7月5日には何が?
来週の更新は7月7日月曜日なので、もう7月5日は過ぎている。その時に僕はどんな「今日この頃」の記事を書くのだろうか?果たして記事を書ける状態なのであろうか?
って、ゆーか、話によると、フィリピン沖に巨大隕石が落ちて、その結果、信じられない大津波が起きて、日本列島をも襲うというウワサだよね。ということは、午前4時48分に何かが起きても、即座に僕が住んでいる所が壊滅的被害を受けるということではないんだよね。
僕自身は7月5日土曜日午前中には、東京バロック・スコラーズの練習が入っているけれど、どこかで何かが起きた時点で、練習中止にすればいいよね。で、とりあえず妻の車で山の方に逃げようか・・・アハハハハ!
といいながら、結論を言いますと、僕は信じてません。たぶん何も起きないと思います。
というか、7月5日に限定しなくても、地球全部を巻き込まなくても、僕たち個人は、それぞれ明日の命さえ分からない身じゃないか。7月5日に何も起きなかったとしても、7月6日に個人的に死んじゃうかも知れないしね。
かつてはノストラダムスの大予言によって、「1999年7の月、世界は滅亡する」と言われていた。7の月というのはね、7月かもしれないけれど、英語ではSeptemberのsept(イタリア語でsette)が7で、October(イタリア語でotto)が8、November(nove)が9、December(dieci)が10なので、9月だという解釈が一般的であった。さらに7月と9月の真ん中を取って8月という話もあった。
僕は、1999年の夏、バイロイト音楽祭の合唱音楽スタッフの一員としてバイロイトで働いていたが、8月11日にドイツで皆既日食が見られると聞いて心が高鳴った。けれども、バイロイトあたりでは、せいぜい70パーセントくらいの日食で、これではほとんど暗くもならないというのだ。
いろいろ調べたら、アウグスブルクからミュンヘンをつなぐラインが100パーセントの完全日食が味わえる地域だという。その日は祝祭劇場での演目がオフ日になっていることもあり、それではアウグスブルクにまで出掛けて行って、皆既日食を見るぞ!と張り切って出掛けて行った。
結論を言うと、それはまさに想像を絶する体験であった。月が太陽を覆い始めると、あたりは高速道路のトンネル内のあかりのようになり、セピア色の写真のようになり、すっぽりと太陽を覆う瞬間が訪れると、空には月で隠れた黒い太陽が架かり、気温は急に下がり始め鳥肌が立った。黒い太陽の周りにはコロナが鮮やかに見えた。
また、再び太陽が顔を出したら、みんなが空を見上げた時に、僕は天文学に詳しい知人からのアドバイスに従って、みんなとは反対に地上を見た。するとシャドウバンドと言われる状態を経験した。
地面をもの凄いスピードで光のしまが走っているのだ。光が広場をどんどん駆け抜けて行くのである。周りの人たちに知らせたら、みんなもびっくりしていた。
それから少し経って、バケツの水をぶちまけたような土砂降りの雨が降り、雷も鳴った。天が太陽を隠したことで激しく怒っているように・・・・。
こうした皆既日食に連動して、世界の滅亡が訪れるのだろうか?だったら、甘んじて受けようと覚悟してアウグスブルクにまで行ったのだ。土砂降りの雨の時には、次にいよいよ何かが起きると半ば確信して身構えた。でも、なあんだ、結局何も起きずに僕はバイロイトに戻ってきて、さらに平和に2000年を迎えた。
その様子はバイロイト日記Ⅱとして本になっている。Café MDRのサイトの下の方の関連リンクにあるCafé MDR ショップで買うことができるが、この記事のような興味深いものだけは、暇な時間を見つけてWordに書き直して残そうかな。
何故なら、当時僕はまだパソコンも使えなかったから、元の原稿が電子ファイルになってないのさ。で、僕も、先ほどの思い出を書くにあたって、自分でバイロイト日記を引っ張り出してきて、横目で確認しながら書いていたというわけ。不便だよね・・・というか、電子ファイルになってないと落ち着かないんだ。う~ん・・・それもそれで病気かな?
で、何が言いたいかというと、そのアウグスブルクでの体験以来、僕には覚悟ができているので、7月5日に世の終わりが来たとしても、「みんなで死ねば恐くない」でもないけど、全然平常心で受けとめられると思う。もう70年も生きたし、これから人生もう一波乱、というものでもないよね。
しかしながら世の中では、聞くところによると、7月5日に何かが起きるというので、日本やフィリピンあるいは台湾を訪れる人たちが大幅に減り、到着する飛行機も間引きされているというではないか。
「私が見た未来」を書いたたつき諒さんに悪気はなかったかも知れないが、こういうことには、世間はどんどん悪ノリするんだよな。面白がっている一方で、本当に恐怖に怯えている人もいる。
ま、世の中、なるようになります。来週の今日、僕はどんな記事を書くのだろう?
