「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプのお誘い
皆様、新年明けましておめでとうございます!2025年は、7月5日にフィリピン沖の海面に天体が落下して大津波が起こり、日本もそれに巻き込まれるとか、いろいろ言われていますが、僕自身は全く心配していません。というか、心配しても仕方のないことです。 それより、今の一瞬一瞬が輝いていることが大事で、僕の一瞬、そしてあなたの一瞬がその都度世界を変えているのです。僕たちが変われば、地球全体の意識の覚醒もアセンションも起こり、人類は変わらず進化していきます。何も心配することはありません。
さて、今年も「マエストロ、私をスキーに連れてって」キャンプを開きますが、今年のは凄いです。今までと違います。このキャンプは、元々スキーと音楽とをつなぐキャンプですが、これまでは、スキーにおけるターンと音楽的なフレージングとの共通点を探ったりと、実質的なところでの示唆が主でした。でも、そろそろ僕は、自分の本音を語り、本音で生きていくことにしました。
僕は、スキーと出遭って、少し上手くなったある時、スキーのスピードが自転車の速度を超えた時(つまり、自分はバイクとかに乗らないので自転車が一番速いスピードだった)、体全体が恐怖感に震えた。オーバーに言えば、「今転んだら死ぬかも知れない」という恐怖であったが、同時にその時、それは僕にとって、なんとも言えない“カタルシス”を初めて体験した瞬間でもあった。
何故それがカタルシスなのか?それは“空間の質が変わった”から。今ではその臨界点は自転車をはるかに超えて、当時よりずっと速いのであるが、スピードというものが特別な空間を作り出すという認識は変わらないどころか、その本質についてもっともっといろんなことが分かってきた。
たとえば、音楽が鳴っている空間も、ある意味同じなのだ。音楽は、音という媒体を通して、精神に感動を与えるというが、そこで一体何が起こっているのだろう?特に演奏する人は、その感動を創りだしている本人であるけれど、何がそうさせるのであろうか?
それを僕は“空間の質の変化”と認識する。そして、それをはっきり認識している演奏家ほど感動的な演奏を行うことができるし、それによって人生が変わるほどの感動を味わった聴衆は、すでに以前とは別の空間を生きているのだ。
さて、今はここまでで、キャンプにいらしてくれた方達には、そのことをもっと詳しく説明してあげましょう。その共通点こそ、僕が音楽家としてここまでスキーに惹き付けられた本当の理由であり、このキャンプを始めた真実の動機なのです。
年が明けて、早割の特典はなくなったけれど、新しい方もふくめて、これまでに体験したことのない世界に皆さんを誘います。親友の角皆優人君と共に今年も平沢克宗さんも講師としてお迎えする。平沢さんは独自の「中高年楽で疲れないスキー」で知られているけれど、僕たちのキャンプに参加するメンバー達は、中高年といえども「楽に疲れないで」滑ろうなどというヤワな人はいなかったようなので、元はオーストリーでガッツリとアルペンスキーを極めた平沢さんには、今シーズンはむしろアルペンスキーの神髄を指導していただく。
という風に、講師陣も超一流だし、僕の新しい講演のアプローチもあるので、どうか皆さん、キャンプの概要をよく読んで、今からでも申し込んで下さい。絶対満足すること請け合いです!
