浜松バッハ研究会と受難曲について
今、この原稿は、浜松から新横浜に向かう新幹線ひかり号の中、ノートパソコンで書いている。5月11日日曜日。浜松バッハ研究会の練習を終わっての帰り道。東海道本線弁天島が最寄り駅の、浜名湖畔にある浜松市舞阪支所で、13時から17時、「ヨハネ受難曲」の練習をやってきた。
思い返してみると、3月30日に、東京バロック・スコラーズで「マタイ受難曲」の演奏会を行ったばかりだが、実はそれだけでなくて、久し振りに東響コーラスを引き受けることになって、その演目もなんと「マタイ受難曲」。本番はジョナサン・ノット指揮で9月27日、28日なので、まだまだ先であるが、初練習は5月9日金曜日。つまり一昨日!これからの長い練習期間の初日であった。
こんな風に受難曲づいているわけなのだが、今日も練習しながら思っていた。僕は本当にバッハの曲が大好きで、しかも特に受難曲が大好きなので、一年中やってもいいな。逆に“受難曲ロス”にならないので幸せだ。
受難曲のどこがいいかというと、ミサ曲のように単に神様を賛美するだけでなくて、その中に人間のドラマがあるだろう。「イエスの受難」という極限状態の中で、弟子達をはじめとする、それぞれの登場人物達の、人間の弱さや醜さ狡さなどが浮き彫りにされている。
あのキリスト自身でさえ弱さを見せる。ゲツセマネの園で、
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
と祈っていたし、帰ってきて弟子達が眠り込んでいるのを見て、
「あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか?」
とペテロに向かって八つ当たりする。彼とて、全く余裕がなかったのだ。
ユダは裏切ってイエスを祭司長達に売り渡すし、一番弟子のペテロでさえ、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われて「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と知らんふりしてしまう。
そんな息詰まるようなドラマを、バッハの音楽は、福音史家のレシタティーヴォ、群衆合唱などで克明に描き尽くしていく。立ち止まって、アリアで心情を訴えるかと思えば、各場面をコラールで総括的に考察する。
この古典的な形式の中で、いかに生き生きと受難のドラマが描かれていることだろう!また、合唱曲の声部の書き方は、全く模範的で、その四声体の譜面を見ているだけでも、惚れ惚れする。時には和声学ではやってはいけないギリギリのこともあえてするが、かろうじて許容範囲に留まっている。その天才だけに許されるギリギリ感にも驚嘆する。
前回の浜松訪問の時には、コラールばかりを練習していたのだが、今回は第1部を一通りやった。特に第1曲目の冒頭合唱には、当然ながら時間をかけたが、暗雲が立ちこめるような不穏な16分音符の前奏に乗って、合唱が最初に出るHerr!「主よ!」の瞬間は、何度聴いても胸をかきむしられる。
自分は絶望の暗闇の中に居る。頭上にはかすかな光がある。その光に向かって絶叫する。叫ばずにはいられない。あらためて思うのだが、人類というものは、そもそもそういう悲惨さの真っ只中にいる存在なのだ。その認識から始めなければ、どんなに上手に歌っても、受難の本質は何も伝わらない。
群衆合唱を練習する時、僕は必ずその間のレシタティーヴォを自分で歌う。音取りは済んでいるので、まずは、その群衆合唱の第一声をどのような切り込みで入るかが大事なのである。その切り込みのまま、歌い切るのだ。
(ここまでが新幹線の中で書いた原稿)
フランシスコ教皇とバチカンの闇
(ここからは5月12日月曜日午前中に執筆)
復活祭過ぎたと思ったら、次の日にフランシスコ教皇が亡くなり、当然のようにコンクラーベが行われて、あっけなく新しい教皇が選出された。僕はフランシスコ教皇を尊敬しているけれど、彼に対する闇の部分を指摘する人もいる。
