無意識を意識化することを求められています

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

無意識を意識化することを求められています
 5月から東響コーラスに行き始め、「マタイ受難曲」の練習が続いていることはすでにこの「今日この頃」でも述べた。東響コーラスは、もはやアマチュアとはいえないほどハイレベルな合唱団であることに疑問の余地はない。
 しかし、バッハとなると基本的に声が出るという以外に、クリアしなければならない様々なハードルが立ちはだかっている。そのハードルを超えるのは予想したより大変だし、自分としても、なかなか思い通りになってこないジレンマがある。どうしたもんじゃろな・・・と思いつつ、先日5月17日土曜日、東京バロック・スコラーズ(TBS)の練習に出た。

 TBSでは、3月に「マタイ受難曲」の演奏会を終えて、バッハのモテット第1番Singet dem Herrn ein neues Lied BWV225「新しい歌を主に歌え」の練習に入っている。細かく練習しているので、4月26日の前回は、第1曲目だけで練習が終わった。その後、5月に入ってから東響コーラスの練習が始まったのである。
 今回、TBSの練習に行き、指揮台に登って振り始めた途端、「ああ、なるほどな!」と思った。この合唱団は、基本的にバッハのみをレパートリーにしており、入団オーディションも僕ひとりの判断で合否を決めている。だから「ここに来るとこのモード」と当たり前になっていることがあって、その無意識を意識化することを今の僕は求められているのだなと、あらためて気が付いた。

 ひるがえって考えてみると、一般的に声楽ではレガート唱法が基本になっている。オペラだけでなく歌曲においてもシューベルトからだいたい始まるだろう。つまりロマン派以降のレガート唱法が声楽技術の基本となっているのである。音大でも、伸びやかに輝かしくフレーズを歌える人が点数が高い。 
 新国立劇場新入団員のオーディションに際しては、これまで僕もその基準で点数を付け、合否を決めていた。東響コーラスの入団オーディションでも当然そうだよね。バッハだからって新たにバロック唱法で入団オーディションなんかしないからね。TBSをのぞいては・・・。

 だから、TBSを指導しながら、教えられることが多かった。自分でずっとやってきたのにね・・・無意識って恐い!そもそも、バッハの歌唱では一体何を要求されているのかというと、とにかくアジリタ唱法を徹底させることだ。
 これは本来バロック音楽がルーツで、コロラトゥーラに特化した技術。古典派になって一度廃れかけたが、その後、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティなどベルカント・オペラの時代に復活した。
 器楽でもバッハを演奏する場合は、ブランデンブルク協奏曲でもそうだけれど、ノンレガートではないか。そしてさらに、バッハ的ノンレガートを演奏する際は、100パーセント声を鳴らしては身動き取れなくなるので、最大でも9割に留めておくこと。これが案外できない。
 特に、声楽をやる人に特有の現象だけれど、100パーセントか半分かという人が少なくないのだ。それでもイタリア・オペラのアリアなんかそれらしく歌えちゃったりするからね。

 ややこしいのは9月のジョナサン・ノット指揮の「マタイ受難曲」の本番以外に、間に別の演目が入っていたりするのだけれど、それも含めて、「とにかく僕の練習に来たらこのモードで」というのを徹底させよう。そのためのノウハウをもっと自分の中にブレないで持とう。ということで東響コーラスの「マタイ受難曲」で、どのようにサウンドを仕上げるか?ということが、今の僕に課せられた新たなチャレンジである。

日本ワーグナー協会例会無事終了
講演会でカーテン・コール

 講演会が終わった後、楽屋に戻ろうとしたら、拍手が鳴り止まず、
「先生、もう一度出てください!」
と呼びに来られて、会場の真ん中まで出て挨拶した。

 終了後、ミューザ川崎1Fの居酒屋で打ち上げに参加した。ワーグナー協会幹部の皆様が口を揃えて、
「いやあ、講演会でカーテン・コールというのは初めてですね」
と言ったし、
「とっても楽しかったし、良く分かりました」
と言ってくれたのが嬉しかった。
ビールがどんどん進み、次々に出される美味しい料理に、心地よく酔いが周り、しだいに夜が更けていった。

