にもプロジェクトを振り返って

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

ベルカント二大巨匠の魅力
 新国立劇場ではベッリーニ作曲「夢遊病の女」の音楽稽古が進行中であるが、今週、というか、まさに今日から、夜の時間帯で、日生劇場主催のドニゼッティ作曲「連隊の娘」の音楽稽古が始まる。ベルカント・オペラの二大巨匠を同時に手がけるわけだ。

 「夢遊病の女」の作曲家ベッリーニは、1801年に生まれ、1835年の誕生日を待たずして35歳で亡くなっている。天性の清冽ともいえるメロディーの美しさは、夭逝の神秘性も手伝って、ショパン、ベルリオーズ、ワーグナーの絶賛の的となっている。

 その一方で、ドニゼッティは、いわゆるベルカント・オペラの流行作曲家として、沢山の作品を残した。ベッリーニとは対照的に現世的でユーモアに溢れ、彼の作品は理屈抜きで楽しい。
 この「連隊の娘」でも、幼い頃両親と生き別れ、フランス軍の連隊の中で育てられて、居酒屋の女主人となっているマリーを主人公に、荒唐無稽とも思われるストーリーが展開される。
 歌唱はフランス語で、しかもテキストを早口で歌う箇所が多いので、自分で何度も歌っているが、合唱団員にインテンポで歌わせるのはなかなかやっかいである。でも、この「無理ギリギリ」の感じがとっても楽しいんだな。

 たとえば、クラシック音楽の作曲家のテクニックを持っている人だったら、単純なポピュラー音楽や歌謡曲など簡単に作れるか?という問いに決して安易にイエスと言えないように、「連隊の娘」や「愛の妙薬」のような「こ洒落た」ベルカント・オペラだって、誰でも作れるものではないのだ。その意味で、ドニゼッティの才能を僕はとっても評価する。

 これまで僕は、バッハをはじめとして、モーツァルト、ベートーヴェン、マーラーなど最高の作曲家を見つめ続けてきたし、オペラでも、ワーグナー及びヴェルディを中心としてアプローチし、さらに理解を深めようとしてきたが、ここに来て、あらためてベルカント・オペラに触れることが、僕に新しく何かをもたらしてくれるような気がする。後で触れるが、現にドヴォルザークの音楽の良さを再発見しているんだからね。

にもプロジェクトを振り返って
懐かしい長久手

 8月23日金曜日。名古屋から地下鉄東山線に乗り、終点藤が丘を目指す。以前にも書いたことがあるが、この線はとても懐かしい。明日“にもプロジェクト”の公演がある長久手市には、愛知県立芸術大学があり、かつては毎週通っていた思い出深い場所であるからだ。。

 1984年秋にベルリンの留学から帰った僕(29歳)は、恩師であるバリトンの原田茂生先生の紹介により、1985年4月から、愛知県立芸術大学に非常勤講師として通うようになった(30歳)。その一方で、東京二期会でも、オペラの副指揮者として働き始めたばかり。その仕事に差し支えないように、ふたつの授業を一日にまとめ、大学院声楽科の重唱の授業を午前中にやり、午後はオペラ実習の授業をやって日帰りで東京まで帰ってきた。

 だから授業のある金曜日は、朝から大変だった。重唱の授業は朝9時から始まる。そのためには6時東京発の新幹線に乗らないといけない。国立駅から東京駅まで1時間近くかかるため、前の日の二期会などの仕事がどんなに遅くかかって、帰宅がどんなに遅くなっても、目覚まし時計をかけて、金曜日の朝は4時半に起床。
 1980年代後半のあの頃、まだ「のぞみ号」がなかったため(のぞみは1992年開通)、東京名古屋間は「ひかり号」で2時間近くかかっていた。8時ちょっと前に名古屋駅に着いて、急いで地下鉄東山線に乗って、約30分かかって、藤が丘のひとつ手前の本郷という駅で降りると、8時40分に愛知芸大の公用車が来て芸大まで乗せてくれる。

 生徒達にはAkademisches Viertel(直訳すると“大学的15分間”。ドイツでは、朝イチの授業に教官が15分遅れて授業を始めてもいい、という習慣がある)を告げて、学生食堂で珈琲をゆったり飲んでから重唱の授業を始めた。シューベルトやシューマン、メンデルゾーンやブラームスなどに、沢山の重唱の名曲があるのを、生徒達にやらせながら知った。午後からは、演出の河内節子先生が東京から来てオペラ実習。
 そんな生活がしばらく続いたが、その間に1988年(33歳)から東京藝術大学オペラ科に非常勤講師として入れてもらったり、東京でのいろいろな仕事が順調にいきはじめたので、このしんどい愛知芸大通いは辞めた。
 愛知の生徒達はみんな素直で、能力も高い。辞めたのが確か1991年で、その最後の授業の日の晩は、生徒達が「送別会」を開いてくれた。場所は、手羽先唐揚げで有名な「風来坊」。手羽先をなんと50人分頼んで、みんなで笑いながらたいらげたのが忘れられない。

