中野五郎著「祖国に還える」

 

三澤洋史 

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「マエストロ・キャンプ」日程だけ早めに知らせます
 ちょっと気が早いように思われるけれど、最近白馬あたりの状況が、外国人が異常に増えたり、ホテルが取りにくくなったり、値段が上がったりで厳しくなったこともあるため、来年の「マエストロ・私をスキーに連れてって」キャンプの日程だけ、教えておきます。
 具体的な募集に関しては、またあらためて(9月頃)出しますが、これも皆さん的には別に定員があるわけでも締め切りを早めに設定するわけでもないので、落ち着いて行ってもらって構いません。

次のシーズンのキャンプですが、以下の通りです。

Aキャンプ
2026年
2月7日土曜日および8日日曜日
受付9:30まで キャンプ開始10:00
(プレ・キャンプ)2月6日金曜日
受付13:30まで 開始14:00-15:30
Bキャンプ
3月7日土曜日および8日日曜日
受付9:30まで  キャンプ開始10:00-
(プレ・キャンプ)3月6日金曜日
受付13:30まで 開始14:00-15:30

中野五郎著「祖国に還える」
 NHK朝の連続テレビ小説「あんぱん」では、戦争が終わってやっと平和が戻ってきたものの、親を失った子ども達が街に溢れて盗みをはたらいたり、教師ののぶが、子ども達に、
「今まで教えていたことは間違ってました」
と言って謝ったり、他の人が、これまでの教科書のあちこちを墨で塗りつぶさせたりする場面が描かれている。信じるものを失った者達の絶望は、ある意味、戦時中よりももっと悲惨であったかも知れない。

 日本が英米相手に戦争を始めた愚かさについては、先週も書いたが、この際だから、もう少しこの戦争に関して知りたいなと思った僕は、ネットで見つけたある本を取り寄せて読んだ。それは、中野五郎著の「祖国に還える」(DIRECT)という本。中野氏が、朝日新聞社ニューヨーク特派員として在米中に、日米が開戦してしまい、約9ヶ月の拘留の後、日米交換船に乗って帰国するまでの生活を描いたものである。


「祖国に還える」(引用元:アマゾン)


 中野氏は、昭和16年12月7日日曜日の午後、ワシントンで、日本人のある大佐の葬儀に出席していたが、それが終わる頃、あたりの様子が騒がしくなったので、急いで焼香を済ませ、玄関口に出た。するとラジオ・ニュースが聞こえてきた。
「日本軍は今朝、パールハーバー(ハワイの真珠湾)を爆撃し、さらにマニラを攻撃中である」

中野氏の文章は続く。
パールハーバーとマニラ ― 私の緊張した頭にはこの二つの言葉が直ちに了解できなかった。それはいかにも相反する二つの観念のごとく反応したからである。
『ついに戦いの時は到来した。日本軍はタイ国進駐より一挙にマニラを衝き、あるいはシンガポールを攻めているであろう。しかしながらパールハーバーは一体いかに?まさかハワイまで太平洋二千五百マイルを空襲するとは・・・・・』
私もK君も未だ半信半疑であった。しかしただ一つ明瞭なことは、日本と英米両国が戦端を開いた厳然たる事実であった。私もK君も不思議なくらい落ち着いていた。

 それから中野氏は、友人二人と共に自動車を飛ばして帝国大使館に行った。大使館の奥の部屋では重大会議が行われており、彼らのいる部屋のラジオは鳴り続けていた。

午後4時過ぎ日本政府は短波放送をもって全世界に向かい、対米英宣戦を布告し た。日本時間の午前6時 ― 遙かに戦う祖国を望んで私は胸が高鳴るのを覚えた。
私の報道の任務はここに終わった。もはや、敵国の中で新聞記者は用がなくなった。敵国政府の手によって、いつでも逮捕され、どこにでも拘留される運命に置かれたのだ。あたかも死刑の宣告を受けた囚人のように、私どもの身の上に焼き付けられた「敵国人」の烙印は消すことができなかった。

その翌日、12月8日月曜日午前10時半(日本時間9日午後零時半)私はワシントンのロック・クリーク公園に近いアパートで、僚友のK君とN君と3人そろって、米国秘密警察(FBI)7名に踏み込まれて逮捕された。
そしてFBI本部で厳重取り調べの上、その夜、三等列車でフィラデルフィアへ護送され、デラウェア河の対岸の小さな町グロスターシティの荒れ果てた敵国人収容所に拘禁されたのであった。