それが気になった。憶測で不安になったままでいるのは落ち着かないので、一番シビアな書物を探したら、ジェイソン・モーガン著の「バチカンの狂気」-「赤い権力」と手を結ぶキリスト教(ビジネス社)という書物を見つけた。そこでそれをKindleから手に入れ、浜松に向かう南武線や新幹線の中などで読んでみた。
予想通りであった。というか、漏れ聞こえてきた噂通りであった。バチカンの闇は予想をはるかに越えて深かった。でも安心したのは、フランシスコ教皇自身が性的児○虐待の張本人とかということではなかった。ただ彼は黙認し、隠蔽工作に加担した可能性を疑われている。
一方で、Youtubeで霊感のある内山功一氏が語った「フランシスコ教皇は、ひとつの光を持っている人物である。ただバチカンの闇が深すぎた。その割には良くやったと思う」という言葉も、個人的には信じるに足るものだと思っている。
高崎「椿姫」
赤ランプの効果
さて、連休の間に、5月3日土曜日、高崎の「椿姫」も無事終わり、いろいろ書こうと思っていたけれど、どんどん日が経ってしまった。かつて僕も自作ミュージカル「おにころ」を演奏した高崎芸術劇場に「椿姫」では沢山のお客さんが入ってくれた。
特に合唱団が大活躍してくれた。公募して、これだけのために集まってくれた寄せ集めの合唱団だけれど、声も良く出て演技も素晴らしかった。あらためて称賛を送りたい。みなさん、頑張ってくれました。ありがとう!
オケ合わせに僕が出席できなかったから、オケのタイミングや音の出方がピアノと違うため、合唱団の入りがバラバラになってしまって、指揮者の山島達夫さんが困ってしまったという。そこを初谷敬史君が、フォローして、
「三澤先生が来て赤いランプで舞台後方から振ったら、みなさんピタッと合いますからね」
と言ってくれたそうだ。ホールでの稽古の時に、僕は合唱団の皆さんを集めて赤ランプを見せて、
「とりあえず、できるだけこのランプを見て下さい。オーケストラは指揮の打点を見て弾きますが、音がオケピットから出て皆さんの耳に届くまでは、タイムラグがあるんです。だから皆さんの声は飛び出してしまいます。逆に、皆さんが舞台後方に行くと、声が客席に届くまで時間がかかるので遅れてしまうんです。それらを皆さんが自分で判断するのは難しいので、とにかく僕を信じて、この赤ランプの通りに歌ってください」
と言った。
皆さんは、僕の言うことをよく聞いてくれて、ピタッと合ったので、山島さんは大喜びだし、他の聴いていた人たちも、
「まるで魔法のようだ!」
と驚いていた。伊達に何十年も合唱指揮者をやっているのではないのだ。
白衣大観音
本番当日の5月3日土曜日早朝。ゲネプロの日の土砂降り雨とは打って変わって抜けるような快晴。僕はいつものようにお散歩に出た。また母校の高崎高校を横目で見ながら護国神社にお参りして帰って来ようと思ったが、観音山のてっぺんの観音様が朝日に映えて異常に輝いている。思わず護国神社を通り過ぎて観音山の坂を上がる。
「おいおい、もしかして観音様のところまで行くつもりかい?」
と自問するが、そんな僕の表面意識とは裏腹に、足は止まる気配がない。

白衣大観音1

白衣大観音2

白衣大観音3

観音山頂上より高崎と赤城山
公演は大成功
さて、「椿姫」公演は大成功。ヴィオレッタ役の鈴木麻里子さんの圧倒的な声量と音色の輝かしさに、アルフレード役のきめ細かい金山京介さんの歌唱が重なって、感動的な舞台となった。
これが高崎の地方オペラとして定着すればいいのにな、という想いを持ってこのプロジェクトに関わったのだが、そのためには、まだ越えなければならないいくつかのハードルがある。まあ、気長に待ち、必要に応じてアクションを起こそうと思っている今日この頃である。
講演会がふたつあります