4月から新国立劇場桂冠合唱指揮者となります
年も押し迫る12月25日の「さまよえるオランダ人」の練習時。合唱団員に対して劇場側がやっとあることを発表してくれた。
「4月から三澤さんは新国立劇場桂冠合唱指揮者になります」
劇場側からの発表はそれだけ。そう言われても、みんなには何の事か全然飲み込めなかったので、僕がその後丁寧に説明した。
桂冠指揮者というとなんだかカッコ良いが、事実上、劇場内部のチーフ合唱指揮者としての権限を、より若い冨平恭平(とみひら きょうへい)君に譲り、僕自身は、いわゆるご隠居さんになるということである。
とはいっても、合唱指揮者としての職務をただちに全くハズされるということでもないが、具体的に担当する演目はかなり少なくなるし、何より、現役団員の試聴会や外部からの団員オーディションなどの審査及び合否の決定権が冨平君に移る。
その点に関してだけ言うと、ある意味、とても気が楽になった。何故なら、かつて40名いた契約メンバーが、2024年9月のシーズンから、様々な経済的理由によって20名に減らされ、とても心を痛めていたから。
契約メンバーは、新国立劇場主催の全ての演目に乗る権利と義務を有しており、それによって新国立劇場が「彼らの生活の拠り所」になっていたのだ。それが、その下の登録メンバーに移るということは、劇場側が決めた演目にしか乗れないということになり、新国立劇場だけでは生活できないということになってくる。
40名から削られた20名に関しては、特に下手になったわけでもないのに、劇場の都合で、“誇り”と“実際の経済的な安定”を同時に奪われてしまった。それを試聴会で落としていたのが僕だった。ひとりひとりの生活まで詳しくは知らないが、団員達は長年に渡っているメンバーも少なくないので、本当に身を切る思いで20名を落とした。これが実績となってしまったからには、今後、契約団員が40名に戻る可能性は薄いかも知れない。僕が謝ることでもないかも知れないが、みんなに申し訳ない想いでいっぱいだ。
かくいう僕も、今度は同じような立場になってしまった。僕は、座付きの合唱指揮者として、合唱団に関する様々な雑務に対応する、劇場からの月々の決まった額の(要するに給料ではないけれど、それに準ずる)支払いを得ていたが、それがこの4月から途絶える。 これが僕にとっては最大の問題である。つまり、4月以降は、自分の生活基盤を新国立劇場には頼れず、外に求めなければならないことを意味する。
確かに僕は、今年の3月3日のお誕生日が来たら満70歳になる。周りを見てみると、個人企業の社長などは別として、僕の同級生の会社員で、現役として働いている人は誰も居ない。たとえばアッシジに一緒に行ってくれた人達は大部分がスケジュールが自由になる人だった。
唯一、僕と彼らが違うのは、彼らはみんなお金を持っているということである。退職金もたっぷり出てるようだし、厚生年金の額もハンパじゃない。僕は65歳になった時に国民年金を申請したが、月6万円にも満たないのに驚いたものね。それだけでは生活にほとんど役に立たない。一方、知り合いの中には、
「お金が余っているので、豪華客船で世界一周旅行に出るんだ」
などと言っている人もいる。いいなあ・・・・。
新国立劇場内だって、職員であれば、最初から定年というものが何歳と定められているであろうし、あらかじめ退職金やその後の厚生年金などで、いろいろ保証されているであろう。少なくとも、何年も前から、
「あと何年で定年かあ・・・」
と心の準備ができていただろう。
ところが、2001年以来、僕のように1年ごとの合唱指揮者業務委託契約が、ほぼ自動的に更新され、24年間も続いているとね、自分で合唱指揮者としての腕が著しく落ちてきたのを自覚したり、あるいは、団員達が「辞めろ、辞めろ!」という雰囲気になってきたりしたならともかく、辞めるいう意識は全くなかったわけよ。
さらに僕にとって良くなかったのは、2011年に文化庁の奨学金をもらってミラノのスカラ座に研修に行った時、すぐにスカラ座合唱団の合唱指揮者ブルーノ・カゾーニさんの70歳の誕生日がみんなによって祝われた。その後彼はさらに10年以上務めて、80歳を過ぎたため、自分から辞めたと聞いていた。そんな人がいるから、なんとなく無意識の内に、自分さえ頑張ればまだまだいける、と思っていた節がある。