この劣悪な環境のキャンプは、3週間あまりで新聞特派員の国際的な特別身分を認められて、12月30日に、野村、来栖大使以下、大使達のいる、より環境の良いホットスプリングスのホテルに移されたが、いずれにしても外部との通信連絡や外出は一切厳禁であり、ホテルの周囲は厳しい監視所がいくつも立ち、昼夜交代で数十名の制服および私服の官憲が鋭い眼を光らせていた中にまるで飼い殺しの籠の鳥の観があったが・・・・

 ただ、こうした手記の中で、ちょっとだけ意外だったのは、中野氏の記述は、あの巨大な国土を持ち、日本とは比べ物にならないほど豊かな米国の真っ只中にいて、この戦争を始めた日本のことを、僕が期待したほどネガティブには感じていなかった点である。開戦直前の文章を引用しよう。

もはや日米交渉の前途には希望の光が消え失せた。ただ奇蹟のみが開戦時間(ゼロアワー)を引き延ばすことができるかもしれない。もともと私は楽しい旅立ち を決して期待してはいなかった。
すでに11月26日のハル国務長官の暴戻(ぼうれい)な対日回答通告によって、米国政府は日本の穏忍自重の平和的努力を蹂躙したのであった。
したがって米国からこうも冷酷残虐な挑戦の最後通牒を突きつけられた日本としては、もはや途はただ一つであった。ただいつ開戦するか ― これだけの認識は私も新聞記者として、たとえ米国内に駐在し遠く故郷の政情に鈍くなっていても明瞭であった。

 ここで中野氏が「楽しい旅立ちを期待していなかった」と言っているのは、実は日米の関係が穏やかでなくなったので、米国駐留の新聞記者たち知識人は、引き揚げ船の龍田丸で、開戦前に日本に送り返されることになっていたのである。
 結果的に米国時間で12月7日の真珠湾攻撃によって日米開戦となってしまったので、中野氏の帰国も先に書いたように9ヶ月も延びてしまったわけだが、そうした彼の運命も含めて、それ以後の中野氏の日記の中のどこにも、自分が実際に住んでいてリアルに感じていた「この巨大な文明国と日本が戦う」ことの無謀さに言及する文章が、全くないだけでなく、たとえば12月13日の日記における

ドイツ人の聞いたというラジオ・ニュースによれば、マニラ沖で米国戦闘艦アルカンサスが轟沈し、また日本軍はフィリピン沖を爆撃中だという。
いよいよ戦争は本格化して戦況は我が軍に有利と察知され、暗いキャンプの明け暮れに呆けかけた頭も緊張する。

という文章や、12月25日のやはりドイツ人のニュースによる

ウェーク島の陥落は米国政府も公表し、またフィリピンに上陸猛攻中の○○万の日本軍はマニラへ向けて殺到しているため、米軍はマニラを放棄すべきと伝えられる。
わが無敵陸海軍の赫々たる勝利を聞くたびに、暗い心も明るい希望に燃えるのだ。どうか勝ってくれ。徹底的に米英両国をたたきのめして勝ってくれ。

こうした文章を読むと、ああ、こんなインテリの人でさえ、こうなっちゃうのか、とちょっと残念には思うのだが、これには別のれっきとした理由もある。実はこの本の初版は、なんと1943年(昭和18年)で、まさに太平洋戦争の真っ最中に出されたのである。
 それで、この本を復刻監修した西鋭夫氏の巻頭言によると、中野氏は「祖国に還える」初版を新紀元社から出版したが、(戦時中なので)大本営にとっては、有り難くないことが書かれていたとみえて、一般には(意図的に)出回らなかったそうである。
 その一方で、「幻の書」として古本市場では高額で取引されていたという。大学の図書館でも、小樽商科大学、京都大学、専修大学、一橋大学の4大学にしか所蔵されていないというが、西氏が所有する原本には著者自らのサインが入っているそうである。

 そんな曰く付きの本であるが、一方で、日本にいては絶対に分からない記事もあって、とても興味深い。12月29日月曜日の日記より

パールハーバーの大殲滅によって、喪失した太平洋艦隊を、米国民の前では、未だ健在であると吹聴していたため、最近では議会でも、民間でも、
『もし太平洋艦隊が健在ならばいったい、どこにいるのか?』
と猛烈な反対気勢が起きて、新聞雑誌まで、
『米国の太平洋艦隊は行方不明になっている』
と皮肉るありさまである。
米海軍省でも重大視してとうとう、
『米海軍は決して怠けていない。太平洋および大西洋の広大な水域で作戦行動中である』
と素人騙しの正式発表した。
まったく笑止千万である。

