「おにころ」ハイライト公演の練習

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

「舐めるな」は政治家が使う言葉ではない
 先日のトランプ大統領の関税発言を受けて、石破茂内閣総理大臣は、千葉県船橋市の街頭演説で、こう発言した。
「国益をかけた戦いだ。なめられてたまるか。言うべきことは、たとえ同盟国であっても、正々堂々と言わなければならない。守るべきものは守る」
 一件カッコいい啖呵のようにも聞こえるが、その発言を受けて、元内閣官房参与で京大大学院教授の藤井聡氏は、「歴史上最大の失言になり得る」と述べている。

 石破首相は、実はこの「舐めるな」という言葉を他でもよく使うようだ。Youtubeでは、ニュース・エブリの中で石破氏がアナウンサーに対して「舐める」という言葉を使って恫喝したかのように言われて批判されているようだが、実はこれは悪質な「切り取り映像」かつ意図的な編集である。実際にニュース・エブリのCM中に石破氏が言ったのは、「団塊のジュニア世代(50代)が高齢化した時、社会保障の負担について楽観できない」という趣旨のことであるが、それにしても「あまり舐めない方がいいですよ」という表現の仕方そのものが美しくないし、否定的要素が強すぎて内容が正しく伝わらない。



NEWS23での小川アナとは以下のやりとりがあった。


 ここでは、要するに、長すぎる石破氏のコメントに、番組進行を心配した小川アナの「なるべく簡潔に・・・」という発言に対して「そんな簡単な話ではないですよ」と答えたことに過ぎないが、言い方に陰険さが漂っていて目つきも悪いのが印象悪いね。

 話を船橋市の街頭演説に戻す。石破氏は、アメリカから遠く離れた日本の、中央でもないところでの街頭演説を軽く見ているかも知れないけれど、一国の首相の言葉というのは重いという自覚が足りなかった。特に、その中に、他国の大統領に対しての問題発言が含まれていたりすると、逆にそれは本人の意に反して(面白半分の意味もあって)ただちに伝わるであろう。
 特に、これが英訳されて、トランプ大統領の耳に伝わるとすると、本来の「舐める」であるlickという単語が使われるわけない(笑)。先ほど触れた藤井聡氏はこう言う。「舐められてたまるか」を普通に英訳すると「I will not tolerate insult(侮辱は絶対に許さない)」となり、「国益をかけた戦いだ」は「This is not a deal, this is a battle with America(交渉ではなくアメリカとの戦い)」となる。つまり完全に喧嘩腰の言葉となってしまうのだ。

 それ以前に、面と向かってではなく陰で言うこと自体が、弱い者が行う卑怯な行為だ。言いたい事があるなら、シビアな言葉であるほど、本人の前で堂々と言うべきであるし、その意味だけでも石破氏は国の最高責任者である資格はないと思う。こんな状態では、まとまる交渉もまとまらない。
 トランプ大統領は、ある意味ビジネスマンだから、関税の提示に関しても「交渉の叩き台」だと思っている。元安倍首相だったら、ユーモアも交えながら、面と向かって上手に対応していくだろうな。

ダメだねえ。歴代最低の首相だねえ。

「おにころ」ハイライト公演の練習
 7月12日土曜日は、朝から出掛けて群馬に行く。大宮から高崎線(快速)に乗るが、新町駅を通り越して高崎まで行き、高崎駅構内にある「峠の釜めし本舗おぎのや~群馬の台所」に入り、峠の釜皿御膳を注文する。僕がそうしたように、皆さん!この店は、わざわざ高崎で下車してまでも行くに値します。
 まあ、このお店に入らなくても、最近では、峠の釜めしは、横川駅のみでしか買えないというものでもないし、高崎駅でも普通に買えるが、店の中での峠の釜皿御膳は、お弁当と違って御飯が温かいし、味噌汁や他のおいしいオカズとデザートも付いていて満足度が違います!