 愛知県芸は辞めたが、どうも僕は名古屋に縁があるというか、気質が合ってるみたいで、それ以来、モーツァルト200合唱団をはじめとして愛知祝祭管弦楽団など、長年に渡って、名古屋の様々な団体との関係が休みなく続いている。

長久手文化の家 森のホール
 ということで、名古屋駅から東山線でたっぷり30分かかって、終点藤が丘に到着。まず駅前のホテルにチェックインし、お迎えが来てくれて、長久手市文化の家に着いた。ここは確か一度だけ愛知祝祭管弦楽団の練習のために来たことあるようなのだが、よく覚えていない。

 この文化の家の中で一番大きい森のホールは、客席の床が反対側にひっくり返って、椅子の面となったり、何もない床となったりで有名だ。ビデオで観ると、凄いなあと思うけれど、同時に危ないんじゃないかとも思うよね。


 オーケストラ・ピットに行くと、ゆったりとしてとても広い。先週の多摩パルテノンでは、極端に長細いピットだったので、管弦楽の並びは“ピット用の特別配置”を余儀なくされた。つまり、僕から見て左側一番奥にホルンが一列に並び、その前に木管楽器が並んでいる。反対側、つまり右側奥にはトロンボーンが並んでいて、その前にトランペットが並ぶ。だからホルンとトロンボーンが同時に吹く時には、その長いピットの両端でタイミングを合わせなければならなかった。
 その点、森のホールは、縦の幅もあるから通常のオーケストラ配置で行えた。タイミングだけではなく、指揮者から観て管弦楽のバランスも良く、とてもやり易かった。

 このオケは“オーケストラにも”と名乗っているけれど、僕のすぐ左側には例の有名なピロシ君が時々腰を浮かしながら弾いているし、右側客席寄りにはビオラのリエさん、その隣にはチェロのマリちゃん、フルートもオーボエもクラリネットもトランペットのヒルちゃんも、みんなみんないつものメンバーで、しかもこのメンバーでなければ絶対に出せない音が確実に出ている。

ドヴォルザークについて
 先にも書いたが、僕は、若い頃は何に対しても最高のものを求める気持ちが強く、
「ドヴォルザークといいう作曲家には、ベートーヴェン、マーラー、ワーグナーのような深い精神性は望めないなあ」
と、やや下に見ているようなところがあった。
 けれど、この年になってみると、自分の心の許容量が増えたのか、鷹揚になったのか、余裕が出てきたのか、ベルカント・オペラに対する気持ちと同じように、それぞれの長所をごく自然に受け入れられるようになってきた。

 ドヴォルザークの音楽は、確かに、崇高さなどには欠けるが、彼のメロディーや和声には、誰の心の中にもスッと入ってくる親しみやすさと、郷愁をくすぐる要素があるね。第1楽章の第2主題及び第3主題など、聴いていてホッとするし、なんといっても、第2楽章で使われている「家路」のメロディーは素晴らしい。夕方になると、あちこちの街角から放送で流れている理由がよく分かる。あのメロディーを聴くと、なんだか家に帰りたくなるものね。
 ミーソソー・ミーレドー・レーミソーミレーの後の、2度目のミーソソー・ミーレドーで、支えるドミソの第5音が半音上がって増三和音になるのも、当たり前のようだけど気が利いていて心に響いてくる。
 次のラードドー・シーソーラーで、さりげなく入るクラリネットも良い。中間部のコントラバスのピッツィカートに乗ったメロディーも美しい。
 初めのメロディーが戻ってくると、弦楽の数がだんだん減ってきて、しかもメロディーがふと中断し、途切れ途切れになる。よく考えたなあ。それからわずか3人で演奏するのだが、そこの音色の変化も素敵なら、その後トゥッティとなってコーダへと向かう響きの豊かさ。う~ん、さすが!

 郷愁というのは、ただ家に帰りたい・・・というより、僕たちみんなが心の中に持っている“魂が本来還るべきところ”への本能的な郷愁なのかも知れない。だから第2楽章冒頭には、響き渡る金管楽器の荘厳な和声連結によるコラールがあるのかも知れない。
 この第2楽章はDes-Dur変ニ長調の曲なのに、コラールはなんとE-Durホ長調から始まる。そして、E-Bb-E-Db-A-Gbm-Gbm6-Dbでやっと主調に落ち着く。この和声進行はとても独創的!