新国立劇場も、世界的に見たら歴史の浅い劇場だ。職員でない僕のような立場のアーティストが僕の年齢になった前例はまだなかったので、マニュアルが確立していなかったのであろう。
自分が楽観的なのも悪いのかも知れないけれど、ある時突然劇場から呼ばれて、
「三澤さんも、それなりのお歳になってきて、明日はどうなるか分からないじゃないですか。そろそろ後継者を・・・・。」
と言われた。それが2023年3月30日だった。その時は、それを聞いて、数年の内に後継者をゆっくり育てないとな・・・なんて呑気に考えていたのだが、一方、劇場側としては、その時すでに2年後に僕を解雇しようと思っていたらしい。
さらに2024年4月に、担当者から具体的に、
「2025年3月までで、三澤さんの首席合唱指揮者の任が切れます」
とハッキリと告げられた・・・・と僕は記憶しているのだが、劇場側は、それを2023年3月に言ったと主張している。まあ、言った言わないの応酬はやめておこう。僕の側のリアリティとしたら、2024年4月まで僕は全く慌てていなかった。
とにかく僕が、「収入がなくなる!」と悟って慌て始めてから、まだ1年も経っていないのは僕個人にとっては紛れもない現実である。一方、劇場も、交渉の末、誠意を見せてくれて、退職金的な意味と引き継ぎのためということで、しかるべき額をくださることになった。そこに関しては、心から感謝の意を表したい。
さらに、3ヶ月を切った現在の時点で、未だ劇場からの公式の発表はないものの、二期会をはじめとする他の団体への仕事のアプローチは、その理由を述べながら行ってもいいと、劇場からは昨年の4月に言われたので、それ以来いろいろ依頼はしているが、なかなかどの団体も、すでに定期的に頼んでいる人達がいるので、いくら僕が慌てたところで、その人達をどかして全部僕に、という具合にはいかない。
その一方で、
「これまで、三澤さんに頼んでみようという声は何度も出ていたんですよ。でも、三澤さんは新国立劇場で捕まっているから無理でしょう、ということで見送っていたのです」
と、日生劇場で「連隊の娘」をやった時、担当者から言われた。
「連隊の娘」は、演出家の粟國淳さんが強引に、
「どうしても合唱指揮は三澤さんにやってもらいたい!」
と主張してくれて、2年半くらい前に依頼が来たのだ。
僕が新国立劇場に来る前に一番頻繁に仕事をしていた二期会は、僕の話を聞くと、すぐにオペラの仕事をくれた。2025年9月の「さまよえるオランダ人」の合唱指揮者である。本当に有り難いと思った。二期会に足を向けて寝てはいけない。
ということで、これからは、ひとつひとつ外部の団体に頼み込んで仕事を取っていかなければならない。この記事を読んでくれた皆さんの中に、どこかの団体に所属していて、僕にお仕事を依頼しようと思う方がいらしたら、是非お仕事をくださいね。特に講演会とか単発ならば、どこでも大丈夫だと思います。とりあえずCafe MDRあてにメールしてみてくださいね。
まだ、盆栽とかをいじるご隠居さんの境地にはなれないんだよね・・・。
浜松でメサイア集中練習
珠玉のソリスト陣
歳も押し迫った12月28日土曜日及び12月29日日曜日の2日間は、浜松バッハ研究会「メサイア」の集中練習。28日午後は合唱だけの練習。「ハレルヤ・コーラス」などの大曲はむしろ避けて、ややこしい曲をピックアップしながら集中的に行った。
29日は午前中ソリスト達のピアノによる合わせ稽古。ピアニストの都合がつかないので、東京からわざわざ娘の志保を呼んだ。ソプラノの飯田みち代さんは、喉の調子が悪かったので軽くスルーしながらポイントを指示したが、彼女以外のアルトの三輪陽子さん、テノールの畑儀文さん、バスの加藤宏隆さん達には、僕の方からは様々な指示は与えるけれども、それらを即に飲み込み、消化して、自分の表現として出してくる適格さには、驚かされる。みんなプロ中のプロだ!この人達の演奏を聴きに来るだけでも、コンサートに足を運ぶ価値があります!
