イタリア残りの日々とヴェルデ協会講演会

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

マチェラータ音楽祭
 アッシジでの演奏会を無事終えた僕たちは、7月21日日曜日の朝、名残惜しいアッシジを発って、まずマチェラータMacerataに向かった。ここはアレーナ(野外劇場)でのマチェラータ音楽祭の真っ最中であり、「トゥーランドット」「ノルマ」「ラ・ボエーム」などの演目が並ぶが、この晩はオペラ上演ではなくてガラ・コンサートがある。


Macerata1

Macerata2


 コンサートは21時からだったので、一度マチェラータの街を観光した後、ちょっと離れたアドリア海沿いの(マルケ州)チヴィタノーヴァCivitanova Marcheという街のホテルに入って休息し、あらためて夕方出直した。

 チビタノーヴァCivitanovaと聞いて、僕が真っ先に思い出したことがある。先日まで新国立劇場で上演していた「トスカ」の中で、トスカがカヴァラドッシと国外に逃げるために、スカルピアに通行許可証を書かせる場面。
「どこから国外に逃げるかね?」
というスカルピアの問いに、トスカは、
「チビタヴェッキアCivitavecchiaから」
と答える。
 この港町はイタリア中部の(地中海に面した)西海岸だが、一方、チビタノーヴァは、同じくらいの緯度で、ちょうど真逆の(アドリア海に面した)東海岸に位置する。vecchiaは古いという意味、反対にnovaは新しい。だからきっと最初にCivitavecchiaが生まれ、それから東海岸の港町をCivitanovaと名付けたのではないかな。

アレーナといえば、ベローナでの野外オペラが有名だけれど、実は、このやり方はマチェラータの方が早く、ベローナが真似したのだという話である。いずれにしても、ローマでいえばコロッセオのような競技場を利用しての夏の音楽祭なのだ。

 コンサートのプログラムは以下の通り。皆さんはプログラムを観て、「あっ、この人有名」とか思うかも知れないけれど、恥ずかしながら、僕にとってはほとんど知らない歌手ばかりだった。でも、さすがイタリア。結構みんな粒が揃って上手だったよ。


Notte di Luna Programm

 ただ思った。テノールに関しては、やはりイタリア人は基本的に「ビンビン響く」歌手を好むんだね。かつてのフランコ・コレッリあるいはクラウス=フロリアン・フォークトのようなSotto Voceはついぞ聴かれなかった。ソプラノには強い声の人と同じくらい繊細な声の人もいた。バリトンのレベルは高い。最初に登場して「セヴィリアの理髪師」のアリアを歌ったFilippo Lodovico Ravizzaも、「闘牛士の歌」を歌ったMario Cassiも、発声がとても落ち着いていて、安心して聴けた。

 その一方で、残念だったのは合唱だ。


Macerata合唱席


「ナブッコ」のVa,pesiero,sull'ali dorate「想いよ、金色の翼に乗って飛んでいけ」の最初の1音を聴いた瞬間、ガクッときた。マルケ州立合唱協会に所属する合唱団240名だという。人数だけは多いのだが、響きがスカスカで発声法もなにもない。歌の国イタリアだから、たとえアマチュアでも、もちっとマシじゃねえの、と思っていたのが甘かった。今どき日本でも、こんな合唱団はどこにもないぞ。
 しかも、めちゃめちゃ横長で歌っているため、ナブッコなんか、フレーズを歌い終わってみたら1拍くらい平気でズレてる。これでトロヴァトーレの「鍛冶屋の合唱」や「蝶々夫人」のハミングコーラスや「闘牛士の歌」を歌うんだから本当に困った。この失望は大きかったなあ。

 また、僕の席からよく見えたので、気になってしまったが、指揮者のMichelangelo Mazzaミケランジェロ・マッツァも大雑把な指揮で、歌手がズレてもフォロが万全でなく、随所でじれったかった。そんなだから、オーケストラも主張がなかったなあ。これだけ良いソリスト達を揃えているんだから、脇もしっかり固めて欲しいと思うが、そこがイタリアということか。ソリストさえ良ければなんとかなるってか???

