明日はNHKの収録です

三澤洋史 

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ドイツ語が気になって・・・
 ずっと日生劇場に通っていて、「連隊の娘」のフランス語に取り組んでいるのも楽しかったが、先週から新国立劇場に戻って、ドイツ語の「さまよえるオランダ人」と「魔笛」の合唱音楽稽古が始まっている。
 この原稿の後半で、NHK FMのバイロイト音楽祭番組のスピーチの件に触れているけれど、特に「さまよえるオランダ人」は、ちょうどバイロイトの音源を何度も聴いている最中なので、いつもだったら、
「割と良くやってるじゃないの」
と見逃すところが、やっぱりドイツ人のネイティブな発音との差が気になって気になって仕方がなくって、
「その母音の色が違うんだ。もっと暗くないと・・・。そのrの入れ方がねえ・・・」
と、かなりしつこくなってしまっている。
 魔笛もドイツ語だから、普段だったらもっと練習は早く終わるのだろうが、何度も繰り返した後で、しだいにドイツ人の合唱のように響いてくるのは、団員にとっても悪くないようで、たまにこうした梃子入れも、プロの合唱団には必要なのかも知れない。

ミニ・マタイの使命
 11月23日土曜日。東京バロック・スコラーズのメンバーは、日本基督教団東村山教会に集合した。僕たちが「ミニ・マタイ」と呼んでいる、「マタイ受難曲」抜粋演奏会を行うためである。
 2025年3月30日日曜日に武蔵野市民文化会館で行われる「マタイ受難曲」全曲演奏会に先駆けて、約1時間程度の抜粋演奏を行ったわけであるが、僕は、ただ合唱団のための本番への予行演習などではなく、教会という空間で僕のナレーションも交えながら行う“特別な催し”だと位置づけていた。

 その位置づけが、今回ほどはっきり(聴衆にとっても、そして合唱団員にとっても)感じられたことはないのではないか。というのは、僕自身は聴衆に背を向けているので感じられなかったのであるが、打ち上げになって、みんなで本番について話してみたら、
「本番では、特に後半で何人ものお客さん達が泣いていました」
と言う団員が何人もいたので驚いた。彼らは、それを目の当たりにしながら歌っていたのか。だったとしたら、バッハの音楽の持つ大きな力を感じていたのだろう。まさにそれこそ、演奏する者が受けることのできるかけがえのない恵みだ!

 特に今回は、“イエスの受難”の具体的進行に焦点を絞るため、アリアを極力除き、レシタティーヴォと群衆合唱及びコラールに焦点を絞って上演した。具体的に言うと、第1部の、ゲッセマネの園でのイエスの祈りの場面などはバッサリ切って、最後の晩餐の後は、もうイエスの捕縛の場面に移った。
 その代わり、第2部の逮捕後からは、時間をたっぷり取った。とはいえ、ナレーションを長くしたのではなく、大祭司や長老達が策略を練り、イエスをピラトに引き渡したり、群衆が「十字架に付けろ!」と興奮してイエスを死に追いやるまでの過程においては、むしろそれを遮るアリアなどをカットして、物語が語らせるままに任せたのである。するとね、バッハのレシタティーヴォから群衆合唱に移っていくドラマの音楽化の力が凄いのである。
 そして、一番大切なところでは、僭越ながらナレーションで、イエスの受難の本質的なところに触れた。たとえば、イエスが十字架上で息を引き取る場面の前では、このようにスピーチした。

イエスは亡くなる直前、大きな声で叫んだと言われています。
「わが神、わが神、何故わたしを見捨てたのですか?」
私はこれこそ、イエスが地上にやって来て味わった最も辛い瞬間だったと思っています。

彼は、この世に生まれて、初めて人類の真の悲惨さを知りました。それが、弱き者、病人、虐(しいた)げられ、蔑(さげす)まれた人達の悲しみに寄り添って生きる動機となりましたが、彼自身は、常に“父なる神との絶えざる交信”を行い続けていて、それが救済のエネルギーとパワーの源泉となっていました。
ところがいまわの際(きわ)において、あろうことか、その交信が全く断たれてしまったのです。この“神との断絶”は一体何を意味しているのでしょうか?もしかして、この“断絶”による『人類の魂の闇』を自ら味わうことなしには、イエスが真の救世主となることができなかったとしたならば、なんと残酷な仕打ちなのでしょうか!
逆に言うと、それほどまでに人類の罪は救いがたく重いものなのかも知れません。

