リュッケルトの歌曲にハマっています!
三澤洋史
第二次トランプ政権発足
この原稿を書いている1月20日は、何の日か分かりますか?僕個人とすると、この日が来るのを今か今かと待ち構えていた。反対に、少なくない人がこの日の来るのを恐れていた、ということも知っている。そう、ドナルド・トランプ氏が再び大統領に返り咲く日である。
マスコミでは一切報道しないけれど、トランプ氏はここまで来る間に、皆さんの知っている二度の暗殺未遂の他に、少なくともその後さらに二度の暗殺未遂に遭っているとも言われている。
何故こんなに狙われるのか?ということを反対の意味から考えて欲しい。
「何としてでもトランプ氏だけは、絶対潰さなければならない!」
という勢力が確実に存在している事自体が、逆にトランプ氏が普通の存在ではないことを物語ってはいまいか?トランプ氏が大統領に就任することによって、世界がある方向に確実に舵を切ることが明らかだからこそ、それを阻止しようとする勢力も必死なのではないか?
その反トランプの組織は、我々が想像するよりもはるかに大きい。マスコミは元より全てその組織に丸め込まれており、今回の大統領選挙の間も、完全にカマラ・ハリス氏の応援団だったし、トランプ氏が勝利した後も、
「トランプ氏は、これからアメリカ・ファーストを掲げながら世界の分断を煽るのだろう!」
というマイナスの論調を崩さない。
しかしながら、そうした世の中の風潮の中で、ここまで来れたということは奇跡に近い、と僕は思っている。
これは陰謀論で片付けられてもいいし、話半分で聞いてもらってもいいのだけれど、2020年の新型コロナ・ウィルス感染拡大は、そもそもアメリカ大統領選挙において、どうしてもトランプ氏を大統領にさせたくないために仕組まれた罠だとも言われている。
コロナと関連付けるのはどうかという人でも、2020年暮れの不正開票と不正集計があんなにあからさまに行われたにも関わらず、裁判所では裁判そのものを意図的に拒否したり、政府ぐるみで知らんふりを決め込み、何事もなかったかのようにされた事に関しては、さすがに不審に思った人もいたのではないか?
集会を開いても、人が閑散としか集まらないバイデン氏が、これまでの中で最高得票くらいの勢いで大統領選を勝ち抜いたとか、あの年の米国の不自然な事は
枚挙にいとまがない。
そもそも“陰謀論”という言葉も、一体いつから出てきたのかというと、コロナの時からだろう。僕などは、“陰謀論”と言われていることは、反対に全て真実だと思っているし、“陰謀論”と、あえて言っている人が最も怪しいと思っている。
トランプ氏は確かに悪者のように見える。というより悪者を装っている。
「俺は誰の言うことも聞かないぞ!何をしでかすか分からないぞ!覚えとけ!」
という顔は、甘い気持ちで「ひっくり返してやれ」という勢力に対する表の顔だ。それだけ、「どんな困難があってもやり遂げてみる!」という決意が固い印でもある。
今は、このくらいにしておこう。今の時点では、僕の意見に反対する人や意見そのものに対して、僕の方から説得し、その相手側の論調をひっくり返すすべを持たないから。要するに結果が全てであって、これから発足するトランプ政権と、それによってアメリカという国をはじめとして、それと関連する世界のありかたが一体どう変わっていくのか?しばらく見守るしかないよね。
僕だって、地獄の果てまでトランプ氏に付いていくとも思っていないから・・・でも少なくとも偏見のない白紙の心でいようとは思っている。
「リュッケルトの歌曲」にハマっています
年末からそうだったけれど、今、あらためてマーラー作曲「リュッケルトの詩による歌曲」にハマっている。年末年始に白馬に行って角皆優人君といろいろ話している内に、その話になったら、彼が、
「やっぱりキャサリン・フェリアだよ。ブルーノ・ワルターの『大地の歌』の後に3曲だけ歌っているんだけど、その声を聴いて身が震えた・・・というか、『大地の歌』の終曲の『告別』を聴いて死にたくなっちゃったんだけど、その後のリュッケルトも素晴らしいんだよ!」
と言うのを聞いて、早速取り寄せてみた。

リュッケルト歌曲集
う~ん・・・稀有なる歌手ではある。胸を打つ。41歳の若さで1953年に乳がんのため亡くなったというし、この録音はその1年前の1952年に行われている。鬼気迫るものがある。角皆君が言ったように、「大地の歌」のフェリアは文句なく素晴らしいと思う。内容が内容だからね。その寂寞感がひしひしと胸に迫ってくる。
勿論、「リュッケルトの歌曲集」にも、「私はこの世に忘れられた」や「真夜中に」の中には寂寥感もあるが、「大地の歌」ほどに極端ではないんだよね。「大地の歌」でマーラーは、生死の垣根を完全に取り払い、ある意味、大宇宙と一体なって法華経のような境地にいる。
しかし、ここでは、マーラーはまだ人生を信じているし、愛や信頼を捨て切っていない。だからフェリアの歌は、僕には“虚無感”が強すぎるように感じられる。それに純粋声楽的に言うと、彼女の強いビブラートに拒否反応を起こしてしまう。
カラヤンのマーラー作曲第6番交響曲とカップリングされているクリスタ・ルートヴィヒの演奏は、悪くはないんだけれど、ちっとも胸を打たない。昔、僕が高校3年生から国立音楽大学在学中までホームレッスンに通っていたバリトンの原田茂生先生は、いわゆる音楽ファンがそのままプロになったような人で、声楽作品だけでなく交響曲とかあらゆる分野に精通していて、いつも自宅レッスンの合間に、彼の自慢のステレオで大音量でいろんな曲をかけていた。