 こうした記事も含めて、実に貴重な本だと思う。戦争を敵国の真っ只中で過ごすという、限られた人だけの体験から導かれた本だからね。

 さて、この読書をはじめとする一連のリサーチのきっかけとなった朝ドラ「あんぱん」では、もう戦争が終わって、これから主人公の柳井嵩が本来の才能を開花させる展開となるだろうから、僕の戦争関係のリサーチもひとまず中断となる。
 だいたい、僕は、いつも何かに凝っていて、何かがプチ・ブームとなり、そして過ぎ去っていくのだが、それで終了ではなくて、必ず何か新たなものが、自分の心や見識や物の見方として残るのだ。その意味でも、まずは「あんぱん」に感謝したいし、中野五郎氏にも感謝したい。もちろん復刻版を出してくれた西鋭夫氏にも・・・この本はちなみにネットでしか買えないようです。
https://ameblo.jp/bvl5555/entry-12792469100.html
https://naniwoyomu.com/68049/
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DWBBGZ12?tag=maftracking266056-22&linkCode=ure&creative=6339

宗教曲三昧の日々
1.東響コーラスの「マタイ」

 6月17日火曜日。東響コーラスの「マタイ受難曲」の練習が再開し、20日金曜日も行われた。この2回の練習だけで、またお休みに入って、次の練習が7月25日までないので、第二部をなるべく進むことを考えた。

 前回最後の練習が5月20日だったので、一ヶ月以上空いてしまったから、どうかなあ?と思っていたが、なんと、むしろみんな上手になっているぞ!ドイツ語のさばきも、それから発声も進歩していたのは驚いた。
 勿論、中には、まだまだオペラみたいな声を出している人はいるし、バッハにはあるまじき気持ち悪いビブラートも聞こえてくるが、全体としては、かなりバッハの様式感に近くなってきたのには嬉しくなった。

 僕が新国立劇場合唱指揮者になるまでの90年代は、結構東響コーラスに通っていた。当時はプロのフル・オーケストラと共演するのだから、まずはしっかり声を響かせなければ、という常識がまかり通っていたけれど、今あらためて聴いてみると、基本的にその時代より一皮剥けていて、発声そのものは洗練されてきている。
 「大きな声」を目標にしてしまうと、どうしても声帯依存の声となってしまうが、しっかり横隔膜や腹圧による支えを意識して、体全体で鳴らすことが、むしろ「急がば回れ」で、フレキシブルな表現力のあるしなやかさを持った声となるのだ。

 そうやって考えてみると、実はオペラでも同じなんだよね。たとえばヴェルディのレクィエムのソプラノ・ソロなんて、大きな声だけ出ても何の使い物にもならないからね。声楽を知り尽くしているヴェルディが求めたのは、高音でのコントロールされたピアノの美しい声。だからバッハの経験は、他の作曲家へのアプローチでも多いに役立つだろう。

 さて、そうなってくると、今度は本番に向かって、バッハ的表現力にどこまで迫れるかが課題になってくる。なんといっても受難曲だから、激しい群衆合唱があるかと思えば、その直後に内証的なコラールが来たり、ハードルは高いね。

2.東京バロックスコラ―ズのカンタータ4番
 バッハのカンタータには駄作はないが、全てが傑作かといわれると、そうではない。どうしてこういうことが起きるのかといえば、バッハは卓越した職人であるので、駄作をみすみす世に出すような愚かなことは決してしないけれど、主日のそれぞれのテーマによるカンタータの作曲は必要不可欠だったので、時間がなくてもとにかく間に合わせなければと最低限の要素を盛り込んで作ったものは実際に存在するのだ。
 その一方で、たっぷり時間があったり、もの凄く気が乗って凝って作ったりしたものは、規模も大きいし、内容も充実していて、自然に傑作となっているのである。

 そういうことを知っているから、僕は「カンタータ全曲演奏を目指す」というスタンスには反対なのだ。一番シンプルなものは特に、バッハが作曲したわけではないコラールのメロディを中心として作られているので、特に「バッハならでは」という個性すら薄い。なにもわざわざ取り上げる必要のないものを、順番だからという理由で準備して上演するのは時間の無駄であると思っている。

 だから、東京バロック・スコラーズの次の演奏会のために、僕が選んだのは、すでに古い団員が演奏したことのあるカンタータばかりであった。テーマを「枝の主日から復活祭を通って復活祭後の主日」としたので、枝の主日用のカンタータ第182番Himmelkönig sei wilkommen「天の王よ、迎えまつれ」、復活祭主日用のカンタータ第4番Crist lag in Todes Banden「キリストは死の編み目につながれたり」、そして復活祭後第3日曜日用のカンタータ12番Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen「「泣き。嘆き、憂い、怯え」で、どれも間違いなく傑作である。それらのカンタータの前にモテット第1番Singet dem Herrn ein neues Lied「主に向かって新しい歌を歌え」を歌う。

