母の四十九日無事終了と新町歌劇団の練習
5月26日土曜日、朝8時前。妻の車で家を出て群馬に向かう。助手席に乗っている僕は、母の遺骨を抱きかかえて膝の上に乗せている。後部座席には長女志保とその娘の杏樹が乗っている。今日は僕の母親の四十九日の法要。早いもんだね。4月7日に亡くなったと思ったら、もう四十九日か。
お寺に直行ではなく、まず群馬の実家に立ち寄った。お寺での法要は11時からで、その後引き続き納骨を行うが、その後の食事を、この実家で行おうと思っているので、その準備のためだ。
テーブルを並べ、ちょっと掃除をし、車に積んできた飲み物やお菓子などを部屋に運んだら、もうほとんどおしまい。食事そのものは、後で前もって注文していたお寿司の出前が届き、街で一番美味しい鶏肉屋の串焼きと唐揚げなどを妻が車で取りに行けばいいから、あとは時間通りにお寺に行くだけ。
この家は、僕が3歳くらいの頃に建てられたものだ。土地は借地なので、最後の所有者である母が亡くなった今となっては、遅くとも今年中に取り壊し、更地にして地主に返そうと思っている。
全部業者にお任せ、という方法も採れるのだけれど、見積もりをしてもらったら、建設業を営んでいた父の作業場や物置を含むかなりの敷地と母屋は、そのまま引き渡したら、それなりの金額になるようなので、なるべく片付けられる物は処分しようと、最近は、週に一度くらいのペースで実家に帰り、いろんなものを街のハズレのゴミ処理場に持って行くことを繰り返していた。
新町の処理場ってねえ、東京では考えられないくらい太っ腹で、1回につき100Kgまでならば、どんなゴミでもタダで引き取ってくれる。しかも一日に何度行ってもいいのだ。仮に100Kgを越えても超過料金もとっても安い。
いやあ、長年暮らしていた家というのは様々な物で溢れていて、なかなかはかどらない。最近はチェーン・ソーにハマって、庭の大きい木を(妻にロープを引かせといて)根元から3本も切って、さらにその幹を切り分けて細かくしていた。これが結構楽しい。だから群馬宅に行ったらチェーン・ソーと結びついていたが、今日は、作業着の代わりに黒ネクタイと喪服姿なので、そういうわけにもいかない。
かつて父も母も健在だった頃、この家に、お盆や正月になると、長男の僕とその家族は勿論のこと、ふたりの姉と、その家族達がみんな集まり、夏は庭でバーベキューをし、冬はカニやおせち料理を食べながら、様々な情報交換をしたなつかしい家。もっと昔は、ここで育ち、高校までずっと住んでいたかけがえのない自宅。
さて、無事に納骨まで済んでホッとした。親戚一同が自宅まで来て献杯が始まり、和やかな食事会となった。かつてのバーベキューのメンバー達も結構いたので、いっそのことバーベキューをしたいくらいであった。
その人たちの中に混じって、先日も「今日この頃」に書いたけれど、かつて横須賀に住んでいた母の姉の娘達、つまり僕の従姉妹にあたる俊子ちゃんと純子ちゃんがいた。この二人は僕が指揮した3月の「マタイ受難曲」の演奏会に来てくれて、しかもチケットを何枚も売ってくれたのだ。
また、母の妹の栄子ちゃんは、わが家系の中で唯一音楽の道に進んで音楽教師となった人。僕が小学生の頃、栄子ちゃんの使わなくなったオルガンが家にやってきた。それで母親は、ふたりの姉をレッスンに通わせた。僕も習いたかったので母親に言ったら、横から父親が、
「男はそんなものやらなくていい」
と口を出して、それでおしまい。あの時やっていれば・・・とも思うが、それも運命。仕方ないね。まあ、結果として音楽家になれたんだから、今となってはどうでもいい。その栄子ちゃんともいろいろ話して楽しかった。
お開きの時、20人ほど集まったみんなに、
「この家は、この後年内に取り壊すので、よ~く目に焼き付けておいてくださいね」
と言って別れた。
その晩は、妻のお母さんがひとりで住んでいる隣町に行って泊まり、翌5月25日日曜日は、久し振りに新町歌劇団の練習に行った。内容はミュージカル「おにころ」のハイライト。
原作者である、野村たかあきさんが亡くなったので、その追悼の意味を兼ねた演奏会を、「おにころ」初演をした新町文化ホールで7月26日土曜日に行うのだ。かつて野村さんが描いてくれて高崎芸術劇場の公演でも使用した、赤城山を描いた大きな背景幕を今回も使うつもりだ。
おにころには、これまで庄屋の役をやってくれていた大森いちえいさんを呼び、僕のナレーションでつないでいく。詳しくは新町歌劇団のホームページをどうぞ。
練習は新町駅近くの新町公民館で行われたが、公民館は母の墓地のすぐそばで、二階の練習場から見下ろせる。練習後、一度墓地に寄って、ちょっと草むしりをしてから、カトリック高崎教会から実家に帰ってきたばかりの妻を呼び、彼女の車で東京の家に向かった。
かわさき市民アカデミー講演と「指環」初演の笑い話
4つの講演会の3つが終了しました
4月から6月までの間に4つの講演会を抱えていると以前の「今日この頃」で書いたが、先日5月20日火曜日午前中の昭和音楽大学南校舎ユリホールにおける「指輪の演出史~バイロイト音楽祭から現代まで」という演題の講演を無事終えて、あと残すところひとつだけとなった。
残りの講演会は、6月5日木曜日に行われる、兵庫県立芸術文化センター主催の「さまよえるオランダ人」ワンコイン・プレ・レクチャーだ。
午前と午後の2回講演。これは、7月19日初日の、佐渡裕指揮の同名のオペラ公演のためのものだ。
指環演出史について
さて、「指環の演出史」講演会の話に戻ろう。最初、《演出》に関する講演ということで、やや戸惑いもないわけではなかった。「音楽について語ってくれ」と言われれば、大好きなワーグナーのこと、いくらでも話せるが、演出についてと言われても・・・僕は演出家でもないし・・・一体どれだけのことを話せるのか、正直言って自信がなかった。
