているわけだが、みんなにとっては、とてもハードルが高いようだ。何度も練習してやっと音程が合ってきたが、次回になるとまた振り出しに戻るんじゃないか、という懸念は消えない。
国内演奏会でピアノを弾いていた長女の志保は、その個所の音程が取れていないのを知っていて、僕に無断で、本番、ピアノで勝手に音をなぞって弾いていた。さらに、演奏会後、
「パパ、Sanctusの最初のところさあ、みんな最後まで音程取れなかったら、あたしアッシジでも弾いちゃうからね」
と言うので、
「う~ん・・・本当は、弦楽器のトレモロの中で女声合唱の4度和声がアカペラで鳴るのが理想なんだけどな・・・」
「そーゆー理想論、言ってる場合じゃないでしょ」
作曲家、指揮者に面と向かって何と大胆な発言!オレは三澤先生だぞお!こんなのは、親子じゃないとできない会話だね。
アッシジ祝祭合唱団の練習を午後1時前に終えると、アカデミカコールのメンバー達と一緒に南北線東大前を出て、飯田橋で有楽町線に乗り換えて池袋に着いた。ここでも酒井さんは東大コールアカデミーのOB合唱団アカデミカコールの団内指揮者なので、彼は午後2時から発声練習をしてくれて、僕は2時15分くらいに東京芸術劇場地下2階のリハーサル室に入った。
明日のOB六連演奏会を控えての最終練習。明日は、6つの団体がひしめきあっているため、20分かかる「水のいのち」のゲネプロの持ち時間が、わずか12分しかない。なので通すこともできないため、今日がラストチャンスなのだ。
その練習を終えると、僕は池袋駅に急ぎ、まず大宮駅まで行った。そこで駅構内の店で一度コーヒーをすすり、それからお弁当を買い、高崎線ホーム上の指定席券売機でスイカに指定席情報を入れて指定席車両に乗って、ゆっくりとお弁当を食べながら、高崎線新町駅を目指した。
電車の中はゆったりだったけど、駅を降りてからが大変だった。新町駅に着くのが18時56分。今日は、午後7時から本番会場の新町文化ホールでの練習だが、駅を降りるとタクシーが1台もいない。あわてて駅前のタクシー会社に行ったが、おじさんが、
「ここにはタクシーはないよ。駅にはかならず戻ってくるから、駅前で待っててね」
というので、駅前に戻るが、5分経っても戻って来ない。そこで新町歌劇団の担当者に電話して状況を伝えたら、ソプラノの内田もと海さんが車で迎えに来てくれた。
午後7時15分くらいにやっと文化ホールに入ると、ホールの職員たちが僕を待ち構えていた。何故なら、今日、舞台に移すプロジェクターを使ったスライドの状態や音響の打ち合わせをしておかないと、もう本番一日前の金曜日になってしまうのだ。

サクレクール寺院
(ピエールはひとりでベンチに座って待っている。鐘の音が聞こえてくる。ナディーヌが下手から現れる) |
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| ナディーヌ | ピエール・・・・。 (ピエールは体で反応するが、振り返らない) |
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| ナディーヌ | ピエール・・・・。 (ピエールはまるで独り言のようにナディーヌの方に振り返らずに話し出す) |
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| ピエール | トスカというオペラがあるんだ。ローマのサンタンジェロ城の上で主人公のカヴァラドッシが処刑の時を待っている。時は夕暮れ。羊飼いが遠くで歌い、街中のあちらこちらから教会の鐘の音が聞こえてくるんだ。夕闇が訪れ、星が光り出す。彼はもう二度と逢う事の許されない恋人への想いを切々と歌う・・・。 | |||
| ナディーヌ | ピエール! | |||
| ピエール | ほら、教会の鐘の音が聞こえる。早い鐘、ゆっくりで低い鐘。遠くからかすかに聞こえてくるまばらな鐘。カヴァラドッシはこんな気持ちでいたのかって、よく分かる気がする。僕も・・・・、僕も処刑の時を待っているのさ。 | |||
| ナディーヌ | ピエール!(強く訴えるように) | |||
| ピエール | 分かっているよ。人間の僕は妖精の国になんか行けるわけないさ。君は女王だ。国の運命を預かる大事な存在だ。二人は別れるしかないんだ、そうだろう? (言葉の最後でピエールは振り返ってナディーヌを見る) |
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| ナディーヌ | ええ・・・・。 (ピエールは、覚悟していたもののナディーヌがあまりにはっきり答えるので、かすかにうろたえる。) |
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東京六大学OB合唱連盟演奏会
6月16日日曜日。池袋の東京芸術劇場大ホールにおいて、第13回 東京六大学OB合唱連盟演奏会が開かれた。特に明記していないけど、これ6団体全部男声合唱団だからね。しかも、どの団体もかなりの人数で、かつて、全国的に男声合唱団が盛んであった時代を彷彿とさせる。一方、現役はというと、コロナ・ウィルスの感染の影響もあり、どこでも部員が少なくて苦労していると聞く。
僕は、先にも述べたとおり、東京大学音楽部コールアカデミーOB合唱団の指揮者として、作詞:髙野喜久雄 / 作曲:髙田三郎 男声合唱組曲「水のいのち」を指揮した。プログラムに掲載した文章を転用してみる。
男たちの奏でる「水のいのち」
「水のいのち」は大好きな作品で、これまでに何度も指揮をしているが、すべて混声合唱であった。思い返せば、高崎高校合唱部で学生指揮者をしていた二年生の時、NHK合唱コンクールに参加して、高崎女子高校の歌う「海よ」の「あこや貝は光を抱いている」のこだまのようなカノンの美しさに我を忘れたのがなつかしい。
地区予選は当然のごとく高崎女子高校に敗れたが、不思議と悔しさはなく、むしろ「水のいのち」の美しさは、均一な響きで透明感に溢れた女声合唱でしか表現できないとすら思っていた。
その僕が、生まれて初めて「水のいのち」を男声合唱で指揮することとなった。どうしよう!
しかしながら、練習が始まってみたら、髙野喜久雄の詩に表現された「人間の罪深さ」に対応する髙田三郎の音楽の奥深さには、むしろ男声合唱こそが相応しい気がしてきた。男声合唱で歌うと、生々しくなってしまうことは事実なのだが・・・。
僕自身、かつて思春期にあって、自分の内側から湧いてくる様々な醜い感情や欲望に、驚き、うろたえ、自己嫌悪に陥り、自分は生きる価値のない者だ、とすら思った日々があった。
と同時に、あるいは、だからこそと言うべきか、バッハやモーツァルトの音楽を聴きながら、世界に「高きもの」や「崇高で清らかなもの」があることに気付き、それらをむさぼるように追い求め、気が付いたら音楽家になっていた。
あの水たまりの にごった水がまた、
空をうつそうとする
ささやかな
けれどもいちずないのちはないのか
うつした空の青さのように
澄もうと苦しむ小さなこころ
のぼれ のぼりゆけ
そなた 水のこがれ
そなた 水のいのちよ