 この説明をした後に、実際に、福音史家及びイエスのレシタティーヴォ及び合唱の絡み合いによって息詰まる音楽が展開し、
「しかし、イエスは再び大声で叫び・・・息を引き取られた」
という言葉と共に一瞬沈黙・・・それから静かなコラール・・・そして再び福音史家による、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起き、岩が避けetc.の説明があり、いよいよ百人隊長たちの、
「本当に、この人は神の子だった」という言葉が来る。
この音楽こそ、まさにバッハの天才の証である。
ここは、あえてこの音楽を聴かせた後に、最後のスピーチを行った。それは以下の内容である。

百人隊長の言った、
「まことにこの人は神の子であった」
につけられたバッハの音楽の素晴らしさはどうでしょうか。バッハ以外の誰が、こんな崇高な音楽を作曲出来るでしょうか。
オペラでは、主人公が死んでしまうと、悲劇的な音楽と共に作品そのものも終わってしまいますが、バッハは全曲のクライマックスをむしろここに置いていたように思います。

みなさんと共に「マタイ受難曲」の旅をしてきました。演奏しながら、私がいつも感じるのは、バッハの人類を見つめる眼の温かさです。受難の中に翻弄される人間達。沢山の弱さや愚かさやみにくさがこの作品の中には表現されていますが、バッハはそれらの人達を決して見捨てていません。

人が過ちながらも生きていけるのは、“悔い改める”ことが出来るからです。人が弱いながらも生きていけるのは、“許し合う”ことが出来るからであり、人が完全でなくても生きていけるのは、“互いに愛し合う”ことが出来るからです。
私たちは、不完全だからこそ完全なる存在をあこがれる気持ちがあるのです。バッハがこの作品を書いたのは、弱い私たちが弱いながらも智恵や勇気を出し合って、明日を切り開いていくことを望んでいたからではないでしょうか。

そのメッセージは21世紀の現代においても、決して色あせることなく輝いています。
終曲の「我ら皆、涙もてひざまずき」は、私には、人類に投げかけられた希望の歌に感じられてなりません。

と最後のスピーチをして終曲をたっぷりしたサウンドで演奏した。

 ところで、この教会の田村毅朗牧師は、これまで僕が出遭った全ての聖職者達の中でも、信仰心及び人格の点において、最も素晴らしい人の部類に入ると思う。そんなに長い間牧師と話をしたわけではないが、僕には分かる。真摯に信仰と向かい合って日々きちんと生きている方だ。
 みなさん、僕はカトリック教会に属しているけれど、東村山の近くにお住まいの方で(近くでなくても)キリスト教に興味のある方は、是非東村山教会に足を運んでみて下さい。カトリックだプロテスタントだというのは僕には関係ないです。良い人の元で学ぶことが大事です。田村牧師の元だったら絶対後悔しないと約束します!

明日はNHKの収録です!
 今年のNHK FMの「バイロイト音楽祭」の番組の解説をメールで依頼されたのは10月19日で、それから音源などの直接の資料が送られてきたのが10月22日。今回担当する演目は、「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」そして「トリスタンとイゾルデ」の3本だ。
 まずは、何の先入観もなしで、それぞれの音源をゆっくりと聴いた。その場合、指揮者やキャストが知っている人であろうとなかろうと関係なく、まっさらな気持ちで聴く。知ってるということが先入観になってしまってはいけないからだ。

 人は常に変化している。昨日、好感を持って受け入れたからといって、今日も同じとは限らない。バイロイトでは特に、以前と別の役を演じる事が多いので、さらに要注意だ。たとえば、以前からローエングリンを素晴らしく歌っているクラウス=フローリアン・フォークトが、今年はタンホイザーと、それからなんと「指輪」のジークフリートを歌っているというし、旦那を尻に敷く冷酷なフリッカを演じていたクリスタ・マイヤーが、イゾルデに仕えるブランゲーネだし、アルベリヒや(バイロイトじゃないけれど)スカルピアのような悪役を得意とするオウラヴル・シーグルザルソンが、今回は、犬のようにトリスタンに忠実に仕えるクルヴェナールだからね。