峠の釜皿御膳

 お腹もいっぱいになったので、ゆっくりと再び高崎線の上り列車に乗って、新町で下車する。今日は7月26日の演奏会のためのソリスト達の練習である。


 今回の新町歌劇団の演奏会のタイトルは「愛を歌い続けて」。本当は「おにころ」の原作者である野村たかあきさんが2023年7月29日に亡くなったことで、その追悼の意味でのコンサートの予定であったが、
「どうかそんなに大騒ぎにしないでください」
という遺族の方からの強い希望で、タイトルに掲げることは控えた。その代わり、野村さんが手書きで書いた大きな背景画を、舞台後方に掲げることだけは許してもらった。それは墨で書いた、新町から見える形の赤城山の全景である。

 ソリスト達はみんな、初演の頃からお世話になった人たちばかりである。今回おにころを演じる大森いちえいさんは、実はずっと威圧的な庄屋の役を演じてきたが、彼は一度だけ怪我をして出演できなくなった方の代役でおにころを歌った。今回はあえておにころ役で起用。


 庄屋は僕がナレーションの中で声として出演する。田中誠さんは、ずっと初演時からきすけの役を演じてくれている。妖精メタモルフォーゼ役の余川倫子さんもそう。うめ役の内田もと海さんは途中からの配役であるが、おにころを慈愛の眼でみつめる姿がぴったりである。
 そうしたベテラン陣の中で、今回ソプラノの若い薬師寺杏奈(やくしじあんな)ちゃんだけは初役だ。大抜擢には理由がある。 実は、彼女はずっと子役で、おにころだけでなく「ナディーヌ」「愛はてしなく」などにずっと出演していたのだ。だから、彼女だけどうしても「ちゃん付け」で呼んでしまう。
 彼女自身、子役で舞台に出演していたのがきっかけで、声楽の道を志し、国立音楽大学に進み、卒業後、藤原歌劇団に入って現在に至っている。

 ソリスト稽古は、その薬師寺杏奈ちゃんから始まった。自分で言うのもなんだけど、僕の稽古は厳しいと思う。音程、リズムなど音楽的要素も大切だけれど、その前に歌詞をはっきりだして、聴衆に内容がどれだけ明確に伝わるかということを最優先にするからだ。 想いを持って作った作品だけに、何度も何度も止めては繰り返したが、よくついてきてくれた。「桃花のアリア」や、国立音大の大先輩である大森いちえいさんとの共演である「あなたの瞳の中に」など、見違えるようになったよ。それから後の人たちをひとりひとり稽古していった。

 夜は新町歌劇団のメンバーとの稽古。今日は4つの鬼のパネルを使って、「That's exciting鬼祭り」と「争いⅡ」の稽古。鬼のパネルがみんなの間を走り回ることによって、人の心の中にうごめく魔の存在を描き出す。
 夜の稽古の後半は、前プログラムの「サウンド・オブ・ミュージック」を指揮する初谷敬史さんに任せて、僕は午後8時頃に新町公民館を離れた。次の章で書く「とめられなかった戦争」という本を電車の中で楽しみに開けて、読み続けている内に、あっという間に国立駅に着いた。

とめられなかった戦争
 連続テレビ小説「あんぱん」では、もう戦争が終わり、主人公の朝田のぶ(今田美桜)と柳井嵩(北村匠海)はふたりとも同じ高知の新聞社に入り、東京に出張に行ったりして、新しい道を歩み出しているが、僕の方は、戦争について知らないことが多すぎて、なんだかまだ抜け切れていない。

 そんな僕は、土曜日の昼に峠の釜皿御膳を食べた直後、店から出たら“くまざわ書店”が目の前にあったので、吸い込まれるように入って行った。入ってすぐ右の本棚に近づいて行くと、目線の高さに、あるタイトルが飛び込んできた。気が付くと、その本を手に取ってレジに並んでいた。本屋に居たの、わずか2分程度。

