愛知MFオーケストラ第1回定期演奏会無事終了

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

愛知MFオーケストラ第1回定期演奏会無事終了
 限りなく美しい第4楽章Adagiettoの第1ヴァイオリンの最終音Aを、ホルンが1オクターヴ上で受け継ぎフェルマータ。ただちにそのエコーとして響く第1ヴァイオリンのAは、先ほどのAdagiettoの高さなので、聴いている方としては、Adagiettoが未だに余韻として続いているように感じられるが、楽章はすでにホルンの瞬間からアタッカ(切れ目なく)で第5楽章に突入しているのだ。
 第5楽章の主題の断片が、ホルン、ファゴット、オーボエと引き継がれて提示されるが、メイン主題は、25小節目になってから初めて登場する。やがてチェロによってフーガが始まる。すぐに第2ヴァイオリン、ヴィオラへと受け継がれていく。

 このフーガの音楽的展開は、バッハの緻密なフーガからするとインチキに見えるほどだが、推進力だけはある。ここにいろんなテーマの断片が管楽器によって参加し、それらを元にして、まるでモザイクというかパッチワークのように音楽が進んで行く。
 その間に、何気なく第4楽章のAdagiettoの美しいメロディーが導き出される。しかしAllegroのテンポに乗っているので、気が付かない人もいるかも知れない。それでもなんとなくノスタルジーを感じたとしたら、それがむしろマーラーの狙いだったのではないだろうか?

 その後も、音楽は論理的展開をするのではなく、これまで出てきた様々なモチーフが、引き延ばされたり縮められたり重ねられたりして、現れては消えたかと思うと、そこにコラールのような金管楽器によるメロディーがかぶさってくる。
「ああ、もうすぐ終わっちゃうなあ・・・」
と、ちょっとセンチメンタルになる。
 accelerandoからいよいよコーダに突入する。Allegro molto und bis zum Schluß beschleunigend(とても快活に、そして終止に至るまで加速していく)という指示が出ているので、僕はみんなを煽る。崩壊寸前。でも行くぞう!大爆音が愛知芸術劇場コンサートホールを揺るがせて突然終了。実は、この結尾は、前の晩の練習で本当に完全崩壊して、大爆笑となった。僕が、accelerandoをメチャクチャかけて、これまで二つ振りで指揮していたのを突然一つ振りで振ったからだ。しかも加速の仕方も、みんなのテクニックをはるかに越えていた。まあ確信犯であった。
 でも、「終止に至るまで加速していく」というのは、こういうことなのだ。崩壊寸前くらいのリスクが必要であって、予定調和だけはあってはならない。これがマーラーの意図。勿論、本番だから崩壊するわけにはいかないが、崩壊ギリギリというのが、マーラーがマーラーであるゆえんなのだ。

 さて、いきなり第5楽章の話から入ってしまったが、いやあ昨日は、これまでの僕の人生において、もしかしたら一番楽しかった演奏会かも知れない。まあ、基本的に、どの作曲家のどんな曲の演奏会でも、その良い点を探し共鳴して、充分エンジョイできる僕ではあるが、それでも正直言って、作曲家に対してシンパシーの大きさに差があることは事実で。だからこそ、今回は特に大好きなマーラーなので、あえて、
「皆さん、是非来てください」
と先週の「今日この頃」でも書いたのは、本当にこんな演奏会となる予感がしていたのであります!
 僕の指揮振りも、指揮法をZoomレッスンで何人も弟子を持っている身としては、あるまじき行為で、理想的指揮フォームからはほど遠く、もうあらゆる制約から解放されて、飛んだり跳ねたり、片足バランス状態で指揮したりとか、ふざけているんじゃないか、ってくらいヤバかった。


コンサートマスター高橋広くん、冒頭ソロから大活躍の蛭田絵美さんと

 プログラムにも書いたのだけれど、第5交響曲は、マーラー作曲の全ての交響曲の中で、唯一僕にとってブームのない作品なのだ。最初に聴いた時から、「まだ出遭ってない」と思う事もなく、すんなり入ってきて、いつ聴いても楽しいし、いつ指揮してもいい。つまり、僕の感性に等身大でピッタリ合っている作品なのだ。

