杏奈ならではの奉仕
4月7日月曜日朝。群馬県藤岡市の介護付き老人施設から母親が亡くなったしらせを受けて、すぐに妻の車で駆けつけた。施設では慣れたもので、母の遺体の前でリストを広げながら、
「葬儀屋はどこにしますか?」
と訊いてきた。
父親の時は、新町の実家の近くで葬儀を行ったが、今回はそれにこだわる必要もないので、近くのJAアシストホール藤岡に決めた。施設から母は運ばれて葬儀の日までそこに安置されることになった。
翌8日火曜日。仏衣への着替え及び化粧の儀式が行われると聞いて、次女の杏奈がひとりで藤岡まで行った。彼女は葬儀予定日の11日にどうしても外せない仕事があって参加できないこともあり、メイクアップ・アーティストなので、せめて化粧のお手伝いをさせて欲しいと申し出たのだ。
普通のメイクと違うだろうから、杏奈は教わりつつ部分的でもいいので、メイクをさせてもらえたら有り難いと思っていたが、係の方は、杏奈がプロのメイクアップ・アーティストであることを知って、母の白衣への着替えが済んだ後、全面的に彼女に任せてくれたという。葬儀の朝に見たら、母の顔はとてもきれいになっていた。
杏奈でないと絶対にできない、杏奈ならではの奉仕だね。僕もちょっと誇らしく嬉しかった。
「杏奈、いっそ、その道のプロになったらいいじゃない」
と言ったら、
「身内だからできるんだよ。他人なんて絶対に嫌だよ!」
だって。
家族葬
母はもう97歳になっていた。9年前の10月に88歳の誕生日を迎えた時、僕たち3人の子供達やその孫達と米寿のお祝いをしたが、その時誰かが、
「こうしてお祝いをすると、具合が悪くなったりするって、よく言うよね・・・」
と言っていたが、まさにその通りになってしまって、12月に脳出血を発症して、そのまま入院し、後に今の介護付き老人施設に移った。
9年も世間から離れている間に、友人や近所の知り合いの大部分も他界しているので、小さいホールで親族だけの家族葬にすることにした。僕の上の姉夫婦と、そのふたりの息子達。下の姉夫婦(すでに2人とも亡くなっている)の、長女夫婦とその一人息子。次女夫婦とふたりの息子達。末っ子の長男夫婦。それに僕の家族、すなわち妻と、娘の志保とその娘の杏樹。つまりひ孫が4人もいる。
その他には、新町歌劇団の団長である佐藤信昭さんなど出席してくれ、東京大学コールアカデミーOB会がお花を届けてくれていた。今回は、先週の僕のホームページを読んで、個人的に連絡をくれた方だけに葬儀場をお教えして、その他の方達には意図的にお声を掛けませんでした。どうか悪く思わないで下さい。
俊子ちゃんと横須賀の思い出
それから、僕のいとこにあたる、母の姉の長女、俊子さんが世田谷からわざわざ来てくれた。その俊子さんと、火葬中の精進落としの間に、いろいろ話してなつかしかった。
母の姉(長女)は横須賀に住んでいた。小学校3年生だったと記憶しているが、群馬の田舎から、初めて行った横須賀の街は、僕にとって衝撃的であった。
京浜急行横須賀中央の駅から平和中央公園に向かっての、恐ろしく急な坂道の真ん中くらいのところに家はあった。坂を登り切ると高台の平和中央公園に出る。そこは当時、砲台山(ほうだいやま)と呼ばれていて、戦争中にはいくつもの砲台があり、その下に防空壕が残されていた。
群馬には海がないので、海を見るだけで感動するのに、高い砲台山から眼下に広がる海の眺めは圧巻であった。以前にも書いたことがあるけれど、
「あの海の向こう側にいつか自分は行くんだ」
と決心した。でも、よく考えると、東京湾だから、海の向こうは外国なんかじゃなくて、多分千葉県だよね。あはははは!