その原田先生は、その頃出たばかりのシューマン作曲の連作歌曲「女の愛と生涯」を聴いていて、なんだか知らないが怒ったように断言した。
「ルートヴィヒは嫌いではないんじゃが、この『女の愛と生涯』は良くない!」
「えっ?先生、どこが良くないんですか?」
「とにかく良くないんじゃ!」
高知県高松市の出身である原田先生は、東京に住んでいてもずっと高知弁を治そうともせず、こうまくしたてた。
逆に興味を持ってしまった僕は、良くないと言われたルートヴィヒの「女の愛と生涯」のレコードをわざわざ自分で買って何度も聴いた。けれど、一体どこが良くないのかさっぱり分からなかった。というか、「女の愛と生涯」そのものを聴くのが初めてなので、比べようもなかったこともある。「女の愛と生涯」は、それ以来大好きな作品になったのだけれどね・・・。
さて、今、あらためてルートヴィヒの「リュッケルト歌曲集」を聴いて、原田先生の言ったことが初めて分かった。ルートヴィヒはカラヤンのお気に入りの歌手として有名である。このアルバムも、カラヤンが遅くなって取り組んだマーラーの交響曲録音の一環としてのアルバムだ。
ルートヴィヒとキャサリン・フェリアのビブラートは似ている。そのビブラートに関して言えば、両方とも同じくらい嫌いだ(笑)。けれども、フェリアには内容と作品に対する深い共感がある。ところがルートヴィヒにはそれがない。もっと悪く言うと、彼女はビブラートをかけることによって“表現をしている”と錯覚しているのではないか、と思ってしまうのだ。こういう歌手って、実は世の中に沢山いるんだよ。ビブラートとエスプレシーヴォとの間には何にも関係はないのだ。むしろビブラートをコントロールすることによって表現の幅を広げることができるのに・・・。
さて、それでは「リュッケルト歌曲集」で僕が一番好きなのはどれかというと、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送管弦楽団のアルバムだ。管弦楽付き歌曲ばかり入っていて、他に「亡き子を偲ぶ歌」と「子供の不思議な角笛」がカップリングされている。
ここで歌っているのはヴァルトラウト・マイヤーだ。バイロイト歌手でもあり、僕が働いていた2000年のユルゲン・フリム演出の「ミレニアム・リング」の「ワルキューレ」でジークリンデを歌っていたし、新国立劇場でも、2017年の飯守泰次郎指揮の「神々の黄昏」でヴァルトラウテの役を歌っている。音楽的で叙情性に溢れるが、同時に透明感もあり、その透明感が僕の胸を打つんだなあ。
特に「私はこの世に忘れられた」を聴いていると、一見さり気ない中に、必要なだけの情感がある。この曲には、必要以上の思い入れを入れ過ぎない方が良いのだ。マーラーは、さり気なくではあるが、ドレミソラの5音階を曲の中に忍ばせる。最初のメロディーからしてソラー・ソラド・ソラドミーだし、ソミレドのヴァイオリンのメロディーに対して低弦はソーラーソミーレというメロディーを奏でる。この5音階を使って、自分が世の中から見捨てられているという寂しさを表現するなんて、とても独創的だ。というか、他の作曲家だと、過度な「悲しみ」という感情になってしまうだろう。
悲しいのでもなく、表現過剰でもなく、淡々とこの曲を上演するのがこの曲への向かい方であり、その意味でヴァルトラウト・マイヤーの抑制された歌を僕は最大限に評価する。それを聴いて、
「それが世の中というものだ。みんな普段は日常的な忙しさと喧噪の中で、その真実を考える余裕がないだけで、これは悲しいとか寂しいとかを超えた、自己の世の中に対する真実の関係への目覚めなのだ」
ということに気が付いたとすると、それがリュッケルトの本質であり、マーラーの本意ではないか。
さて、その一方で、ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウがこの曲を歌っている。カール・ベーム指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の伴奏。これは、言ってみれば「わざとらしさの極致」であって、笑ってしまうほどだ。ただ、それでいて、とても納得させるものがある。これもひとつのアプローチかなとは思う。
何故なら、彼は、作品を一度突き放して客観的にデフォルメするという作業を行っていて、彼は、そのわざとらしさを持って「曲に語らせる」ことの案内役を務めている。だから、表現が濃ければ濃いほど、逆に聴く方ものめり込みすぎないで聴ける。「私はこの世に忘れられた」だけではなくて「真夜中に」もそうだけれど、マーラーが何を考えて、何を表現したくて、リュッケルトの詩からこの曲を選び、表現しようとしたことがよく理解できる。
とにかく舌を巻くほどうまいんだよね。ただ唯一残念なのは、「感動はしない」んだよね。指揮者が、歌手に稽古をつける時に、どんなポイントを指摘したらいいのか、ということに気付かせてくれる最良の演奏です。でも、三輪陽子さんに、この通りにやってください、ということでは全然ないです!
2025. 1.20