ただ、題材が楽劇「ニーベルングの指輪」と聞いたので、他の演目よりはやり易いかなとは思った。何故なら僕の場合、「ニーベルングの指輪」上演に関わる経験値だけは、決して低くはなかったからだ。
1980年代後半から、二期会で若杉弘さんが指揮する「指環」のアシスタントをしていたし、何といっても、バイロイト音楽祭で合唱アシスタントとして働いた1999年から2003年までの5年間の2年目にあたる、2000年初演のミレニアム・リングがとても記憶に残っている。
ミレニアム・リングの演出家はJürgen Flimmユルゲン・フリム。祝祭合唱団は「神々の黄昏」で歌っていたが、それだけでなく、僕は他の3演目についても、よく立ち稽古や舞台稽古を見学に行っていた。
一方、1999年のバイロイト音楽祭では、Keith Warnerキース・ウォーナー演出「ローエングリン」が初演されたが、バイロイト滞在中のウォーナーのところに、新国立劇場から、チーフ・プロデューサーなどの人たちが来て、トーキョー・リング演出の正式依頼と様々な打ち合わせをした。その会談に僕は通訳として同席した。
それから、ウォーナーが実際に日本に来て、トーキョー・リングのプロダクションが始まると、僕は「ラインの黄金」からの全4作、準・メルクルのアシスタントとしてべったりと関わり、当然のように「神々の黄昏」では合唱指揮を担当した。
その後、トーキョー・リングは再演したし、さらに、新国立劇場では、2015年から芸術監督の飯守泰次郎氏が、Götz Friedrichゲッツ・フリードリヒ演出の「指輪」を1演目ずつやり始めた。
ワーグナーの舞台感覚
これだけでも、《内部からプロダクションに関わっている》ということもあって、普通の人の知らないことを沢山知っているという自覚はある。さらに今回、ワーグナーが実際に生きている時代に遡って、「指輪」初演の資料を集め、様々な観点から調べていく内に、驚くべき事が分かってきて夢中になった。
一言で言うと、ワーグナーって、大天才なのか「ただのアホ」なのか、本当に分からなくて笑えてしまう!たとえば、「ラインの黄金」の最初の景のト書きを読んでみよう。
| Auf dem Grunde des Rheines. Grünliche Dämmerung, nach oben zu lichter, nach unten zu dunkler. |
ラインの川底 緑色の薄明かりは 、上に行くに従って明るく 、下に行くに従って暗い |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| Die Höhe ist von wogendem Gewässer erfüllt, das rastlos von rechts nach links zu strömt. |
高いところ(水面付近)は 、波立つ水で満たされていて 休むことなく右から左へ流れている |
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| Nach der Tiefe zu lösen die Fluten sich in einen immer feineren feuchten Nebel auf, so daß der Raum in Manneshöhe vom Boden auf gänzlich frei von Wasser zu sein scheint. |
深みに行くにしたがって 波はしだいに 、細かく湿った霧のように和らいでいき 底から人の背くらいの高さでは 、波はもう一切ないように見える |
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| Welches wie in Wolken zügen Über den nächtlichen Grund dahinfließt. |
夜の暗闇のような川底の上では 、水が雲の群れのように流れ行く | ||||||||||||||
| Überall ragen schroffe Felsenriffe Aus der Tiefe auf Und grenzen den Raum der Bühne ab; |
いたるところ深みから 切り立った岩礁がそびえて 舞台を縁取るように囲んでいる |
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| der ganze Boden ist in wildes Zackengewirr Zerspalten, so daß er nirgens vollkommen eben ist und nach allen Seiten hin in dichtester Finsternis tiefeste Schlüfte annehmen läßt. |
川底ではどこも ささくれだった岩が占めていて 平らな場所は全然なく どの方向も 真っ暗な闇に沈んでいて さらに深い淵のあることを 想像させる |
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| Um ein Riff in der Mitte der Bühne , welches mit seiner schlanken Spitze bis in die dichtere, heller dämmerung Wasserflut hinaufragt, kreist in anmutig schwimmender Bewegung eine der Rheintöchter. |
舞台中央にある岩礁の 細長い頂上は 薄明かりする密な流れの水面から出ている その周りを ラインの娘の一人が 優雅な弧を描いて泳いでいる |