 それは加藤陽子著の「とめられなかった戦争」(文春文庫)。「おにころ」の練習が夜終わって、帰りの高崎線で、とりあえずざっと読んだが、小説ではないので、
「はい、全部分かった!」
というものではない。
 特に、日華事変のあたりは(『戦争』という言葉を使うと、いろいろやっかいなことを引き起こすので、『事変』という言葉を使って誤魔化したんだって)、まだ完全な理解に及んでいない。これからまたゆっくりと読もう。

 しかしながら、東京大学大学院人文社会系研究科教授の加藤さんの文章は明快で、今回気が付いたことがひとつあった。それは・・・何故日本が戦争に突入していったのか?という疑問よりも、反対に、何故日本は、このままでは勝つ見込みが全くないことに気付きながら、グズグズといつまでも戦争を継続していたのか?ということであった。
 そのことを理解したのではなく、むしろ反対に、そのことの不可解さに気が付いたのであり、それはとりわけ、日本人のメンタルの中に潜む根本的不可解さなのかも知れない、と思い始めているのだ。

 加藤さんはこう書いている。

その後の戦争の推移を見れば、サイパン失陥により絶対国防圏が崩壊し本土空襲が現実的なものとなった時点、言い換えれば、日本の敗北が決定的になった44年(昭和19年)7月の時点で、戦争は終わらせなければなりませんでした。なぜ、終わらせられなかったのか。

それにしても、サイパン失陥ののち、何と多くの日本人が亡くなったことでしょう。
東京空襲で10万人、原爆で広島14万人、長崎7万人、そして爆撃で亡くなった全国の人 ― およそ50万人の民間人がサイパン以後に亡くなっています。ソ連参戦から敗戦の前後に、満州で多くの日本人市民が犠牲になっていることも忘れるわけにはいきません。
一方、日中戦争から敗戦までの軍人、軍属の死者は約230万人。そのうち約6割の140万人が、広い意味での餓死だったという研究があります。絶対国防圏の外側に取り残され、補給を絶たれた島の守備隊が、そのかなりの割合を占めているのではないかと思います。

 こうやって具体的な数で示してもらえると、早く戦争を辞めなかった愚かさが強調されてくる。飢えに関しては「あんぱん」でも描かれていたね。「あんぱん」の舞台は中国だったけれど、特に南洋の見棄てられた島に残された兵士達のところには、味方どころかもう敵さえも来ない。武器を持っていてもなんにもならない。こんなところで餓死するのか、と思った兵士達は、さぞ無念であったろう。

 しかしそれでも、軍部には敗戦の決断は絶対にできなかったに違いない。それを行ったのはたったひとり・・・昭和天皇であった。

 そしてそのきっかけは、広島、長崎の原爆投下である。その状況を見て、いたたまれなくなった昭和天皇は、自分のプライドを捨て、むしろ、
「自分はどうなってもいいから国民を最低限守らなければならない」
という決意の元、ポツダム宣言の無条件降伏受け入れたわけで、天皇自ら動かなかったなら、軍部は「本土決戦」を掲げて、本当に最後のひとりにまで国民に死を強要したのではないのだろうか。それこそ、広島、長崎よりもっと悲惨なことになっていたのではないか?

 僕が子供の頃、母が僕に語ってくれた。内地に残る女や子供達はみんな竹槍の訓練をさせられ、
「最後のひとりになるまで戦え!」
と言われていた・・・と。

 そういうのって、米軍兵には、不可解なことにしか映らないよな。彼らにとっては、焼け野原になった日本に降り立って、竹槍を持った平民を相手に最後の1人まで殺したくはなかっただろう。
 むしろ、
「もう勝ち目ないんだから、お願いだから早く降伏してくれよ!」
と思っていたのではないか。
 仮に、最後の1人まで殺して、この太平洋の反対側のちっぽけな島国をアメリカ領として得たところで、みんな喜んでアメリカ本土から日本に移住してきたとは考えにくい。つまり、日本はアメリカにとって、本気で戦争をして奪いたい魅力的な国ではなかった。
 だとすると、日本の方からアメリカを無理矢理戦争に引きずり込んだハワイの真珠湾攻撃こそ、すべての災いの元であり、無駄で愚かな行為以外のなにものでもなかったと、今の僕は断言できるね。