お金拾っちゃいました
 ちょっと不思議なことがあった。コンサートの最中に、僕たちが座った前の列の椅子の下に、50ユーロ札ふたつと20ユーロ札ひとつが落ちていたのを杏樹が発見した。でも、前の人の椅子の間から滑り落ちたという感じではない。椅子はピッチリしているし、椅子と椅子の間ではなく、ど真ん中にきれいに置いてある感じ。前の女性に訊こうかとも思ったのだが、
「あ、それ、あたしのです!」
と言われても、なんか信用できないからなあ。

 演奏会が終わったので、僕はお札を持って、出口近くにたまっていた何人かの係の人達に言った。
「すみません。これ、前の列の椅子の下に落ちていたのですが、預かってもらえませんか?」
すると、その人たちは、なんだか不思議な表情をしながら、
「いやあ、自分たち・・・預かれと言われても・・・お札に名前が書いてあるわけでもないし・・・私が落としました、という人が出てきても・・・信用できないし・・・」
すると他の女性が、
「保管しても誰も遣えないから、お金が可哀想。こういう場合は、ラッキーだと思って、もらっちゃったら?」
他の人たちも声をそろえて、
「そうだね。仕方ないね」
「遣ってもらった方がお金も嬉しいものね」
「もらっちゃえ、もらっちゃえ!」
と妙に盛り上がってきて、笑いながらの合唱となった。
「もらっちゃえ、もらっちゃえ!」
「ええ?」
「そう、そう、もらっちゃえ!」
「いいんですかあ?」
「もらっちゃえ、もらっちゃえ!」
「う~~ん・・・では、もらいまーす!Grazie ! Arrivederuci ! Buona notte a tutti !」
家族の元に戻った。
「どうしたあ?」
「受け取ってくれなかった。むしろ、もらっちゃえ、もらっちゃえの大合唱になったので、もらってきた」
杏樹が、
「ヤッター!」
と叫んでいる。妻は、
「でもねえ、今頃120ユーロなくして困っている人がいると思うと・・・」
「と言ったって、もう、どうやったって誰のものか分かる手立てはないよ」
「日本だったら、一応神妙な顔をして預かってくれるのにね」
「ま、そこがイタリアだよね。国民性の違いだよね」
「では大切に、有効活用しましょう!」

ウルビーノペーザロラヴェンナボローニャ
 その後は、ルネッサンス期の画家ラファエロが生まれたウルビーノUrbinoから、ロッシーニの生まれたペーザロPesaroに行った。このふたつの町は共にPesaro e Urbino県の県都として知られるが、街の景観は全く対照的。ウルビーノは高い丘の街で坂が多く、一方ペーザロは海辺の街。


ロッシーニの生まれた家


 ペーザロのロッシーニ歌劇場にそっと入ったら、ちょうどオペラの立ち稽古が行われていた。


ロッシーニ劇場


ロッシーニ劇場での稽古風景


街の看板によると、夏のロッシーニ音楽祭の演目は「セヴィリアの理髪師」と「ランスへの旅」だったが、「セヴィリア」という感じではなかったから、おそらく「ランスへの旅」の稽古だったと思う。
 街の中心の広場には、なんと世紀のテノール歌手パヴァロッティLuciano Pavarottiの銅像があり、孫の杏樹が勝手に腕にぶら下がっていた(笑)。


パバロッティ像


 それから、ラヴェンナを通ってボローニャで最後の1泊して日本に帰ってきた。前半の演奏会までが緊張していたため、後半の旅は、もう気が抜けたサイダーのようになって、ガイドさんの案内するままにヘラヘラしながらあちこち観光した。

 帰途はやはりドバイでトランジット。深夜に着いたわけだが、凄いなここは!カルチェをはじめとするお店も深夜全部開いていて、広い空港内に人がごった返している。まさに不夜城!しかもたとえば1:00というフライトが何便もあり、同じく1:10というフライトが何便もあるという具合に、発着の数がめちゃめちゃ多いのだ。
 ドバイは物価が大変高いと聞いている。僕たちは、トランジットの間に、マックでそれぞれセット・メニューを食べたが、クレジットカードで払ったのでいくらかかったか良く分かっていない。次の精算が来るのを恐れている今日この頃である。