ところが、ずっと後になって、ジェノヴァに行ってケーブルカーで山のてっぺんまで昇って地中海を眺めた時、その景色が砲台山からの眺めにそっくりだったので、あらためて、
「あの時に決心した外国に今こそ来たぞ!」
と思ってジーンとなった。
言ってしまえば、両方ともただの思い込みだが、リアリティを伴った思い込みは真実となるのだ。
一方、坂道を横須賀中央駅に向かって降りて、さらに進んで街に出ると、沢山の外国人が英語を話しながら歩いていた。群馬では考えられない異国情緒に溢れていて、圧倒された。
また、叔母さんの夫は、とても博識な人で、いろんな事を知っていて驚くことばかりだった。レコードを沢山持っていて、なんと僕に最初の指揮法の手ほどきをしてくれた人だった。4拍子の振り方は義理の叔父さんから人生初めて習ったのだ。運命的な写真がある。
横須賀で指揮法
あらためて母のこと
さて、火葬が終わって、全てがあっけなく終わり、母のお骨を持って国立の家に帰って来た。不思議だな。何も感じない。普通なら、ちょっと恐がりな僕は、家に骨があるだけでなんとなく嫌だな、と感じても不思議はないのに。
逆に、
「お袋ったら、夢にくらい出てきてくれてもいいのに・・・」
と思っている。まあ、もうこの世には執着も未練もないんだろうなあ。父は、2008年11月にすでに他界しているしね。
小学校の頃は、いたずらばかりして、よく放課後に母が先生に呼び出された。でも、先生に頭を下げて謝ってきた後、僕が今日こそは怒られるだろうと思って首をひっこめて待機していても、むしろしみじみと、
「お前は、本当は素直でいい子なんだよ・・・」
と、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
今、想い出しても、母が僕のことを誰よりも分かってくれたこと、信じてくれていたこと、愛してくれたことに本当に感謝している。
「お前は、頭が良いんだから、タカタカ(県立高崎高校)に行って、こだわらないで何でも好きなものになりな」
とよく言っていた。
僕は逆に、大学建築科に言って一級建築士の免許を取って、親父の跡を継ぐことを考えていた。今から考えると、全然向いてないんだけどね。
僕が神様を素直に信じられたのは、母の愛の向こうに、この世においても「無償の愛」というものが存在することを信じていたから。この世に、僕のように心から感謝を捧げる者がいるだけでも、母は、まっすぐに天国に行くに値する。
ありがとう!あなたの息子としてこの世に生まれ、育ててもらったことは、僕の人生の最大の誇りです!
今シーズン最後の滑り
絶対晴天日をねらう
母の亡くなった次の日で“不謹慎”と言われそうであるが、4月8日火曜日は、早朝から「かぐらスキー場」目指して家を出た。母の死は確かに想定外だったけれど、知らせを聞いてただちに藤岡に駆けつけ、葬儀のための準備をはじめとして、その日の内にやるべきことは全てやってきた。やむを得ない事情が起きたら、いつでも中止にすることは勿論考えていたけれど、その一方で、4月8日は前々からシーズン最後の滑走日と決めていたので決行した。
逆の考え方をすると、まだ4月の上旬なのに、そんなに早くから終了しなくてもいいんじゃない?という意見もあるだろう。豪雪のお陰で、お山にはまだ雪がたっぷりあるし、かぐらスキー場なんか、時には5月の連休よりもずっと遅くまでやっているではないか。
でも、この日を最後の日にすることを決めたのには二つ理由がある。ひとつは、4月以降、新国立劇場桂冠合唱指揮者という立派な称号をいただいたけれど、実質的にはリタイアで、新国立劇場で実質的に合唱指揮者として公演を受け持つことはしばらくない。その一方で、外部委託に関しても、自分が指揮したり、合唱指揮を務める公演も、夏まではあまりない。
不思議だよね。忙しい時は、バンバン滑りに行きたいのにその時間がないし、時間ができてみたら、逆に、仕事もないのにバンバン滑りに行く気が起きないんだ。
もうひとつは、先週も書いたけれど、講演会を4つも抱えていて、その準備を丁寧にしたいことだ。
それよりも、最後の日を4月8日火曜日に決めていた理由は、前からリサーチしていて、その日が絶対に晴天であることが分かっていたから。
今シーズンは天候的にはハズレ続きで、ガーラ湯沢及び石打丸山共通の時だけ快晴だったけど、あとは豪雪ばっかりで、神立スノーリゾートでは一度も満足に滑れなかったし、特に前回のかぐらでは、せっかく来たのに強風のため、手前のみつまたエリアのみでの営業だった。だから今回は、複数の天気予報を睨みながら、絶対に天気が崩れない日を選んでおいたのだ。
先に書いたように、その日は、杏奈が母の処にお化粧に行ってくれると聞いて、余計に「任せたよ」という気になれたしね。
ということで、越後湯沢に降り立った時点で、あたりが明るく、春の香りに包まれていることに心がワクワクした。かぐらスキー場のお天気は、予想通り快晴!今日は悔いの残らないよう滑るぞ!