今年はゆったりとしている6月7月
ということで、今日は6月30日月曜日。明日から7月か・・・。「夏が来れば想い出す」という歌詞ではないけれど、昨年の今頃の状態を想い出す。もう忙しすぎてシッチャカメッチャカでワケが分からんかった。
2024年7月20日は、イタリアのアッシジにある聖フランシスコ聖堂で、僕の自作だけで演奏会を行った。それに先だって、カトリック田園調布教会では6月8日に国内演奏会が開かれた。その国内演奏会では伴奏をピアノとエレクトーンで行ったので、その編成のための編曲を行わなくてはならなかったし、アッシジの演奏会のためには、弦楽五部とピアノ、フルート及びクラリネットのためのオーケストレーションに追われていた。
さらに、アッシジ演奏会のプログラムのメインとなったMissa pro Pace(平和のためのミサ曲)を、名古屋のモーツァルト200合唱団も同時進行で練習しており(ここからも何人ものメンバーがアッシジ・ツワーに参加した)、9月の定期演奏会に向けて、フル編成のオーケストラのスコアとパート譜を作ってセントラル愛知交響楽団に提出しなければならなかった。これは先方がヤキモキしていた中で、ギリギリ8月お盆前に提出できたのだ。
いやはや・・・よく乗り切れたなあ、と自分で感心するほどだ。さらにその最中に、自作ミュージカル「ナディーヌ」公演が6月23日にあったし、新国立劇場では「トスカ」公演の練習に通っていて、初日が7月6日に開いた。もう、生涯最高に忙しくて、よく具合も悪くならないで乗り切れたものだと感心する。
それに比べれば、今年はかなりゆったりしている。今、僕のデスクの前には、昨年アッシジで演奏したCantico delle Creature「被造物の賛歌」の小編成アンサンブルのスコアがあり、それを参照しながら、またまたモーツァルト200合唱団の9月の定期演奏会で演奏してもらうフル編成オーケストラ・スコアを作っている最中である。
昨日、6月29日日曜日は、名古屋に行って、モーツァルト作曲Credo Missa KV257と共に、そのCantico delle Creatureの練習も行ってきた。昨年のMissa pro Paceよりずっと短い曲なので、あと1週間くらいでオケ・スコアはできるかな。
この時期に練習で実際に合唱の響きを聴いて、オーケストレーションにわずかな変更を行おうと思い立ったのは収穫だった。まあ、コンセプト自体を変えるわけではないのだけれど・・・音楽って不思議だね・・・「あ、こうしようかな?」ってアイデアは、一体何処から来るのだろう。
「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない。愛を呼び覚まし、心を潤し、いつのまにか私の中を吹き抜けて行く・・・」
典礼聖歌集の386番にこういう歌詞があるが(この歌詞を書いた菅野淳さんはよく知っているけれど、とても信仰深い人です)、まさにそんな感じだね。
アッシジの聖フランシスコは1226年に亡くなったので、来年2026年が没後800年の記念の年となるが、それに先立つ2024年が聖痕を受けた(フランシスコは、祈りの末、キリストが十字架上で受けた5つの傷を自らの身に受けた)記念の年、そしてまさに今年の2025年が「被造物の賛歌」を作った1225年の800周年の年となっている。その年に、聖フランシスコの霊名を持つ僕が、この詩につけられた自作の曲を管弦楽で演奏出来るのは、神様の恵み以外の何であろう!
JASRACのインタビュー
6月27日金曜日の午後、代々木上原駅から徒歩約3分のJASRAC(日本音楽著作権協会)本部に行ってインタビューを受けた。僕は2016年に第3回JASRAC音楽文化賞を受賞している。担当者の方は、僕のふたつの著書である、
「オペラ座のお仕事」(早川書房)
と、
「ちょっとお話ししていいですか」(ドンボスコ社)
を熟読していて、著者の僕自身よりも、細部に至るまで詳しく知っている(本人忘れてしまっているから)のに驚いた。通常のインタビューというのは、もっと簡単で、しかもインタビュアーによって勝手に解釈されてしまったりするものであるが、話題がいろんな方面に渡りながら、僕という人間を正しく把握しているのがよく伝わってきて、JASRACの建物を出る時には、とても清々しい気持ちであった。
まあ、勿論、実際に記事になってみなければ分からないが、そもそもこの音楽文化賞というものが、一般の人たちの目にとまりにくい人たちに焦点を当てて評価するというコンセプトの賞なので、とりわけ『合唱指揮者』という僕の立場への理解がきちんとなされているのが感じられた。
また、記事が出たらあらためて紹介します!
2025. 6.30