杏奈の結婚式
三澤洋史
きっちりしている杏奈と泰輔君
僕にはふたりの娘がいるが、性格はまるで違う。ピアニストの長女志保は、社交的でいろんなことに鷹揚。それに反してメイクアップ・アーチストの次女杏奈は、何かが片付かないと次に行けない不器用さもある反面、物事にきっちりと向き合いひとつひとつ解決していく堅実さがある。とはいえ、人にシビアというわけではなく、見かけはのほほんとしていて、むしろ一緒にいて安心感を与えるタイプだ。
昨日3月16日日曜日は、杏奈の結婚式だった。相手の方は杏奈と同じ歳で、職業はファッション・デザイナー。ブランド名があるが、本名は中村泰輔君と言い、すごく誠実な人。
きちんとしている証拠に、そもそも一昨年のクリスマス・イヴの日に、泰輔君は杏奈を連れて東京カテドラル・聖マリア大聖堂に行き、そこで杏奈にプロポーズしたという。それからその晩、立川教会のミサから帰った我が家族の「イヴの夕食会」に二人で現れ、
「お嬢さんをください」
と宣言したのだ。
さらに昨年の1月1日付けで役所に婚姻届を出し、それから二人の住む所をじっくり探して、東急東横線学芸大学駅の近くのアパートに住み始めた。普通だったら、もう一緒に暮らした時点で、結婚式はどっちでもいいんじゃね、と思う人も少なくないだろう。ところがふたりは、結婚式と披露宴をきっちりやりたいという明確な意志を持っていて、プロポーズを行った東京カテドラル・聖マリア大聖堂で挙式を行い、場所を移して池袋の自由学園明日館(みょうにちかん)にて披露宴を行うことに決めたのだ。
バージンロードを娘と
結婚式当日はあいにくの雨。しかもかなりの土砂降りで、駅から離れているカテドラルに来るのは、皆さん大変だったろう。車で来た人達でさえ、駐車場から教会の入り口に行く間に濡れてしまうくらい雨は強かったから。
長女志保の時には、カトリック立川教会で簡素に結婚式のミサを行っただけだったので、そもそもバージンロードを娘を伴って歩くという経験はなかった。この風習って面白いね。新郎は聖堂の後方からずっと先に出発して前方の内陣の上で花嫁を待っているが、花嫁の父親が娘と腕を組んでバージンロードをゆっくりと歩き、会衆席最前列で止まり、娘を送り出す。そして娘は父親から離れて新郎の元に向かう。

バージンロード
杏奈を伴ってバージンロードを歩いていると、自分の気持ちがどうとかいうより、外から見て、
「これまで手塩に掛けて育てたかけがえのない娘を、仕方がないからお前にくれてやるよ」
と映っているような気がして可笑しくなった。
特に自分が止まって、娘が聖堂前方の内陣の前で左に曲がって行く姿を横から眺めるとき、
「あーあ・・・行ってしまう・・・」
と未練がましく見えているような気がした。

神の前の誓い
もし、娘がずっと家にいて、自宅からお嫁に出すというシチュエーションだったら、実際にそう感じるかも知れない。でも、杏奈は、すでにパリに留学した時点で家を離れていたし、帰国後も、メイクの仕事を始めたら、仕事は深夜に渡ったり、夜明けの朝日の中での撮影だったりして、国立の自宅からではどうにも対応できなかったので、ただちに都心に出て行った。だから娘を取られたという感情は全くないね。むしろなかなか彼氏が見つからないので、
「杏奈の良さを本当に分かってくれる人に早く巡り逢ってくれないかな」
と気を揉んでいたくらいだったから、特に泰輔君のような良い人に出遭ってくれて本当に感謝で、
「どうぞどうぞ、こんなんで良ければ、是非もらってください!」
という気持ちだった。
東京カテドラルでの結婚式への参加は、聖堂前列の親族達のスペースの後ろであれば、完全な自由参加であったが、それでも、この雨の中にしては、予想をはるかに越える参加者だったので、ありがたく嬉しかった。参列者全員に心から感謝を捧げます!
涙涙の披露宴
その後、行われた結婚披露宴の会場は、池袋駅からちょっとだけ離れた自由学園の明日館という限られたスペースであったので、そこでの参加者は、親族と本人達のごく親しい友人達に限られていた。
まず最初の新郎のスピーチでは、泰輔君は最初から感極まって泣いてしまったので、新婦の杏奈が、用意していた原稿を代読した。それから泰輔君は、親族や友人のスピーチを聞く為に泣いてしまい、それを見ながら一同は、
「本当に純粋な人なんだな」
という想いを新たにした。