ヴェルディとワーグナーを比べて
 昨年の夏、アッシジの聖フランシスコ聖堂での自作コンサートの旅から戻ってすぐの8月2日、日本ヴェルディ協会の講演会で「ヴェルディにおける合唱の魅力」という講演会を行い、ほぼ同じ内容で今年の4月19日に京都ヴェルディ協会の講演会を行った。
 一方、日本ワーグナー協会から、昨日(5月18日)の講演の依頼が来た時、
「演題は何にしましょうか?」
と訊ねたら、
「ご自由にそちらで決めて下さい」
と言われたので、
「ワーグナー協会でヴェルディのことを語るのってどうかな?」
とも思った。
 あまりにも真逆のヴェルディに触れることで、案外ワーグナーへの理解が深まるということもあるかもしれないな、とも思い、今回の「ワーグナーとヴェルディにおける合唱の役割」というタイトルが決まった。

 片方のヴェルディに関しては資料が完全に揃っていたため、あと半分のワーグナーの資料を作ればいいや、と、たかをくくっていたのだけれど、準備は予想をはるかに越えて大変であった。
 まずヴェルディとワーグナーは、同じ1813年に生まれていて、前期の作品を並べて語るときにはほとんど問題がなかった。ワーグナーが最初に自分の個性を開花させた「さまよえるオランダ人」は、初稿を1841年(28歳)に書き上げたのに対し、ヴェルディの「ナブッコ」は1842年初演(29歳)とほぼ重なっている。

 「ナブッコ」は、有名な合唱曲「想いよ、金色の翼に乗って飛んでいけ」に代表されるように、絵に描いたような成功作である。その理由として、シンプルな伴奏に乗って自然音階あるいは和声のアルペジオにあてはまるような分かり易いメロディーの歌唱が、普通に聴く者の胸を打つのである。
 その意味では、「さまよえるオランダ人」でも同じ要素があるが、その時点では、曲の緻密さ及び、糸車のブンブンした動きや波などを模倣したより複雑な伴奏で支える「さまよえるオランダ人」の方が一歩進んでいる。

ヴェルディの作風の変化について~モーツァルトの影響
 しかしその後、ヴェルディは、1851年(38歳)にヴェネツィアで初演された「リゴレット」において作風に劇的な変化を見せる。そしてそれは、次の「椿姫」(1853年ヴェネツィアで初演40歳)でさらに受け継がれ発展していく。

 このことについては、ほとんど語られることがないのが意外なのであるが、「椿姫」冒頭のシーンの「歌唱と管弦楽との関係」は、ある意味、ワーグナーの先を行っている。管弦楽の音楽に乗って、そのメロディーとは関係なく、歌手達の会話が、ほとんど日常会話のテンポ感に従ってランダムに歌われるのである。
 そういうとワーグナーのライトモチーフの手法を想い出す人がいるかもしれないが、大きな違いは、管弦楽の方から歌詞の内容に沿って寄り添うということはなく、管弦楽は、むしろザックリとその場の雰囲気を醸し出しながら淡々と流れていくのである。

 そして僕は、そのヴェルディの音楽作りのルーツが、モーツァルトのオペラにあると指摘し、「フィガロの結婚」の冒頭の場面を、譜面をスクリーンに映し出しながら聞かせ、指摘した。これ以上細かく文章で指摘しても、実際に講演会で例を示して丁寧に話すのには遠く及ばないので、このくらいにするが、要するに言いたいのは、ヴェルディも、その表現の発想においては、皆さんが思うよりずっとワーグナーに近いのである。