図1

図2

図3

図4

図5
演出家がいなかった時代
さて、いろいろ資料を読んでみると、ワーグナーが「指環」の初演を行った時代のオペラの世界では、演出家というのがまだ独立した職業として成立していなかったということが分かった。
勿論、舞台の進行を仕切る舞台監督や、バレーの振り付け師は実質的に必要とされ、報酬をもらってプロとして存在していたけれども、舞台セットのコンセプトを決めたり、実際の演技の指導は、作曲家とかがいきあたりばったりに指図していた。ワーグナーもそのひとりだったのである。
彼は常に、
「客席に向かって手を広げて歌うんじゃない。対話する相手を見て歌え!」
と言っていたくらいだから、当時の歌手達の演技のレベルも自ずと分かるだろう。
では、ワーグナーの演出は、一体どんな風だったのだろうか?とりあえず、以下の文章を読んでもらいたい。
ワーグナーは「ニーベルングの指環」に出演する歌手を探すため、ドイツ中を旅行したが、デッサウで観たグルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」の上演に感銘を受けた。
この時の舞台を指導したのは、劇場専属振付師のリヒャルト・フリッケであった。しかしワーグナーは「演出家」を起用するつもりはないので、フリッケに演出助手を依頼する。
ワーグナーの手紙
「私が必要とするのは、実際に自分で動きを演じてみせることで、私の願いを演技者達にはっきり示すことができるような真の身体性を備えた振り付け師なのです」
フリッケや、技術部門監督を務めたカール・ブラントは、大蛇や牡羊が牽く車などを舞台上に文字通りそのまま登場させるのは得策ではないといってワーグナーを説得しようとしたが、彼は聞き入れなかった。
彼らは、大蛇の模型を動かしてパントマイムをさせるよりも、舞台上に大蛇を登場させないほうが観客の想像力にはるかに強い印象を与えることができると主張したがむだだった。
祝祭終了後、9月9日のコジマ・ワーグナーの日記
「リヒャルトはとても悲しい気分だ。死にたいとこぼしている」
劇中の舞台転換のほとんどは、ト書きの指定通り幕を開けたまま蒸気を焚き、彩り豊かな照明をそこに当てることによって行われたが、
「ラインの黄金」では、背景の装置があまりに早く取り払われたため、裏方の姿が丸見えになった。
「神々の黄昏」終幕の、ギービヒの館の屋体崩しも大失敗だった。
多くのものがあるべき姿になっていなかった。
例えばヴァルハルを見はるかす神々の野は開放感が足りず、階段があるため狭すぎる。
エルダの洞窟は、ありきたりの魔法茶番劇の門のようだ。
蒸気に包まれたニーベルハイムの舞台転換だが、坑道が見えなければならない。
舞台が狭いから、フンディングとジークムントの果たし合いも、ヴォータンのとっさの介入もうまくいかない。
etc.
さらに、衣装がひどい。ほとんど全滅だ!
劇場機構の限界
「ラインの黄金」は、音楽が開始してから約2時間半、休符はあるものの、幕間はないので、音楽は一度もストップすることなく進行していく。ということは、音楽の長さによって舞台転換を行う時間が規定されているため、どうしてもその間に転換を終了させて、次の場につないでいかなければならないのである。
ラインの乙女達の景から、次のワルハラ城を見上げる地上の景に変わるだけでも大変なのに、その後地下のニーベルハイムに移っていき、さらにまた地上に戻って来て、ラストシーンは、天上のワルハラ城に入って行くなんて、あのバイロイト祝祭劇場の舞台機構では、そもそも無理なのである(図6)。

図6

図7

図8