 僕は、特に第3楽章が大好き。始まってすぐ、弦楽器が緊張感を高めていき、ティンパニーがパカパン!と叩き込むところを、僕は特に、ユミコさんに向かって、
「そこ、バカでかくていいから。」
と言うし、ピロシ君には、
「それを受ける弦楽器も、多少汚い音でいいからバシッといこうぜ!」
というと、
「待ってました!」
と言うし、いやあ、ここキマるとカッコいいよね!

 「新世界交響曲」では、主題の回帰が著しい。第2楽章で一番盛り上がる個所では、第1楽章の第1主題ラードミラーという上行分散和音が、やや音程を変えてミーソドミーとトロンボーンに現れ、バイオリンは第3主題ドードラソーを弾く。それにトランペットが第2楽章の本来のミーソソー・ミーレドーを絡ませる。
 第4楽章のラストのクライマックスでも第2楽章冒頭のコラールが出現するし、一番最後では、またもや第1楽章主題が第4楽章主題と絡んでコーダに突入する。
とっても分かりやすくて、
「あ、あれだな!」
と誰もが気が付くのだけれど、やり過ぎだし、こういうところが素人っぽいんだよね。あ、悪口言っちゃった。

またまた稀有なる体験
 先日の東京公演では、弦楽器を中心に、東京エキストラ・メンバーとの共演だったが、長久手公演の弦楽器メンバーとは随分違うので、本来は微調整が必要だった。しかしながら23日金曜日は、舞台先行で進んでいくので、とりあえずそのまま通すしかなかった。
 その代わり、本番の24日土曜日に、12時から13時でオーケストラ・ピットを解放してもらって、念入りな練習ができた。その上で、舞台稽古を午後2時から行い、さらに18時30分から本番なので、石橋叩きすぎて手が痛くなるほどだった(笑)。

 本番。僕は、舞台上のオイリュトミスト達の動きを凝視しながら、手だけは拍を刻み、奏者達にアインザッツを出していた。舞台上では、オイリュトミスト達の紡ぎ出すオーラが波となってうねっていた。一方、オーケストラ・ピットからは、巨大な音響が立ち登っていたが、こちらも音楽を紡ぎ出そうとするひとりひとりの奏者達のオーラが渾然一体となっていた。
 もの凄い霊的空間だ。こんな体験はもう二度とできないかも知れない、と思うと、交響曲の終わりが近づいてくるのを惜しんでいる自分がいた。そう、一番の特等席にいて、一番楽しんでいるのは、他ならぬ僕自身だった。


長久手公演 (出典: にもプロジェクト


 その日は実は妻の誕生日であった。実は、打ち上げには最初だけ出て、その後、妻とふたりで、どこかでゆっくり飲もうと思っていたし、みんなにも言っていた。けれど、オケのみんなが花火の付いたお誕生ケーキを妻にプレゼントしてくれたり、にもプロジェクトの代表の小林裕子さん達が来てくれたり、先の話でいろいろ盛り上がったりで、妻も納得して、そのまま打ち上げの最後までいた。
 裕子さんは、オケのみんなの雰囲気の良さに驚き、次の日、
「何と言う一夜だった事でしょう!!」
という文章で始まる、暖かいメールをくださった。


長久手公演本番直後のファーストヴァイオリンメンバー
(写真提供 高橋広様)


次はMissa pro Pace
 初夏から始まった、僕が僕である証の数々の公演。「ナディーヌ」「アッシジの演奏会」そして「にもプロジェクト」と、ひとつひとつが終わっていく。
 翌日の8月25日日曜日は、そのまま名古屋に残って、モーツァルト200合唱団の練習。アッシジに行ったメンバーが何人かわざわざ東京から来てくれて、9月15日のフル・オーケストラ編成Missa pro Paceをメイン・プログラムとする演奏会に出演するべく、練習に参加してくれた。僕の曲はね、やってもやっても難しいらしくて、練習すればするほどボロが出る。それで何度も何度も繰り返し練習をしたら、かなり良くなってきたよ。

 その日は、ちょうどピアニストがいなくて、先日アッシジで弾いた長女の志保が東京から呼ばれた。そのため、妻は朝早く藤が丘のホテルを出発して、逆に志保は午後からの練習に備えて東京の家を出発した。家に残った孫の杏樹は妻が家に到着するまでの2時間くらいひとりでお留守番をした。

 練習の休憩時間、古くからいる団員さんが控え室に来て、僕が最初にモーツアルト200合唱団を指揮した演奏会(ハイドン作曲オラトリオ四季)に、まだ小学校低学年だった志保を連れて来たことを話した。
「まあ、本当にご立派になられて」
と言われて、志保は恥ずかしそうだった。
 その時、ホテルのベッドがトランポリンのようにバウンドするので、喜んだ志保がボンボン飛び跳ねて、頭が天井にぶつかりそうになったので、
「こらこら!」
と怒ったことを思い出した。

あはははは。時が経つのは早いね。

2024. 8.26



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