ヴェルディの生き方
 その後は逆に、ヴェルディとワーグナーの様々な違いについて説明していった。たとえばヴェルディは、劇場や出版社と契約し、条件を決めてからでないとそもそも作曲しなかった。だからお金に困ることはなかったし、むしろかなりの財を成した。作曲と平行して、Sant'Agataサンタ-ガタという所に農園を営み、雇い人を10人以上雇って、かなり本格的に経営していた。
 「アイーダ」に関しては、当時のヨーロッパで最も収入を得た作曲家となり、名声でも最高の地位を獲得した。しかしその後一度作曲の筆を折ったが、15年後に「オテッロ」で復活。「オテッロ」と最後の「ファルスタッフ」は、ともにシェイクスピア原作となっている。
 シェイクスピアは、たとえば、若い頃の「マクベス」では、魔女に名誉欲をそそのかされ、やがて国王を殺害して自分が王となり滅んでしまうとか、「オテッロ」では嫉妬が心の中で広がってやがて妻を殺害してしまうとか、ほんの出来心が人生を滅ぼしてしまう、人間の赤裸々な姿を描き出している。
ヴェルディが生涯を賭けて描き続けていたのは、とにかく「人間」なのだ。
 最後の「ファルスタッフ」の終幕では、
「世の中すべて道化」
とフーガを使って徹底的に人間の姿を風刺している。

 その「ファルスタッフ」を1893年(80歳)に初演した後は、1901年に亡くなるまで、オペラは勿論、いくつかの宗教曲を書いたほかは作曲もしなかった。その間に「音楽家のための憩いの家」Casa di Riposo per Musicistiを1896年にミラノに建て、死後に自分の著作権収入で運営できるようにした。その「憩いの家」に、彼は先に亡くなっていた妻と共に葬られている。


音楽家の為の憩いの家

ワーグナーの生き方
 そんな絵に描いたような成功者ヴェルディの人生とは対照的に、ワーグナーは、そもそも借金をするのを何とも思わない奴だった。自分の楽劇を上演するための劇場を自分で建ててしまい、楽劇「ニーベルングの指環」を、1876年に仕上がったばかりのバイロイト祝祭劇場で上演したが、莫大な負債を背負ってしまった。
 だから、せっかくのバイロイト音楽祭は、その後1882年に新作「パルジファル」を初演するまでの5年間、閉じたままだった。「パルジファル」初演はそこそこ成功。それに満足したワーグナーは、1882年9月16日ヴェネツィアに渡る。ほら、すぐそういうことをする。ずっといたんだよ、ヴェネツィアに。
 翌1883年2月13日の朝、「パルジファル」の花の乙女達の一人を、こっそりヴェネツィアに呼んでいたのが妻のコジマにバレて夫婦喧嘩。その後、心臓発作を起こして急死。コジマはワーグナーの遺体を抱きかかえたまま、25時間も部屋から一歩もでなかったという。
「ふふふ・・・やっとあたしだけのものになったのよね」
という感じだろうか。

という、ヴェルディから比べたらゲスのような奴だけれど・・・・。


ワーグナーの墓

 ワーグナーの亡き後、「パルジファル」は1883年、1884年と再演される。そしてコジマは、1885年にバイロイト音楽祭を引き継ぐ決心をする。「トリスタンとイゾルデ」新演出を企画し、翌年1886年に上演。「パルジファル」も同時上演。

 1887年には「マイスタージンガー」を企画し、1888年及び1889年に上演。それ以来このパターンが確立した。つまり、新演出の準備のために1年休み、翌年から2年続けて上演する。その後音楽祭は、コジマの長男ジークフリートに受け継がれ、ジークフリートの亡き後はその妻のヴィニフレットに受け継がれ、それから戦後のヴィーラント、ヴォルフガング、カタリーナと・・・。

 ワーグナーの人生は、ドレスデン蜂起で国を追われたり、借金を繰り返したりと、ヴェルディと比べると、かなり危なくきわどい人生であったけれど、別の考え方をしたら、彼ほど「人に助けられた」者もいない。ルートヴィヒⅡ世の例を挙げるまでもなく、どうして人は彼を助けようとするのであろうか?

 今日までバイロイト音楽祭が、ファミリーの善意によって受け継がれていることだけ見ても、もしかしたら、それが彼の偉大な証しなのではないだろうかとしみじみ思う「今日この頃」である。

2025. 5.19



Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA