日本ヴェルディ協会の講演会
三澤洋史
神社と教会
7月7日日曜日。朝5時半過ぎに目が覚めたので、お散歩に行く。西府駅を左に見ながら、その先は南武線の線路に沿って分倍河原方面に向かう。いつもだと府中本町駅の近くまで行くのだが、朝から陽ざしが強く、すでに汗が出てきたので、今朝はちょっとショート・コース。
分倍河原駅の手前に歩行者用の立体交差があるので、そこで線路を越えて家の方向に戻ると八雲神社に出る。ここで瞑想しながら祈ると、必ず右のこめかみのあたりから左のあごにかけてそよ風が吹き、安らぎと歓びが胸の中に沸き起こってくる。
お賽銭を投げ、一礼、
「祓(はら)え給い、浄め給え、神(かむ)ながら、祈り給い、幸(さきわ)い給え!」
と3回唱えて、二礼、パンパンと柏手(かしわで)。それから、自主的な祈り。
「今日も、お散歩とお祈りで一日を始めることができました。この健康を心から感謝します。この健康をもって、今日一日成すべき事を滞りなく成すことができますように」
それから、家族一人一人のことを祈る。また自分の周りの全ての人たちの幸せを祈る。最後に全世界の平和を祈る。現在、世界から平和は遠いように思われるが、とりあえず本気で祈る。
7時前に家に着くと、妻がもう朝食を食べようとしている。彼女は、カトリック立川教会で、月の後半、8時のミサのオルガンを弾いているが、まだ7日(つまり月の前半)の今日は10時半のミサに行くと思っていた。でも、孫の杏樹がダンスのレッスンや美容院などに行くのを車で送るため、8時のミサに出るという。
「あ、そう。じゃあ自分も8時のミサに出よっかなあ」
ということで、今日は朝から神社と教会のハシゴということになった。立川教会は、よく仕事のない日の午後に、プールで泳いだ後自転車で行って、ひとりで瞑想する。だから、日曜日のミサのように大勢人がいても関係なく、すぐに瞑想状態に入れるんだが・・・自分が入れても、周りがそれを許さない。
みんなと一緒に聖歌を歌わせられたり、祈りを唱えさせられたり、立たされたり座らせられたり、回ってくる献金箱にお金を入れて回したりと、しっかり隙間なくプログラミングされているから、瞑想どころではないわ。
でも、立川教会の空間は大好きだな。
日本ヴェルディ協会の講演
先週は、アッシジに向けての出発の前までに、いちおう出来ることはやっておこうと、8月2日夜に下北沢の北沢タウンホール で行われる僕の講演会の準備をしていた。主催は日本ヴェルディ協会 。演題は「ヴェルディにおける合唱の魅力」。
Teatro Giuseppe Verdi, Busseto
帰国してから講演会までは、あまり日数がないし、他の用事もある中で体調だって万全かどうかも分からないからね。出発までにほとんど準備完了の状態にしておこうと思っている。
ところが準備を始めると、これだけ長く合唱指揮者として活動してきたわけじゃない。あれもこれも話したい、というのがたまりたまって、どうしても必要なことと、そうでもないことを選り分けるのが大変だ。全部話したら何時間もかかってしまうよ。
準備の段階だって、いろいろ資料を紐解いている内に、あっちで引っ掛かり、こっちで引っ掛かりで、ああ、そういう風にも考えられるな・・・とか、へえ、こんなこと考えてる人いるんだ、知らなかった・・・とか、なかなか進まない。
ただね、進まないのは楽しいから、というのもある。実際、講演会を頼まれると、その講演会までの日々って、発見の連続で実に充実していて、むしろほぼ準備が終わって本番の日が近づいて来るにつれて、
「ああ、この楽しい日々がもう終わってしまうんだ!」
と、かえって憂鬱になったりもする。
今回はひとつ救いがある。僕は京都ヴェルディ協会の理事をしているけれど、京都ヴェルディ協会からも来年、すなわち2025年4月に、同じ演題で講演会を頼まれているのだ。おそらく東京のヴェルディ協会の知らせを誰かが嗅ぎつけて京都ヴェルディ協会に吹き込んだ可能性がある。なので、今回の講演会が終わっても、まだ先があるってことだ。
講演会は、恐らく、僕が以前京都市交響楽団と新国立劇場合唱団とで京都の北山にあるコンサートホールで指揮したVa, pensiero,sull'ali
dorate「想いよ、金色の翼に乗って」の演奏から始めると思う。
Va, pensiero,sull'ali dorate
(出典 アカデミアミュージック )
この曲は、イタリア第二の国歌と呼ばれ、イタリア人だったら誰でも知っている曲だし、実際、この曲を含む「ナブッコ」こそ、ヴェルディの出世の出発点になったオペラである。
それから、「リゴレット」「椿姫」などの比較的初期の作品に触れていくのだが、音源をよく聴いていく内に、ある重要なことに気が付いた。それは、これらの作品において、すでにヴェルディは、「歌手が歌うメロディーを管弦楽が伴奏する」という従来の作曲法から、むしろ「管弦楽が任意の楽曲を演奏し続け、その上に、自由に会話のタイミングで歌手が語るように歌う」という、後のワーグナーに繋がるような作曲の仕方に変わってきているのだ。
とはいえ、彼が意識したのは、まだワーグナーではない。「リゴレット」ではシンプルな「呪いのモチーフ」が強調されてはいるが、それはワーグナーのライトモチーフのように縦横に張り巡らされているというよりは、限られた場所でしか使用されないテーマであろう。
それよりも「椿姫」などでも会話が進んで行く時には、軽快な音楽に乗って、ちょうど良いイントネーションと間で、伴奏メロディーとは無関係に歌われていく。
ガストーネ
いつもアルフレードはあなたのことを想ってますよ。
ヴィオレッタ
ご冗談でしょう?