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(出典: かぐらスキー場/ゲレンデ・コース)
林間エキスパートコース
ここを一度降りて、また第一高速リフトに乗ると、二度目に降りる時は反対の右側に行く。第5ロマンスリフトに乗って神楽ヶ峰山頂方面に行くためだ。リフトの上は標高1845メートル、神楽ヶ峰山頂は標高2029メートル。ここからの眺めは最高。
神楽ヶ峰山頂付近
田代エリア
それから遊び心で田代エリアに入る。このスキー場は、ひとつのリフト券で、みつまたエリア、かぐらエリアに加えて田代エリアにも入れるのだ。田代エリアは、急なところはあまりないけれど、ゲレンデは広大で変化に富み、たっぷり楽しめる。
さらに望むとあらば、ドラゴンドラに乗って(別料金ではあるが)、その向こうにある苗場スキー場にだって行ける。バスで何十分もかかる道のりをスキーを履いてどこまでも行けるということだ。苗場スキー場は、それだけでも広大だけれど、こんな風に全てのエリアを滑ることも出来るし、実際、一日で全てを制覇した人も少なくないと聞く。
ただし15時までにかぐらエリアに戻ってこなければならないということで、苗場あたりでのんびりしていたならば、スキーを履いては戻れず、バスに乗らなければならない羽目になるようだ。
さて、田代エリアはあまり深入りせず、割とすぐにかぐらエリアに戻って、メインゲレンデのコブに入った。ここのコブは普段深くてピッチが短いため、尻込みしてしまうのだが、今日は、特に上部が割とユルいコブになっていたので、良い練習になって何度もここを行き来した。
70歳のコブ挑戦
先日、悪天候の神立スノーリゾートで確認したことを、晴天の中で落ち着いて出来た。ちょっと説明しよう。スキーに興味ない方は飛ばしていいです。
コブに入る時に、まごまごしていると先に外足がコブの形状によって回り込んでしまう。すると内足が置いて行かれてボーゲンになってしまう。それを避けるために、ストックを突いたらすぐに、重心から解放されたばかりの新しい内足を、外足に先行して回り込んでおく・・・というよりも、さらに内足の外エッジをやや立てて、外足を誘導するくらいの意識を持って待っている。待っていると言ったって、まあほぼ瞬間なのだけどね。すると、どんな時でもきれいなパラレルでコブに入れるのである。
あとは上体の問題だ。上体はどんな時でもフォールラインを向いているべし。つまりストックを突いた瞬間、かなり極端な外向傾を作るということだ。足は真横向いてたりするから、無理矢理ギュッて上半身をひねるということだよ。これが出来ないで、上体が板の先やコブの溝を向いてしまうと、もう暴走してコブの出口で空を飛ぶしかなくなる。
上体をギュッと捻って胸がフォールラインを向いていると、結構深いコブでも、不思議とねえ、落ち着いて手前の急な壁でズラすことができるんだ。で、上手くいけばそのままコブの出口でクルッと回って重心移動して次のコブの手前の壁をズルズルと出来るし、仮にコブの底に入ってしまっても、向こう側の壁が緩やかだったら、そのままズラシながら壁を越えちゃえ!てっぺんでターンし、落ち着いて次のコブの手前の壁に入り込むことができる。
気を付けないといけないのは、底に入って向こう側の壁が思ったより急だった場合、グサッと板の先が雪にめり込んでしまうことがある。そうすると、結構体にも衝撃が来るので、見極めが大切。
「コブの溝に沿って制御不能で飛び出しちゃう」という事態にだけならないよう気を付ければ、ターンは続いて行く。どうしてもコブの溝に沿って走り出してしまったら、最後の手段がある。それは、コブの溝では、なるべく体を伸ばし、コブの出口では逆に腰や膝を出来るだけ曲げてちっちゃくなること。で、越えたらまた足から伸ばしていく。これだけでジャンプするのを避けることが出来る。案外効くんだよ。ただね、唯一の欠点は、それだけでめっちゃ疲れること!