 僕が最も尊敬している作曲家は、疑いもなくバッハだ。その揺るぎないテクニックには敬服する以外ないし、特にフーガなどは、論理的にも完璧でありながら、同時に自由を感じさせられる。受難曲などを聴くと、どんなオペラも遠くかなわないようなドラマ性と内面性を持っている。

 でも、それとは全く別の意味で、マーラーが大好き。そこにはバッハにはないふたつの魅力がある。ひとつは、卓越した指揮者でもあったマーラーが、それぞれの楽器にとても精通していることが挙げられる。
 例を挙げると、特に管楽器の使い方。バッハの時代には用いなかったミュートやホルンのgestopft(閉鎖音~手で管を塞ぐことで得られる金属的な鋭い音色)などの効果を巧に利用して独特の効果をもたらし、さらに他の楽器とのコンビネーションにおいて生かしていく。
 打楽器にしても、グロッケンシュピール、ホルツクラッパー(スラップスティック)、トライアングル、シンバル(合わせ及び釣ってスティックで叩く)、タムタム、小太鼓、大太鼓など、バッハやベートーヴェンの時代には考えつかなかったような多彩な音色を自分の楽曲の中で展開している。

 もうひとつのポイントは、マーラーの楽曲展開の自由さが挙げられる。交響曲というものは本来、「管弦楽によるソナタ」と定義され、ソナタというのは主として第1楽章や終楽章などにソナタ形式の楽曲を含むのが条件である。
 ソナタ形式というのは、まず主題提示部があり、そこで第1主題と第2主題が提示され、展開部に入ると、その2つの主題が展開して、さらに再現部でまた再現されるというのが条件である。
 でも、その意味でいうと、僕の分析では、純粋にソナタ形式で書かれている楽曲は一曲もない。第一、主題が提示されたらもう展開したりして、展開部ってどこよ?それでも、これらをソナタ形式で説明しようとする学者がいるのに驚く。
 むしろ僕が言いたいのは、そういう風に、交響曲を装っていながら、これほど自由で型破りな楽曲展開を見せる点にこそ、マーラーの魅力があるのだ。先ほども「マーラーのフーガはインチキだ」と述べたが、フーガでもソナタでも「インチキなところ」がマーラーのマーラー足る所以であるということ。不良には優等生にない魅力があるのだ。ロマン派でも、ブラームスのような優等生がいる一方で、マーラーは不良であること自体に価値がある。

 と、頭で分かっているのだが、オーケストラ練習の間には、突然のテンポの変化や、びっくりするような楽器の乱入と、それによってもたらされる楽器間の音量のアンバランスなどに接すると、どうしても常識人の習性で、本能的に、不自然にならないよう配慮したテンポ設定や、バランスに矯正しようとしてしまうが、そんな時は納得がいったためしがなかった。
 本番一週間前だな。腹が決まって。
「マーラーが望む通りにやってみよう。あとは知らないよ」
と思ってやってみたら、初めて見えてきたものがあった。
 常識を突き破ることこそマーラーのマーラーたる所以(ゆえん)だと、頭では理解していたのだが、本当に常識を捨てないとマーラーの本質には迫ることができないんだ。

 演奏において全体の構成を構築するにあたり、同じように速い第2楽章と第3楽章とのキャラクターの差をどうつけようか少し悩んだ。でもそれはすぐに解決した。マーラー自身、それを分かっており、それ故に、この交響曲を彼は第1部と第2部とに分けていたのだ。通常、交響曲ではあり得ないことであるが、僕と同じ事を考えていたのかも知れない。

 で、僕は何をやったかというと、第1部の第1楽章と第2楽章を(完全なアタッカではないけれど)ほぼ続けて演奏した。悲壮感のある葬送行進曲と、嵐のように激しい第2楽章のコンビネーションとして、第一部を構成するという位置付けだ。それから僕は一度指揮台を降りて、オケのチューニングをさせて、あらためて第3楽章を始めた。
 ちょっと時間的に離して演奏する事で、第3楽章Scherzo(諧謔曲)の、ポジティブでコケティッシュなキャラクターが浮き彫りになった。中間部のホルンの独奏を中心とするゆったりした部分では、ノスタルジーを強調し、次の第4楽章の瞑想的美しさを予感させる。
 そして迎えた第4楽章では、叙情への耽溺に身を任せた。そのことによって、最初に書いたように、余韻を残しながら第5楽章の愉悦感に持って行くプロセスにこだわった。それぞれの部分の魅力を強調しながら、全体をひとつのまとまったユニットとして構築し、聴き終わった後の聴衆を(無意識に)納得させられる事ができるか否かは、実は、指揮者という役職の仕事の大きな部分を占めているのである。