ガストーネ
あなたが病気の時、毎日心配して、ここへ飛んできて、あなたのことをたずねていました。
ヴィオレッタ
おやめください。あたしは彼にとってなんでもありません。
ガストーネ
あなたには嘘は言いません。
ヴィオレッタ
では本当に?・・・でも、どうして?・・・分からないわ。
こういう会話が、実に見事に表現されている。これは僕の推測だが、もし影響を受けているとすれば、それはモーツァルトのオペラからであろう。それで僕は「フィガロの結婚」の第2幕フィナーレの途中で、ケルビーノが納戸に隠れていると思って「殺すぞ!」と激怒している伯爵の前に、入れ替わったスザンナがしゃあしゃあと現れるシーンを楽譜付きで聴かせて、ヴェルディの手法と対比させてみようと思っている。
このようなやり方に、さらに合唱を加えると、ドラマチックな描写力はますます広がる。
La Traviata
(出典 アカデミアミュージック )
僕は「椿姫」第2幕2場で、賭けに勝ち続けて大金を手にしたアルフレードが、その札束をヴィオレッタの顔に投げつけ、群衆が「なんという侮辱!」と怒りに震え、さらにそこに父親が「恥を知れ!」と現れる場面を聴かせようと思っている。
その背景には、言うことが許されていないけれど、ヴィオレッタのアルフレードとその家族を想うあまりの『犠牲』が隠されていたのだ。
こういう心理を表現するヴェルディの手法は天才的だ。
その他、グランド・オペラには付きものの、ソリスト・アンサンブル、及び合唱による大規模なコンチェルタートが、ヴェルディの手に掛かるとどのようなものになるのかという独創性をたっぷり聴かせるつもりだ。
たとえば「運命の力」コンチェルタートは、小太鼓をのぞけばほぼア・カペラな「ラタプラン」という軍歌で終わる。「アイーダ」の絢爛豪華さは言うまでもなし。「ドン・カルロ」のコンチェルタートは、反対にとても絢爛豪華などとはいえない。何故なら、異端者を死刑にする火刑台の場面だからだ。
ヴェルディの合唱の魅力を説くならば、やはり最後の作品「ファルスタッフ」終幕のフーガに行き着くであろう。彼は「アイーダ」から「オテッロ」までの約15年間の空白期間にパレストリーナなどの対位法的楽曲を熱心に研究したといわれる。そのひとつの成果が、レクィエムのSanctusやLibera meのフーガにも現れているというが、この「人生みな道化」と笑い飛ばす「ファルスタッフ」のフーガは、ワーグナーの「パルジファル」終幕とまさに真逆で、そしていかにもヴェルディらしいといえる。
あっ、いっけねえ!講演のネタバレをほとんどしてしまった。でもね、ヴェルディ協会の人からもこう言われています。
「この講演会は、基本的に会員向けのものですが、お知り合いに会員でない方がもしいらっしゃったら紹介して構いませんよ。連絡をいただければ受講できます」
ということです。興味のあるかたは申し込まれて下さい。僕の方としても、今ここまで準備しておけば、7月25日に帰国してからも、まだ時間はあるので、もうひとまわりもふたまわりも内容を凝縮して講演会に備えます。
アッシジ出発がだんだん近づいてきた!
7月6日土曜日は、新国立劇場で「トスカ」初日であったが、その午前中に、アッシジ祝祭合唱団の練習があった。みんな盛り上がってきています。僕はその日は、あえて第二部のミサ曲には手を付けず、第一部の「被造物の賛歌」から入って、次に、ある意味一番難しい「聖フランシスコの平和の祈り」に行き、それから残りの曲をやった。
この後、もう一度土曜日があるが、それは副指揮者の酒井雅弘さんに任せて、僕は、自分の出発の前の日である15日海の日の午後いっぱいを使って、Missa pro Paceを含む全曲を猛特訓して・・・そして・・・いよいよアッシジに向かって出発するぞー!!!
いや~~ん!もうドキドキしてきた!
2024. 7.8