で、結構できるようにはなったんだけれど、ピッチの短いコブが続くと、技術の問題ではなく、
「ハアハアハア!」
となってしまって・・・やっぱりね・・・70歳のおじいちゃんには、体力が持たないね。
「ああ、ここで体を捻らなければ!」
と分かっているんだけれど、体がいうことを聞いてくれません!
お昼になった。お目当ての和田小屋は今日はお休みだって。残念!そうなると、かぐらゴンドラ終着駅のレストランかぐらでは、和田小屋の「けんちんうどん」などの体に良い食事がない。お腹はすいているので、気が付いたらカツカレーを選んでいた。ヤベエ!
定番ゲレンデでショパン・エチュードの境地
お昼を食べてからは、今度はひたすらパノラマコースで不整地と格闘。自分にとっての定番ゲレンデ。いつもはひとつふたつ緩めのコブが出来ているのだが、今日はない。ただの荒地。
ここは、昨年、激しく転倒してスジを痛めた所。自分の技術の割にはスピードを出し過ぎたことが原因なのは分かっているんだ。だから今回はしっかりスピード・コントロールをしながら、体勢を安定させて、ロングターンでは、盛り上がった雪の塊でジャンプし、どんな形状の着地点であれ、体勢を確認しながら着地する。
一方、ショートターンでは、ショパン・エチュードを弾いている気分で、細かいパッセージでの意識化と無意識化との間をさまよう感覚。つまりエチュード演奏中には、ひとつひとつの指先までなんて、速くて知覚できないだろう。同じように、むしろ無心になって、雪の形状に対して、ある意味皮膚感覚になって対応するんだ。上体だけは常にフォールラインを向いていれば、考えなくてもいいのさ。
スピードと空間の変容
帰りの下山コースでは、なだらかな斜面ながら、これ以上出せないというほどのスピードで滑って、みつまたロープウェイの乗り場まで来た。でも、ロープウェイは今出たばかりらしいので、もう一度みつまた第一高速リフトに乗って、大会バーンをまたまた猛スピードで降りて、本日終了、というか今シーズン終了とした。
「マエストロ・私をスキーに連れてって」キャンプの講演会でも話したけれど、今の自分にとって、このスピードがもたらす魂への影響力は必要不可欠なものだ。スキーを始めた頃は、自転車を越えるスピードを出した瞬間、本能的な恐怖感と同時に、ある種の陶酔感を経験した。今は、もう自転車よりもずっと速いが、この「命と隣り合わせ」くらいのスピードを肌に感じることが、同時に「空間が変容する」ことを自分に知覚させる。
これを言葉で述べても、理解してもらうのは難しいかも知れないが、自分の精神状態が、マーラーやワーグナーの「パルジファル」を聴いたり演奏したりする時に陥るような一種のトランス状態になるのだ。
時間が過去から未来に向かって一定の速度で流れる現実的な空間を離れて、もっと「永遠」に近い高次元の空間に入る。「瞑想中」の感覚に近いし、深い祈りの最中の境地にも近い。このかけがえのない瞬間の連続を、僕はスキーから得ることができるのである。
充実した一日だった。もう悔いはない。
ありがとう!ゲレンデよ!次のシーズンも、僕を快く迎えておくれ!
2025. 4.14