 先日までモテットの練習をしていたが、僕としては6月21日土曜日に初めてカンタータ第4番の練習に入った。この曲は特に初期のバッハの大傑作だと思う。全ての曲が単一のコラールのメロディーを定旋律として作られていながら、驚くべきバラエティに富んだキャラクターを各曲で醸し出しているのだ。
 このカンタータは、元々の4声の合唱曲の他でも、2重唱およびアリアも合唱でやられることが多い。僕も今回、全ての曲を合唱でやってみようと思っていた。それを21日の練習で試してみて、そして決定した。合唱団の実力向上のためにもとても良いと思う。

3.志木第九の会のモツレク
 21日の夜は、久し振りに志木第九の会の練習に行き、モーツァルト作曲レクィエムの練習をした。レクィエムは未完成のままモーツァルトが亡くなってしまったので、弟子のジュスマイヤーが補筆をしたジュスマイヤー版が出回っているが、音大作曲科の学生レベルで分かるような明らかな和声進行上のミスを初めとして、オーケストレーションも劣悪なので、僕は確か一度だけジュスマイヤー版を使ったが、嫌になって、それからはバイヤー版を使用している。

 オペラ「ドン・ジョヴァンニ」では、亡霊となった騎士長が、ドン・ジョヴァンニを地獄に引きずり込もうとやってくるが、その時の音楽がニ短調。モーツァルトにとって「死の調性」である。だから勿論レクィエムのニ短調でも死の匂いが漂っている。

 不思議だね、どうしてそうなんだろう?あのね、たとえばベートーヴェンの第九もニ短調だけれど、そんな匂いはしない。またベートーヴェン以外に、世の中ニ短調の曲は少なくないのに、モーツァルトのニ短調だけは特別なのだ。音の配列が客観的にそうなのか、それとも、モーツァルトが自分の書いた音符に、その匂いを吹き込んだのか(天才だからそのくらいのことはできるのか?)、いや本当に分からない。
キリエのフーガも素晴らしいね。

4.浜松バッハ研の「ヨハネ受難曲」・・・と鰻と餃子?
 翌6月22日日曜日は、浜松に飛んで「ヨハネ受難曲」の練習。今日はいつものピアニストの方が都合が悪いというので、長女の志保がわざわざ東京からピアニストとして浜松まで同行。

 11時27分浜松駅に到着すると、ふたりでやや駆け足しで駅前の丸浜という鰻屋さんに直行するも、すでに丸浜には列ができている。ここは、僕的にはウナギの町浜松の中でも、最もおいしい店。もう一件八百徳という店があるが、ここはお櫃鰻茶漬けがむしろお薦め。

 さて、鰻を食べてご満悦の僕たちを、元団長の河野周平さんが車で迎えに来てくれた。河野さんは、僕を最初に浜松バッハ研に呼んでくれた人だ。その後パリのヤマハの支店長となってバッハ研を離れてしまった。その間は早川徳二さんが団長を務めていたのだが、その一方で、長女志保がパリに留学することとなって、その時に、河野周平さんに奥さんの善子さん共々とてもお世話になったのだ。そんな縁でいろいろつながっている。

 さて、練習に入ると、今日は「ヨハネ受難曲」だ。ええと・・・今週だけで「マタイ受難曲」「カンタータ4番」「モツレク」「ヨハネ受難曲」と宗教曲三昧だ。たまんないね。
「マタイ」と「ヨハネ」を一緒にやると、違いが分かって面白い。合唱曲は間違いなく「ヨハネ」の方が緻密に作ってある。
 しかし、それは意図的で、バッハは「マタイ」においては、ドラマの流れを優先して福音史家のレシタティーヴからそのまま群衆合唱に流れ込み、そして間髪を入れずにコラールにいくなど、スタイルの違う楽曲を互いにぶつけ合うことによって、独特のドラマチックな効果を作り出しているのだ。
 だから僕は、「マタイ受難曲」では必ずといっていいほど自分でレシタティーヴォを歌い、合唱曲に流れ込んで行くが、ヨハネでは合唱曲の練習そのものをきっちりやる。合唱曲そのものの完成度が高いため、仕上がったときの充実感がハンパない。これがヨハネの大きな魅力。

 練習後、僕はそのまま新幹線に乗って帰ったが、浜松は餃子でも有名なので、志保は、いつもお昼時に長蛇の列を作っている駅ナカの餃子の店に寄って食べていくといって残った。その店ね、僕もお昼に一度並んだのだが、列がいっこうに進まず断念したことがある。ううう・・・ちょっと想いが残る・・・・。

 でも、その後帰宅した志保に聞いたら、たかが餃子で、ウナギの味の違いほど画期的ではなかったと聞いて、ま、ちょっとホッとした。

2025. 6.23



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