今回の訪問地(事務局)


日本ヴェルディ協会講演会
 8月2日金曜日19時。下北沢にある北沢タウンホールで日本ヴェルディ協会の講演会が行われた。この街には、昔、大親友の角皆優人(つのかい まさひと)君が住んでいたので懐かしいが、駅を含めて街全体の景観が全く変わってしまっていたのには驚いた。

 僕の家から下北沢に行くためには、いつも京王新宿線を使って新国立劇場まで通っている僕にとっては、常識的に明大前から井の頭線に乗り換えて行くと思っていたが、そうすると自転車で分倍河原まで行かなければならない。しかし、その日は朝から信じられないくらいの猛暑で、分倍河原まで行くだけで汗びっしょりになるなあ、嫌だなあと言ったら、長女の志保が、
「パパ、下北沢だったら、もっと近い西府から南部線に乗って、登戸で小田急に乗り換えればいんじゃない。」
と言う。
「あ、そうか。小田急も通っていた。よく気がついたね」
ということで、暑さを避けられたし、そっちの方が近かった。

 この講演会の準備は、アッシジ演奏旅行に出かける前にほとんど済ませていて、あとは音楽ファイルを実際にCD-Rに焼いたり、パワーポイント・ファイルを、講演会で使うノートパソコンにコピーする作業を行うだけで良かったが、最初にちょっとだけ、アッシジ旅行と、特にマチェラータでガラ・コンサートを観たことなどの記事を写真付きで追加した。
 それらのファイルを確認すると、ヴェルディが、ベルカント・オペラからの伝統的な手法を踏襲しながらも、いかに独創的な彼なりの作風を展開していったかがよく分かる。今回は「ヴェルディにおける合唱の魅力」というタイトルであったが、合唱そのものの魅力よりも、むしろ、合唱とソリストとの関係、とりわけ、ソリスト達が繰り広げるドラマに、どのようにして合唱が濃厚に絡んでいき、その対比によって大きなダイナミズムを獲得することに成功していったかということを、数々の例から解き明かしてみた。

 最初の曲例は「ナブッコ」から有名すぎる「想いよ、金色の翼によって飛んで行け」。僕がかつて京都市交響楽団を指揮して、新国立劇場合唱団と共に、京都のコンサートホールで行った演奏会の録音を聴かせた。マチェラータのガッカリの耳直しになった。聴きながら、イタリアの第2の国歌を言われるくらい有名な曲が、どうしてここまで人気を博したかという理由を解き明かしてみた。
 まずメロディが単純で分かりやすいこと。特に、前半のVa,pensiero,sull'ali dorateの部分は、なんとずっとユニゾンで子供でも歌える。それがArpa dor の部分に来ると、素晴らしく響く密な和音になり、みんなの心を打つのだ。

 それから「マクベス」で、シェイクスピアとヴェルディとの濃密な関係に触れたが、同時に、かつて新国立劇場での「マクベス」」公演の際の、演劇部門の芸術監督であった野田秀樹さんとのエピソードに触れた。
 ある時、野田さんは合唱指揮者の僕を呼んで行った。
「あのさあ、シェイクスピアの原作によるとね、冒頭の魔女のシーンって3人なんだよね。3人の魔女達が大きな釜の中にヒキガエルやトカゲやネズミなどの気味悪いものを放り込んでいるところにマクベスが現れて、魔女の予言を聞くんだ。お前はコーダの領主になるってね。それが当たると、魔女はまた言う。今度は国王になるって・・・そこで正しい判断を失ったマクベスは、なんと国王を殺して無理矢理自分が国王になる。結局それが身を滅ぼすことになるんだよね。シェイクスピアって怖いね。人間のちょっとした弱さを突いてくる。
 さてそこで本題だ。ヴェルディはこの魔女のシーンを3声の合唱として書いている。ということは3人ということはあり得ないけど、なるべく少なくしたいんだ。ええと・・・たとえば9人とか12人とかにできない?」
「いえ、ヴェルディは、大管弦楽で書いていますから、通常はみんなでやります」
「で、合唱団の女声は何人?」
「39人です」
野田氏は体を反らしてのけぞった。
「さ・・・さんじゅう・・・くにん・・・」
それから真っ直ぐに立て直し、半ばやけっぱちで怒鳴るように言った。
「よっしゃ・・・・そんならね、舞台全体に巨大な釜を作ってやる!それで、回り舞台にしてぐるぐる回すんだ。あははははは!」
 でもね、後で本番近くになって舞台に行って気がついたんだけど、その巨大な釜は素晴らしかった。中にお花畑などを置いて、骸骨の姿の助演などを使って、これぞ「マクベス」のオペラ版だぞ!という感じで、やはり野田氏はただものではなかった!
(写真がコピーできないんだけど、ホームページのリンクで、皆さんに、できれば画像を見せたいです)