 で、結論を言うと、タンホイザーを歌ったフォークトは、予想していた通り、割とそのままで、ちょっとタンホイザーにしてはドロドロしてなかった一方で、マイヤーは、これまでにも「神々の黄昏」で、お姉さん思いのワルトラウテを演じていたので、ほぼ予想がついた通りのブランゲーネだった。また、シーグルザルソンのクルヴェナールも、自分をしっかり持ちながらご主人に仕えていて、第1幕前半で、ブランゲーネ相手に、主君の活躍を褒めながら、得意になって他の船員達と共に嘲りの歌を歌うときには、アルベリヒを彷彿とさせていたし・・・先入観を抜いて聴いても、ほとんど全て先入観のままだった(笑)。

 この原稿を書いているのが11月25日月曜日だけれど、明日の26日火曜日が、「さまよえるオランダ人」と「トリスタンとイゾルデ」の収録だ。それぞれ一度原稿を送って、細かい表現などの直しが入って、また送って、あとはマイクの前で読むのを待つだけ。

 「タンホイザー」の収録は12月9日月曜日で、まだまだ先だから、基本的な下調べはしているものの、詰めていくのはゆっくりやろうと思っている。とはいえ、それとは別に、その収録の日には森岡実穂さんとの対談も録音するので、そのための準備もしておかないといけない。
 対談の前に、森岡さんとは事前の打ち合わせもするのだが、今までラジオだから、演出のことについてはほとんど触れないで済んでいたので、ちょっと慌てている。NHKからは対談のために、まず「トリスタンとイゾルデ」の映像資料が送られてきたので、コメントの中でも、演出や演技について今年は多少触れようと思っている。他の演目についても断片的な映像や、主としてドイツ人批評家による様々なコメントがあるので、観たり、訳しながら読んでいたりしている。

 その中でも、2019年の初演以来、結構人気を博しているトビアス・クラッツァー演出の「タンホイザー」が面白そうだ。「読み替え」演出で辟易している聴衆からもかなり受け入れられているらしい。いわゆるサイドストーリーはこうだ。

 元宮廷歌手だったタンホイザーは、いろいろなことに嫌になって飛び出し、大道芸人となって、ヴェーヌスと共に、小人症のオスカー、黒人のガトー・ショコラといった(元のキャスティングにはない)マイノリティの人達の旅芸人一座と各地をドサ回りをしていたけれど、やはりきちんとした歌手としてカムバックしたいと思い、再び歌の殿堂を目指す。その向かう先が、なんとバイロイト祝祭劇場だという設定だ。

 こういう読み替えの演出では、公演後に、歌手達は称賛されても演出家に対しては辛辣なブーが飛び交うのが普通だが、klassik-begeistertというサイトのアンドレアス・シュミットという批評家によると、

Sehr langanhaltender, stürmischer Beifall ohne den Hauch eines selbstgefälligen Bayreuth-Buhs beschließt einen Abend, der viele Menschen sehr glücklich gemacht hat.
「独りよがりなバイロイト特有のブーの叫びのかけらもない、長い嵐のような拍手に包まれて、沢山の聴衆は幸福であった。」

という状態だから、結構聴衆に受け入れられているらしい。

 一行は、バーガー・キングで買ったハンバーグを食べ、ドリンクを飲んだり、タンホイザーが参加する歌合戦は、そのまま祝祭劇場のステージで行われる。オスカーやガトー・ショコラ達は、ひとりで歌合戦に参加したタンホイザーを追って、祝祭劇場のファンファーレを吹く2階のバルコニーにハシゴを掛けて、そこから侵入するらしい。
 歌合戦の途中では、会場内に、
「緊急事態発生!」
のアラームが鳴り響き、警察官がなだれ込んで来たりするようだ。
 さらに巧妙なのは、第二幕が終わって聴衆が外に出てみると、そのバルコニーに本当にハシゴがかかっているという。
そしてバルコニーからは、垂れ幕が掛かっていて、

FREI IM WOLLEN   意志の自由
FREI IM THUN   行動(行為)の自由
FREI IM GENIESSEN   享楽の自由
RW (リヒャルト・ワーグナー)

と書いてあるのは、なかなか憎い配慮だ。

 一度、ネットで探していたら、ひょんなことから「タンホイザー」全曲のビデオに辿り着いて、
「やったーっ!」
と、最初から観ることができたが、夕飯の時間だと家族に呼ばれて、中断し、また帰って来て探したら、何度探しても、二度と観ることができない。また落ち着いて探して、最後まで観られたらいいな。

2024. 11.25



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