今週末の5月18日日曜日と、来週初め5月20日火曜日と、ふたつの講演会を抱えている。18日は日本ワーグナー協会主催で、演題は「ワーグナーとヴェルディにおける合唱の役割」。一方20日は、認定NPO法人かわさき市民アカデミー主催の講演で、演題は「指環と演出-バイロイト初期から現代へ」。
18日の講演は、ワーグナー協会なのに、珍しくヴェルディも登場する。昨年8月にヴェルディ協会で「ヴェルディにおける合唱の魅力」という講演会を行い、今年の4月には京都ヴェルディ協会で同じ内容の講演会を行った。
その資料を遊ばせておくのももったいないと思い、ワーグナー協会でありながら、一度ヴェルディと対比させてみようと思って、このような演題にしたが、話したいことばかり多すぎて困っている。両方の作曲家に精通している僕でないとできない独創的な内容になることは間違いないので、ワーグナー協会のみなさんは楽しみにしていてください。
その中から、両者の違いについて述べてみよう。作品成立を紹介していく時に、ヴェルディは、基本的に初演の日を列挙すれば事足りる。何故なら、ヴェルディの場合、必ずといっていいほど、劇場からの依頼を受けてギャラが決まらないと作曲を始めなかったから、初演に間に合うことをもってそのオペラの完成とみなして差し支えないのだ。
ところがワーグナーは違う。ワーグナーは、何の上演のあてもないまま台本にも作曲にも取りかかる。「ニーベルングの指環」4部作など、一体構想から上演まで何年かかっているのだろう?それでも、そのためにバイロイト劇場を建てて、そのこけら落としのために上演できちゃうんだから凄いよね。でもそれを上演することで莫大な借金を抱えることになる。それでも彼はめげないんだ。
ヴェルディは、晩年財を成し、ミラノにCasa di Riposo per Musicisti(音楽家のための憩いの家)を建設。死後に自分の著作権収入で運営できるようにした。そして彼自身もその「憩いの家」に、先に亡くなった妻と共に埋葬された。
一方ワーグナーは、先ほどの「ニーベルングの指環」の例のように、どんなに借金してもめげない人で、お金がないのに自宅のヴァーンフリートに高級な家具を平気で注文したりと正常な金銭感覚が全くないが、不思議とルートヴィヒⅡ世のように援助者が現れて何とかなるのだ。
彼が亡くなった日はヴェネツィアにいた。その朝は、ワーグナーが、「パルジファル」の花の乙女達の内のひとりの女性をこっそりヴェネツィアに呼んでいたのが妻のコジマにバレて大喧嘩していたという。その後彼は心臓発作で急死したが、コジマはワーグナーの亡骸を抱いたまま何時間もそこを動かなかったという。
「やっとあたしのものになったのね」
という感じだろうか・・・・。
さて、もうひとつの講演は、「ニーベルングの指環」の演出史についてである。はじめお話をいただいた時には、ちょっと面食らった。演出史?いや、僕は演出が専門でもないし、どこまで突っ込んだ話ができるのかな?と思ったけれど、いろいろ資料を集めて調べていく内に、逆に僕でないとできない話は少なからずあるなと思ってきた。
考えてみると、これまで「ニーベルングの指環」にはよく関わっていた。バイロイト音楽祭で働き始めて2年目のユルゲン・フリム新演出のミレニアム・リングでは、合唱のある「神々の黄昏」だけでなく、他の3つの楽劇の稽古もよく見学に行ったし、当時バイロイトで「ローエングリン」を演出していたキース・ウォーナーの処に、新国立劇場からチーフ・プロデューサー達が訪れて、トーキョー・リングの交渉を行ったが、その際に僕は通訳をしていた。さらに、実際のトーキョー・リングの練習の際には、合唱指揮のみならず、アシスタント・コンダクターとしてガッツリ関わっていた。
今回さらに、新しくいろいろ調べていったら、興味深いことを沢山発見して毎日が楽しい。「指環」史の詳細については、もう原稿が長くなったのでまた来週に譲る。講演は火曜日だから、月曜日に原稿を書くときには、ちょっと前もってネタバレもしちゃおう。
2025. 5.12
![]()