午後にはオーケストラと合唱が加わって、ソリストも含めて全員による通し稽古を行った。どうしても通すぞ!という勢いで練習開始したが、やっぱりそういうわけにもいかず、ところどころ止めることを余儀なくされた。それでもスムースに進んだ方だろう。帰りの新幹線で僕の心は天真爛漫なヘンデルのワールドの中を泳いでいた。
ヘンデルという作曲家と「メサイア」の位置
ヘンデルは、バッハと並んで僕の大好きな作曲家だが、では具体的に何の曲が一番好きかと問われると、
「勿論『メサイア』!」
と答える。でも、次に続く曲というのが案外ないんだよね。
オラトリオで次は?と問われると、
「う~~ん・・・そうだなあ・・・『マカベウスのユダ』かなあ・・・」
という感じで心許ないし・・・。オペラも沢山作っているけれど、結局は『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』かなあ・・・という感じ。『セルセ』はOmbra mai fu「うるわしの木陰」で有名だし、逆にLascia ch'io pianga「私を泣かせてください」といえば「リナルド」という風に、アリア単独で有名になるほど名曲を作り出す才能はあるが、オペラ全体がドラマチックな凝縮力に富んでいるかというと、そうでもないんだよね。
「水上の音楽」も「王宮の花火の音楽」も、代表作というほどでもないし・・・「ブロッケス受難曲」も良いし、合奏協奏曲もやったしアンセムも良かったし・・・でもねえ・・・そう考えると、作曲家としたら、なんだか中途半端な存在だ。
それだけに「メサイア」の特別感が光っている。これは奇跡の曲だ。
第1部では、救世主出現の預言とその成就(すなわち降誕)、そして、どんな救世主かの説明。つまり、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という“イエスの意外な人格”が示されている。
第2部では、まずイエスの受難と復活が描かれる。そして復活後は、福音宣教が全世界に広がって行く過程が描かれているのが独創的だ。当然の成り行きとして、それを不安に思う時の為政者達によっての迫害の場面が描かれる。ここを長いからとカットする演奏が多いが、とんでもない!この過程を描かないで「ハレルヤ・コーラス」に辿り着いても意味ないのだ。
その代わり、冗長にならないように、第2部最初の方のABAと3部形式で出来ているNo.23アルトのアリアについては、Bの後Aに戻らずに、同じような付点音符のリズムを持つNo.24の合唱曲にそのまま進むとか、No.40バスのアリアでは、主部の後ショート・ヴァージョンでそのままレシタティーヴォに行ったりと、サクサクと行けるところは行っている。
第3部は、キリスト者の希望について語られている。すなわち、キリスト者は、どんな価値観を持ち、何を目指して生きているのか?この世で認められたり報われることではなく、全く別のことを目指して生きている。それは何か?
これらのことを、ヘンデルは全て音楽で丁寧に描いている。オーバーに言えば、聖書を一冊まるごと読むくらいの内容が、この曲の中にはあると思うよ。だから僕も心して演奏会の日を迎えたい。
年末年始は白馬でスキー三昧
そういうわけで前日まで浜松で集中練習をやって、夜帰宅したため、今回はスキーのための準備が全然満足にできなかった。本当ならばウエアーに防水スプレーを吹き付けて一日置いておいたり、板にもワックス処理を施したりするところだが、そんな余裕もなかった。
12月30日月曜日午前5時起床、7時30分、三澤家はやっと家を出発した。
三澤家といっても、長女志保はその日の晩までまだ仕事しているので、23時新宿バスタ発の夜行バスに乗って、エイブル白馬五竜スキー場のセンターであるエスカル・プラザに31日早朝に着くことになっている。白馬の後、群馬にも行くので、荷物はパンパン!
志保の代わりに、我が家の車には、東急東横線学芸大学に住んでいる次女杏奈の新夫婦を乗せて行く約束になっていた。杏奈達は7時過ぎに西府駅に着いて、本当は到着した彼女たちをその場で拾っていく約束であったが、こちらの準備が全然間に合わず、
「ごめーん!駅前ローソンのイートイン・コーナーで待っててくれない?」
ということになり、「拾う」どころか、僕たちの車がやっと着くなり、しびれを切らした杏奈夫婦が突進し、無理矢理ドカドカと乗り込んできた。
ということで、車上部のキャリアの板は、僕、(翌日から滑る)長女志保、次女杏奈とその夫の4人分。孫の杏樹の分は後部荷物置き場にストックと共に入れた。妻が運転し、助手席に僕、後部席には孫の杏樹と杏奈夫婦が乗って、いよいよ白馬に向けて出発だ!