 話は変わるが、トランプ大統領が、イランの核施設を攻撃させて「戦争を辞めさせた」正当性を主張した時に、広島、長崎の原爆の例を挙げたことで、日本人の神経を逆なでしているけれど、僕はこの本を読んで少し考えが変わった。
 「広島、長崎のお陰で」のような表現は、日本人にとって到底看過できるものではないけれど、その一方で、米国人は潜在的に、
「日本人は、あんな状態になるまで戦争を辞めなかった国民なんだ。核攻撃でもしなければ、本当に最後のひとりまで戦い続けたかも知れない」
という認識を持っているのではないか。
 いや、その点に関しては、我々日本人も同じ認識を持つべきだと思う。日本人ってそういう民族なのだ。これって不可解で恐ろしいことではないか。天皇陛下以外、誰も、民を守るために今こそ降伏をするべきだ、と思う人がいなかったのだ。もし仮に、政府にそういう勇気のある人物がいたならば、東京空襲は免れなかったかも知れないけれど、少なくとも広島、長崎の原爆は落ちなかったのかも知れないのである。

それに気付かされただけでも、今の僕にとって、この本はとても貴重な一冊である。

五島列島ツアーの上映会
 昨年、アッシジの聖フランシスコ聖堂で、僕の作曲した宗教曲ばかりの演奏会に参加した人たちと、僕が定期的に演奏会で指揮している東大コール・アカデミーのOB会であるアカデミカ・コールのメンバーなどで構成された合同合唱団が、今年の5月の連休に五島列島に行って二個所で演奏会を開いてきた。


「グノーの会 in 五島」

 選曲は、僕の作品を中心に、あとはモーツァルトのAve Verum Corpusとか、グノーのミサ曲やAve Mariaなどを混ぜながらのものであったが、そのビデオ上映会とあらためての打ち上げがあるというので、昨日の7月13日日曜日午後に出掛けて行った。

 この五島列島での演奏旅行は、本当は僕こそ真っ先に行きたいところだったのだが、高崎芸術劇場での「椿姫」に関わっていたので、見送らざるを得なかった。でも、指揮を担当してくれたのが、アカデミカ・コールで指揮をしている酒井雅弘さんだったので、安心して任せることができたし、今回ビデオを観て、なおさらその感を強くした。
 ちなみに、酒井さんの弟さんは酒井俊弘さんといって、現在大阪高松大司教区で補佐司教をしている。酒井雅弘さんも、僕が関口教会(東京カテドラル)の聖歌隊指揮者をしていた時代にはアシスタントをしてくれた敬虔なクリスチャンである。

 ビデオ上映が終わってからは、テーブルを出しての懇親会となった。メンバーは全員知っているし、雰囲気がとても良いので、まだ午後なのにビールが進んでしまって困った。
 
 五島列島のそれぞれの島には、大きくはないけれどいくつもの教会があり、所によってはクリスチャン迫害の跡が残っているところもあるという。とはいえ、島だったので、本土より潜伏しやすく、禁教令が出てからのキリシタン達は、入り江などで潜伏生活をして、明治時代まで生き延びたというが、その間に祈りの音楽も言葉も随分変わってしまったりしていたという。
 彼らが訪れた場所の中に、たとえば久賀島(ひさかじま)では、200人の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込まれ、40名以上が死亡するという悲惨な牢屋の跡があったりした。

 いつか僕も五島列島に行ってみたい。同時に、またこの人たちとどこかに行って、音楽と信仰を共有したいなあと思っている「今日この頃」である。

2025. 7.14



Cafe MDR HOME

© HIROFUMI MISAWA