 また、とても大事な事を皆さんに告げた。あまりこの事を語る人はいないんだけれど、ヴェルディはかなり早い時期に、すでにロッシーニやドニゼッティなどの、いわゆるベルカント・オペラの作曲家達の作風と一線を画しているのだ。そこで僕は、「リゴレット」の冒頭部分や、「椿姫」のほぼ冒頭部分を譜面付きで聴かせた。

 そのシーン全体をひとつの曲想を持つ音楽が流れ、その上に歌手達が、芝居の間や語り口などに従いながら、ポツッポツッと入ってくる。というと、読者の中には即座にワーグナーの楽劇を思い出す方も多いだろう。そう、似ているのだ。でも、そのアイデアをヴェルディはワーグナーから得たのではない。実はモーツァルトのオペラから得ていたのだ。
 ただ、その人物や語っている事柄に管弦楽が対応するライトモチーフ(指導動機)という考え方ではなく、管弦楽では、ひとつのまとまった音楽が流れ続け、そこにソリストや合唱が柔軟に対応していくという手法である。
 だから、その時代のベルカント・オペラのような、レシタティーヴォか重唱かというのではなく、もっとドラマと音楽とが密接に結び合った音楽をヴェルディはかなり初期から作り出していたわけである。

講演会全体の内容については、いちおうレジュメがあるので、お見せしますね。


ヴェルディにおける合唱の魅力レジュメ

(画像クリックでPDF表示)


にもオーケストラの練習
 8月3日土曜日は、川崎で“にもオーケストラ・オイリュトミープロジェクト”の多摩パルテノン公演のために東京から参加するエキストラ弦楽器奏者の練習があった。第1ヴァイオリン3名、第2ヴァイオリン2名、ヴィオラ1名、チェロ1名、コントラバス2名にピアノという編成で行われた。
 ピアニストはオイリュトミーの練習にずっと参加してくれているSさんで、管楽器の部分を中心に全体の感じを弾いてくれるし、オイリュトミーのテンポ感なども分かっているので心強い。「新世界交響曲」の他に、エルガー作曲「エニグマ変奏曲」から弦楽合奏用に編曲したNimrodもやるので、彼女の意見は貴重だった。
 この弦楽器メンバーは、武蔵小杉在住で、愛知祝祭管弦楽団の練習にも足繁く通ってくれている井上喜晴さんが集めてくれた。みんな優秀で練習はとてもはかどった。

 練習が午後4時過ぎに終わると、その足で、僕は新横浜から名古屋に向かった。そして名古屋駅近辺のホテルで1泊して、8月4日日曜日は、にもオーケストラの本体となる(実質ほぼ愛知祝祭管弦楽団のメンバー)オケの練習が午前中からあり、午後からは、またまた東京からオイリュトミスト達がやって来ての合同練習。本当にみんな熱心だねえ。頭が下がります。

 いつもワーグナーだと、休憩に入る毎にTシャツを替えるほど汗ばむんだけど、シンフォニーって汗掻かない。結局その日の練習全体で一枚のTシャツで通しちゃった。オケもオイリュトミスト達も、みんなとても集中して、だんだん仕上がってきました。
 いやあ、今年の夏は、アッシジといい、オイリュトミー公演といい、僕ならではの企画ばかりで、本当に楽しい!

2024. 8.5



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