第1のお色直し
僕と同級生のご両親
泰輔君のご両親は、二人とも僕と同じ歳で、しかも二人とも3月生まれ。同級生だから、これまでの何度かの打ち合わせでも、子供の時観ていたテレビや、流行したものの話題が共通で、話が合うから、たちまち打ち解けた。
高校生の頃は、ドリフターズの「8時だよ全員集合」の全盛期だったし、
僕が、
「なんといっても渡辺貞夫や日野皓正などに傾倒していましたよ」
と言うと、ご主人がすかさず、
「私もピットインに行きましたなあ」
と即座に返すから、
「僕も!」
という風に、何の話をしても盛り上がる。
その日に初めてお遭いしたお父様の二人の弟さんも、とても気さくで気持ちの良い人達だ。3人とも仲が良く、みんなスポーツマンで、お父様と一番下の弟さんは剣道をやり、真ん中の「地球の歩き方」のダイヤモンド社の社長さんはサッカーを一生懸命やっていたという。みんなスキーが大好きだというので、来シーズンは一緒に滑りに行きましょう、ということで、一同意気投合した。
僕のスピーチ・杏奈のストーリー
会場にはチェンバロが置いてあり、お客様が会食の会場に招かれるときに、志保がBGM的に何曲も弾き、デザートの時になったら、僕が演奏する番になった。選曲はみんな杏奈が強引に決めた。僕が弾いたのは、バッハ作曲チェンバロ協奏曲第5番第2楽章ラルゴだ。本来チェンバロがオケと共演する曲であるが、これをチェンバロ1台だけで弾かなくてはならないので、僕が自分で編曲した。ゆったりとくつろいだ名曲。みんなしんみり聴いてくれた。

第2のお色直し
その後で新婦父親のスピーチを頼まれていたので、僕は杏奈のことを話し始めた。要約するとこんな話だった。
杏奈は4歳の夏。群馬の実家に帰っている時に、家の前の道路で車に轢かれて瀕死の重傷を負いました。でも、彼女は、手術や術後の痛みにじっと耐えていました。杏奈は、健気なほど頑張り屋なのです。しかしながら、そもそもの傷は深く、鼻から唇にかけては、いつまでも傷が残っていて、小学校時代に二度に渡る大きな外科手術をしなければなりませんでしたし、女の子ですから精神的にもいろいろ傷ついたり辛い思いをしたと思います。
中学校になって吹奏楽部に入ってクラリネットを持ち、夢中になって、それが彼女の自信となって自分を支えるようになりました。さらにパリの音大ピアノ科に入っているお姉ちゃん志保の後を追って、彼女もパリに渡り、マルメゾンのコンセルヴァトワールでクラリネットを一生懸命にやってプリミエ・プリ(一等賞)を取りました。その後、最もレベルの高い国立のコンセルヴァトワールでさらなる勉強を続けると思ったら、一時帰国した際、彼女は親を呼び出して、いきなりこう言い始めました。
「実は・・・ずっと考えていたんだけど、あたしメイクの勉強をしたい」
僕たち親はびっくり仰天しましたが、本人の決心は固く、それによって我々はあることに気付きました。
つまり、「彼女が自分の顔の傷で辛い思いをしていたことと、彼女のメイクへの興味というのは、もしかしてどこかでつながっているのではないだろうか」・・・そこで、その想いが本当かどうか確かめるために、一度日本のメイクの学校に入ってみようということになりました。やっぱり音楽の方が良いとなったら、それはそれでいいし、メイクで行けると思ったら、それでもいい。まず、やってみなければ・・・ということで恵比寿のBスタッフというメイクの学校に通い始めました。
彼女のメイクに賭ける情熱は本物でした。ではまたメイクの本場パリに・・・しかしながら、すでに二人の娘を長年パリに留学させてしまったから、我が家にはすでに充分な資金が残ってないのです。ところが・・・ところが、その時あろうことか、保険会社から連絡が入りました。
例の事故を起こした人の入っていた傷害保険でこれまでの治療をしていましたが、彼女が二十歳になったので、できれば示談にしたい、とのこと。つまりそのことで杏奈にかなりの資金が入ることになったのです。運命は、彼女がメイクアップアーティストになることを後押ししている以外考えられず、道が、ごくごく当然のように開かれたわけです。
そして彼女は再びパリに渡り、学校に通いながらパリ・コレクションのアシスタントを務めたりして、やがて帰国。そしてメイクの道を歩みながら、泰輔君のような人と出遭い、今日に至っているわけです。
ここまで話をしながら気が付いてみたら、周り中の人達がみんな泣いているんだ。なんだか今日は、涙涙の日だね。だからお天気も雨なんだ。これは決して悪い天気ではなくて、お空も感動の涙で溢れている日なのだと、僕は確信した。
杏奈、本当に良かったね!
親馬鹿と言われるのを覚悟で、僕はあえて言います。
杏奈は、本当にいい子なんです。裏表のない、まっすぐな子なんです。
みんなもどうか可愛がってやってください!
2025. 3.17