おっと、忘れてはいけない。後部座席にはもう一匹乗っている。孫の杏樹とその母の志保が溺愛しているコザクラ・インコも小さいカゴに入れられて乗せられているのだ。色が緑に首のあたりが紅色。胴体はキウイのような色なので、名前はそのものズバリ「キウイ」。もう満員飽和状態!
その上さらに、ピアニストの志保が、白馬滞在中でも、鍵盤に触っていないと死んじゃうというので、長細い電子ピアノが後部座席の足置きの空間にピッチリはまっている。だから後部座席のみんなは、靴も履けないで、あぐらとかかかなければ乗れないのだ。
僕は助手席で彼等と関係なく楽ちんのハズだけれど、そうでもない。杏奈は孫の杏樹と組んで、
「パパ、そんなふんぞり返っていないで、もっと椅子を前に押して、背もたれを立ててよ!」と言うのでその通りにしたが、なんとも居心地が悪い。
走り出したら、さらに年末の渋滞が始まっていて、勝沼あたりまで続いていた。いつ着くんだろうか?果たして今日ちょっとだけでも滑れるのだろうかと、いろいろが心配になってきた。
まあ、それでもね、走り始めたら苦情ばかりも言ってられない。冗談の飛び交う楽しいドライブの空間をみんなで作り上げて、長い道のりだけれど結構あっという間に諏訪湖のサービスエリアに着いて休憩したり、安曇野インターを降りて、遠くに白銀の山々が見えてきたら、
「おおっ!雪がいっぱいある!」
と感動したり、リアルな時間よりもずいぶん短く感じたよ。
お昼時になったので、安曇野の池田町の道の駅を過ぎたところを右折して、丘の上にある手打ち蕎麦屋の“かたせ”でのんびりおいしい蕎麦を食べた。一刻も早く着いて、少しでも長くスキーをしたいという気持ちもあるが、空腹には勝てない。
今回の宿泊先は、八方スキー場のジャンプ台に近い植物誌というペンション。昨年、ここを予約して楽しみにしていたが、年末に土砂崩れが起きて植物誌の建物も被害を受けて閉鎖されてしまった。他の近隣のペンションはとっくに満室だったため、やむなく安曇野の“森のおうち”から、毎日片道1時間かけて通った。まあ、それも楽しかったのだけれどね。ということで、念願の植物誌にとうとう泊まった。本当はコテージの方が良かったのだけれど、母屋も広々として楽しかった。
ペット可ということであったが、我が家にはキウイというインコがいるので、あまり鳴いて欲しくないなあと思っていたけれど、隣室ではなんと2匹の犬が夜中まで互いにやかましくワンワン啼きまくっていた。普段だと「うるさいなあ」と思うところだが、今回は逆にその迷惑犬のお陰で、インコの鳴き声なんて可愛いもんで、実に心安らかに過ごすことができた。ありがとう、犬たち!来年また来てね。
その日はのんびりお蕎麦屋に寄ったりしていたので、ゲレンデに出たのが3時近く。とおみゲレンデのスカイ・フォーというリフトの終了時間が16時50分だったので、2時間弱しか滑れなかった。それでもね、“初滑り”は短くても、滑っていれば次の日の慣れ具合は全然違うから、滑った甲斐はあったよ。
今年の白馬はとっても雪が豊富だ。ゲレンデもたっぷりだけれど、街でも、雪が道路の両側に高く積み上げられている。
12月31日火曜日。10時から親友の角皆優人君によるレッスン。受講者は、僕、杏奈夫婦、早朝に着いた志保の4人。一方、孫娘の杏樹は、キッズ・スクールの1日コースに放り込んだ。ABCDのDクラス。本当はDの上のスーパーというクラスなのだが、シーズンはじめなのでひとつ下のクラスに入れた。
角皆君のレッスンは、プルーク・ボーゲンから始める超ベーシックな内容であるが、僕にとってもとても重要なものだ。このレッスンを経過すると、シーズンオフのギャップが埋まり、先シーズン最後にたどり着いたレベルを体がすぐに思いだすことができるので、そのレベルから出発できるのだ。
レッスンをしてから、午後にみんなで滑ったが、杏奈のご主人の滑りが、明らかに上達していた。やっぱり角皆君は凄いな。
白馬五竜スキー場遠景
玉村八幡宮