 演奏会後、訪ねてくれたほとんどの友人達が、
「こんな楽しいマーラーは初めてだし、こんな楽しそうな三澤さんを見たのも初めてだ」
と言ってくれた。
とにかく理屈抜きで楽しい演奏会だった。


演奏会後に友人たちと(写真提供:角皆優人様)


MFオケ結成の起源と三輪さんの起用
 話は1年前にさかのぼる。この新しい愛知MFオーケストラが生まれるきっかけになった出来事がある。“にもプロジェクト”という、オーケストラでオイリュトミー公演を行うという企画があり、僕はそこに指揮者として参加した。
 “にもプロジェクト”は、2024年8月17日パルテノン多摩で東京公演を行い、8月24日には愛知県長久手市文化の家「森のホール」で愛知公演が行われた。曲は、ドヴォルザーク作曲「新世界」交響曲であったが、長久手公演実現のため中部を中心に気心の知れたメンバーが中心となって、他府県からの参加者も加わり“にもオーケストラ”が結成され、長久手公演のみならず、東京公演にもわざわざ参加してくれることとなった。
 その“にもオーケストラ”の長久手公演の打ち上げで、別の名前で新たにオケを結成し、次の年に(すなわち今年)「マーラーをやろう!」と盛り上がったのだ。MFの意味は三澤フロイデだったかな。まあ、何でもよかったんだ(笑)。
 それで、僕は瞬間的に、
「やるなら、まず第5番だね」
と言って、それが実現に至ったわけである。ちなみに来年は8月1日に交響曲第6番をやる。

 さて、これからが本題であるが、演奏会では、メインの第5番交響曲の前に、なにか曲が必要だよね、という話題になった。すると複数のメンバーが、
「ソリストなら三輪陽子さんがいい!」
と言ったのである。
 僕自身、三輪さんのことはとても評価していたが、みんなが、そんなに三輪さんのことを気に入ってくれて、一緒にやりたいと言ってくれたことが僕には嬉しかった。同時に、三輪さんでマーラー交響曲第5番の前曲と聞いて、真っ先に僕の脳裏に浮かんだ曲が「リュッケルトの5つの歌曲集」だった。
 その時には、まだ結論は出さなかったけれど、いろいろ吟味して、やっぱりリュッケルトしかないなと思って、この選曲となったのである。三輪さんに伝えると、彼女もとても喜んでくれた。

 それでオーケストラ練習で名古屋に行った時に、まず僕がピアノを弾きながら、三輪さんに稽古を付けて、自分の解釈を伝えたり、いろいろ細部の指示をしたが、彼女はそれを完璧にマスターし、次の合わせでは、すでに自分の音楽として表現してくれた。さらにオーケストラと合流し、練習を重ねてこの演奏会に至ったわけである。
 演奏会の本番中、彼女のしみじみとした歌唱を聴きながら指揮をしていると、交響曲にはない、半分受け身でありながら、半分自主的な状態が心地よく、いつまでも続いていたいなあと思っていた。

帰途とこれから
 演奏会がうまくいったので、打ち上げも盛り上がり、来年の第6番交響曲の話題や将来のことで大いに話も進んだが、帰りの新幹線はどの列車も満員で自由席にした。ところが、万博が終わったんだね。新幹線の自由席は超満員で、デッキで新横浜までずっと立ちっぱなしでした。トホホ・・・。

 さて、この演奏会が終わったら、今年も、年末のNHK・FM「バイロイト音楽祭」の放送解説の依頼が来ているので、まず、すでに送られてきている音源をゆっくり聴いて、さらにドイツ語の批評などの資料をネットから集めて、原稿作成の準備に掛かろうと思う。
 僕が担当するのは、楽劇「ジークフリート」と「神々の黄昏」、それと舞台神聖祝典劇「パルジファル」。また対談もある。

 とりあえず今日(10月14日火曜日)は、これから東響コーラスの「第九」の練習に行ってきます!

2025. 10.14



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